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「嘘と虚構」を考える

 明日のスゴ本オフは「嘘と虚構」がテーマ(なんとタイムリーな!)。嘘を嘘と見抜けないと難しいのは、ネットに限らない。中の人が信じるあまり、演じる自覚が無くなってしまい、ただの詐欺やペテンを超えて、ニュースを受け取る「外の人」を巻き込んでいるのが新しい。スゴ本オフに先立ち、わたしが選ぶ「嘘と虚構」の本をご紹介。

完全な真空 まず小説。小説は全てフィクションなので「あらゆる小説」が俎上に上る。そこから一歩歪めてメタ視線から小説を捉えなおすと、「小説が語る嘘」が見えてくる。ボルヘスは架空の書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差し出せとアドバイスする。スタニスワフ・レムは具体化して、存在しない本の書評集『完全な真空』、そして存在しない作品の序文集『虚数』を著す。

 なにしろ架空の本だから、何だって創造(想像)できてしまう。そもそも小説として成立しなくても、その書評という形態なら示すことができる。例えば『完全な真空』にある『とどのつまりは何も無し』の書評。俎上の小説は、なんと全て否定文で書かれている。「列車は着かなかった。彼は来なかった……」と、否定に否定を塗り重ね、虚無の、完全な真空を目指す。当然そんな小説はお話として成り立たないだろうが、そいつを指すポインタは書ける。nullを参照するとぬるぽになるから、nullを入れた変数(=場所)を扱うのと一緒。

虚数 未来に書かれる作品の序文集としての『虚数』は、その未来を通り過ぎた「今」から見ると、既視感と未視感が混じって面白い。例えば、『ヴェストランド・エクステロペディア』は、2011年に発売される百科事典だ。画期的なことに、2011年以降の未来予想が書かれた事典で、なおかつ事実が違っていた場合、自動的に記述が訂正されるのだという。自動記述するWikipediaのbotを思い出すが、さすがに"無償の事典"という発想が、レムには無かったことにほっとしたい。

 あるいは、未来の人工知能による講義録『GOLEM XIV』は、人の知性を超えてしまった存在との対話が成り立つのかがテーマになる。知の極限は、そのまま見ることはできない。直視するなら、その眼は潰れてしまうだろう。フィクションをありのままのフィクションとして書くのが小説なら、これらは、指し示すことで虚構を伝える。虚構は、直接参照できないのだ。

GEB 『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(GEB)で不完全性定理が語られているが、そこでは「数学の確からしさ」よりも、むしろ数学の虚構性が問われているように読んだ。ある論理を体系化した数学を「確かだ」と“わたし”に納得させるものは、わたし自身の数学的経験に拠っているのではないか―――といったんは疑問に思えたのだ(もちろん、あとで解消したが)。自然数の1、2、3...は、“わたし”の数を数える経験(イチ、ニ、サン…)と対応しているので、納得しやすい。だが、わたしの経験や合意とは無関係に自然数はある。自然数を厳密に定義しようとした途端に難しくなる[wikipedia:自然数の公理]。所与の前提と決められたルールの中だけで数学が成立していることに気づくと、それとは別の公理系があることになる。そして、その公理系の中では証明も反証もできない命題があることを突きつけられる。『GEB』読了前までは、「数学の限界」と一人合点していたが、むしろ論理の限界に気づいたのが人類であってよかった(とびっきりの天才だが、人であることは確か)。「数学に、解けない問題はない」とするわたしの思い込み自体が虚構だったんだね。

写実画のすごい世界 逆説的だが、写真の虚構性を暴いたのが写実画だと気づかされたのが、『写実画のすごい世界』。そもそも「写真」というネーミングが誤解を孕む。「真実を写す」どころか、加工もトリムも思いのままだし、撮り手の意図や思惑やメッセージが入り込む。写実画は絵だから、最初から本物ではない。映像をそのまま写し取りたいのであればシャッターを切ればいい。だが、長い時間をかけて二次元で対象を「そっくり」にするために、描き手の取捨選択が入ってくる。テクスチャや手触りが表現されることで、女の身体の柔らかさや気配が映りこんでくる。「芸術とは真実を悟らせるための嘘」というが、絵=美じゃないんだ、絵から美が見えるんだということが伝わる。"photograph"を「光画」と訳し、写実画を「写真画」とするほうが、より本来的だね。

 明日の午後、ゆるゆるtweet実況しながらやっておりますので、野次馬的にご覧あれ。

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ONEとKanonと『サクラカグラ』

 人生に、意味はないけど、甲斐はある。わたしは、様々な「生きてて良かった」に生かされている(密かに"業/ごう"と呼んでいる)。囚われているから、あゆんでいける。

サクラカグラ これに本書も入る。見かけたとき、目を疑って、飛び上がって、それから踊った。「永遠はあるよ、ここにあるよ」に初めて触れた感情や、「それでは最後のお願いです、ボクのこと、忘れてください」を耳にしたときの感覚がよみがえる。物語に呑みこまれ、もみくちゃにされ、撃たれた記憶が戻ってくる。『ONE』『Kanon』の脚本を書いた久弥直樹の、初の長編小説がこれなのだ。

 ピンと来ない人向けに言うと、「確定スゴ本」。この人が書いたなら、読む前からスゴ本だと確信できる。ほとんどは死んで評価が定まった作家に対するものだが、生きてる人には珍しい(デビュー作にしてスゴ本は希少)。編集者も分かっているようで、フルカラー印刷のイラストや、ブルーの栞などチカラ入れまくり。高いリーダビリティと適切な萌えにウキウキしながら読んでいくと、とんでもないところへ連れて行かれる。かなり用心して読む。

 これは、少女と記憶をめぐる物語。『ONE』や『Kanon』は、プレイヤーの代表≒高校男子の視点だったが、こちらは女生徒だ。目線は違えども、彼女の日常の愛おしみ方、過去の絡まり方、そして世界の歪み方はそっくりだ。イントロダクションは、どこかで見た世界だが、この作者なら"その世界"である筈がない。いつものラノベのつもりなら、盛大なゆき違いに気づくだろう。日常系ミステリから、果ては世界線の改変まで前提を考慮しながら、罠だ、みおとすな、とつぶやきながら読む。

「僕が誰に殺されたのか知りたい」
“この世界に存在しない少年”を視てしまった月深学園高等部1年生・上乃此花は、茜色の旧校舎の屋上で彼からそう告げられる。少年の欠落した死の記憶をめぐる犯人探しの末に、学園に満ちた矛盾の向こう側にある真実を知ったとき、それまでの此花の日常は妖しく歪みはじめる―――

 だいじょうぶ、最初の章「コノハナカグラ」の最後の一撃は経験している。過去は、思い出したときにのみ存在するのだから。目次を見る限り、「中心となる女の子の名前+カグラ」と、彼女をとりまく断章が層のようにピースのように重なっており、中だるみを回避する。後半のメイン「リンネカグラ」はヤられた。なまじ『Kanon』を知ってるだけに、まゆつばが足りなかった。展開を読みさきを修正しないと、不意打ちを食らう。

 「他人の人生を生きるな」という警告がある。偽りの日常に憑かれてまことの人生に戻って来れなくなるから。取り込まれた自分もひっくるめて自分なのだから、物語を経験に上書きしよう。人はうつろうのに、物語の少女はあのまま。この業に、みずから囚われている限り、もう少し生き続けたいと願う。

 タイトルの「カグラ」とは「神楽」のことだろうか。Wikipediaによると語源は「神座」(かむくら)=「神の宿るところ」で、巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流する神人一体の歌舞だという。

 彼女らの舞の続きが、待ち遠しい。

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