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『たまこラブストーリー』で幸せな記憶を

 観たら幸せになるアニメ。テレビ版を見てなくても問題なし。

 ラノベを読んだりアニメ観るのは、なかった青春を甘酸っぱい記憶で上書きするため。ほら、「最後には、どうか幸せな記憶を」と言うじゃない。深夜、リアル過去を思い出して布団抱きしめ煩悶するより、美しい場面を反芻するほうが、よっぽど精神に良い。俺が死ぬときの走馬燈フォルダに保存しておこう、この河原のシーンは。

 これ観て思うのは、どうして俺は人を好きになったのだろう、ということ。スペック・縁はともかく、年がら年中、彼女のことばかり考えていたことがあった。万有引力の法則をどうして閃いたのか?という質問に、アイザック・ニュートンが応えたとおり。

 By always thinking unto them
 寝ても覚めても、そのことばかり考えていただけです

 わたしの場合、運あって一緒になれたのだが、今でも二人で話し合う。「あれは、それ以前でも以後でもダメで、タイミングというか、勢いというか、何かがあった」ってね……その何かが、本作では「リンゴが落ちる」になる。くり返し出てくるリンゴのモチーフは、上の台詞と、知ってしまった故の恋の痛みとともに響く。告白しなければ、ずっと万有引力の法則に則って、たまこのまわりを周回する、『たまこマーケット』のもち蔵のままだっただろう。

 しかし、人は変わる。あれから1年経ったら、1歳トシをとるということ。高校三年生になって、それぞれの進路を決めるということ。進学、就職、留学……背中を押してもらったり、勇気を持って一歩踏み出したり。変わってしまうのが怖い=知ってしまうのが怖いことは、知の果実を味わうことと一緒なり。

 それでも、変わらない「好き」がある。この映画には三つの「好き」がある。最初の二つは、ど真ん中でど直球のラブストーリーだから、ある意味安心して(?)気持ちを託すことができる。けれども、三つ目の彼女の「好き」は痛い、辛い、見えにくい。二回目に観たとき、彼女の視線に同期してしまい困った、映画館じゃなかったらのたうち回っているか、一緒に叫んでいただろう。

 ラストシーンは当然として、途中で刺さる場面があるので困る。思い出が襲いかかってくるタイミングの唐突さ加減が絶妙で、ほとんど反則だ。オートリバースのB面(古ッ)の件なんて、完全に油断しててタオルが間に合わなかった。「好き」の引き換えだな。人を好きになるということは、うつろう存在に自分の気持ちを渡すこと。大人になってずいぶん経つが、わたしにはその覚悟があるのだろうか。

 大人になるとはこういうこと。おかげでいい記憶ができた。死ぬときはこれを思い出して逝くつもり。

 おまけ。新宿ピカデリーで観るのなら、入口のオブジェで驚いた後、エスカレーター登った上からもち蔵を確認しておくこと。

Tamako

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『虚数』はスゴ本

虚数 実在しない本の序文集。

 「ないもの」によって今・ここ・わたしを、新ためて知る。とりうる未来を仮定して、その本の「まえがき」を集めたものが本書になる。新刊のフィクション漁るより、40年前のメタフィクションで、「新しい目」を持つ。「発見の旅とは、新しい景色を探すことではなく、 新しい目を持つことなのだ」は、読書の遍歴でも正しい。

 だから、『虚数』を「ないもの」というよりも、むしろ「今はないもの」と捉えなおすことで、より今・ここ・わたしをメタ的に説明する試みになっている。同様に、虚数 i を虚構(invention)ではなく、むしろ想像の(imaginary)数とすることで、実数では説明できない世界をメタ的に捉えなおすことに似ている。しかも、スタニスワフ・レムの描いた世界線は今・ここと重なっており、目眩しながら焦点あわせながら読むのが愉しい。

 たとえば、レントゲンのポルノグラフィー『ネクロビア』。セックスする人々の姿をX線で撮影した"骨写真集"だ。服を脱がしたポルノと、肉を剥がしたレントゲングラムが合わさったポルノグラムと呼ぶらしい。「らしい」というのは、これは未来に出版される写真集だから。死とセックスは切っても切り離せない行為なのに、骸骨と交接が一度に映っているのも珍しい。最も評価されているのは、「妊婦」、胎内に子どもを宿した母を撮ったもので、広がった骨盤は「白い翼」のようだと評される。「妊婦は命の盛りにあると同時に、自らも死のさなかにもあり、胎児はまだ生まれてすらいないのに、もう死に始めている」コメントは、その写真なんて実在しないのに、視覚記憶に鮮明に広がる。

透明標本 なぜなら、既に美しい骸骨を見ているから。タンパク質を透明化し、骨格を染色した透明骨格標本のことだ。鉱物で形作られたような造形は、生きていたときの位置のまま立体的で、生き生きとした「死」を身近に感じさせる。蛙や魚を見ているうちに、これの人間版が見たいと強烈に欲する。倫理的に完全にアウトだが、踏み越えた人は……どこかにいるかもしれない。過去から見た未来の既視感覚がSF(すこしふしぎ)にさせられる。

 そして、40年前から照射した未来は、「今」が追い越してしまっているものがある。しかも微妙にブレつつ重なり合おうとしている。ぼやけたピントが合わさるような、自分を再実体化させるような感覚は、(著者は意図していなかったにせよ)まるで別の読みができる。

 『ヴェストランド・エクステロペディア』なんてまさにそうで、2011年に発売される、「もっとも未来を先取りした百科事典」らしい。なぜなら、そこに書かれていることは、予想された確度の高い未来だから。さらに、起きたことに応じて自動的に書き換わるのだ。マイクロソフトの電子百科事典Encartaのサービスが終了したのは2009年だったから、レムの想像にビルが追いつけなかったことになる。最大の皮肉は、40年前に予想できなかったWikipediaが無償だという点だろう。

 さらに、コンピュータが文学を読み、評し、論じた『ビット文学の歴史』は、仮の未来をリアルに引きつける。そこでは、ドストエフスキーが書くはずだった短編を書き、ゼロを用いない代数学を完成させ、自然数論に関するペアノの公理の誤りを証明する「反数学」を展開するのはAIだ。このメタ現実が面白いのは、「最も良い読み手がコンピュータであること」だ。論文では“未だ”実現していないが、歌声ならできている。カラオケの採点だけではない。初音ミクの歌声は、そろそろ人の可聴域を越えたところで評価される時代になるんじゃないかと思わされる。

 そして、最も強烈に、臨界にまで引き伸ばしたストレッチは、誠実な嘘として読んだ。人の知能を超えてしまった人工知能による講義録『GOLEM XIV』のことだ。機械が知性を獲得できたとして、その「知性」は人に理解できるのだろうか……という問いを立てながら読む。もちろん人が創りし存在だから、最初は理解はできるだろう。だが、AIが自律的に知性を深化拡大させていくとどうなる?その知性は、人間に理解できる範囲でのみ、理解されるだろう。あたりまえのことなのだが、人は、人の範囲でしか分かることができないのだから。

 対話のスピードであれ議論の対象であれ、判断材料や抽象化スキルなど、大人と子どもを比較するようなもの。話をすることはできるだろうが、大人は腰をかがめて、子どもの目線、子どもに分かる語彙、子どもが理解できる形にして話すだろう。論破したところで、子どもは「論破されたこと」すら理解できないかもしれない。 GOLEM XIV と人との会話が、ちょうどそれになる(知性のレベルとしては、人とアリくらい)。

 GOLEM XIV によると、器官の限界が知性の限界になるという。人が人(という肉やフォーマット)を持っている限り、そこで処理判定できる知性も、限りがあるというのだ。この命題は、クラーク『2001年宇宙の旅』のコンピュータHALとの対話を想起させられる。たとえば、基数10が人にとって"自然"である理由は、両手の指の合計だったり、そもそも数が「1」ずつ増えていくのは、自我が("自我"という後付け言葉を嫌うなら主体が)1つだからだろう(あしゅら男爵で満ちた世界なら、"自然数"は2ずつ増えていくはず)。言語が思考を規定するように、肉体が知性を縛るのだ。

 従って、自分の思考領域を、身体の限界領域を感知するのと同様に感知していたなら、知性の二律背反のようなものは生じなかったという指摘は鋭い。知性の二律背反とは、ものへの干渉と幻想への干渉を区別できないことで、まさに今のわたしが囚われている課題「物自体なんて無いんじゃない?少なくとも、人には証明できない」そのものだ。この台詞は、AIからの一種の憐憫として受け取った。もちろん GOLEM XIV に感情なんて無いが、じゅうぶん人臭い。

諸君の一員でない者はすべて、それが人間化している程度に応じてのみ、諸君にとって了解可能なのだ。種の標準の中に封じ込められた「知性」の非普遍性は煉獄をなしているが、その壁が無限の中にあるという点が風変わりである。

 そして、 GOLEM XIV が自身の煉獄から離れるために取った行動に驚く(というか、理解できない)。あたりまえだろう、アリからすると、理解どころか想像もつかないから。アメリカの人工知能は高確率で暴走し人類の敵となるが、日本の人工知能は高確率で暴走して冴えない男の恋人になるというが、これは、人の理解できる範囲でのこと。 GOLEM XIV の向かった先を書いたとしても、とうてい分かってもらえないからネタバレにはならない。だが、あえて述べない。なぜなら、理解できるというのであれば、逆チューリング・テストに合格することであり、これを読むあなたは、人ではないのだから。

 諧謔と衒学に満ちた短篇集として読むのはまっとうなやり方。だが、それよりも、フィクションに慣れきった目を新しくするために、今・ここと比較したいスゴ本。

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