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イタい女の真骨頂『ボヴァリー夫人』

ボヴァリー夫人 これは傑作。男に狂って贅沢三昧の挙句、破滅する女の話なんて珍しくない。しかし、これを古典にまで成したのは、間違いなく小説のチカラ。だから安心してハマってほしい、「小説を読むこと」の、純粋な悦びが汲みだせるから。

 恋に恋するこじらせ女や、哀れなほど典型的なコキュ、既視感ありまくる浮気相手など、分かりやすくカリカチュアライズされた登場人物は、「俗物」の一言で片付く。世間体を気にして、見栄に振り回される人生は、反面教師と扱ってもいいが、むしろ、こういう人々で世は成り立っていると気づくべき。戯画的に誇張されているとはいえ、彼女が抱く「人生のこれじゃない感」は嫌悪を持って共感されるだろう。善人の愛と狂人の恋の、よくできた御伽噺と思いきや、世界は俗物で成立しており、俗物により世は回っているという、ウンザリするほど現実的な話に付き合わされる。

 ミもフタもない現実につきあわされる分、"つくりもの"としての小説の愉しみはたっぷり堪能できる。手を代え品を換えた語りの形式(一行目から驚いた)や、いくつものイメージを重ねて連ねて輻輳させる映像的なシーン(結婚式と葬式)、恋の探りあいと政治演説の絡まりあいを、会話と描写のシンフォニー(農業共進会の一幕)、衣装や建物の構造、ちょっとした小道具まで、細部に淫してフェティックに書き込む。

 そして、きっちり伏線を回収する。汗や雨や流れなど、情事の前フリに「水」のイメージを挿し込んだり(愛液の隠喩)、花弁や遠景を縁取る「色」にエンマの感情を託したり、時間の経過とキャラの連続性を「馬」で示したり、さまざまな匂いが記憶を呼び覚ますシーンを織り交ぜたり、好きなだけ掘り出すことができる。これが元となった「子」や「孫」や「曾孫」の小説を読んできたが、おそらく、これがオリジンなんだと思うと感慨深い。

 (小説と向き合う)読書を採掘に喩えるならば、大丈夫、もてる全てのスキルで掘っても、いくらでも獲れたてピチピチ大漁宴になる。セオリーどおり、「お花畑的ロマン主義的 v.s. 凡庸なリアリズム」として読んでもおもしろいし、自己主張に都合よく抽出するフェミニストなら、男性優位社会の歪んだジェンダー構造の負け戦と捉えても、得るもの大なり。

 作者・フローベールがやりたかったことは、文字で現実を表すこと。"つくりもの"を言葉で"ほんもの"にしたい試みは、時を越えて確かに成功している。しぐさだけで感情を伝えたいパントマイムの役者のように、会話と客観で感情や世界を描きたいのが分かる。言葉には限りがあり、書く/読むにも時間は有限だ。だから、選ぶ。

 ただし、この"ほんもの"はリアルではない。つくられた"ほんもの"になる。それは、真に迫る絵のようなもので、どんなに"らしく"あっても、それはよくできた絵にすぎない。その意味で、写実主義と言ってもいいが、けしてリアルではない。一緒に寝ているはずの妻が夜な夜な起き出して、いそいそ出かけるのを、隣の夫が知らないでか?口さがない田舎を徘徊するカップルが、噂にならいでか?いっそ「実は知っていたが、(己の日常の幸せのため)知らぬフリをしていた」という設定で読み直しても面白いかも。

へルタースケルター いまいちノれない、ハマれない人は、おそらく小説を読むことより、「おもしろい物語を楽しむ」とか「キャラに感情移入して震わせてもらう」ことが好きなんじゃないかと。残念ながらそれは、マンガや映画の方がコスパが良いので、そっちをオススメする。たとえば、岡崎京子『ヘルタースケルター』。モチーフは違えども、テーマは重なる。全身を改変する美容整形手術の副作用とストレスで蝕まれ、身も心も崩壊していく彼女は、共感しないように読もう(さもなくば引きずり込まれる)。読中の焦燥感、「こんなはずじゃなかった」展開、そしてラストの喪失体験は、まるで違う物語なのに、そっくりだ。

 人の俗悪から、こんなにスゴいものを生み出せる。


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