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猫派も犬派も泣いて笑って語り合った「猫と犬のスゴ本オフ」

 好きな本を持ち寄って、まったりアツく語り合う。それがスゴ本オフ。

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この犬のポートレイトが刺さるのよ

 今回は、「猫」と「犬」をテーマに、お薦めの本、映画、音楽、ゲームにどっぷりハマる。ご参加いただいた皆様、ありがとうございます。HDE様、会場を使わせていただき、感謝いたします。実況のまとめは、[犬好き猫好き必読!「犬とネコのスゴ本オフ」まとめ]をとうぞ(ズバピタさんお疲れさまでした)。やすゆきさんのまとめは[スゴ本オフ「犬と猫」、涙と笑いと食欲の宴ですた。]をどうぞ(ありがとうございます)。

 なんとなく猫派の圧勝と思いきや、犬派の健闘も目立ったのが予想外。どちらかというと犬派のわたしは、「泣ける犬の本ベスト5」でテコ入れしたつもりだけれど、杞憂でしたな(むしろ新たな発見が沢山)。そして、ペットとしての愛玩性や、ドラマを盛り上げる「かわいそう」さを際立たせるような作品を想像していたが、これも裏切られた。愛の裏側にあるもっと切実な問題―――「死」についての覚悟や感情が沁みてくる作品が多数あった。

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『フランダースの犬』と『クージョ』はガチ

 例えば、ジャン・グルニエ『孤島』。愛猫との死別で、立ち直れない状況だったときに出会えた一冊とのこと。どんなに可愛がっていても、突き放したような一線を設けるのは、ひょっとすると人の感情のためかもしれない。猫を飼うとは、その死に立ち会うことも含めて引き受けることになる───その重みが伝わってくる。猫であれ犬であれ、パートナーがいる人は、準備のつもりで―――と、お薦めされる。

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『星守る犬』は反則だと思う

 あるいは、須藤真澄『長い長いさんぽ』、老境の猫とのふれあいを描いたコミックエッセイだ。前半がほのぼの日常である一方、後半のガラリと変わる展開に注意されたし。飼い主はギリギリ正気を保っているつもりだが、傍から見ると壊れている───猫の死は、それだけインパクトがある。ほとんど恐怖に近いほどの感情らしい。うっかり電車で読んでしまったので、涙をごまかすのが大変だったとのこと(休憩時間に試し読みしてもヤバかった)。

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『冬の犬』は、泣ける犬本ベスト

 ただ、「可愛らしい」といった情愛だけでなく、いずれ死別することへの悲哀の混ざった諦念を、心のどこかで抱いている(認めたくないという感情と拮抗しながら)―――そんな、はかなさを感じる。

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『人間と動物の病気を一緒にみる』が惹かれる

 生あるものはいずれ死ぬ。人の寿命が長いから、愛おしいこの命を看取る最期が、必ずある。そのときの自分がどうなってしまうのか、想像するだに恐ろしい。それは、自分が全霊かけてこの存在を愛しているから。苦しむことが分かっていながら、愛することをやめられない。猫や犬は、「ペット」や「パートナー」という言葉よりも、むしろ煩悩の化身そのもの。

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『ナイトメア・ビフォー・クリスマス』の特典に『フランケンウィニー』がッ

 定番が見当たらないのがスゴ本オフの面白いところ。誰もが考えそうなものはカブるから避けたがる。カブってもいいのに(なぜ/どこがお薦めなのかは人それぞれで、まさに"読みどころ"だから)。思いつくまま挙げると、漱石、ポール・ギャリコ(ジェニイと猫語の二冊)、綿の国星、ちびねこ、名犬ラッシー、どろんこハリー、タロジロ、子猫物語、空飛び猫と思いつくが、言われて「ああ!」というもの多数。猫本専門店「にゃんこ堂」があるくらいだから、きりがないだろう(それでも、ケッチャム『老人と犬』を忘れていたのは痛恨)。バンサン『アンジュール ある犬の物語』はコメント欄でお薦めいただいたのだが、これも忘れていた(saruminoさんありがとうございます)。

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『グーグーだって猫である』ゲットだぜ(未読)

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『ノラや』ゲットだぜ(たぶん未読)

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全体はこんなカンジ(後から追加多数)

「猫」

  • 『グーグーだって猫である』大島弓子(角川書店)
  • 『Hate That Cat』シャロン・クリーチ
  • 『フランケンウィニー』ティム・バートン(DVD)
  • 『山猫』ランペトゥーザ(河出文庫)
  • 『恋するしっぽ』手嶌葵(2008 YAMAHA MUSIC COMMUNICATIONS)
  • 『夢ねこDS』セガ(Nintendo DS)
  • 『FRAGILE(フラジール)さよなら月の廃墟』ナムコ(Nintendo DS)
  • 『猫 猫と歴史家と二度目の妻』アテナイス・ミシュレ(論創社)
  • 『孤島』 ジャン・グルニエ(筑摩書)
  • 『にゃんそろじー』中川翔子編纂 (新潮社)
  • 『猫ぐらし』2014夏号(アスペクト)
  • 『長い長いさんぽ』須藤真澄(エンターブレイン)
  • 『おばあちゃん猫との静かな日々』 下村 しのぶ(宝島社)
  • 『ニッポンの猫』岩合光昭(新潮文庫)
  • 『チビのお見合い』室井滋(文藝春秋)
  • 『ドクターヘリオットの猫物語』ジェイムズ・ヘリオット(集英社)
  • 『源氏物語 巻一』瀬戸内寂聴(講談社文庫)
  • 『源氏物語 巻六』瀬戸内寂聴(講談社文庫)
  • 『The Big Cats and Their Fossil Relatives』Alan Turner(Columbia Univ)
  • 『銀座のら猫物語』飯島奈美子(三水社)
  • 『のりたまと煙突』星野博美(文芸春秋)
  • 『わたしのねこメイベル』ジャクリーン・ウィルソン(小峰書店)
  • 『詩の玉手箱』より「私の猫」三好達治(いそっぷ社)
  • 『敵は海賊シリーズ』神林長平(早川文庫)
  • 『感じて。息づかいを。』川上弘美 編 (光文社)
  • 『恋愛中毒』山本文緒 (角川書店)
  • 『『吾輩は猫である』殺人事件』 奥泉光(新潮文庫)
  • 『町でいちばん賢い猫』リタ・メイ ブラウン&スニーキー・パイ・ブラウン (ハヤカワ・ミステリ文庫)
  • 『パーフェクト・ブルー』宮部みゆき(創元推理文庫)
  • 『図書館ねこ デューイ』ヴィッキー・マイロン(早川書房)
  • 『伊藤潤二の猫日記 よん&むー』伊藤潤二(講談社)
  • 『アラビア猫のゴルム』ヤマザキマリ
  • 『猫旅リポート』有川浩(文藝春秋)
  • 『ねぇ、マリモ』やまだけいた(講談社)
  • 『男の相棒は猫に限る』ウィリー・モリス(WAVE出版)
  • 『猫町』萩原朔太郎
  • 『ノラや』内田百閒(ちくま文庫)
  • 『黒いねこ面』楳図かずお

「犬」

  • 『フランダースの犬』ウィーダ(新潮文庫)
  • 『星守る犬』村上たかし(双葉社)
  • 『クージョ』スティーヴン・キング(新潮文庫)
  • 『冬の犬』アリステア・マクラウド(新潮クレスト・ブック)
  • 『犬はあなたをこう見ている 最新の動物行動学でわかる犬の心理』ジョン ブラッドショー(河出書房新社)
  • 『Love That Dog』シャロン・クリーチ
  • 『初秋』ロバート・B・パーカー(ハヤカワ・ミステリ文庫)
  • 『晩秋』ロバート・B・パーカー(ハヤカワ・ミステリ文庫)
  • 『バスカヴィル家の犬』コナン・ドイル(新潮文庫)
  • 『SHERLOCKシャーロック』ベネディクト・カンバーバッチ出演(DVD)
  • 『ティンブクトゥ』ポール・オースター(新潮文庫)
  • 『ウォッチャーズ』ディーン・R・クーンツ(文春文庫)
  • 『カヌー犬ガク』野田知佑(小学館文庫)
  • 『シェルタードッグズ』トレア・スコット(山と溪谷社)
  • 『往古日本犬写真集』岡田睦夫(誠文堂新光社)
  • 『Shi-ba(シーバ)』(辰巳出版)
  • 『川の光 2』松浦寿輝 著 (中央公論社)
  • 『fallout3』ベセスダ・ソフトワークス
  • 『犬と私の10の約束』川口晴(文春文庫)
  • 『いとしのムーコ』みずしな孝之(イブニングKC 講談社)
  • 『銀芝さん』影山直美 絵と文 (辰巳出版)
  • 『デューク』江國香織、山本容子(講談社)
  • 『ずーっとずっとだいすきだよ』ハンス・ウィルヘルム(評論社)

「犬と猫」

  • 『Archie and Archie』ルース・レンデル
  • 『猫たちを救う犬』フィリップ・ゴンザレス、リアノー・フライシャー
  • 『チャペックの犬と猫のお話』カレル・チャペック (河出文庫)
  • 『チャペックのこいぬとこねこは愉快な仲間』ヨゼフ・チャペック(河出文庫)
  • 『動物のお医者さん』佐々木倫子(白泉社)
  • 『人間と動物の病気を一緒にみる』バーバラ・N・ホロウィッツ、 キャスリン・バウアーズ(インターシフト)
  • 『動物病院 上手な選び方』(AERAムック)
  • 『犬と猫と人間と』飯田基晴(太郎次郎社)
  • 『パンといっぴき』桑原奈津子(パイインターナショナル)
  • 『パンといっぴき2』桑原奈津子(パイインターナショナル)

 そして毎度のことだが、料理がスゴい。食べきれないほどのおにぎりやドーナツ、スイーツや奈良漬け(これが美味)など、本をダシに宴会をしているような場でした(ありがとうございます)。

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わんこのワイン

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にゃんこのクッキー

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世界でここだけ、肉球ハンバーグ(たべそびれた)

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絶品おはぎ、ほどよい甘さでワインと合う

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手作りチョコケーキ(撮るのに夢中でたべそびれた)

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ドーナツだけは暴力的なくらい準備した

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おまけ。自走式セグウェイ的なiPad。思わず「ゼーレかよww」

 オフ会するたび思うのだが、いかにわたしの視野が狭いことか。斬新な視点や見知らぬ(でも凄い)作品を山ほど紹介してもらえる。次回のテーマは、「怪物とモンスター」。同じ意味なのになぜ重ねる?"モンスター"という名詞は、邪悪な響きを持つ一方で、"怪物"はポジティブな意義も孕んでいる。なので、善悪に拠らず、これは怪物/モンスターだ!という作品を紹介しあいましょう。

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泣ける犬本、5選

 スゴ本オフ『猫と犬』に合わせて、泣ける犬の本を選んだ。

 猫は大好きなのだが、飼ったことがない。遠くから愛でて、たまに触らせてもらってハピーになれる距離にいる。いっぽう犬は、小さい頃の記憶の一部になるほど家族の一員だった。

 なので、たぶん猫派で埋め尽くされるスゴ本オフに、せめて犬の一角をもうけよう。そして、ただ「犬の本」といっても山ほどあるので、なかでも泣ける奴、しかも鉄板号泣級を選ぼう。

フランダースの犬 ウィーダ『フランダースの犬』は、泣ける犬本の決定版。貧乏だが絵の才能のあるネロとパトラッシュの悲話。中学の担任が「ラストが分かってても泣ける」とお薦めされ、読了号泣。大人になって再読すると、「プライドがパトラッシュを殺した」話に見える。絵の対価を受け取ろうとしない気位の高さ、初応募でコンクール入選を信じる芸術家気質にイラつく。財布を拾って届けてやったのに、「空腹で吹雪で帰る家がなくなったから、一晩泊めて」となぜ言えぬ。プライドが折れたら死ぬ気まんまんになるネロに、「かわいそうだから殺す」作者の手が透け見えて不快。のたれ死んだのが少年だけだったら、名作になりえなかっただろう。ネロの傍に、冷たくなったパトラッシュがいたからこそ泣ける。

星守る犬続星守る犬

 村上たかし『星守る犬』は、泣ける犬本の卑怯版。冒頭のシーンで、男と犬の遺骸が発見されるので、ラストは分かっているのに……読み終えると込み上げてくるものが止まらない。鑑識の結果、男は死後一年以上経過しているが、彼に寄り添っていた犬は死後3ヶ月……この時間差が一種のミステリとして引き続ける(が、大方のご想像の通り)。持病を抱えて失業した「おとうさん」が、家族から、社会から、底辺へ、悲惨な状況へずり落ちていく過程において賛否両論に分かれそう。否定派の気持ちは分かるが、それは後編を読んでいないから。「続」とタイトルにあるが、併せて読むと、これで完結していることが分かる。というか、前編だけでは救われないと思った感情を、後編で見事に掬い上げてくれている。

クージョ スティーヴン・キング『クージョ』は、泣ける犬本の暗黒版。炎天下、故障した車の中に閉じ込められた母と幼い息子に、狂犬病に冒された巨大なセントバーナードが襲いかかる。シンプルな設定だが流石キング、風景心情サスペンス描写を綿密に念入りに書き込む。逃げ場が、希望が一つ一つ絶たれていく焦燥感にジリジリとこちらが焼けてくる。「ページ・ターナー」とは、頁をめくる手を止まらなくさせる作家への誉め言葉だが、『クージョ』においてキングはまさにその通り。書店で一頁、二頁と試しているうち、気づいたら完読(2時間ちょい飛んでた)。ラストのあまりの衝撃に、もう一度はじめから読みたくなり、結局買った。この酷さを受け入れることができなかったのは、私だけじゃない。映画化された『クージョ』はラストが改変されたらしい。

ウォッチャーズ上ウォッチャーズ下

 ディーン・クーンツ『ウォッチャーズ』は、泣ける犬本のSF版。孤独な男が森で出会ったラブラドール・レトリヴァーは、ひとなつっこい一方で「犬」らしくない知性を持っていた―――という入口から、トラウマを持つ男女の愛の物語と、生物兵器をめぐる陰謀と殺戮の報復譚と、邪悪で醜悪な知性との対決が絡み合う。バラバラのエピソードが収束していく興奮と高揚感は、流石クーンツ。ここで「泣ける」のは、ラブラドール・レトリヴァーではなく、彼を追う方。"奴"がしでかす悪行の数々はホラーの真骨頂だけれど、なぜそんなことをするのかが分かった瞬間、その哀愁にしんみりするはず。

 そして、泣ける犬本のベストは、スゴ本オフで発表することとしよう(ハッシュタグ #スゴ本オフ で実況されるはず)。ある短篇集に入っているもので、たしか池澤夏樹がベタ誉めしてて一読、一生残る痛みと哀しみ暖かみをもらえた。短編小説としても傑作で、レイモンド・カーヴァーの手技を幻視するほど。大事な人への贈り物のような絶品。

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科学は滅びぬ、何度でも蘇るさ『科学の解釈学』

科学の解釈学 哲学による「科学主義」批判。科学の正当性を「信じて」いたわたしにとって、蒙を啓かれる名著なり。一方で、哲学の脆弱性も再確認する。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」は、ここでも、見事に当てはまる。

 本書の目的は、科学を御神体として崇め奉る俗悪に、アンチテーゼを提出すること。科学を否定するのでも「反科学」を掲げるのでもない。「究極の真理」として聖化された科学知識を頂点とする知のヒエラルキーを解体することであり、そうした位階秩序を支えている「客観性の神話」を非神話化することだという。トマス・クーンを代表とするパラダイム論による攻撃の試みは、おおむね成功している。

 そもそも「科学的客観性」なるものは存在せず、科学者が「観察」するものは、先入観によって歪められているという。「先入観」が言い過ぎなら、科学者たちを律する「何をいかに探求すべきか」という行動規範や価値信念になる。教育や下積みや学会により形作られるマインドセットだ。

 そして、観察とは、事実をあるがままに活写することではなく、このマインドセットに合わせて事象を選択し、解釈し、構成する行為なのだという。「見る」そのものに、対象を「として見る(seeing as)」という行為が不可分に織り込まれており、観察とは理論を背負って「見る」ことにほかならないと喝破する。理論は観察を基に形成されるはずなのに、逆に観察は理論を前提し、理論によって制約されているという循環関係に陥っており、その検証は同語反復に似た陳腐なものになるという。

 さらに、「科学的」だと大事にされている方法論的プロセスや、数量的・要素論的自然観に、疑いの目を向ける。科学革命やアインシュタインを引きながら、「科学的」なるものから普遍性を切り落とす。それは、歴史的・社会的制約をもった価値理念を前提にした、イデオロギーなのだ。相互の価値理念に共通の座標軸も持たず、従って、「普遍的真理」や「究極の真理」なぞ、存在どころか語ることすらできない。トマス・クーンやオーマン・クワインといった科学哲学の巨匠の肩の上から、科学教をメッタ刺しにする。

 面白いことに、著者が科学の客観性を揺さぶろうとすればするほど、その前提に異議が出れば出るほど、強い既視感が生まれてくる。論拠を支える前提の正しさを疑う姿勢、論理の欠陥を突く方法、隠れた前提をあぶりだし、名前を付けて攻撃する戦略……これら全て、哲学で学んだ反論の技術である。「これ進研ゼミでやった」というやつ。

 なんのことはない、哲学が何千年とやりつづけた、知的プロレスリングを新興の「科学」に適用しているだけ。パラダイムと名付けて喜んでいる概念は、そのまま哲学や人文系で無批判に使われている○○派とか△△主義の別名だ。しかも、それぞれの派閥や主義の「正しさ」の基準になるようなものは、議論の「もっともらしさ」、あるいは流行でしかない(数字で示してみろ)。千年かけた哲学のうち、「普遍的」で「絶対的」なドクトリンはどれか教えて欲しい。哲学的論争のトドメの台詞は「○○はもう古い」である。著者は、科学の歴史をたかだか百年に過ぎないと腐す。だが、その百年で千年を超える哲学を呑み込もうとしているのが現実だ。

 いかに科学を相対化させ、真理の相対主義でドローに持ち込もうとする論理も、「で?」(So What?)と聞かれたら瓦解する。その見解から何が導かれるか?どんな有意味の議論になるのか?どのような問題を解決できるのか?現状を「こうとも言える」と再定義しただけではないか。

 「哲学とは、理性で書かれた詩である」と言ったのは開高健。あれは詩であり、論理と思ってはいけないんだそうな。感性と理性の周波数が一致したとき、それはみごとなボキャブラリーの殿堂になり、宮殿になり、大伽藍になるが、いったんその感性から外れてしまうと、いっさいは屁理屈のかたまりにすぎなくなる。文字通り、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」的な相対化は、科学のみならず哲学自身への壮大なブーメランとなっている。

 パラダイムを貫く普遍的真理が「現時点で」見つからないからといって、それが無い理由にはならぬ。近代西洋一地方の一見識が広まった「科学的客観性」も、それが何に取って代わろうとも、物理学のテーマが「物の理」である限り、ブレることはない。方法論や接近手段がどうなってても「科学」と呼ばれることは変わりはない。

 科学批判の論文で、「科学」をあらためて知る。科学は自分を乗り越え、時には否定すらできる。長年エーテルを「信じて」いたからといって科学を疑うのであれば、それが「無い」ことを科学自身が証明したことを思い出すべし。光が波なのか粒子なのか分からないのは、いま現在の話。たかだか百年しか経ってないのだから、もう少し長い目で見てやれよ、と言いたくなる。

 科学といえど、人が営む行為。その人が棲む時代と文化の制約により、「正しさ」が揺らぐことはあったし、躓くことも迷うこともあるだろう。だが、どれだけ批判されようと、何度でも科学は蘇るさ、科学の力こそ人類の夢だからだ。躓いても、迷っても、明日があるから。

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離人症の読書『遁走状態』

遁走状態 あらゆる読書は毒書である。だがこれは、中毒性と離人感を加速させる、より危うい一冊になる。読んでいるうち、現実から滑り落ちる。小説世界だけでなく、"読んでいる私"も含めて乖離する違和感と、異様な恐怖を請合う。

 登場人物が、異常な体験をする話なら山ほど読んできた。信用できない語り手にも沢山つきあってきた。しかし、語り手の異化がこちらに伝染して、"読んでいる私"の「いま」「ここ」が剥がれ落ちるのは珍しい。読中感の具体的な症状として、自分が自分という感じがしなくなる。見ているもの、聞いているものから意味が得られず、自分という存在がよそよそしくなる。

 全部で19編あるどの短篇も、すばらしく厭な話ばかりだ。そこでは、登場人物は何かを失われる。それは光だったり言語だったり、記憶や人格そのものだったりする。そのどれもが、"一貫性のある私"を成り立たせなくさせるため、人が世界を感知して「意味あるものにする」機構が壊れた場合、いったいその人に何が起きるのか、つぶさに体感することができる。

 この壊れた感覚、カフカに似ている。『遁走状態』や『アルフォンス・カイラーズ』での不条理なやりとりは、カフカの寓話を思い出させる。さらに主人公が、条理と不条理の境界を越えてしまうことで、現実を非現実にしていたものは、当人の認識にすぎなかったのではないかという疑いを呼び起こさせる。翻訳者の柴田元幸は、ポーを引き合いにしているが、それは超現実が侵食する異化の恐怖だろう。だが、本書の恐怖は、世界の異様さは結局のところ、自分の認識の仕方に拠っていることに(読み手だけが)気づいてしまうところにある。

 一行目から、「何かがおかしい」と引き込まれ、不安定でグロテスクな状況に巻き込まれた人物の視点で追っていくうちに、現実を確固たるものにしているはずの境界―――私とあなた、生と死、記憶と現実など―――が曖昧にされてゆく。そんな場合、登場人物を「信頼できない語り手」とみなすことで、読み手である"わたし"を護ろうとする。だが、すぐに分かる。どんどんズレてゆく世界は、それはそれで一貫している。悪夢のように「おかしい」が、その夢の中では、限りなく明晰で合理的だ。

 しかも、登場人物が再帰的にふるまうため、展開がループしはじめる。この、悪夢にらせん状に呑み込まれてゆく読中感覚は、コルタサルの短篇に似ている。『温室で』の追うもの/追われるものの逆転や同化は、主人公と情景がメビウスの環のようにつながるコルタサル『続いている公園』を思い出す。

 ひょっとすると、信頼できないのは話者ではなく、物語世界でもなく、"私"自身なのかもしれない。世界が壊れているのではなく、登場人物が狂っているのではなく、世界を認識する方法がズレはじめており、現実とうまく折り合わなくなっている。この「世界」は、小説世界だけでなく、読み手の現実世界も含まれる。文字である、身体がある、"私"であることは分かっても、何が書いてあるのか、自由に動かせるのか、そもそも"ある"のかすら、確信がもてなくなる。死そのものよりもおぞましい、生ける屍状態なのだ。

 本書は、アブソリュート・エゴ・レビュー「遁走状態」で背中を押された(ego_danceさん、ありがとうございます)。表題作『遁走状態』に対する、この感想は完全同意。

もう凄まじいの一言だ。読みながら心臓がバクバクいい、息が苦しくなってくるほどのスリル。読書でこれほどの圧迫感を味わうのは一体いつ以来だろうか。

 この離人感覚、読み終わった後もずっと引く。とびきりの毒書をどうぞ。

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物理学の都市伝説『間違いだらけの物理学』

間違いだらけの物理学

 物理学の都市伝説を斬る一冊。

  • 太陽にゴミを捨てられる
  • ハンマー投げ選手に対し遠心力が働いている
  • 電流のエネルギーは電線の中を流れる
  • 川の蛇行は曲がる内側の流れが遅いから
 これら全て誤りだという。その理由と、物理学的な根拠を分かりやすく解説してくれる。しかも、それだけでなく、これらの俗説がなぜ信じられてしまったかにまで踏み込んでいるのがユニークである。トンデモ物理本かと思いきや、たいへん勉強になった。わたし自身、いかにアナロジーで理解したフリをしていたか思い知った。

 たとえば、「太陽にゴミを捨てられる」について。放射性廃棄物をロケットに乗せて、太陽に向けて打ち上げて、大気圏を突破すれば、あとは太陽の引力により「太陽に落ちる」ことができるかというと―――ミッション・インポシブルだという。課題は3つ。安全性の問題、経済的にペイしないこと、そして物理学的に困難だというのだ。

 シンプルに言うと、地球を出るために10km/s、太陽に落ちるのにさらに30km/s、あわせて40km/s必要になる。第二宇宙速度で地球を脱出しても、太陽から見ると、そのロケットは30km/sで地球と一緒に公転しているだけ。だから、この公転速度を上回るスピードを出せない限り、太陽には落下しない。現在のロケット技術では、それだけの速度を出せないため、(ほぼ)不可能なプロジェクトだというのだ。殺せんせーの最終回は、鉄腕アトムと同じく、「太陽に突っ込む」と予想していたが、物理学的に不可能なんだね。

 このように、俗説を正すやり方で、慣性系と回転系における力の原理や、翼の揚力理論と循環、電場と磁場など、物理学の根っこを解説してくれる。タイトルがミスリード気味なので補足すると、「物理学が間違い」ではなく、「物理学に対する理解が間違っている」というのが趣旨になる。素人だけでなく、専門家と目される人ですら、往々にして俗説を信じ込み、頑固に守ろうとするというのだ。わたしを含め、確かにそういう人、いるね。

 ただし、不思議なことに、「××教授と論争したが、誤りを認めようとしなかった」とか、「航空力学の専門家が書いた本なのに、間違っている」とこき下ろしているにもかかわらず、誰の、どんな本の、どこの箇所なのかが書いてない。なので、確認しようのないのが残念なり。

 たとえば、飛行機が飛ぶ原理について。ベルヌーイの定理を用いて揚力のしくみを解説してくれるまではいい。だが、そもそもベルヌーイの定理が成り立つところで、さまざまな通説を攻撃する。その一つに、「等時間通過説」がある。なぜこの説がダメなのかは本書に委ねるとしても、なぜこの説がまかり通っているかが、気になる。著者の論敵が頑固であればあるほど、そして著者自身が攻撃的であればあるほど、このパラダイムが確定していないのではないか?と疑問に思えてくる。

 仮に、「なぜ飛ぶのか」への根本原理が、科学的に決着しているのであれば、その専門図式に則って教科書が書かれ、教室で伝えられているはず。だが、著者のいう「誤り」が、それほど数多くの専門家の口から出てくるのが本当だとするなら、その見方はまだ過渡的なのではなかろうか。著者の主張が誤っていると言いたいのではない。著者の主張が「科学的な常識」として完全に定着していないのではないか?あるいは、昔の通説を今でもまかり通っているものと勘違いしているのではないか?

 本書の中では個人名や書籍が特定できる注釈はない。だが、本書の元となったエッセイ[飛行機はなぜ飛ぶかのかまだ分からない??]を見ると、昭和50年に出版された『飛行機はなぜ飛ぶか・・・空気力学の眼より』が、等時間通過説であるとして批判されている。昔は通説(の一つ)だったとしても、研究や開発が進むにつれ、そのままでは説明不十分となり、一部を変えたり換えたりすることで改良を重ねる。科学の自然なふるまいである。

 したがって、昭和50年の本を持ち出して、その俗説がまかり通っているように言われると、ちょっと違うのではないかと思える。さもなくば、著者のいう「正しい」物理学が浸透してない状態なので、「現在の」航空力学の教科書からチェックするべきだろう。

 時折でてくる論敵への恨み節を除けば、わたしの無知と無理解を正してくれる、ありがたい一冊。

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良い本で、良い人生を『読書案内』

読書案内 人生は短く、読む本は多い。だから、これを読め。

 なぜなら、この薄い一冊に、あなたの人生にとってのスゴ本(凄い本)が必ずあるから。読書と文章の達人サマセット・モームが、人生を豊かにする作品を厳選し、鋭い寸評とともに「読みたい!」気分にさせてくれるから。

 ただ単に、名著や傑作と呼ばれる作品を挙げるだけならGoogleればいい。だがモームは、「読んで楽しい」という第一条件でピックアップする。なによりも、読書は楽しくあらねばならぬという原理主義だ。文学はどこまでも芸術であり、芸術は楽しみのために存在するものだと言い切る。

 だから、紹介文そのものが魅力的だ。わたしのレビュー[大学教師が新入生に薦める100冊]と比べてみてほしい、モームは『カラマーゾフの兄弟』をこうお薦めする。

身の毛のよだつほどおそろしい場面があるかと思えば、美しいが上に美しい場面もある。わたしは、人間の高貴な姿と邪悪な姿が同時にこれほどすばらしくうつし出されている小説を、ほかに知らない。また、わたしは、人間の魂に可能な悲劇的な冒険と破壊的な経験を、これほど同情をもって、またこれほど力づよくとりあつかった作品を、ほかに知らない。
 そして、この小説を読み終えたときに感ずるのは、絶望感ではなく、魂の高揚だという。みにくい罪のあいだから、美しい善がその光を放っているからなのだと。ここは烈しく同意する。そしてまた一度、これを読みたくなる。モームの紹介は、未読に誘い、既読を再読したくなる強い力を持っている。

 しかも嬉しいことに、退屈だったら飛ばして読めという。18世紀に愛好された道徳上の議論や、19世紀に喜ばれた長々しい風景描写など、その時代の流行りで増し増しされた箇所は、今日の読者には退屈なもの。そこを飛ばして読んだとしても、その作品が偉大であることには変わりないというのだ。

 そしてご丁寧にも、飛ばして良いところと、押さえるべきところを示してくれる。『戦争と平和』のフリーメーソンの件を飛ばしていいが、『失われた時を求めて』のヴェルデュラン夫人とシャルリュ男爵のところは読み落とすなと注意する。他にも、モンテーニュ『エセー』は三巻からが面白いとか、ゲーテ『ヴィルヘルム・マイステル』なら『遍歴時代』ではなく『徒弟時代』を読めとか、緩急強弱をつけてくれる。

 無批判に使われる台詞「良書は人生を豊かにする」のカラクリも見える。良書とは、愛情や欲望、神と性など、誰にでもあてはまる普遍性の高いテーマでありながら、読み手を夢中にさせる独創的なストーリーと魅力的なキャラクターをもち、あなたを揺さぶり打ちのめし絶望させる一方で、あなたを高揚させ労り奮い立たせる。つまり、高質の経験が得られるのだ。それは、あなたの一生を何倍も生きることを可能にする。自分にかかりきりになって本を読もうとしない人は、ひとつの生しか生きられない。

 たとえば、「完璧な作家」と賞されるジェイン・オースティンの優れたところは、「人間を見る目」だという。彼女ほど、細かい心遣いと慎重な分別をもって、人の心の奥底に探りをいれた者は、他にはいないという。読み手は、彼女の小説のなかで、この鋭い目を持つことが可能になる。イチオシの『マンスフィールド・パーク』は必ず読む。

 モーム一流のベストセラー論も愉快なり。「ベストセラーは屑」と読まないのは不当だという。あまつさえ、ベストセラーを読まぬことによって、己の識見の高さを誇るのは愚の骨頂なんだと。『デイヴィッド・コパフィールド』、『ゴリオ爺さん』、あるいは『戦争と平和』でもいい、いずれも出た当初からベストセラーだった。まさにわたしに言われているようで耳が痛い。古典とは、当時のベストセラーが淘汰された生き残りであることを思い出すべし。ただし、逆もまた必ずしも真ならず。ベストセラーだからといって良書とは限らないことも釘を刺す。

 本書自体が古典になりつつあるいま、もちろん欠点もある。1940年当時、英語圏からアクセスしやすい状況により、視界が欧米文学に限られている。アジア、アフリカ、そして南米文学がごっそり無い。今ならポストコロニアルやフェミニズム文学への目配せが必要だろう。紹介されていないものとしてパッと思いついたのは、フレイザー『金枝篇』やラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル』、キャロル『不思議の国のアリス』、ユゴー『レ・ミゼラブル』あたりが出てくるが、余計なアラ探しだね。

 この薄い一冊をパラパラをめくって、惹かれる文句や気になる評の赴くまま、紹介された本を手にすればいい。それはきっと、あなたの一生を何生にもする一冊になるだろう。

 この本で、良い人生を。


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入門にして傑作選『大江健三郎自選短篇』

大江健三郎自選短篇 つくづく恵まれている。

ノーベル賞作家が、自作ぜんぶを読み直し、選びなおし、加筆修訂した定本のベスト版、これが1500円で釣銭くるなんて。どれだけ日本って有り難いのだろう。中毒性の高い大江節を読みながら、嬉しさにまみれる。

 同時に、通して読むことで、時代性と普遍性のトレードオフが浮かび上がる。デビュー作『奇妙な仕事』や初期の『死者の奢り』『飼育』『セヴンティーン』を横断する、戦後日本の閉塞感やグロテスクな性のイメージが見える。面白いことに、この閉塞感やドロヘドロ感、もはや戦後ですらない現代にあてはめても伝わってくる。

 たとえば、初期作品に共通して出てくる「粘液質の膜」や「無関心の甲冑」という概念。何かに熱中したり、怒りを持続させることもなく、あいまいで、疲れやすい「僕」を包んでいるものとされる。生の現実に触れられないもどかしさと諦めを正当化するための「膜」だ。作品によって、外部から隔絶された療養所の壁だったり、やわらかい自意識を他者の視線から守る特攻服だったり、姿かたちを変えている。

 これはA.T.フィールドだね。自分を自分たらしめる排他的な精神境界で、エヴァなら防御壁も展開できる「膜」になる。そして、無関心の装甲は、外部から身を守る防具というよりも、膨れ上がる自意識を押さえ込むための拘束具になる。自我にひきこもり、リアルに到達できない息苦しさや焦燥感は、時代を超えてシンクロする。『セヴンティーン』なんてまさにそれ。イデオロギーを脱臭すると、性欲と反抗心の区別がつかない、ありふれた17歳がそこにいる。イマドキの高校生のほうが、もっとA.T.フィールドを発達させていると思うぞ(幸か不幸か別として)。

 そして、中後期の私小説「もどき」から得られる快楽は、音楽を聴く快感に似ていることに気づく。エッセイのような独白のような書きかたで、ストーリーラインは後ろに引っ込んで、ときおり浮かび上がる主旋律を追いかけるような体験だ。これは、外国文学の上手い翻訳を読まされているような感覚で、村上春樹の文を思い出す(ハッキリした物語性をもつ村上とは好対照なのに、なんとも不思議だ)。

 なかでも「新しい人よ眼ざめよ」シリーズは白眉。ブレイクの詩から導かれる連想と、著者自身の子ども時代の回想と、知的障害を持つ長男をとりまく状況を結い合わせて、いわば三重奏の夜想曲のような構成をもつ。エピソードが切り替わるたびに、メインフレーズが引き継がれ、異なる解釈からイメージが膨らみ、転調し、次のエピソードにつながる。これらを物語にするつもりはないことは、連作の一つを読みきれば分かる。だから、話がどう転がっていくかは作者おまかせとなる。さらに、時制は「この短篇を書いている現在」で読ませているため、これは大江一流の"意識の流れ"ではないかと。

 ただし、ストーリーテラーとしての大江を期待するならば、長編なのかもしれぬ。中後期の短篇を見る限り、おおかたの作家と同じく、私小説の罠に陥っている。長編小説でネタを出し尽くしたのか、現実と非現実の境があいまいなのだ。語る(騙る)ものが無いから、過去の自作とからめたり、生活半径15メートル以内の家人に委ねることでシノいでいる。物語であれキャラクターであれ、あるいはレトリックとしての文学であれ、「騙るちから」は長編に期待しよう。

 あとがきにて、大江はこれらの短篇から、自分の生きた「時代の精神」を読み取りうることを願っている。その試みは確かに成し遂げられているが、スカしているなとも思う。あの時代の体臭を伝えたいのなら、右翼エネルギー満タンクの『政治少年死す』を載せるべきなのに。イデオロギーの嫌悪感を逆なでするようなドギツい描写に辟易するだろうが、「騙るちから」に満ちている。なぜかネットでしか見かけないので、黒歴史に入るのだろう。生きてるうちから神格化されつつあるお口直しにどうぞ→『政治少年死す』

 セックスとイデオロギー、祈りと救済。大江文学のエッセンスが凝縮された、入門にしてベスト短篇集が、一冊で読める。とかく日本は有り難い。

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Pen【完全保存版】「犬と猫。」が良い

Pen201409号 犬派にも猫派にもお薦め、売り切れる前にどうぞ。

 もっとも身近な動物、というよりパートナーというべき「犬と猫」の特集。とりどりの写真に癒され、動物学の視点で復習し、歴史や美術の中での位置づけに唸らされ、そして犬本・猫本のオススメに、積読山がまた高くなる。

 犬と猫について語ったインタビューが愉しい。写真家の岩合光昭が、世界で出会った犬と猫の魅力を紹介する。例えば、イタリアでは野良猫のことを、「自由猫」と呼ぶそうな。イタリア男と同じで、イタリアの猫は撮られることを意識していており、決めポーズがあるという。

 ハードボイルドの印象が強い馳星周が犬好きというのは、本誌で知った。ヴィーダ『フランダースの犬』を評し、「努力すれば夢は叶うというおたごめかしから遠く離れ、現実をリアルに描いていることに感銘を受ける」と語る。そして、単にリアルの厳しさだけでなく、ネロとパトラシェを描くことで、「愛は必要だとさりげなく示しているところが好きだ」と暖かい視線を感じる。

 人間の秩序の外にいる猫について、町田康の指摘は正しい。彼に言わせると、猫がどんなに可愛いと思っても、(普通の人は)それほど細かく見ていないという。だから、小説家の文章を通じてみる猫は、いかにも猫らしいという。「確かに猫ってそうだよな、とうなずける。猫を見たときと、表現された文章を読んだとき、2度かわいいと思えるんです」。女と食べものが書けたら作家としては一人前と言われるが、これに猫も入るのかも。

 モチーフとしての犬・猫に焦点を当てた考察が面白い。例えば、キャパの『スペイン、バルセロナ』で空襲警報の中、広場を駆け抜ける女と足下の犬を撮った一枚は、「キャパは女ではなく、犬を中心にシャッターを切っている」というキャプションが目鱗。確かに、この犬の躍動感が写真全体の切迫感を支配している。伊藤若冲『百犬図』とレオナルド・ダ・ヴィンチの『猫百態』を比べて悶えてもいいし、「仔犬は応挙、猫は国芳」と絵師対決を堪能してもいい。犬は写実、猫は擬人の傾向が見られる。鳥獣戯画からこっち、猫は擬人化に向いているのかも。ネコミミは今に始まったことではない。時代を問わず、「かわいいは正義」なのだ。

 折も折、9/27オフ会のテーマは「猫と犬」。オススメの猫本や犬本、片方でも両方でも持ち寄って、まったりアツく語りましょう。本に限らず、音楽・映像・ゲームもOKですぞ。長丁場だけど途中参加・途中退場OK、どっぷりブックハンティングするのもよし、ちょっとだけブックトークするのもよし。参加希望の方は、facebook:スゴ本オフ「猫と犬」をチェックあれ。

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