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呪われる傑作『魔術師』(ジョン・ファウルズ)

 「呪う」とは、読者のアタマに消えない謎を植えつけること。

 面白がって一気に読んでしまった後、傷口がぱっくり開いたままになっていることに気づく。これ一生治らないし、じくじくと痛み続け時折フラッシュバックのように閃いて、わたしを苦しめることだろう。何らかの批評で結論づけてしまえれば、この呪いから解放されるが、この物語は読み手の解釈を拒絶する。時をおいて再読することで、もう一度謎と向き合う他ない。そのとき、この傷口からは豊穣な血液が、ワインのごとく滴る……と願いたい。

 これは、二転三転するオカルトじみた心理サスペンスであり、実存の哲学にまみれたリドルストーリーであり、こじらせ男女の恋愛譚であり、ギリシアとイギリスを舞台にした壮大すぎる劇中劇中劇になる。J.キャンベルが説いた英雄伝説(セパレーション/イニシエーション/リターン)の心理戦としてもいい。オックスフォード出の、教養あるイケメン(ただしレイシストで女をモノ扱いする)ニコラスが主人公。腐れ縁になりつつある女から逃れるため、ギリシアの小さな島に教師として赴任する。そこで出会った老富豪・コンヒスに惹かれ交際を始めるのだが―――わたしの予想をことごとく外してくれる展開が楽しい。

 なおかつ説明しないという潔さがイイ。動機は語らせるからオマエラで解けよ、ただし話者自身をどこまで信じるかもオマエラで測れよ、という態度が透け見える。どこまでが"ふり"で何を茶番とするかによって、この物語はいかようにも捉えなおせる。主人公の心理的変化をダシに青臭いナルシズムを愚弄する話にしてもいいし、ナチスの狂気が伝染した老人の二律背反劇にしてもいい。人生ゲームにおける"騙し"のフレームワークをメタ化したエンタメとしても面白い(それこそM.ダグラス主演『ゲーム』みたいに)。

 小説とは「でっちあげ」にすぎない。だが、その前提で『偽物の「でっちあげ」』を作り出し、その上で{フェイクである『偽物の「でっちあげ」』}に仕立て上げられ、さらには[仮面劇{フェイクである『偽物の「でっちあげ」』}]が演じられるのだ。この多重カッコが、それこそ次々と服を脱ぐように外されてゆく後半では、読者はニコラスと共に衝撃を喰らうだろう。そして、どんなに脱がせても裸にたどり着けない「でっちあげ」に、個人として/読者としてのアイデンティティが揺らぐかもしれない。一つの謎、一つのテーマに還元することで、これを解こうとするのは難しい。だから、脱ぎ捨てられた服の匂いを吟味して、現れた衣装の触り心地を確かめるような姿勢がいいかも。

 本書の最重要テーマである「自由」について。かなり残酷なやりかたで、老人コンヒスは青年を試す(しかも幾度も)。その背後には、だれしも己の価値観に操られているマリオネットにすぎぬという諦観がつきまとっている。「言葉は真理のためにあるのです。フィクションのためにあるのではない」と言い切るコンヒスこそが、仮面劇のために言葉を操る。そして、人形を操る価値観の強度を試し、その紐を一本いっぽん切り離すことが、「自由」になることだと信じているようだ。繰り返されるどんでん返しは、その切断である。

 だが、全ての判断基準から解放され、何にも因らなくなった実存が「自由」であろうか。全部の価値観の紐を切ったマリオネットは動かなくなる。本質に先立つ実存は、ただそれのみでは立つことすらままならない。老人の「嘘」にいったん騙されたふりをするのなら、このコンヒスこそ哀れだ。自由とは、世界を解釈する自由であり、因果から離れたところで、行動を決める自由なのだから。オマエは過去の呪いから解放されんがために、魔術師の"ふり"をしている金持ちにすぎない―――とツッコんでみたところで、そういうわたしも化かされている。

 これ、もっと青いときに読んだなら、呪いが狂気に伝染していたかもしれぬ。おっさんでよかった。オススメいただいた沢山の方、そして最後に背中を押してくださったmineさん、ありがとうございます。

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まどマギガン=カタからゲーデルまで「嘘と虚構」のスゴ本オフ

 オススメを持ち寄って、まったり熱く語り合うスゴ本オフ。

01

 今回は(というより今回も!)大漁豊作の会だった。「嘘と虚構」のテーマにて、本や映画やゲームなど、オススメ作品が紹介されるのだが、直球、変化球、魔球、その発想はなかった…!! と絶句する本多数。しかも「嘘と虚構」どんぴしゃで今のいま熱すぎるお話をうかがった。ここに書けないsensitiveなネタだけど、結論だけは強調しておく。「世の中には、息を吸うように嘘を吐く人がいる」ってね。

02

 ご参加いただいた皆様、サポートいただいた方々、ありがとうございます。次回6/21(土)のテーマは「闇」、ダークネスでダークサイドな作品を募集いたしますぞ。[facebookスゴ本オフ]をどうぞ。当日のtweetまとめは、[スタニワフ・レムからまどマギ、マトリックス、そしてあの事件の真相まで。「嘘と虚構」のスゴ本オフ]をどうぞ。カーリルの全リストはこれ→[スゴ本オフ「ウソと虚構」@HDE渋谷 で、紹介されたスゴ本!]。やすゆきさんのレポートは[ウソと虚構のスゴ本オフは例の事件のネタが大盛り上がりだった件。]

以下いくつかピックアップしてみよう。

03

 わたしが紹介したのはメタフィクション。あらゆる小説はフィクションだから、一回ヒネって「小説が語る嘘」という観点で選んだ。レム『完全な真空』は、この世に存在しない本の書評集で、『虚数』は存在しない作品の序文集。[「嘘と虚構」を考える]にまとめたら、その反応で思い出したのが、『注文の多い注文書』。(mats3003さんありがとうございます!)。これは、実在する小説に登場する、存在しないものの注文書と納品書と実物。サリンジャーの"バナナフィッシュ"の耳石や、『うたかたの日々』に登場する"肺に咲く睡蓮"のビジュアルがいかにもそれっぽく、かつ入手動機と入手方法の掛け合いがユニークな一冊(わたしの感想は[ないもの、あります『注文の多い注文書』])。

完全な真空虚数注文の多い注文書

 「脳を騙す=世界を改変する」ことに気づかされる。知覚をすり替えることで、虚実を入れ替える。『知覚は幻 ラマチャンドランが語る錯覚の脳科学』を見ていると、わたしたちが確かだと経験している"現実"が、実は脳が組み立てた虚構に過ぎないことが実感できる。『マトリックス』や『トータルリコール』『インセプション』など、"映画"というパッケージに入れることで、物語として(安全に?)虚実のすり替えを楽しめる。脳(=記憶)をトレースしたものを再現させるテーマとして『ソラリス』が出てきたが、『なるたる』にも同じモチーフがあった(はず)。逆に、状況の方をフェイクして相手を騙す詐欺師なら、傑作『スティング』や『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』などが出てくる。小説がそうであるように、映画と虚構は親和性が高いのかも。

知覚は幻マトリックスソラリスの陽のもとに

05

 辛すぎる現実をチューニングするための、いわば方便としての嘘が辛すぎる。真実が耐えられないほどクソで辛いものならば、人間は嘘をつかないと生き延びられない、ということを嫌というほどわからせてくれるのが、『第三の嘘』。『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』の順に(かならずこの順番で)読むこと。「戦慄するほど無慈悲なラスト一行は鳥肌モノ」と紹介していただいただいたが、激しく同意。わたしのレビューは[『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』はスゴ本]に書いた。生きるためというより、狂わずにいるための嘘やね。

悪童日記ふたりの証拠第三の嘘

 「嘘」と恋愛は、これまた親和性ありすぎる。恋とは自分にかける魔法なら、愛は自己欺瞞の極になってしまう。恋の魔法を操る者はいつしか恋に操られる。嘘のままの方が愛なのか、本当を言う方が愛なのか。ラクロ『危険な関係』では、恋とは、若い男女を相思相愛にもっていく"ゲーム"になる。"ふり"がホントになるニセコイそのものやね。『魔法少女まどかマギカ 叛逆の物語』は、まどかさんへの恋が「愛」に変わる瞬間を見てとることができる。これは絶好調のマミ×ほむガン=カタを堪能する映画だというカネヅカ氏の指摘は正しい。あれを「愛よ」というのなら、ほむらさんそれ我執としての自己欺瞞だからと伝えて差し上げたい。そして、「判断力の欠如で愛して、忍耐力の欠如で別れて、記憶力の欠如でまた愛する」結婚のサイクルを、結婚しないまま繰り返している業の深さにうなだれる。愛とは自分に吐く嘘(の一種である)と言い切れたらいいのだが、そこまで絶望していない。

危険な関係叛逆の物語リベリオン

06

 世界を認識するための物語として、「神話」は残り続ける。虚構をどのようにつくるか、の最初に参照される一冊として『神話の力』が紹介される。二十世紀後半になり、物語の工業化が促進され、(プロフェッショナルではなく)普通の人が物語を作るようになったという指摘は鋭い。同著者の『千の顔を持つ英雄』は電撃文庫コンテスト合格者の課題図書との噂だが、さもありなん。対話形式で「空」の思想を描いた『老師と少年』は、この世は虚構であり私という存在も虚構に過ぎないと説く。ならば、「生きようが死のうが同じなのでは?」と問う少年への返答は必読。休憩時間に確かめたが、これは世界を理解する(受諾する)ための王道になる。予習も含め読了に8年かかった『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は、わたしの数学に対する、ひいては世界そのものに対する認識の欺瞞を打ち砕いてくれた。経緯は[『ゲーデル、エッシャー、バッハ』はスゴ本]にまとめたが、数学の「正しさ」を自分自身の経験に即して考えている以上、絶対にたどりつけなかった域を超えることができた。これはスゴ本オフのおかげなり、感謝感謝。

神話の力老師と少年GEB

 紹介された作品は以下の通り。



    メタフィクション
  • 『完全な真空』スタニスワフ・レム(国書刊行会)
  • 『虚数』スタニスワフ・レム(国書刊行会)
  • 『注文の多い注文書』小川洋子/クラフト・エヴィング商會(筑摩書房)

    子に吐く嘘
  • 『縞模様のパジャマの少年』ジョン・ボイン(岩波書店)
  • 『八月の蝉』角田光代(中公文庫)
  • 『ライフ・イズ・ビューティフル』ロベルト・ベニーニ(パイオニア)

    辛すぎる現実をチューニングするための嘘
  • 『悪童日記』アゴタ・クリストフ(早川epi文庫)
  • 『ふたりの証拠』アゴタ・クリストフ(早川epi文庫)
  • 『第三の嘘』アゴタ・クリストフ(早川epi文庫)
  • 『謎の物語』紀田順一郎編(ちくま書房)

    愛よ。
  • 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ叛逆の物語』(アニプレックス)
  • 『リベリオン』カート・ウィマー(アミューズ)

    ショーという虚構
  • 『ブルーザー・ブロディ 私の、知的反逆児』バーバラ・グーディシュ(東邦出版)
  • 『ユニヴァーサル野球協会』ロバート・クーヴァー(新潮文庫)
  • 『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』ランス・アームストロング(講談社文庫)
  • 『シークレット・レース』タイラー ハミルトン(小学館文庫)
  • 『談志の落語』立川談志(静山社文庫)
  • 『昭和元禄落語心中』雲田 はるこ(講談社)

    脳を騙す
  • 『拡張する脳』藤井直敬(新潮社)
  • 『ソラリスの陽のもとに』スタニスワフ・レム(早川書房)
  • 『マトリックス三部作』ウォシャウスキー兄弟(ワーナー)
  • 『アニマトリックス』アンディ・ジョーンズ(ワーナー)
  • 『知覚は幻 ラマチャンドランが語る錯覚の脳科学』ラマチャンドラン(別冊日経サイエンス)
  • 『グラン・ヴァカンス―廃園の天使』飛浩隆(早川書房)
  • 『玩具修理者』小林泰三(角川ホラー文庫)
  • 『順列都市』グレッグ・イーガン(早川文庫)
  • 『ダレカガナカニイル…』井上夢人(講談社文庫)

    恋は自分にかける魔法である
  • 『弟子』ポール・ブールジェ(岩波文庫)
  • 『危険な関係』ラクロ(角川文庫)
  • 『悪女について』有吉佐和子(新潮文庫)
  • 『葉桜の季節に君を想うということ』歌野晶午(文春文庫)
  • 『イニシエーション・ラブ』乾くるみ(文春文庫)

    絵で騙す
  • 『エッシャーの宇宙』ブルーノ・エルンスト(朝日新聞社出版局)
  • 『MONUMENT VALLEY』USTWO GAMES
  • 『今、浮世絵が面白い!第6巻 歌川国芳』歌川国芳(学研)
  • 『終わらない夜』セーラ・トムソン(ほるぷ出版)
  • 『真昼の夢』セーラ・トムソン(ほるぷ出版)
  • 『どこでもない場所』セーラ・トムソン(ほるぷ出版)
  • 『写実画のすごい世界』月刊美術(実業之日本社)

    物語世界としての虚構
  • 『羊たちの沈黙』トマス・ハリス(新潮文庫)
  • 『アイ・アム・レジェンド』リチャード・マシスン(早川書房)
  • 『ハヤブサが守る家』ランサム・リグズ(東京創元社)
  • 『ラヴクラフト全集』H・P・ラヴクラフト(創元推理文庫)
  • 『泣いた赤鬼』浦沢直樹(小学館)
  • 『向日葵の咲かない夏』道尾秀介(新潮文庫)
  • 『パナマの仕立て屋』ジョン・ル・カレ(集英社)
  • 『モンスターU子の嘘』越智月子(小学館)
  • 『模倣の殺意』中町信(創元推理文庫)

    世界を理解するための方便
  • 『老師と少年』南直哉(新潮文庫)
  • 『ゲーデル、エッシャー、バッハ』ダグラス・ホフスタッター(白揚社)

    フィクションを生む力の源
  • 『神話の力』ジョゼフ・キャンベル(早川書房)
  • 『千の顔を持つ英雄』ジョゼフ・キャンベル(人文書院)
  • 『アラビアの夜の種族』古川日出男(新潮文庫)

    "本当の"嘘に接近する
  • 『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』清水潔(新潮社)
  • 『三浦和義事件』島田荘司(角川文庫)
  • 『科学者たちの自由な楽園 栄光の理化学研究所』宮田親平(文藝春秋)
  • 『反対尋問』ウェルマン(旺文社文庫)
  • 『偽書「東日流外三郡誌」事件』斉藤光政(新人物文庫)
  • 『ウィルソン氏の驚異の陳列室』ローレンス・ウェシュラー(みすず書房)
  • 『代理ミュンヒハウゼン症候群』南部さおり(アスキー新書)

    安心できる嘘
  • 『民明書房大全』宮下あきら(集英社)
  • 『始祖鳥化石の謎』フレッド・ホイル(地人館書店)
  • 『イラハイ』佐藤哲也(新潮文庫)

04

 出ている本に夢中になって、料理を撮るの忘れてた。いつも通りというか、いつも以上に、まったり宴会じみたオススメ会でしたな。「ここでしか聞けない」tweetもUstもできない話も聞けたのが凄い。話が深みにハマると、実況も公開もできないのが辛いので、ぜひナマで聞きにいらしてくださいませ。

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「嘘と虚構」を考える

 明日のスゴ本オフは「嘘と虚構」がテーマ(なんとタイムリーな!)。嘘を嘘と見抜けないと難しいのは、ネットに限らない。中の人が信じるあまり、演じる自覚が無くなってしまい、ただの詐欺やペテンを超えて、ニュースを受け取る「外の人」を巻き込んでいるのが新しい。スゴ本オフに先立ち、わたしが選ぶ「嘘と虚構」の本をご紹介。

完全な真空 まず小説。小説は全てフィクションなので「あらゆる小説」が俎上に上る。そこから一歩歪めてメタ視線から小説を捉えなおすと、「小説が語る嘘」が見えてくる。ボルヘスは架空の書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差し出せとアドバイスする。スタニスワフ・レムは具体化して、存在しない本の書評集『完全な真空』、そして存在しない作品の序文集『虚数』を著す。

 なにしろ架空の本だから、何だって創造(想像)できてしまう。そもそも小説として成立しなくても、その書評という形態なら示すことができる。例えば『完全な真空』にある『とどのつまりは何も無し』の書評。俎上の小説は、なんと全て否定文で書かれている。「列車は着かなかった。彼は来なかった……」と、否定に否定を塗り重ね、虚無の、完全な真空を目指す。当然そんな小説はお話として成り立たないだろうが、そいつを指すポインタは書ける。nullを参照するとぬるぽになるから、nullを入れた変数(=場所)を扱うのと一緒。

虚数 未来に書かれる作品の序文集としての『虚数』は、その未来を通り過ぎた「今」から見ると、既視感と未視感が混じって面白い。例えば、『ヴェストランド・エクステロペディア』は、2011年に発売される百科事典だ。画期的なことに、2011年以降の未来予想が書かれた事典で、なおかつ事実が違っていた場合、自動的に記述が訂正されるのだという。自動記述するWikipediaのbotを思い出すが、さすがに"無償の事典"という発想が、レムには無かったことにほっとしたい。

 あるいは、未来の人工知能による講義録『GOLEM XIV』は、人の知性を超えてしまった存在との対話が成り立つのかがテーマになる。知の極限は、そのまま見ることはできない。直視するなら、その眼は潰れてしまうだろう。フィクションをありのままのフィクションとして書くのが小説なら、これらは、指し示すことで虚構を伝える。虚構は、直接参照できないのだ。

GEB 『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(GEB)で不完全性定理が語られているが、そこでは「数学の確からしさ」よりも、むしろ数学の虚構性が問われているように読んだ。ある論理を体系化した数学を「確かだ」と“わたし”に納得させるものは、わたし自身の数学的経験に拠っているのではないか―――といったんは疑問に思えたのだ(もちろん、あとで解消したが)。自然数の1、2、3...は、“わたし”の数を数える経験(イチ、ニ、サン…)と対応しているので、納得しやすい。だが、わたしの経験や合意とは無関係に自然数はある。自然数を厳密に定義しようとした途端に難しくなる[wikipedia:自然数の公理]。所与の前提と決められたルールの中だけで数学が成立していることに気づくと、それとは別の公理系があることになる。そして、その公理系の中では証明も反証もできない命題があることを突きつけられる。『GEB』読了前までは、「数学の限界」と一人合点していたが、むしろ論理の限界に気づいたのが人類であってよかった(とびっきりの天才だが、人であることは確か)。「数学に、解けない問題はない」とするわたしの思い込み自体が虚構だったんだね。

写実画のすごい世界 逆説的だが、写真の虚構性を暴いたのが写実画だと気づかされたのが、『写実画のすごい世界』。そもそも「写真」というネーミングが誤解を孕む。「真実を写す」どころか、加工もトリムも思いのままだし、撮り手の意図や思惑やメッセージが入り込む。写実画は絵だから、最初から本物ではない。映像をそのまま写し取りたいのであればシャッターを切ればいい。だが、長い時間をかけて二次元で対象を「そっくり」にするために、描き手の取捨選択が入ってくる。テクスチャや手触りが表現されることで、女の身体の柔らかさや気配が映りこんでくる。「芸術とは真実を悟らせるための嘘」というが、絵=美じゃないんだ、絵から美が見えるんだということが伝わる。"photograph"を「光画」と訳し、写実画を「写真画」とするほうが、より本来的だね。

 明日の午後、ゆるゆるtweet実況しながらやっておりますので、野次馬的にご覧あれ。

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ONEとKanonと『サクラカグラ』

 人生に、意味はないけど、甲斐はある。わたしは、様々な「生きてて良かった」に生かされている(密かに"業/ごう"と呼んでいる)。囚われているから、あゆんでいける。

サクラカグラ これに本書も入る。見かけたとき、目を疑って、飛び上がって、それから踊った。「永遠はあるよ、ここにあるよ」に初めて触れた感情や、「それでは最後のお願いです、ボクのこと、忘れてください」を耳にしたときの感覚がよみがえる。物語に呑みこまれ、もみくちゃにされ、撃たれた記憶が戻ってくる。『ONE』『Kanon』の脚本を書いた久弥直樹の、初の長編小説がこれなのだ。

 ピンと来ない人向けに言うと、「確定スゴ本」。この人が書いたなら、読む前からスゴ本だと確信できる。ほとんどは死んで評価が定まった作家に対するものだが、生きてる人には珍しい(デビュー作にしてスゴ本は希少)。編集者も分かっているようで、フルカラー印刷のイラストや、ブルーの栞などチカラ入れまくり。高いリーダビリティと適切な萌えにウキウキしながら読んでいくと、とんでもないところへ連れて行かれる。かなり用心して読む。

 これは、少女と記憶をめぐる物語。『ONE』や『Kanon』は、プレイヤーの代表≒高校男子の視点だったが、こちらは女生徒だ。目線は違えども、彼女の日常の愛おしみ方、過去の絡まり方、そして世界の歪み方はそっくりだ。イントロダクションは、どこかで見た世界だが、この作者なら"その世界"である筈がない。いつものラノベのつもりなら、盛大なゆき違いに気づくだろう。日常系ミステリから、果ては世界線の改変まで前提を考慮しながら、罠だ、みおとすな、とつぶやきながら読む。

「僕が誰に殺されたのか知りたい」
“この世界に存在しない少年”を視てしまった月深学園高等部1年生・上乃此花は、茜色の旧校舎の屋上で彼からそう告げられる。少年の欠落した死の記憶をめぐる犯人探しの末に、学園に満ちた矛盾の向こう側にある真実を知ったとき、それまでの此花の日常は妖しく歪みはじめる―――

 だいじょうぶ、最初の章「コノハナカグラ」の最後の一撃は経験している。過去は、思い出したときにのみ存在するのだから。目次を見る限り、「中心となる女の子の名前+カグラ」と、彼女をとりまく断章が層のようにピースのように重なっており、中だるみを回避する。後半のメイン「リンネカグラ」はヤられた。なまじ『Kanon』を知ってるだけに、まゆつばが足りなかった。展開を読みさきを修正しないと、不意打ちを食らう。

 「他人の人生を生きるな」という警告がある。偽りの日常に憑かれてまことの人生に戻って来れなくなるから。取り込まれた自分もひっくるめて自分なのだから、物語を経験に上書きしよう。人はうつろうのに、物語の少女はあのまま。この業に、みずから囚われている限り、もう少し生き続けたいと願う。

 タイトルの「カグラ」とは「神楽」のことだろうか。Wikipediaによると語源は「神座」(かむくら)=「神の宿るところ」で、巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流する神人一体の歌舞だという。

 彼女らの舞の続きが、待ち遠しい。

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スタンダードな読書会でスッキリ(第六回 東東京読書会)

 たとえば凄く面白いミステリを読んだとき。

パインズ 「あぁ、これはオススメしたい、語りたい」と強烈に、切実に、それこそ尿意のように感じる。でもね、それが面白ければ面白かったほど、言えない。展開どころか「○○みたい」すらご法度。せいぜい、どう感じたかを遠まわしにもどかしげに伝えるだけ。だから、「それぞれ愛読書をもちよる」形式のブックトークだと、伝えたいけど言っちゃダメという縛りにのたうちまわることになる(最近だと『パインズ 美しい地獄』、夢中本としか言えない)。

 しかし、「全員がこの本を読んでいる」なら話は別だ。いわゆるスタンダードな読書会。真犯人が誰なのか知ってるし、ファイナルストライクも経験済み、だから安心して語れる。「スゴ本オフ」や「ビブリオバトル」、「ブクブク交換」などの紹介型ブックトークでは絶対に語れないネタが、ここではメインテーマになる。今回は、[東東京読書会]で、キャロル・オコンネル『クリスマスに少女は還る』について、ずっと溜まりに溜まっていた思いを吐き出してきた。と同時に、さまざまな「読み」を学ばせてもらう貴重な場だった(未読の方には、これは鳥肌本としか言えない)。

クリスマスに少女は還る たとえば、あの驚愕のラストについて、許せるか許せないかを互いにぶつけあう。これは、どちらに倒しても読めるのがミソで、「許せる」というなら、○○小説になるし、「許せない」とするなら△△小説になるだけ。翻訳者の務台さんご自身から、作品との出会いや思い入れをアツく語ってもらう。スゴい読書会なり。

 さらに、再読を促す仕掛けが沢山あったことに気づかされる。わたしが見落としていた何気ない一文が、実は重要な伏線だったことを、改めて教えてもらう。また、サディー・グリーンとルージュ・ケンダルは、緑と赤の補色関係にあると同時に、クリスマスカラーであるという指摘に驚く。わたしが熱く疑問に抱えてた[クルマがなかった問題]も、まるで違う方向からのアイディアが出てきて嬉しくなる(読者から見たキャラクターの重みづけと、キャラクター同士の重みづけは異なるという指摘は重要なり)。

 ありがたいことに、鉄板本をオススメされる。いわゆる、四の五の言わず黙って読め、絶対に面白いからというやつ。明日が休みのときに読もう。

 コニー・ウィリス『航路』
 ジョン・ファウルズ『魔術師』
 ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』
 ジェフリー・ディーヴァー『ウォッチメーカー』
 ダシール ハメット『 マルタの鷹』

 すばらしい場をもうけていただき、東東京読書会の世話人の方々に大感謝、ありがとうございました。

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『100分で名著 旧約聖書』一言でいうなら、「神が動くのを待つ」

 『インディペンデンス・デイ』を覚えているだろうか。宇宙人が攻めてきて、人類とガチバトルする映画だ。主要都市を一斉攻撃することで、人類にケンカ売りつける。都市機能を破壊する目的もあるが、てっとり早く世界を怒らせるなら、エルサレムを焼き払うだけで済む。映画でそんなシーンはなかった(はずだ)が、あまりにタブーすぎるからだろうか。

100分で名著 旧約聖書 『100分de名著 旧約聖書』の最初のページは、このエルサレム旧市街。嘆きの壁、聖墳墓協会、岩のドームと、人類にとって最も柔らかい部分がひしめき合う。いがみ合ってきた人々が、一致団結することがあるならば、ここを攻撃する存在に対してだろう。そして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の要となっているのがエルサレムなら、『旧約聖書』は三宗教のルーツになる。

 NHKテレビ「100分de名著」シリーズは、25分×4回に分けて名著を読み解こうという試み。漱石『こころ』とかフロム『愛するということ』なら分かるが、いくらなんでも『旧約聖書』は無謀だろうという興味半分でテキスト手にする。残り半分は「たかだか100分で旧約を解ったフリできるのは、おいしいかも」という不純な動機だ(結局どちらも満たされた)。

 これは、ただ中身を並べたものではなく、聖書を全体で理解しようという姿勢でつくられている。個々の物語や解釈も触れるが、むしろ歴史の中での位置づけや、"意義"に近いところで語られている。ざっくりと、本当にざっくりと入口をガイドしてくれている。と同時に、「聖書の一部をつまんで、矛盾をあげつらう」危険を指摘する(これはまさにわたし自身が陥っていた罠だ)。

 たとえば、世界の創造の物語が二つ語られているのだが、食い違っている部分がある。天地創造までは一致するが、その後、人と植物がつくられた順番や、男女がつくられた順番が異なっているという。これは、証言者が意図的に二つの異なる証言を示したと考えるほかないという。どちらが真実なのかを確定するのは、もはや問題ではなく、確定的な事実などないのだというのだ。「聖書に書かれていることはすべて真実だ」という立場を否定するべきメッセージになる。

 あるいは、ユダヤ教の「罪」の概念について、わたしが誤解していたことが分かった。人は生まれながらにして悪行を背負っているという考えではないそうだ。B.C.722、アッシリアに北イスラエル王国が滅ぼされたという事実がある。この事実を前にして、それでも「神は正しい」とするために、民族全体が「罪の状態にある」ことにしなければならなかったのだというのだ。イデオロギー的に「神の義」を確保しなければならないほど、求心力が求められていたのだろうか。

 さらに、自己正当化と迫害について目ウロコの説明がなされる。自分の生涯は、真理と正義だったという「トビト記」を引いて、自分が正しい=最終的な審判を自分で(人間が)行うことを指摘する。さらに、神の名において宗教的な迫害の論理は、「神にしか行えないことを、人間が勝手に行っている」問題があるという。すなわち、神を退けて、自己正当化する神否定者になる。「宗教的には忠実かもしれないけれど、神には忠実でないもの」だというのだ。宗教とは、神の権威を背景にした賛同者を集める「人間的行為」であって、その効果は人に対するものになる。けれども、神の態度や立場に沿ったものであるとは限らない―――このギャップが問題になるんだね、ユダヤ教に限らないけど。

 人は何をしても救われない、自己正当化は否定されている。そして、まもなく実現されるはずなのに、いつまで待ってもやってこない「終末」―――救いに対して八方塞がりになっているのが、ユダヤ教だという。旧約聖書は、「人は何をしても救われない」「神の介入を待つしかない」ということが確認されている―――テキストの著者は、こう述べている。千葉大学文学部教授の加藤隆氏で、著書の『旧約聖書の誕生』(ちくま学芸文庫)、『歴史の中の「新約聖書」』(ちくま新書)を手にしてみよう。

 番組のサイトは、[100分de名著 プロデューサーNのおもわく]、NHKのEテレで毎週水曜PM11:00~11:25やっている。初回を見落としたので、再放送から見るつもり(ニコ動とかでやってほしい……こういうの、ツッコミが大事なのだから)

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『ゲーデル、エッシャー、バッハ』はスゴ本

 一生モノの一冊。

GEB 「スゴ本=すごい本」の何が凄いのかというと、読んだ目が変わってしまうところ。つまり、読前と読後で世界が変わってしまうほどの本こそが、スゴ本になる。もちろん世界は変わっちゃいない、それを眺めるわたしが、まるで異なる自分になっていることに気づかされるのだ。

 『GEB(Godel, Escher, Bach)』は、天才が知を徹底的に遊んだスゴ本。不完全性定理のゲーデル、騙し絵のエッシャー、音楽の父バッハの業績を"自己言及"のキーワードとメタファーで縫い合わせ、数学、アート、音楽、禅、人工知能、認知科学、言語学、分子生物学を横断しつつ、科学と哲学と芸術のエンターテイメントに昇華させている。

 ざっくりまとめてしまうと、本書のエッセンスは、エッシャーの『描く手』に現れる。右手が左手を、左手が右手を描いている絵だ。「手」の次元で見たとき、どちらが描く方で、どちらが描かれている方なのか、分からない。互いに描きあう手は自己言及を繰り返し、その環の中で閉じている。「絵」の次元で見たとき、その背後には、右手と左手の両方の創造者である、エッシャーの描かれてない「描く手」が控えている。さらには、この絵を描くエッシャーを写真に撮って、エッシャーの絵をさらにエッシャー化することもできる(『3つの球体』の試み)。「手」の無限ループからいったん離れ、自分のしていることをメタ的に眺めることができるのは、人と機械(AI、論理構造、システムetc...)の最大の違いだというのだ。

DrawingHands
DrawingHands From Wikipedia

 この違いは、矛盾の取り扱いに如実に現れる。人は、自分の考えに矛盾した点を見つけても、全精神が崩壊したり、思考活動を停止してエラーを吐き出すようなことはしない。その代わりに、矛盾を引き起こしたと思われる信念や前提、推論方法を吟味しはじめる。すなわち、その中で矛盾が生じたと思われるシステムから外に出て、それを修復しようと試みるのだ。このアナロジーをゲーデルやバッハに適用する。

 たとえば「数学は、考えられるどんな世界でも同じだろうか?」という刺激的な問いが投げかけられる。数学の"確からしさ"は、現実との対応により信念のような形で経験的に信じられているのではないか―――という恐ろしい疑念が湧きあがる。よしんばゲーデルにたどり着いたところで、「どの数論が正しいか」という疑問が突付けられる。"バッハの渦"として、『音楽の捧げもの』の果てしなく上昇するカノンが説明される。一オクターブ「上がった」とき再び自身へ合流するよう計算された演奏だが、それを楽しむことができるのは、音楽を再帰的に聴けるから。カノンの中にいたのなら、相違の中の同一性に気づくことはなく、永久に上がっていくだけだろう。

 あるいは、フーガの技法をエッシャーの地と図の反転になぞらえる。フーガは、一度に単一の声部についていくか、もしくはそれらを切り離そうとせず、すべて一緒になった全体の効果を聴くか、どちらかの様式で聴くことができる。各声部の道をたどりながら、同時に効果全体を聴くことができない。一方の様式から他方の様式へと行きつ戻りつ、自然に無意識にそうなる。黒いカニに注目すると、白地は背景となるし、白いカニに着目すると、さっきまで黒いカニだったものが地になってしまう『蟹のカノン』は、エッシャーとバッハが緊密に縒り合わさったものだろう。

 本書は、わたしに新しい「目」をもたらしただけでなく、さらに次元が上の、メタな意味でスゴい一冊となっている。なぜなら、本書を読むために予習した本がスゴ本だったから。著者・ダグラス・ホフスタッターは、それぞれの学術研究を丁寧に解説するつもりはない(自身が"遊ぶ"のに夢中だから)。そのため、読み進めるためのサブテキストを、自力で探し出す必要がある。この探索が、わたしの読書傾向をまるで変えてしまったのだ。

 今なら、[東大教師が新入生にすすめる100冊]で強力にお薦めされてる理由が分かる。本書だけ読んで分かる程度の知性が求められているか、あるいは、本書を読破するくらいの下準備ができるか望まれているのだ。わたしの場合、準備と実践と行きつ戻りつしながら格闘することとなった。わたしがどのような「回り道」をしてきたかをご紹介することで、本書の魅力をあぶりだしてみよう。

ゲーデルの哲学 わたしの失敗は、不完全性定理を本書から学ぼうとしたところ。これは『GEB』のテーマの一つでもあるが、その理論を説明する本ではない。むしろ、これをダシに思考を弄び、知性を妄想しているのだから。不完全性定理を学ぶため、岩波文庫から攻めたが撃沈したので、高橋昌一郎『ゲーデルの哲学』から攻略する。数式を使わずアナロジーを用いることで、不完全性定理のイメージを上手く伝えている。同時にゲーデルの生涯を追いながら、不完全性定理の哲学的帰結までたどっており、数式なしで「わかった」気分にさせてくれる。その哲学的帰結は、下記の通り。

 全数学を論理学に還元することは不可能である
 全数学を公理化することも不可能である

 面白いことに、不完全性定理に接近することで、数学を何か確固とした絶対的な知だと考えていたことに気づく。数学を疑っているわけではない。「疑う」というよりも、信じるわたしをメタな目で眺めるような感覚で、数学は積み重ねた証明を体系化したものの一つなのだと向き合うようになった。

数学でつまずくのはなぜか そして、意味としての数学から形式的な知の体系としての論理学へ拡張してくれたのが、小島寛之『数学でつまずくのはなぜか』になる。アフォーダンスの観点から数学を問い直しているところがユニークだ。アフォーダンスは、環境に実在し、人が生活していく中で獲得する意味(価値)と定義されているが、これを「数学のつまづき」の中に見つけ、こう喝破する。

 あなたが数学でつまずくのは、
 数学があなたの中にすでにあるからだ

 単純な記号と簡単なルールを組み合わせることで、一つの論理体系(MIUシステム)を作り上げてしまう。学校数学をいったん捨て、純粋に形式的な「お約束ごと」だけで公理系を構築する件は、とてもスリリングだ。しかもこれは、現実世界と一切対応していない。わたしの経験や直感に邪魔されない、完結した論理体系のフィールドになる。

 これは、『GEB』の第一部で紹介される重要な概念「MUパズル」そのもの。議論の前提となるための形式的な言明にすぎない「公理」、そこから演繹的に導出された「定理」は、必ずしも自明の理であるとは限らない。数学の「正しさ」は数学の中にあるのであって、わたしの中にあるとは限らない―――これを理解するためのMIUシステムの解説は、『GEB』よりも『数学でつまずくのはなぜか』の方が分かりやすい。

数学ガール ゲーデルの不完全性定理 さらに、結城浩『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』から攻略する。馴染み深い「意味の世界」から、公理と推論規則だけで成立した「形式の世界」を渡るのは、ちょっと怖くて愉しい経験だったが、肝心の定理の理解には及ばなかった。

 原因はわたしの理解力不足。ウォーミングアップである、「ウソつきのパラドクス」や「0.999…は1に等しいか」、「数学的帰納法」あたりは楽しく読めたが、「ペアノの公理」「イプシロン・デルタ論法」あたりになると、ついていくのがやっとだった。とはいえ、これがどういう定理であり、どのような攻略法があるかを知ることはできた。むしろ本書では、にわか勉強の底の浅さが見透かされたようでガツンとくる。

『数学というもの』は、絶対的に確かだと思っていたんです。でも、第一不完全性定理の結果からは…証明も反証もできないものがあるわけですし、第二不完全性定理の結果からは…他の助けを借りなければ矛盾がないことを示せないわけです。だから、やはり『数学の限界』が証明されたように感じてしまうんです。

 なんとなく現実と対応づけができ、自明のように思える「数学っぽいもの」と、厳密に定義できて形式的に表現できる「数学というもの」の違いがつきつけられる。両者はともに数式を扱うから、同じように思えていたが、ここで明確に異なることに気づかされる。『GEB』では「数学における意味と形」というキーワードで示されている。数学を、いったん現実から引き剥がす必要がある。

 「回り道」のご紹介おわり。著者がアドバイスするとおり、このペダンチックな議論は頭の良い若者にこそ向いている(15歳が適任だそうな!)。頭の堅いおっさん(=わたし)は、自分の積み上げてきた経験が邪魔をして、知に惑溺するどころか溺死寸前だった。できるなら、15歳のわたしに、こう伝えたい。「読め! 読んだら一生の宝物になる。これは知識ではなく、知そのものなんだ。今は理解できないかもしれないが、タイトルとこの重さを知っておくだけでもいい。なぜなら、かならずオマエは、これを読みたくなるから」ってね。

 読もうと思い立ってから8年……長いだけでなく、その予習からしてインパクト大のスゴ本だった。そして、定期的に再読する、一生モノの一冊。

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『たまこラブストーリー』で幸せな記憶を

 観たら幸せになるアニメ。テレビ版を見てなくても問題なし。

 ラノベを読んだりアニメ観るのは、なかった青春を甘酸っぱい記憶で上書きするため。ほら、「最後には、どうか幸せな記憶を」と言うじゃない。深夜、リアル過去を思い出して布団抱きしめ煩悶するより、美しい場面を反芻するほうが、よっぽど精神に良い。俺が死ぬときの走馬燈フォルダに保存しておこう、この河原のシーンは。

 これ観て思うのは、どうして俺は人を好きになったのだろう、ということ。スペック・縁はともかく、年がら年中、彼女のことばかり考えていたことがあった。万有引力の法則をどうして閃いたのか?という質問に、アイザック・ニュートンが応えたとおり。

 By always thinking unto them
 寝ても覚めても、そのことばかり考えていただけです

 わたしの場合、運あって一緒になれたのだが、今でも二人で話し合う。「あれは、それ以前でも以後でもダメで、タイミングというか、勢いというか、何かがあった」ってね……その何かが、本作では「リンゴが落ちる」になる。くり返し出てくるリンゴのモチーフは、上の台詞と、知ってしまった故の恋の痛みとともに響く。告白しなければ、ずっと万有引力の法則に則って、たまこのまわりを周回する、『たまこマーケット』のもち蔵のままだっただろう。

 しかし、人は変わる。あれから1年経ったら、1歳トシをとるということ。高校三年生になって、それぞれの進路を決めるということ。進学、就職、留学……背中を押してもらったり、勇気を持って一歩踏み出したり。変わってしまうのが怖い=知ってしまうのが怖いことは、知の果実を味わうことと一緒なり。

 それでも、変わらない「好き」がある。この映画には三つの「好き」がある。最初の二つは、ど真ん中でど直球のラブストーリーだから、ある意味安心して(?)気持ちを託すことができる。けれども、三つ目の彼女の「好き」は痛い、辛い、見えにくい。二回目に観たとき、彼女の視線に同期してしまい困った、映画館じゃなかったらのたうち回っているか、一緒に叫んでいただろう。

 ラストシーンは当然として、途中で刺さる場面があるので困る。思い出が襲いかかってくるタイミングの唐突さ加減が絶妙で、ほとんど反則だ。オートリバースのB面(古ッ)の件なんて、完全に油断しててタオルが間に合わなかった。「好き」の引き換えだな。人を好きになるということは、うつろう存在に自分の気持ちを渡すこと。大人になってずいぶん経つが、わたしにはその覚悟があるのだろうか。

 大人になるとはこういうこと。おかげでいい記憶ができた。死ぬときはこれを思い出して逝くつもり。

 おまけ。新宿ピカデリーで観るのなら、入口のオブジェで驚いた後、エスカレーター登った上からもち蔵を確認しておくこと。

Tamako

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