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女は尻だ。異論は認めない『FRaU 2014/3』

 女は尻だ。異論は認めない。
 女は尻だ。異論は認めない。

FRaU すべては尻であり、尻にある。美しさ、強さ、優しさを兼ね備えた、あらゆる魅力と本質の表象であり、かつ全人類の故郷であり桃源郷であり、世界でいちばん穏やかで不滅で争いのない場所である。君に、おっぱい山頂への征服欲があることは理解できる。だが、そこは四足から二足へ移行する際、成熟のバロメーターとして採用された代替品だ。山頂を踏破したら清水で潤すべく、谷へ降り蟻の門渡りを目指せ。お尻を賛美することは、おっぱいを否定することにならない(逆もまた然り)。

 この真理に全力を注いでいるのが、『FRaU』3月号だ。「おしりは女のバロメーター!おしりが上がると人生が上がる!」とばかりに、みんなの大好きな魅惑のお尻たちをビシバシ紹介する。尻爛漫の春なのだ。それだけでなく、お尻はダイエットの勘所であり、美尻を目指すトレーニングがキレイにも痩せにもつながることを力説する。

 ラメで彩られたラティーナの「誘うおしり」には、はちきれんばかりの生命力が詰まっている。ボリュームあるヒップは人生を自ら切り開く逞しさに満ちあふれている。年収10億円を叩き出すヴィクトリアズシークレットエンジェルズの「稼ぐおしり」はぷりぷりっとした香しい果実そのものだが、過酷なダイエットとの等価交換だという。

 アスリートのお尻も凄い。浅田真央やキム・ヨナのきゅっと締まった「躍動するおしり」に、ストイックに鍛えた神々しさを垣間見る。そして、マッチョで引き締まったシャラポワの「闘うおしり」は、完全美とは何たるかという命題に対する一つの具体的な解であろう。

 さらに、大屋夏南の360°美尻が加速する。単にどこから観ても凄いお尻を披露するだけでなく、どうやったらそんなヒップになるのか、ランジェリーからボディオイル、朝ご飯からワークアウトまで一挙公開している。炭水化物とお通じとストレッチの賜物なのだ、この尻は。他にも、菜々緖、TOMOMI、秋山莉奈といった“ビジリスト”たちのご自慢ヒップの秘訣を披露する。「美尻は美脚に通じる」けだし名言なり。魅惑のお尻に陶酔せよ。

 しかし、酔ってばかりもいられない。偽乳ならぬ偽尻を実現するリーサルウェポンも紹介されている。いわゆる補整下着だ。薄手で伸びが良く、アウターに響かないガードルをショーツとして使いなさいと提言する。メリハリをつけ、スタイリッシュなお尻を実現するガードルが実用例と共に示されると、騙されたままの方が幸せなのかもしれないと思えてくる。美尻とは鑑賞するべき存在であり、干渉するべきではないのだ。オシリスキーどもはこれで研鑽せよ。

 お尻といえばotsuneである。別におおつね氏が尻を晒しているのではなく、otsune.tumblrの尻画像が見事なのだ。世の中には尻愛好家が実に沢山いるのだが、中でも彼がrblgする画像は群を抜いて洗練されている。数ではなく、質なのだ。質だけでなく、美なのだという気迫が透けて見える(私的にはもっと生々しいのが良いのだが…)。

FRaU また、すべてのオシリーナ愛好家のために『HIPS 球体抄』をオススメする。やわらかな午後の日差しで、伴田良輔が撮った、極上の果実たち。暗がりに沈めた白磁が丸みと白みをもたらし、うっすら霞がかった産毛がエキゾチックな匂いを放つ。光と、お尻と、わたしだけの世界に遊ぶ。

 よく観察すると、完璧と思われる曲線美に、尾てい骨のふくらみや、ほくろ・ニキビ跡がアクセントを添えている。鳥肌のみずみずしい質感の柔らかさを証明するかのように、パンスト、ジーンズが響いた跡は、そこはかとないエロスを醸しだす。性的な色合いを外すため、わかめやひじきを処理し、お尻そのものの完全性を追及する姿勢は大いに評価したい。

 同時にここは、わたしの還る場所なのだという思いに駆られる。生まれた河を俎上する鮭のように、わたしは尻を目指す。「釈迦も達磨もひょいひょいと産む」世界の入り口でもあると同時に出口にもなっているワンダーランド、そこが尻だ。つるんとしたお尻に顔を乗っけてまったりすることこそ、人生の至福である。この満ち足りた気分のまま、お尻のあいだに埋め殺して欲しい。腹上死ではなく、尻下死。この上なく安らかな死顔になると確信する。

 お尻が美しいのは、中に海を湛えているから。ある王子さまが言った「砂漠が美しいのは、どこかに井戸が隠れているからさ」、これと同じだ。大切なものは目には見えない。大事なことだから、何度も言うよ、残さず言うよ、尻を愛してる。say hip 迷わずにー

 say butt.

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人類は飛行をどのように理解したか『飛行機技術の歴史』『飛行機物語』

 最近知って、驚いた事実。

“オーヴィル・ライト(ライト兄弟の弟)が死んだとき、ニール・アームストロング(月面着陸した人類初の宇宙飛行士)は、すでに17歳だった”

 ライトフライヤーからアポロ11号まで、飛行技術の革新性は、スピードというより跳躍だ。だが、この時代だけが凄いのではない。「飛ぶとは何か」は、常に想像され、試され、実証されてきた。「飛行機は、なぜ飛べるのか」をトートロジーに陥らずに振り返ると、人類が飛行を理解した歴史になる。

飛行機技術の歴史 『飛行機技術の歴史』は、ライトフライヤー以前と以後の二つに分けている。前者は、ダ・ヴィンチの羽ばたき機から始まって、ニュートンの科学革命、空中蒸気車、グライダーの試行錯誤とデータの積み重ねの歴史になる。「なぜ飛べるのか」に対し、具体的に跳ぼうとした人々のドラマが描かれている。ライト兄弟は、こうした既存技術を適用した結果に過ぎないという。もちろん飛行制御を考慮した設計は特筆すべきだが、飛行技術への新たな貢献は修辞的な意味しかないというのだ。

 ライトフライヤー以後は、戦争道具としての歴史になる。もちろん、見世物としての曲芸飛行や旅客機による大量輸送も出てくるが、あくまでも戦略・戦術兵器としての役割が、その開発を推し進めたことは否定できない。フランスのSPAD複葉機からロッキードのステルス戦闘機まで、大量にある図版、写真の大部分は戦うための道具を示している。だがどうだろう、モノコックのずんぐりした流線型や、ジェラルミンで覆われた爆撃機を眺めていると、そこにある種の必然的な美しさを見ることができる。棍棒が日本刀になる過程を目の当たりにしているような気分になる。

 外見の変遷だけでなく、木や皮から鉄やジェラルミン、チタンといった素材の変化、プロペラからジェットエンジンへの推進技術の移り変わりは、それぞれのターニングポイントとなった事故、実験、人物に焦点が当てられている。構成物の信頼性や音速の壁という課題を解決するため、飛行機をリデザインしていく様は、「飛行」への理解を深めるというよりも、むしろ「飛行」そのものを再定義してきた歴史になる。

 著者の専門である空気力学からのアプローチが興味深い。飛行中の翼に“まとわりつく”空気を説明する境界層概念が面白かった。断面図から観察すると、翼が“粘りながら”進む様子が分かる。逆に、迎え角が大きすぎた場合の失速時は、この粘り気が翼から離れてしまっていることも見えてくる。揚力の概念は想像できるが、空気の粘性という発想は目鱗だった。音速に近づくにつれ、空気の振る舞いはドラスティックに変化する。揚力を得るための味方だった空気が、文字通り壁になる。空気力学、推進工学、構造力学、材料工学にとって、このブレイクスルーは、最初の飛翔に匹敵するくらいの革新性を持つという。

 航空技術の歴史を俯瞰したものだが、トリビアもてんこ盛りとなっている。最新鋭戦闘機の主翼を構成する炭素繊維複合材料は、東レ、帝人、三菱ケミカルの3社が世界市場の70%を占めているという。日本企業なかりせば、戦闘機が飛べないというのも歴史の皮肉だ。また、アルフォンス・ペノーが1876年に出願した大型飛行機の特許図が、どう見ても『未来少年コナン』のギガンドだったり、1925年に行われたスピードレースの優勝機・カーチスR3C-2が『紅の豚』を彷彿としてしまうなど、記憶の別のスイッチが刺激されて愉快だ。

飛行機物語 『飛行機物語』は、「飛ぶ」原理の観点から、飛行機が作り上げられる科学と技術の歴史をまとめている。揚力の問題を手始めに、「エンジンはどのように開発されたのか」「飛行機はいつから金属製に変わったのか「ジェット・エンジンはどのように生まれたのか」といったテーマに対し、飛行機の発展を時系列に解説する。「飛行機とは、飛ぶ機械であるもの」ことを当たり前のように受け入れてしまっているが、この100年間は、飛行機を飛行機たらしめるために湧き出る問題と解決の歴史であることが分かる。

 もちろん本書でもライト兄弟に紙数を割いているが、目を引いたのは図書館(博物館)の存在だ。ウィルバー・ライトは、スミソニアン協会に手紙を書き、航空に関する資料を送ってもらうよう依頼した。ラングレー『空気力学の実験』(1891)、シャヌート『飛行器機の進歩』(1894)、リリエンタール『飛行の問題と飛行に関する実用的実験』が送られたという。これらの資料を検討することで、ライト兄弟は当時の航空工学の全容を知ることができたのだ。航空技術の知識や実験データが、共有できる形でまとめられていたことは大きい。データに誤りがあり、自分で追試することもあったが、こうした「まとめ」があったからこそ、膨大な時間と危険とコストを回避し、最終的に飛ぶことに至ったのだ。

 「飛ぶ」メカニズムの解説が興味深い。ニュートンやベルヌーイ、オイラーの数式を単純に紹介するだけでなく、現実に当てはめてゆくことで、「飛ぶ」実感レベルにまで落とし込んでくれる(空気の“重さ”を実感させる件もある)。グライダーの揚力と抵抗の比(揚抗比)と経路角の関係や、構成材料の座屈現象の解析する数式、さらに非粘性流体の方程式を見ていると、飛行を支えている数学が見えてくる。まさに、飛行機は数学で飛んでいるのだ

 日本の視点があるのも嬉しい。明治時代に飛行機の原理を研究し、独自の構想で「飛行器」を考案した奇才・二宮忠八の生涯が面白い。そのアイデアの素晴らしさに反比例した上長の頭の堅さに憤ることだろう。また、第二次世界大戦中、ドイツから送られてきた1枚の断面図から、日本初のジェットエンジン「ネ20」を開発し、ジェット機「橘花」の初飛行に成功したエピソードはプロジェクトほにゃららを観ているようだ。日本人は、制約が課せられるほど変態的な能力を発揮することがよく分かる。

 huyukiitoichiさんがズバリ、「飛行機を創りあげる歴史は飛行機が飛ぶ理屈をひとつひとつ探り当てる歴史でもある」と言い切る(言い得て妙!)。翼の形態、機体の素材と構造、推進機構のそれぞれの「理屈」を知的興奮と共に追体験すべし。

 歴史を振り返ることで、飛行を理解するための二冊。

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読みだせば、徹夜を覚悟するだろう『ゴーン・ガール』

 厭ミス=厭なミステリの金字塔。

 テーマは「結婚」。夫婦が、男と女が、ほんとうにわかり合うということは、どういうことか、震えるほどの恐怖と迫力で伝わってくる。虚栄、欺瞞、嫉妬、支配、背信、復讐、嘘、嘘そして嘘……男女にまつわる、ありとあらゆるマイナスの感情を、こころゆくまで堪能できる。「夫婦あるある」すれ違いだと思っていたら、物語のフルスイングに脳天直撃される(しかも、二度も三度も)。

ゴーン・ガール上ゴーン・ガール下

 小説としては典型的な、「信頼できない語り手」で紡がれる。妻の日記と、夫の独白が交互に重なるのだが、どうもおかしい。「ある日突然、妻が失踪する」のだが、妙に冷静で何かを隠しているような夫ニックも、その日に至るまでのナルシズムまみれの妻エイミー日記も違和感を抱かせる。じわじわ不審感が増してくる、この誘導の仕方が抜群に上手いのだ。肘まで腕を差し込んだ腹の探り合いは、気持ち悪さとともに、自分とパートナーの不協和音を増幅させられているようで不愉快になることこの上なし。

 ジェットコースターの頂上、疑惑が暴かれる瞬間、思わず声に出した、「嘘だッ!嘘だッ!嘘だッ!」。そこから先は坂を転げ落ちるように一直線に真っ逆さまに。しかも、その直線上に剃刀やら爆発物が埋めこまれていて、読み手に、登場人物に、物語そのものに衝撃を与える。失踪事件を胸くそ悪いエンタメに仕立て上げるジャーナリズムに反吐が出ると共に、女の愚かしさを徹底的にえぐり出す描写に嫌気が差すし、信じがたいほどバカである男のいやらしさにウンザリさせられる。

 それでもページを繰る手が止まらない(むしろスピードアップする)のは、地獄の先が知りたいから。ただではすまないことは分かってる。こわいもの見たさ、禍々しいものに触れてみたさが読む動機となる。あらゆる予想を裏切ったナナメ上の展開は、ぜひご自身の目で確かめ、驚くべし。

 夫婦をテーマにしたミステリの傑作といえばスコット・トゥロー『推定無罪』を推す。ある女性検事補が絞殺された。捜査を指揮することになった検事「わたし」には秘密があった───彼女と不倫関係があるという秘密が。そして、犯行現場からわたしの指紋が発見され……第一級容疑者を一人称にした構成に、読み手はどこまで「わたし」を信じればいいか、大いに悩み、惑うだろう。

推定無罪上推定無罪下

 二重底三重底のプロットに、文字通り呼吸するのも忘れて読みふけろ。『ゴーン・ガール』は本書への目配せとして、“薪小屋”を登場させている。ちなみに、「読み始めれば、徹夜を覚悟するだろう」は『推定無罪』のオビのセリフ。この惹句に半信半疑で手にとって、ホントに徹夜になったことを告白しておく。こちらも、ぜひお確かめあれ。

ローズ・マダー 『ゴーン・ガール』は、スティーヴン・キング絶賛と謳われている。気軽に「絶賛」を連発するキングだが、これは掛け値なし。なぜなら、夫婦の強烈な愛憎劇を描いた『ローズ・マダー』を彷彿とさせるから。「このままでは殺される……!」夫の暴力から逃げ出し、自立を求める妻。執拗に妻を追いかける異常性格者であり、優秀な刑事でもある夫。キングには珍しくスピード感のある展開と、滲み出る狂気の逸脱っぷりは、『ゴーン・ガール』のニックにつながる。読むと間違いなく胸クソ悪くなるのでオススメ。

 これらを読むと、結婚とは一種の殺し合いにすぎないことが分かる。理想の自分だったり、自我そのものであったり、価値観の破壊し合いだったり、ともすると互いの命の奪い合いに至ることもある。もちろん極論なのだが、あらゆる結婚をドラマティックに拡大すると、こうなる。

 そして、夫婦愛とは自己愛の一種だと理解できるなら、結婚には、自己を肯定してくれる相手のための演技が必要となる。多かれ少なかれ、意識無意識にかかわらず、夫婦は互いにこれを演る。

 結婚は、相手の瞳の中に自分を見る合わせ鏡のようなもの。ただこの鏡、屈折率が変わっていて、「自分の見たくない姿」を拡大してくれる。本書の夫婦は無間地獄だ。『ゴーン・ガール』のニックは、わたしの最も厭な部分を極大化してくれる。エイミーは、わたしの妻の邪悪な部分をおぞましく見せつけてくれる。噂の怪物を見に行ったら巨大な鏡がありました、というやつ。そのおかげで、妻にもっと優しく接するように相成った。妻の幸せこそが、わたしの幸せであり、彼女が良ければそれでいい、そういう境地に達することができた。

 結婚とは、殺し合いであることが、骨身に染みる傑作。

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池澤夏樹が選ぶ世界文学10作品『世界文学を読みほどく』

世界文学を読みほどく ネットのおかげで人生のネタバレが捗ったように、本書のおかげで文学のネタバレが進んだ。

 借金で詰んだ人生とか、仮想敵に依存したフェミニストとか、自分で体験することなくセミリアルタイムで眺められるネット万歳。同様に、自分で苦心して読むことなく世界文学の10作品を俯瞰できる。高尚化してた文学を下品なメロドラマに堕としたり、世界を束ねる“データ・ベース”に喩えたり、やっぱりフォークナーは「あらすじ」に圧縮できないなと納得する。この一冊だけで、読んでいない本について堂々と語ることができるだろう。

 ラインナップは次の通り。

   スタンダール『パルムの僧院』
   ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
   トルストイ『アンナ・カレーニナ』
   トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』
   メルヴィル『白鯨』
   マン『魔の山』
   ジョイス『ユリシーズ』
   フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
   ガルシア=マルケス『百年の孤独』
   ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

 作品世界への誘い方が魅力的だ。たとえば文学のラスボスと称される『カラマーゾフの兄弟』。人間の情熱・理性・信仰を三兄弟がそれぞれ体現しており、ありとあらゆる理屈、議論、思惑と主張が並んでいるという。そして、最後まで丁寧に読み終わると、「そうか、人間っていうのはこういうものなのか」と、希望と絶望の両方がちゃんと伝わるような仕掛けになっているという。「生きているということを徹底的に味わいつくす」―――読み始める前に、この件を知っているのといないのとでは、かなり果実が違ってくる。

 あるいは、『百年の孤独』の喩えが素晴らしい。同名別キャラを乱立させたり、時の流れに強弱つけたり、マトリョーシカのような入れ子構造になっているのを、フラクタルな構造で解き明かす。まず、多岐に渡るプロットを、繁茂する木々というイメージで捉える。そして、からみあう枝と葉と蔓の間に隠されている創作の意図を指摘する。全体は細部を模倣し、細部はまたさらに細かな部分をなぞる。幹が枝ぶりを、枝は葉のつき方を、葉のつき方は葉脈の模様をなぞるような反復的模倣をしているというのだ。驚いたことに、からみあう枝・葉・蔓を解いた、年表、系図、プロット読解ノートが巻末にある(物語の森に迷い込んで現実を見失う歓びが愉しみの一つなので、初読の方は参照しないほうが吉)。

 小説とは、その時代、その国、その言葉の人々の世界観の一つの表明であるという仮説を立て、スタンダールからピンチョンまで、19世紀前半から20世紀後半までの10作品を通じ、その変遷をたどる。文学は国境や言語・民族を超えて普遍性を持ちうるという思想に基づき、その背後に人には騙されたいという欲求があると語る。すなわち、混沌とした事象のなかに何かストーリー性を見いだしたい、無意味なパターンのなかに脈絡を見つけたいという、本能的な欲求があるという。さすが読み巧者、ただ10作品の紹介に留まらず、より大きな枠で「人」を見ようとしている。

 注意したいのは、池澤夏樹の「読み」であること。2003年に行われた、京大の特別講義であるところ。口述による氏一流の“世界感”がたっぷりまぶされていて、鼻につくかも。『アンナ・カレーニナ』は低レベルのメロドラマで、三島由紀夫と同様、合わないのは読まないに越した事はないという(コーヒー噴いた/拭いた)。どうやら、もう一人の主人公が見えてないようなので、分かりやすい筋だけを追う中坊読書の記憶が一生ついてまわる好例だね。そんなにトルストイ嫌いなら、ナボコフでもカフカでもディケンズでもあろうに。むしろ、そうしなかった理由が知りたい。

 ともあれ、これだけの作品を、一日一冊のペースでまとめ、紹介し、解き明かすのは並大抵のものではない。時代や国境を越えた普遍性を見出したいという衝動と、世界は無秩序なものになりつつあるという認識のせめぎあいを、世界文学を通じて感じとる。

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辛い日常に効く『見上げれば星は天に満ちて』

見上げれば星は天に満ちて 浅田次郎が選んだ、ぜんぶ「あたり」のアンソロジー。心がへこたれたとき、一編二編と読んで蓄熱したい。

 リアルが辛いときには、そこから少し離れてみる。わが身をもって得たコツだが、これがなかなか難しい。ともすると濁った感情やぐるぐる思考にロックインされ、「そこ」から離れることすら思い至らない。そんなとき効くのが短編、しかも極上のやつ。

 なにしろ、森鴎外や井上靖、谷崎潤一郎といった達人ばかりなので、一行目から引き込まれる。一頁目に入れたら、あとは安心して委ねていけるクオリティ。リアルを(ちょっとだけ)逸脱できる。しかも、いわゆる文学ブンガクを目指しているのではなく、浅田次郎が「心に深く残った作品」としてエンタメ性の高いものを挙げているので、肩肘張らずに読める。

 知ってたつもりの作家に、こんな珠があったとは……驚くことしきり。もちろんわたしの不勉強なのだが、嬉しい再発見が得られる。川端康成の『死体紹介人』は、読まずに死んだらもったいない。今でいう“ルームシェア”を始めた男女という出だしから、あれよあれよと転々とし、ロマンスがあるようでなく、ないようでエロティックで、そしてタイトルどおり「死」が横たわっている奇妙な作品だ。読んだらきっと、忘れられなくなる物語。芥川龍之介『疑惑』は、文字通り呑み込まれた。アンビバレントな過去の罪に炙られる焦燥感を話者と共有しつつ、「物語の落としどころ」を探りながら読み進める愉しさは格別なり。しかも、こちらの“読み”を、予想どおりに裏切ってくれる(しかも多くを記さない)残心の込められた描写は、ほとんど快感に近い。

 既読の読み直しでも、嬉しい気づきが得られる。小泉八雲『耳なし芳一のはなし』は、三十ウン年ぶりに再読したのだが、これはただでさえ短い上に、極限まで削ぎ落とした作品であることが分かった。腐りやすい形容詞を廃し、ほとんど骨格だけにしてしまったからこそ、全身経文で覆われたイメージや、耳から流れ出る血の粘り気を載せることができる。そして、三十ウン年で知った驚愕の事実がある。芳一は耳を失ったかもしれないが、音を失ってはいなかったこと(あの翌朝、住職の声に応えている)。「盲目の上に耳まで聞こえなくなってかわいそう」と、わたしが勝手に思い込んでいたのだ。

 ラインナップは以下の通り。既読から推して分かるだろうが、ぜんぶ「あたり」だ。読めば惹き込まれる、だが元気やチカラを与えてくれるような作品ではない。日常の苦しみをしばし忘れさせるくらい面白く、ヘタった心が回復するまで猶予を与えてくれる、そんな傑作ばかりの一冊。

  『百物語』  森鴎外
  『秘密』  谷崎潤一郎
  『疑惑』  芥川龍之介
  『死体紹介人』  川端康成
  『山月記』  中島敦
  『狐憑』  中島敦
  『ひとごろし』  山本周五郎
  『青梅雨』  永井龍男
  『補陀落渡海記』井上靖
  『西郷札』  松本清張
  『赤い駱駝』  梅崎春生
  『手』  立原正秋
  『耳なし芳一のはなし』  小泉八雲

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琴線・涙腺・カウパー腺を震わせる『最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。』

最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。 久しぶりに正座してアニメ観てる。これは、現代によみがえった『おじゃまユーレイくん』である。

 どうせ深夜のエロコメディーと多寡くくっていたら、度肝を抜かれた。保健室での四つんばい放尿⇒お兄ちゃんに目撃されるとか、どう見ても女の子同士で性交しているとしか思えないシーンとか、我慢に我慢を重ねギリギリ漏れそう⇒間に合って排尿する恍惚顔とか、レッドラインを易々と踏み越えている。

 そして、妹の羞恥心への一撃一撃が、こっちのカウパー腺に響きまくる。とり憑いた幽霊娘に貞操帯を強制着用させられ、トイレすらままならぬとはけしからん。どうやら頻尿の気があるようだが、大はどうするのだ大は!想像するにしたがって、いても立っても勃ったままになる。幽霊を成仏させるためにお兄ちゃんとイチャラブしないと私も死んじゃう!という設定はどこかで聞いたようなものの、敏感すぎる性感がもたらすハプニングは、毎回毎回ハラハラさせられっぱなし。

 血のつながらない、突然できた妹と二人暮らしの「家族」をすることで、「家族とは何か」、「妹が“好き”とはどういうことか?」というシリアスでギリギリの問いかけが突きつけられる。めまぐるしい展開の中、このキモを旨く物語に落とし込んでおり、いちいちしんみりさせられる。おかげで涙腺ゆるみっぱなし。そうだね、愛とは尽きぬ優しさやね。

 強引すぎる設定や、オマージュ丸だしの伏線は、『Kanon』や『みずいろ』といった号泣したギャルゲを思い出していたたまれなくなる。おっさんゴコロをくすぐるためか、『ななこSOS』だとか『ハートキャッチいずみちゃん』とか『Oh!透明人間』といった懐かしネタをサブタイトルに持ってくる。お約束の展開と収束は、何を見てもノスタルジックに湧き出てくる。過去は、思い出したときにだけ現実化する

 ちと怖いのが、今後の展開。「家族として親しくなるv.s.異性として好きになってしまう」相克は、ドラマチックにラストを盛り上げる規定路線だろうけど、若松みゆきや野々村亜美にはならないと踏んでる。問題はその後、このまま『おじゃまユーレイくん』展開なら、当然のことながら、妹のようすは、もっとおかしくなる。それは決して、「めでたしめでたし」ではないのだから。

 真面目に下品を追求すると、愛のありかが見えてくる傑作。


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『科学革命の構造』はスゴ本

科学革命の構造 科学の大発見をしたときの最初の言葉は、「エウレカ!(見つけたぞ)」ではなく、「こりゃおかしい」だ。なぜなら、「正しい」フレームワークがあってこそ、そこから逸脱していることが分かるから。この「正しい」とされるフレームワークが、パラダイムだ。

 これは、「科学とは何か」について本質的なところで答えた名著。科学における「進歩」について新たな見方をもうけ、コペルニクスやニュートン、アインシュタインが人類にもたらした「知」を問い直す。ただし、科学を純朴に信仰する人にとっては劇薬級だろう(あるいは、いちゃもんつけて理解を拒むかもしれぬ)。なぜなら、何か統一理論みたいなものがあって、そこへ連続的に進化していくような「科学」について、疑問を投げかけ、揺さぶってくるから。読書猿さんの強力なリスト「何を読もうか迷った時のために→Googleが選ぶ世界の名著120冊(2013年版)」でトップにあるのも分かる。科学教の信仰者は、盤石だと信じていた地面が実は動いていたというヴェゲナー的コペルニクス的感覚に目眩するだろう。

 パラダイムとは、「教科書」だと考えればいい。人は、まっさらの状態から「科学」を始めるわけではない。教科書を読み、実験道具の原理と使い方を学び、演習を解くことで、理解を深める。そこで示される「知」は、確定されたお仕着せの鋳型のようなものだ。そこに嵌まらない自然現象は、見落とされるか、例外として扱われる。教科書と自然現象との間にある、穴やズレを埋めるために、理論や実験方法の適用の仕方が変えられたり、一部が改変されたりする。

 著者トマス・クーンはこれを通常科学と呼び、パズル解きになぞらえる。パズルには、既成概念としてのルールがあり、解答が存在する。名声や金銭といったインセンティブ以上に、科学者を動かしているのは、このパズル解きの知的興奮なのだ。

 ところが、研究が進むにつれ、例外が見過ごせなくなる。ある天体の動きが他と異なり、まるで惑っているかのように観測される。いかなる実験でもエーテルの風を検出することはできなかった。確立された理論と整合しない事態が増えるに従って、いまの教科書から離れた、新しい説を構築することが試みられる。成立当初は異端視されるものの、教科書と例外の両方を上手く説明できると認められると、異端が「通常」に取って代わる。パラダイム・シフトだ。

 本書ではこれを、反転レンズのメガネを用いたゲシュタルト実験で説明する。反転した世界は、方向感覚を失って危険な状態になるが、馴れてくるとメガネを掛ける前のように見えるという。比喩としても、文字通りにも、知覚の革命的転換を行ったのである。著者が知ってたかどうか分からないが、その喩えは、クーンの誕生年に没したプルーストの方が的確だ。

本当の旅の発見は新しい風景をみることではなく、新しい目をもつことにある

 旅から戻ってきたとき、出発前までの日常が相対化され、まるで異なったものになる。それは、日常生活が変わったのではなく、それを見る自分が変わったのだ。プルーストのいう「新しい目」が、価値観の転換を意味するのなら、わざわざ遠方に出向くことなく、見慣れた生活なかでも旅は可能になる。この、新しい目を手に入れることで、いつもの光景が全く違って「見える」のだ。

 大いに刺激を受けたのは、随所にヴィトゲンシュタインの影響が見えるところ。言語ゲームを通じて、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」を人類全体に適用したのがヴィトゲンシュタイン。この「そう」に当たる所に直接関与したり、表現するルールや一般化に関係できないとクーンが言い切る件には百回膝を打った。その理論を「そう思う」人が多数だからこそ、パラダイムたりうる。そして、そのルールは、ゲームを通じてでないと修得することができない。言語の限界が世界の限界であるように、パラダイムの限界が科学の限界なのだろう。

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宿題を終わらせる『論理哲学論考』

論理哲学論考 ようやく読めた。岩波青で適わなかった宿題が、やっとできた。新訳はとても読みやすく、かつ、驚くだろうが理に適ったことに、横組みなのだ。

 そもそもこれは、どういう本なのか、なぜこれが20世紀最大の哲学書なのか、そして、ずっとたどり着けなかったラストが、なぜ「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」で終わっているのかが、わかった。わたしが難しく考えすぎていたんだ。

 これは、数学なんだ。

 哲学的なことについて書かれてきたことの大部分は、意味がないという。なぜなら、「哲学的なことについて書かれてきたこと」は、言語を使っているから。プラトン以来、西洋哲学の歴史は、言語の論理を理解していないことによるナンセンスな言説の積み重ねなんだと。なぜなら、「言語の論理を日常生活から直接引き出すことは、人間にはできない(No.4.002)」から。

 このあたりの説明は、本書の冒頭にある野家啓一「高校生のための『論考』出前講義」が分かりやすい。同じ言葉なのに、複数の意味が重ねられたり、異なる様式で用いられることが、日常言語の不備と欠陥だと教えてくれる。例えば、「あおい」という言葉一つとっても、「青い(blue)」、「葵(hollyhockもしくは人名)」、「未熟な」、といった意味をまとっている。「青春」や「(信号の)みどり」など、名詞にも形容詞にも用いられる。

 これを克服して、問題をクリアにすることが、哲学の目的になるという。「語りえること」を、語れる内側から明確化するのだ。なにか難解で深遠そうな哲学的命題をひねり出すことではなく、むしろ哲学的命題に潜んでいる言語の論理への誤解を明るみに出し、言語批判を通じて問題そのものをクリアにすること、すなわち「活動」こそが哲学だというのだ。

 そして、日常言語からくる混同を回避するために、厳密に論理的なシンタックスに則った記号言語を構築する必要があるといい、実際にそれを成し遂げたのが本書になる。論理的な人工言語(似て非なる記号が出てくるので要注意)を用いて、哲学のするべきことは、考えることのできるものの境界を決めると同時に、考えることのできないものの境界に線引きをする。

 正直なところ、この論理的シンタックスの本質的な部分は難しかった……というより、理解できなかった。ヴィトゲンシュタインは、一歩一歩積み立てては説明してくれるのだが、わたしのアタマで追いつけない。これは、オイラーの公式に取り組んだときと一緒。「ああ、たぶんそんな意味なんだろうな……」と読み流して、自力で解こうとしなかった(できなかった)。吉田武『オイラーの贈物』を読んで理解できる人なら、イケるのではないかと思う。学問のOSである論理学、この辺りは戸田山和久『論理学をつくる』から攻めるつもり。

 長年の宿題に決着をつけ、こじらせていた中二病にトドメを刺したのはいいが、なにか釈然としない感覚が残る。気のおけないメンツが集まって、「生きるとは?」とか「善とは何か?」など、形而上学的な話題について、ああでもない、こうでもないと語り合っていたら、秀才が現れて、つまりこれこれこうですよ、証明終わり、といわれた感じなのだ。反論したら、「それは定義でそうなっているから」といちいち返される。ロジックは(たぶん)完璧に合っているけれど、何か近寄りがたいものを感じる。

哲学探究 本書は、完璧な結晶でできた建造物のように、外から鑑賞する分にはいいかもしれないが、中をを歩き回って住むには難しいかもしれない。ヴィトゲンシュタインも薄々分かっていたようで、30年後に世に出る本の中で、「私たちはアイスバーンに入ってしまった。摩擦がないので、ある意味で条件は理想的だが、しかしだからこそ歩くことができない」と述べる。そして、「私たちは歩きたい。そのためには摩擦が必要だ。ざらざらした地面に戻ろう!」と宣言する(No.107)。自らの哲学を日常言語の働きの理解に向かって引き戻そうとする。それが、『哲学探究』だ。嬉しいことに、『論考』よりも面白く、近く、ユニークで、そして「わかる」(ヒリヒリするほどに)。

 嬉しいのか残念なのか、中二病は治りそうもない。


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人生は顔に出る、隠すか見ないかは自由だが『ドリアン・グレイの肖像』

ドリアン・グレイの肖像 あなたなら、鏡の中に何を見るか、という寓話。

 くたびれたオッサンがそこに映っているが、それはホントのわたしじゃない。鏡を覗き込むとき、大なり小なり、そこに映っているものを予想して“構えて”いるから。

 そこには、tumblrからの、かなり悪趣味な画像に歪めた唇や、暗がりで妻にのしかかるときの情欲に輝く目は、映っていない。暗転した画面や、姿見に映り込んだ“わたし”を見て、ぎょっとすることがある。わたしは、わたしの素の顔を、見ることはできないのだ。

 「性格は顔に出る、生活は体型に出る、落ち着きのなさは足に出る」というが、むしろ、顔や体に出ているのは、わたしの過去だ。どのように生きてきたかを積分したものが、素のわたし。そしてそれは、見たくない過去を隠すように巧妙に隠されている。これを「肖像画」に投影したのが本書になる。

 若く美しく純真な青年が、わるいオッサンにそそのかされ、快楽と背徳に堕ちてゆく。年齢と悪徳を重ねているにもかかわらず、美青年のまま。その代わり、青年をモデルにした肖像画だけが醜く変貌していく……というミステリは、(オチは予想できても)物語として充分おもしろい。

 芸術と現実という二項対立や、リアルと虚構、健常と倒錯といった観点からだと解きやすい。折々に出てくる花や香りに擬えた、デカダンスの受胎と出産の隠喩として読むのも良い(もちろんドリアンがネコ、ヘンリー卿がタチ)。快楽の名の下に、どれだけ悪行に手を染めてきたかは直裁的に書かれず、刻々と変化していく肖像画の堕落ぶりで見せつけてくれる。そのおぞましい描き方の書き方は見事としか言いようのない。

 むしろ、導き役、わるいオッサンであるヘンリー卿のほうが気がかりだ。著者オスカー・ワイルドの代わりに、アメリカと女にまつわるアフォリズムで会話を埋め尽くす。

  • 「そもそも結婚などやめておけ、ドリアン。男は疲れたから結婚する。女は好奇心から結婚する。そして両方ともがっかりするんだ」
  • 「一生に一度しか恋をしない人間こそ浅はかなんだよ。彼らが忠実とか貞節とか呼んでいるものは、習慣による惰性か想像力の欠如だ」
  • 「子どもは誰しもはじめは親を愛する。そして成長と共に親を裁くようになる。やがて親を許すこともあるが」
  • 「女というものはすばらしく現実的だな(中略)男よりはるかに現実的だ。そういう状況では、男は結婚のことなど忘れてしまいがちだが、必ず女が思い出させてくれる」
  • 「残念ながら女というものは残酷さ。ストレートな残酷さをありがたがるものだよ。すばらしく原始的な本能があるんだな。我々が解放してやったのに、女たちはいまだに何も変わらず主人を探している奴隷なのだ。女は支配されるのが好きなんだ」

 中途半端に生真面目で小心者のドリアンよりも、突き抜けて達観したオスカー卿の方が笑える。エデンの蛇のように、ドリアンの好奇心を惹いた後、彼と共に耽美を求めつつ、彼の人生そのものを自分の作品とする。

 おまえの方がよっぽど不道徳だよとつぶやきつつ、オスカー卿の「鏡」はどうなっているだろうと心配になる。鏡を覗くとき、自分を欺いていることくらい承知しているはずなのに、ドリアンの「肖像画」に相当するものを持っているのだろうか?彼の不品行はどこに顕われているのだろうか?考えるほど黒く愉快になる。まるで、わたしが自分の本当の姿を鏡に見つけることができないように、彼も偶然映りこんだ自画像を見てぎょっとするのだろうか、とね。


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