« 2013年2月3日 - 2013年2月9日 | トップページ | 2013年2月17日 - 2013年2月23日 »

『2666』はスゴ本

2666 すごい経験をした、「面白い」を突き抜けている。

 一番大切なものは、隠されている。それが何か、読めばわかるのだが、読み終わっても消えてくれない。「余韻が残る」といった可愛らしいものではなく、ずっと頭から離れないのだ、呪いのように。

 モチーフを描いて、背景ともに詳細を語る。その後、モチーフだけ消し去ってしまう。なくなった空間に、視線と伏線がなだれ込む。モチーフのあった場所は消失点となり、その周囲には注釈や言伝が散りばめられる。ボルヘスの『伝奇集』のイントロを思い出す。

長大な作品を物するのは、数分間で語り尽くせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差し出すことだ。
 ボルヘスは提案する、代わりに架空の書物への注釈を付けろと。だが、ロベルト・ボラーニョは、そうしない。八百ページ超、二段組の、ほとんど鈍器のような作品にするのだ。本来は以下の五冊になる作品群が、編者の意向により一つにまとめられている。ボラーニョの遺志とは異なるようだが、非常に助かった。

 1. 批評家たちの部
 2. アマルフィターノの部
 3. フェイトの部
 4. 犯罪の部
 5. アルチンボルディの部

 というのも、それぞれの「部」は、独立しているようでいて、互いに連環し、張り巡らされた伏線が循環しているから。進めるたびに幾度も振り返り、確かめ、かつて通ったところを驚愕しながら読み返し、既視感に苛まれながら再び消失点のピントを合わせる。あたかも巨大な広角レンズで撮ったかのように、被写界深度が奥まで行き届いている。

 いちばん大切なことは、いつまでも書かれないまま、どこまでも読み手を惹いてゆく。この物語を読み解くヒントは、ある画家のエピソードにある。才能により名声を得るが、最後の作品を描いた後、筆を持つほうの手を切り落として、作品の中心に貼り付ける。手を失ったことにより、もう描けないが、その手によって作品は完成するのだ。モチーフは消されたものの、不在そのものが主題なのかも。

 最初は不在の作家を追う話なのが、語り継がれるうちに、行方不明の女の話に、さらに常識はずれの猟奇殺人にまで至る。一見したところ、エピソードのつながりが低いのに、「書かれないこと」を囲むように配置されていることに気づいた瞬間、俄然存在感を帯びてくる。相互参照性が押し出される。ゆるい構成だと多寡みてたら、実は包囲されていた感覚が押し寄せてくる。

 読み手を導くテクニックがまたスゴい。ガルシア・マルケス十八番の、一炊の夢に一族の口伝を遡上させたり、ドストエフスキーそこのけのポリフォーニックな語りを重ねたり、ピンチョンを彷彿とさせるエピソードの入れ子構造を実現させたり、現代に至る小説の成果を存分に味わうことができる。大きな物語から小さなエピソードまで、思い出す作家は多々あれど、似ている作品はなに一つないまま、最後に驚くべき全体像が浮かび上がる。こんなこと、初めての体験だ。

 本から離れると、写真や絵画のように読めるが、本を開いて近づくほど映画的になる。複数のシークエンスをカットして並べた構成は、手練の技そのもの。本や手紙、メールの小道具と、それを読む人、さらにその発信者といった異なる被写体を、オーバーラップさせながらカットバックする進行は映画の技法だ。さらに、緊迫した事件を発生している速度と同じスピードで描写するシーンと、淡々としたインタビューの書き起こしと、簡素なレポートの並べ方が、いやらしいほど絶妙なり。

 なによりも、盛り上がりを盛り上げない態度が潔い。山場をセンセーショナルにしないし、描写密度を上げたりしない。コーヒーを淹れるシーンも、陵辱されて殺害された娘の遺体の描写も、(読み手はびっくり仰天する)謎の種明かしも、著者は同じ濃度で描く。異様で執拗な誘拐殺人(未解決)も、発作的な殺傷事件(すぐ解決)も、同じ質量で書く。モチーフの喪失に気づけば、そこへのアプローチそのものが盛り上がりになるんだといわんばかりだ。

 消失点の向こう側にあるものは、サンタテレサの誘拐殺人事件。ティーンから学生、人妻、売春婦といった若い女が行方不明となり、猟奇的に殺され、遺棄され、発見される様が淡々と、延々と羅列される。これは、シウダー・フアレスで実際に起きた(起きている?)事件を基にしている。小説も現実も、犯人と目される者は捕まり、刑務所へ送られる。

 だが問題はここから、その後も犠牲者は出続けるのだ。模倣犯説や撹乱説が取りざたされるが、殺され・棄てられる女性は増え続け、その数は200人とも300人とも言われている。小説では、怨恨や嫉妬による「ふつうの」殺人も混ざるように並べてあるため、読み手は、「ふつうの」殺人事件と、ソドムの犠牲者の区別がつかなる仕掛けになっている。

 ボラーニョは、この事件そのものを描こうとしたのではない。確かに、犯罪の外観や、肉薄する人や犠牲者の半生も書いたが、その中心――― whydoneit whodoneit ―――は、あなたの目で確かめてほしい。ほのめかしやミスリードにより、あなたはある予想を抱くだろう(おそらくそれは、わたしと同じだ)。だが、それを手繰っていった先は、消失点の向こう側に消えている。この事件を取り巻く人々の連環を書き重ねることで、巨大な喪失を、空白を示そうとしたのかもしれぬ。そこに何を見出すかは、もちろんわたしの勝手なのだが、読む度に変わっていそうで、面白い。外環が緻密で豊饒なほど、中心の真空が磁力を持つ。

 豊饒なる喪失を堪能すべし。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

やっぱり恋が好き『堀さんと宮村くん』

 火傷しても幻滅しても、いくつになっても恋が好き。

 嫁さんにゃ軽くいなされるだけだから、せめてラブコメで補給する。「人を好きになる」というのは、わたしにとっての生きるチカラそのものであり、「その人を好きでいつづける」というのは、そのチカラを費やす能動的な行為(好意?)やね。

 「好き」と言えば簡単なのに、そこをあえて回避させ、それでも惹きあうシチュを捻って捏ねってドラマティックに演出する。ケータイやメールが行き届き、(わたしの時代よりも)障壁が少なくなった今、どういうハードルを設けるか、作家の腕の見せどころが、読者の頬のニヤケどころ。『ハルヒ』や『とらドラ!』や『化物語』好きにオススメしたいのがこれ。

 それは、『堀さんと宮村くん』

読解アヘン

 ニヤニヤが、やめられない、とまらない。かなりの中毒性を持つ。注意書きにもあるとおり、「色々な友情・恋愛の形」が楽しめる。「気になる」→「好きだ」→「離さない」という三段活用で、性格も外見も変わってゆく(というか、顕になってゆく)過程が面白い。自分を隠したい気持ちと、好きになった相手に伝えたい欲求の狭間にもみくちゃにされるがいい。

 要注意なとこもある。高校生の生活を描いた、一見たあいもない日常と思いきや、ストレートじゃなかったり、病んでたり、暗かったりする地雷つき。いわゆる日常系の、きゃっきゃうふふではないのだ。特に「※」で警告される鬱展開は読まないほうが吉(本編にさしつかえなし)。イマドキの高校生(?)のヤることヤってる感は、見なくてもいいものを見てしまったような後ろめたい気持ちになる。

 もちろんこれはノスタルジー、だけど、わたしにとっては無かった過去を懐古するファンタジー。なぜなら、“そういう話”は全然なく、あったとしても気づいたのはずっと後の祭りだったから。感度が低くてニブチンのまま学生を終える典型やね。たまこマーケットつまらんという感度では、高校たのしめないだろうな。

 ええトシこいたオッサンにとって、アニメやラノベの高校生は、ファンタジーそのもの。たとえニャル子や蟹娘が出なくとも、「高校生の日常」そのものが貴重品。

 甘しょっぱいラブコメ補給に、『堀宮』をどうぞ。リアルのドロ生しさの、コミカルなコピーとしても酔えるから。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

『ウォーキング・デッド』はスゴ本

ウォーキング・デッド 生きている人間こそ、最も恐ろしい。

 奴らは食うだけで満足するが、人は愉しみまで求めるから。極限状況で人がどのように“変化”するか、分かる。奴らに噛まれたほうが幸せだ、という展開にならないように祈りながら読む。

 作者は言う、「すべてのゾンビ映画の最悪の点は、エンディングにある。ぼくは、エンディングの後に何が起こるのか、常に知りたいと思っている」―――この、エンディングの後の物語が本書になる

 たいていのゾンビ映画は、ひとりの人生の断片を切り取り、監督が飽きるまで見せるだけ。だから登場人物に馴染み、彼らの冒険に付き合い、やっといい感じになりはじめた途端、クレジットが流れ出す―――これに反発したロバート・カークマンが描こうとしたのは、「その後」だ。奴らに囲まれた日常と、そこで起きる“変化”だ。

 まず、外見に現れる。こざっぱりとした主人公が無精ひげになり、のび放題になる。警官だったはずが、無法者みたいになる。同時に、人としての感情や思いやりのある台詞が、削ぎ落とされ、とげとげしくなる。最初にあったはずの生き残りの仲間意識が、恐怖と緊張感で疑心暗鬼になり、血なまぐさい事件でバラバラになる。

 “変化”は精神的な内面にも起きる。それは地中のマグマのように基盤をゆっくり確実に動かし、最悪のときに暴発をもたらす。絶え間ないプレッシャーに曝され、心が徐々に歪んでゆき、まともな頭では考えられない行動を取る。常軌を逸したどの行動も、奴らではなく、生きている人に向けられる。かなり過激なので、読むときはご注意を。

 変化はゾンビにも起きる。屍体だから代謝は無い、従って組織は腐って崩れてゆく。最初は生き生きとした(?)奴らも、蛆虫に食われたり腐ったりして歩きにくくなる。じゃぁ奴らが腐乱するまで隠れていれば勝ちじゃね?と思うでしょ(わたしも、そう思った)。だが、嫌ぁな設定を持ってくるのよ、作者は。そしてこの設定の本意は、タイトル『The Walking Dead』にも込められているのよ。

 以下、本作のテーマともいえる最重要な台詞を引用する。第2巻のクライマックスとも言える場面より。ピンと来た方は、ぜひとも手に取ってほしい。

  生き残るためには
  この世界に適応しなければならない。
  おれの頭がいささか狂ってるってか?
  そうかもな……世界の方も狂ってるんだから。

  リーダーから外れて欲しいって?
  けっこう。
  かまわん。
  プレッシャーがなくなってうれしいよ。

  だけど、このことだけは言っておく。
  安全のためには
  なんでもする。
  どんなことでも……おれはやる。

  見え透いた言い訳はよせ……
  自分をごまかすのはやめろ。
  現状を見ろよ。

  これがおれたちの生活だ。
  一時しのぎの場じゃない。
  救助を待ってるわけじゃないんだ!
  これがすべてなんだ。
  おれたちには
  これしかないんだ。

  状況を改善したければ
  この場所を良くするしかない。
  そのことを忘れるな。

  やつらのひとりの頭に
  銃弾をブチ込んだとき……
  バケモノひとりの頭に
  ハンマーを振り下ろした瞬間……
  あるいは首をチョン切ったときから
  昔のおれたちとは
  ちがう存在になったんだ!

  そういうことなんだよ。
  あんたらみんな
  自分の姿を
  わかっていない。

  おれたちは死者に取り囲まれている。
  やつらの中で
  生きていて……
  諦めた途端に
  やつらの仲間になる!

  おれたちは前借りした時間を
  生きている。おれたちが生きる一分は
  やつらから盗んだ一分なんだ!

  向こう側にいる
  やつらを見ろ。おれたちが死ねば……
  やつらの仲間になる。
  金網のこちら側にいて
  生きた屍(walking dead)から
  身の安全を守ってると思っているんだろ!

  まだわからないのか?

  おれたちが生きた屍(walking dead)なんだよ!

 脅威はゾンビではなく、あくまで人間なのだ。これまでの法や倫理が通用しなくなった世界で、人はどこまで人でいられるのか。裏返された世界における人は、あまりにも人っぽくなく、むしろそこを取り囲んでいる奴らのほうが、馴染み深い。

 ゾンビ映画を観るとき、いつもするように、極限状況に自分を置く読み方もいい。自分を追い詰めるのは難しいが、追い詰められた「誰か」に投影することができる。家族、友人、隣人はどんな行動をとり、どんな運命に辿り着くのか、想像するだに恐ろしい(そして楽しい)。わたしは誰になりうるだろう?たぶん1巻で生き残れない組、しかも主人公に撃ち殺される友人になるだろう。そしてわたしも奴らの仲間になるのだ。ゾンビそのものよりも、その恐怖に押しつぶされて自分がおかしくなる方が、より怖いのだ。

ユリイカ2月号 米国で驚異的な視聴率を叩きだしたドラマの原作なのだが、俄然ドラマの方も観たくなる。映画から飛び出し、ドラマ、ラノベ、コミックまで、カルチャー全体に波及するアイコンになろうとしているゾンビ───その全体像に迫るユリイカ2月号と併せて読むと愉しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年2月3日 - 2013年2月9日 | トップページ | 2013年2月17日 - 2013年2月23日 »