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『食品偽装の歴史』はスゴ本

食品偽装の歴史 嫁さんがぷんぷん丸でござる。

 何ごとかと聞いてみたところ、「芝エビがね!」「ローストビーフが!」とのこと。なるほど食品偽装か。年末とかに定期的に流行るよね。確かにブランドイメージは傷つくかもしれないが、エビや牛肉に限った話じゃないよ。安さを追求した(追求させた)結果なんだし。

 「それ、何のこと?」と問われる。ほら、回転寿司の「マグロ」があるじゃない。魚屋の結構な値がついているマグロが、コンベアの上だとなぜか安くなるのは、営業努力だけじゃないよ(NAVERまとめ[代用魚])。「マグロ」に限らず、スーパーの「シシャモ」「ベーコン」のような、“安すぎるもの”には理由がある。世間には欺瞞が溢れているのだから、嘘ノー残デーとか偽乳のほうが実質的に問題だろ……と言ったら「一緒にすんな」と怒られた。

 ちょっと思い出すだけでも、BSE(狂牛病)や毒ギョーザ、雪印といったキーワードから、産地偽装や賞味期限の改ざんと枚挙に暇がない。闇に消えたものもある。「ゾンビバーガー」や「期限切れコンビニ弁当」は問題になるはずなのに、マスコミが大々的に取り上げたことは皆無だ(少なくともわたしの記憶では)。「ゾンビバーガー」は隠語だったのに、今では別の意味で完全に上書きされている(KYは珊瑚を削った落書きではなく、“空気読めない”で上書かれたのと同じ)。

 食の闇、今に始まったことではないが、昔はどうだったんだろうと紐解いてみたら、これがまた凄まじい歴史だった。

 著者が英国人のためか、欧米を中心とした食品偽装の歴史だ。美味なるワインのため鉛中毒になった古代ローマ人から始まって、目方をごまかしたパン屋がたどった運命(灼熱したオーブンに放り込まれた)、産業革命後は悪質さのオンパレードとなる。虫・痰・糞だけでなく、化学物質を安易に使った、「毒」と呼んでもいい危険な混ぜ物工作がなされていた。フードライターでもある著者は、英国人の味音痴の仇といわんばかりに、徹底的に暴きたてる。

 本書の姿勢は、混ぜ物や偽装、保存料・添加物、遺伝子操作の問題を、暗黒の歴史として描く。そこにまつわる様々な問題―――純正食品問題、原産地表示、マーガリン論争、合法的添加物問題、保存料問題、トランス脂肪酸、自然食品問題といった論争を、フラットな立場からてんこ盛りのエピソードで紹介してくれる。Wikipediaなら、[食品偽装問題][食の安全][産地偽装] を、欧米ネタでどろり濃厚にしたやつだと思えばいい。間違いなく食欲がなくなるレポートもあるので、読むタイミングに気をつけて。

 食の黒歴史なだけでなく、様々な読み方ができて興味深い。儲かるためなら他人の健康を損ねてもいいという悪意の文化史として読める。騙そうとする業者と、騙されまいとする消費者の歴史は、そのまま錬金術から科学史になる。「鼠肉バーガー」「人間ラード」の都市伝説を追いかけると、業者へのやっかみと搾取の実態が透け見える。大量消費をまかなう大量生産の産業史として捉えると、延びきったサプライチェーンの問題が浮かぶ。見かけと味をよくするためのテクノロジーの発達と、反発する消費者の歴史として読むと、「健康のためなら死んでもいい」精神が今でも息づいていることが分かる。食品のパッケージングとブランドの変遷として見るなら、文化とグローバリゼーションの摩擦の歴史と読める。どんな読み方をしても得るところ大なり。

 たとえば、「混ぜ物」をするという概念の変化に着目すると、混ぜ物は必ずしも悪にならないことに気づく。1850年代には、塩はバターの「混ぜ物」とされていた(バターが腐りかけているのをごまかすため)。だが、今では塩の入ったバターは、欺瞞の意図なしに普通に売られている。ビールに不可欠のホップが初めて英国で導入されたときには、不純物として、強い疑念をもって見られていたらしい。

 逆もまたしかり。かつて無害なものとされていたが、「混ぜ物」として再定義された成分もある。サッカリンや食品着色剤、トランス脂肪酸などがそうだ。粗悪なワインを良質に見せかけるために入れられたもの―――卵、ミョウバン、ゴム、そして鉛は、ときに本当に美味になったので、「鉛の錬金術師」はいたのかもしれない(人体には毒だけど)。

 食品偽装の原因をの全てを、供給側に求めるのは間違っているという観点もある。あえてイミテーション食品を求める消費者という視点が新しい。もちろん、戦争による物資不足のせいで、代用食で耐え忍んだというエピソードも紹介されている。しかし、安さや見栄え、さらには味の安定性を求めるあまり、本来とはかけ離れた製品を選んできた結果が、今なのだという指摘は手厳しい。より白いパンを求める消費者のため、ミョウバンを混ぜたパンが出回るのはパン屋のせいだけしちゃまずかろう。安さを求めるあまり粗悪な食が「普通」になってしまったとの恨み節は、英国の食事情の裏事情を垣間見るようだ。

 マーガリンはバターの代用品として供されてきたが、本来の価値を隠して、バターより「少し安い」値段で売っていることが指摘されている。米国のマーガリン憎悪の歴史を読んでいくうち、偽物を本物にするのはまさしく消費者なのだということが分かる。消費者は、「わかって」買っているのだ。これは、今なら牛乳と「低脂肪乳」になる。牛乳のパッケージで牛乳と並べて売っているから気づきにくいが、両者について非を言い立てる人がいないまま、受け入れられてゆくだろう。

 食品偽装は、経済によって動機付けられ、政治と科学によって決定される。かつての「詐欺行為」は、「自由貿易」とか「グローバリゼーション」といった抽象的な言葉に覆われ、拡散してしまっているが、本質はぜんぜん変わらない。食品偽装の歴史は、現代社会の歴史でもある。

 著者は、「自分の舌を信じて、賢く選びなさい」というメッセージを送ってくるが、経済・政治・科学の要素が切り離されない限り、食の欺瞞の歴史は続くだろう。テリー・ギリアム監督の映画『未来世紀ブラジル』では、レストランのメニューには料理名が無い。客は写真を見て「番号」で注文する(料理を名前で呼ぶのはタブー)。ある意味、純粋を突き詰めたディストピアなのだが、食品偽装の歴史は、未来社会の歴史でもあるのだ。

 ため息をついていると、嫁さんから提案が。「ホンモノを食べないと、ホンモノの味が分からなくなっちゃうよね、だから回らない寿司屋さんに行きましょう」ですって。あれ、なんだか冷たい汗が出てきたぞ……


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『科学と宗教』はスゴ本

科学と宗教 オックスフォード大学の教科書(Very Short Introductions)で、専攻問わず大学新入生の必読書。

 片方の肩を持つのではなく、「そもそも何が問題となっているか」を整理する。科学と宗教は、とかく対立するものとして見られるが、そうではないことが分かる。むしろもっと根が深い。「正しいか、正しくないか」ではなく、争点が政治にあることが問題なのだ。

 定番のテーマであるガリレオ裁判、進化論に対する理解の変遷、そしてID(インテリジェント・デザイン)説をめぐる論争や、ドーキンスの利他性の問題を採り上げ、科学哲学と宗教的含意の議論をまとめている。

 歴史の俎上に乗せてしまうと、科学と宗教は驚くほど似通っていて、対立というよりも、補完・強化する関係になっていることが分かる。先進的な科学者v.s.保守的な教会という構図はドラマティックだが、現実は違う。どちらも頑迷さと寛容性があり、どちらにも知的探究心と真実の尊重、レトリックの多用、国家権力へのすりよりといった側面を見ることができる。

 たとえば、ニュートンやボイルのような初期近代科学の開拓者たちは、自分の研究を、天地創造を理解するための宗教的行為の一環と見なしていた。ガリレオもまた、科学と宗教は互いに調和して存続すると考えていた。ガリレオ裁判で争われたのは、地動説v.s.天動説という分かりやすい構図ではないらしいのだ。

 もともと、聖書にある神の言葉の表現は、人間の理解に合わせた解釈を必要としていた。ただし、聖書のどの部分をどう解釈するかは、教会に絶対的権威があった。にもかかわらず、一平信徒にすぎないガリレオが、再解釈を迫るという“権威”を持っているという思想が「傲慢」だとされたのだ。

 科学の定義は歴史的なコンテキストに依存している。ガリレオ裁判をめぐる科学と宗教の衝突が明らかにしたのは、「知識を生産・普及させる権威を持つのは誰か」という政治的な闘争になるのだ。

 アメリカのID論争も、同じ根を持っている。知性ある何かによって生命や宇宙が設計されたとするこの説は、科学的、法的、神学的立場から山ほど反論されている。にも関わらず、米国の一部では、強固に支持する人がいるのはなぜか。この解説がめっぽう面白い。

 ざっくりまとめてしまうと、ID運動は科学的な見解の不一致から生まれたのではなく、ある層の有権者から票を得たい議員たちと、キリスト教徒の親たちを狙ったPRの、純粋な産物になるという。

 もちろん、ID説を「中世への逆戻り」と言いたくなるのも分かる。だが、これは科学と宗教の闘争ではなく、教育を支配するのは誰であるべきかをめぐる闘争なのだ。誰が公共教育における「正しい科学」を決められるのか?有権者か、政治家か、裁判官か、それとも科学の専門家なのか?

 科学も宗教も社会的・歴史的条件の中で営まれており、その対立・闘争の言説が政治的文脈の中にある。疑似科学的な言説をもたらした経緯は、政治的文脈抜きでは理解できないことが分かる。

 さらに、今のわたしのテーマである「実在論 vs 反実在論」を考える上で、キリスト教の恩寵が援用されており、理解の役に立った。科学を説明する上で、磁界やブラックホール、クォークや超ひもといった観測不能な概念モデルをどうとらえるか。実在論者と反実在論者は、異なる見解を示す。

 実在論者は、科学とはそうした概念モデルの正確な記述をする作業を行っていると考え、量子物理学など理論が、現象の説明や予測の精密化に寄与してきたことを強調する。

 いっぽう反実在論者は、実在性に関しては不可知論的な態度を取り、科学はただ観測可能な現象を正確に予測する作業を行っているだけだとみなす。そして、科学の歴史とは廃棄された理論の墓場だと反論する(エーテル、フロギストン等)。いま成功しているからといって、その理論が真である理由にはならない。なぜなら、正しかろうと誤っていようと、経験的に正確な予測を行うことができるから。

 キリスト教によると、神が「見えるものと見えないものすべて」をつくったとの言明がある。『ローマの信徒への手紙』の一20にこうある。

聖パウロ「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」
 ここから、反実在論者としての神学者を、科学的反実在論者と比較すると面白い。整理するとこうなる。
  1. 神の実在性に対してチェックする方法を、我々は持っていない(少なくともいまはまだ)
  2. だから、聖典を通じての神についての命題は、字義通りの真として扱うべきではない
  3. むしろ、ただ人間の経験と観念を意味づける試みとして扱うべきである
 これが、科学的反実在論者が主張する、科学的真実への言明に限りなく近くなる。神と真実を入れ替えるだけで、両者の主張は近似的になる。ただし、極論まで行き着くのは難がありそうだ。

 なぜなら、人間の貧弱な認知能力では、神の実在性を確かめることはできない(僭越である)という主張は、神の属性についていかなる言明も真であると証明できないことになる。つまり、神は存在するという言明もたいした意味を持たないように思われてしまう。神であれ科学的真実であれ、パラダイムが変わらない期間おいて、プラグマティックに判断するほうが、より合理的なのかもしれない。

 自分の科学観を検証したり、新たな視座から試したり、この新書はコンパクトなのに奥深い。本書は扱っていないが、仏教やアジアの多神教の視点を導入すると、さらに興味深くなるだろう。輪廻や悟り、気といった言説が、一神教の諸概念ほど政治問題化していない意味を考えると面白い。

 正か死か?二択を強要するのは、唯一神をあがめる人々に多いような気がする。そうではなく、結論を留保したり並走させる説明を試みることはできないだろうか。科学にも同様に、留保したり両立できる空間を明確化すると、より受け入れられやすくなるかもしれない。「宗教なき科学は欠陥であり、科学なき宗教は盲目である」と言ったのはアインシュタイン、両者は対立するのではなく、並走してきたのだ。

 自分の宗教観と科学感、その両方を量ることができるスゴ本。丸善出版の新書シリーズ「サイエンス・パレット」は順に追っていきたい。

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この本がスゴい!2013

 人生は短く、読む本は尽きない。

 せめて「わたし」が知らない凄い本と出合うべく、それを読んでる「あなた」を探す。このブログに込めた意味であり、このブログを通じて数え切れないほど「あなた」に教えてもらった。

 ともすると自分の興味を森羅と取り違えがちなわたしに、「それがスゴいならコレは?」とオススメしてくれる「あなた」は、とても貴重で重要だ。そんな「あなた」のおかげで、ネットやリアルを通じて出会い、ここ一年で読んできた中から選りすぐりを並べてみる。

 なお、ここでの紹介は氷山の一角、一番新しくアツいのは、facebook「スゴ本オフ」を覗いてみてほしい。読まずに死ねるか級がざくざくあるゾ。




フィクション


 『東雲侑子は短編小説をあいしている』 森橋ビンゴ(ファミ通文庫)

東雲侑子は短編小説をあいしている東雲侑子は恋愛小説をあいしはじめる東雲侑子は全ての小説をあいしつづける

 ラノベを読むのは、存在しなかった青春を味わうため。

 「いいおもい」なんて、なかった。劣等感と自己嫌悪に苛まれ、鬱屈した日々が終わることを、ひたすら望んでいた。苦くて痛々しいわたしの恋を、甘くてしょっぱい味付けで上書き保存するために、恋物語を読むのだ(妄想だって経験だ)。

 いいトシこいたオッサンが、好んでラノベを読むのはそのせい。無気力で無関心な主人公は、まんま「わたし」だし、いつも独りで本を読んでる彼女は、あのとき好きだった“誰か”になる。照れ屋で臆病な二人の、不器用で未熟な恋に、好きなだけ投影できる。

 だが、一番肝心なところは書いてない。作者はよく分かっている。一人称で統一し、東雲侑子の心情を見せぬようにしている。代わりに、彼女の言葉やしぐさ、顔色から息遣いまで、それこそ綿密に舐めるように描かれる(主人公が“見て”いるから)。すると彼女は、「あんまり見ないで…」とうつむく。ラノベの体裁をしてラノベらしからぬリアルな設定と、文芸の王道を往く技巧的な構成に、完全に撃たれる。のめり込んで舌を巻いてキュンとなる。

 読んで悶えろ。そして痛かった青春を上書き保存するのだ。


 『死の棘』 島尾敏雄(新潮文庫)

死の棘 独身男は読んではいけない、既婚男は見る眼が変わる。夫の不倫に発狂する妻の話で、夫婦の嫌らしいところ、生々しいところ、おぞましい所を、徹底的に暴き立て、拡大し、突付けてくる。特に、妻の発作を待ち構え、一緒に堕ちようとする一種の共依存の関係に陥るあたりがサイコホラーだ。そこには一切の救いも、癒やしもない。

 何らかの着地点を求めて読むなら、毒を飲むような読書になるだろう。結婚のアマチュア男子が学べるとするなら、「女の追いつめ技術」だろう。「質問に質問を重ねる技法」「自己都合の記憶改変」「断定を単純に言いきって、相手を曖昧な立ち場に追い込むロジック」「二択への落とし込み」「思い出し怒り(感情による想起)」は、予習にいいが、逃れるすべはないことも併せて知っておくべし。

 一方で、「昔の女語り」「情事の相手との日記(今ならメールか)を一緒に読む」「極論から極論への展開」「中途半端な暴力」など、夫婦の諍い事に関するあらゆる禁じ手がさらけ出されている。べからず集として読むのもあり。

 そして、すさまじい狂態にもかかわらず、むしろこの狂乱こそが、妻の美しさを引き出す。結婚して十年、二人の子がいる疲れた女が、艶美で、崇高なものに変化(へんげ)する。軽く汗ばんだ鎖骨や、つり上がってきらめいている眼、上気してつやを帯びた貌は、鬼のように夜叉のようにも魅力的だ。

 結婚を見直すに傑作、未婚にとっては禁止のスゴ本。スゴ本オフ「結婚」で禍々しく輝いていた一冊。


■ 『羣青』 中村珍(IKKI COMIX)

羣青上羣青中羣青下

 「魂削って描いた」というより、むしろ「魂燃やして描いている」傑作

 喜・怒・哀、感情にダイレクトに訴えかけてくる。読み手の魂をカンナ掛けしてくれる。お話をひと言でいうなら、「痛い・痛いテルマ&ルイーズ」やね。殺した女と殺させた女の逃避行だから、あとはキャラの出し入れで単純な構成かなーと思いきや、中巻で重層化してくる。ミステリではおなじみの、「叙述トリック」じみた"演出"もしてくれて、まさにやってくれる(ネタバレ反転表示)。わたしにとってレズビアンの存在は想像するしかないのだが、その社会的な苦しさは、爆発する反動の力でヒリヒリ痛いほど感じ取れる。出会えたのはyuripopのつぶやきのおかげ、ありがとう。

 ぼろぼろでグシャグシャで狂おしく、どうしようもないほど愛してしまうというのはどういうことか、極端な例としても、真摯な例としても読める。男と女の愛のほうが、よっぽど単純に見えてくる。愛する人に、こんなんになれるか?自問しても突き放しても刺さってくる、でっかい出刃包丁だ、この愛は。

 読むほうにも、ものすごい体力が要るので、ご注意を。


 『2666』 ロベルト・ボラーニョ(白水社)

2666 すごい経験をした、「面白い」を突き抜けている。いちばん大切なことは、いつまでも書かれないまま、どこまでも読み手を惹いてゆく。濃密で豊饒なる喪失を味わうべし。

 いちばん大切なものは、隠されている。それが何か、読めばわかるのだが、読み終わっても消えてくれない。「余韻が残る」といった可愛らしいものではなく、ずっと頭から離れないのだ、呪いのように。

 最初は不在の作家を追う話なのが、語り継がれるうちに、行方不明の女の話に、さらに常識はずれの猟奇殺人にまで至る。一見したところ、エピソードのつながりが低いのに、「書かれないこと」を囲むように配置されていることに気づいた瞬間、俄然存在感を帯びてくる。相互参照性が押し出される。ゆるい構成だと多寡みてたら、実は包囲されていた感覚が押し寄せてくる。

 読み手を導くテクニックがスゴい。ガルシア・マルケス十八番の、一炊の夢に一族の口伝を遡上させたり、ドストエフスキーそこのけのポリフォーニックな語りを重ねたり、ピンチョンを彷彿とさせるエピソードの入れ子構造を実現させたり、小説の成果を存分に味わえる。思い出す作家は多々あれど、似ている作品はなに一つないまま、最後に驚くべき全体像が浮かび上がる。こんなこと、初めての体験だ。


 『神々の山嶺』 夢枕獏(集英社文庫)

 徹夜小説。上下巻の1000頁、一気に読める・止まらない。2ちゃんねるまとめ「この小説がすごい」で絶賛されてて手にしたのが運の尽き。スゴ本オフ「山」で紹介した傑作。

神々の山嶺上神々の山嶺下

 前人未到の「エベレスト南西壁冬期無酸素単独登頂」に挑む伝説のクライマーを描いた話なのだが、ラノベのように軽やかに青臭く、おっさんたちの生きザマを泥臭く描く。読むと心の奥に火が点けられ、ずっと昔に封印した「自分は何のために生きているのか」そして「自分が本当にやりたかったこと」を沸々と思い出す危険な副作用がある。

 しかも、ただ「山に登る」だけを単線的に描いていない。ジョージ・マロリーがエヴェレスト初登頂を成し遂げていたか、という登攀史上最大の謎解きに呑み込まれたり、陰湿で痛々しい人間関係のドロドロに絡みつかれたり、生活のために夢を矮小化させている自己欺瞞を暴かれたりと、なかなか忙しい。手に汗握る、抉られる読書になるだろう。

 そういう、汗臭さが滲み出るのと対照的に、そこから離脱し高みに昇ってゆく山が、ひたすら崇高に見えてくる。それでも、あいかわらず、人の熱や念じみたものが抱えられてゆく。というよりも、そういう人臭さがないと、登ってゆけないのかもしれぬ。


 『動物農場』 ジョージ・オーウェル/開高健・訳(ちくま文庫)

動物農場 「むりやり天国つくるなら、たいてい地獄ができあがる」を地で行く寓話。恐ろしいのは、地獄にいる自覚がないこと。堕落と退廃をとうに悟っているくせに、新しいスローガンが掲げられればまたぞろその後についていく。

 人間の搾取に叛乱を起こした家畜たちが、理想の共和国を築くが、指導者の豚に裏切られ、恐怖政治に取り込まれてゆく。深まる圧政のなか、こんなことのために闘ったのではないとつぶやきつつ、恐怖と、素朴と、信条そのものに対する善意からして、独裁者を疑い疑い、どこまでも従順についていく。

 ヒリヒリした風刺や、悲惨なユーモア、痛烈な欺瞞に暗澹とさせられる。このテーマは、寓話としてしか書けないし、寓話としてしか読めない。これが現実のルポならば、死屍累々の粛正の結果になるだろうし、でなければ政府声明のプロパガンダだ。夜更けに、オトナが、暗澹として読む寓話。

 この名著、開高健の訳でどうぞ。


 『新訳 チェーホフ短篇集』 チェーホフ/沼野充義・訳(集英社)

チェーホフ短篇集 ラノベを読むのは「ありえない過去」を追想するためで、チェーホフを読むのは「あったかもしれない過去」を追創するため。

 人生は変わる。人も変わる。なのに、記憶だけは変わらずに追いかけてくる。ふいに思い出した若かりし日々の言動に、夜、独り身悶えしたり、もう何度目かの後悔を繰り返す。懐かしく痛々しくて情けない、そういう想起のよすがとして、チェホフは、恐いくらいに効いてくる。

 かつてのラノベがそうだった。押しかけ女房ヒロインや、ハーレム展開なんてありえない。だけど、そんなシチュに気持ちを重ねて共鳴する。好きだと言えずに初恋は、「すき」という言葉の戯れだけだった。「萌え」はバーチャル、リアルは「燃え」だった。そんな残滓や焼けぼっくいに、チェホフは、容易に点火する。チェーホフを読むと、人生は確かに芸術を模倣していることが分かる。


 『月は無慈悲な夜の女王』 ハインライン(早川文庫)

月は無慈悲な夜の女王 未来なのに懐かしい、昔のなのに新しいSFの傑作。

 地球からの搾取に苦しむ月世界人が、地球を相手に独立宣言をするストーリーラインに、テクノロジー、ハードサイエンス、ヒューマンドラマから、政治・経済・文化をてんこ盛りにしてくれる。

 不思議なことに、未読のはずなのに既読感が激しい。どこを切っても「なつかしい」が出てくるのだ。たとえば、“自我”を持つコンピュータや、社会保障の話題のオチに出てくるフリーランチ、googleブックス、独立戦争や旧約聖書まで、教養とTIPSとジョークのごった煮状態となっている。

 月へ出ようが宇宙へ行こうが、人の愚かしさは変わらない。「政治とは人類が逃れることのできない病気なのかも」という愚痴は、SFの名を借りた寸鉄になる(わたしなら「政治」を「税金」にするね)。月世界人に対する「空気税」という概念は斬新だと思ったが、18世紀フランスにもう考えられてたのには笑った。人類は、これっぽっちも変わっていない。


 『ウォーキング・デッド』 、ロバート・カークマン(飛鳥新社)

ウォーキング・デッド 生きている人間こそ、最も恐ろしい。なぜなら、奴らは食うだけで満足するが、人は愉しみまで求めるから。極限状況で人がどのように“変化”するか、分かる。奴らに噛まれたほうが幸せだ、という展開にならないように祈りながら読む。

 作者は言う、「すべてのゾンビ映画の最悪の点は、エンディングにある。ぼくは、エンディングの後に何が起こるのか、常に知りたいと思っている」―――この、エンディングの後の物語が本書になる。

 たいていのゾンビ映画は、ひとりの人生の断片を切り取り、監督が飽きるまで見せるだけ。だから登場人物に馴染み、彼らの冒険に付き合い、やっといい感じになりはじめた途端、クレジットが流れ出す―――これに反発したロバート・カークマンが描こうとしたのは、「その後」だ。奴らに囲まれた日常と、そこで起きる“変化”だ。

 まず、外見に現れる。こざっぱりとした主人公が無精ひげになり、のび放題になる。警官だったはずが、無法者みたいになる。同時に、人としての感情や思いやりのある台詞が、削ぎ落とされ、とげとげしくなる。最初にあったはずの生き残りの仲間意識が、恐怖と緊張感で疑心暗鬼になり、血なまぐさい事件でバラバラになる。

 “変化”は精神的な内面にも起きる。それは地中のマグマのように基盤をゆっくり確実に動かし、最悪のときに暴発をもたらす。絶え間ないプレッシャーに曝され、心が徐々に歪んでゆき、まともな頭では考えられない行動を取る。常軌を逸したどの行動も、奴らではなく、生きている人に向けられる。かなり過激なので、読むときはご注意を。





ノンフィクション


 『世界文明における技術の千年史』アーノルド・パーシー(新評論)

 技術の発展は「対話」であると喝破した名著

技術の千年史 テクノロジーの人類史を、千年単位で眺めると、西欧優位が書き換わる。いわゆる「西欧技術」がヨーロッパでのみ創造されたとする幻想を暴き、欧米の技術を非西欧世界に無修正で「移転」されるべきだいう認識に反撃を加える。

 技術を発明・開発した側の刺激に対して、受け入れ側が反応し、交流を経ることで修正されつつ双方の技術的対話(technological dialogue)が繰り広げられる様相として、歴史を描き出す。その中で、西欧は歴史のあらゆる時期を通じて、異文化技術との「技術的対話」から恩恵を被ってきたことを明らかにしている。

 技術史といえば、15世紀の印刷術や蒸気機関の産業化など、いわゆる西欧が先導した科学技術史のおさらいになる。しかし、本書は8世紀から現代に至るまで、世界のほぼ全域を対象としている。水車、紡ぎ車、織機、製紙術など、似た発明や開発が世界の異なる地域に、同時あるいは時を隔てて現れる事象に着目し、その伝播の過程をマクロの視点で分析する。 技術的知識や機器が、国や文明間で「対話」をすると、新たな創意に富んだ着想が生まれ、修正や適応が始まる。技術とは、まさしく対話であるのだ。

 歴史を動かした技術的ダイアローグのダイナミズムが分かるスゴ本。


 『数学の想像力』加藤文元(筑摩選書)

数学の想像力 数学の「正しさ」について、ぎりぎり迫った一冊。

 何によって数学的な「正しさ」を認識するのか、その根拠とでもいうべきもの、正しさの深層にあるものを掘り起こす

 本書の結論はこうだ。数学の正しさの「規準」は明快だが、正しさの「根拠」は非自明である。そもそも「正しさ」に根拠などというものがあるのか?この疑問への明快な解には至らないにせよ、そこへのアプローチにより、数学の「正しさ」が少しも自明ではないこと、そしてその非自明性が数学を柔軟性に富んだものにしている―――この結論のみならず、そこへ至る議論の数々が、読み手に知的な揺さぶりをかけてくる。数学の正しさを疑わない人には、頭にガツンと一撃を喰わされる。

 もちろん数学は「正しい」。[Wikipedia]によると、数学とは「いくつかの仮定から始めて、決められた演繹的推論を進めることで得られる事実(定理)のみからなる体系の研究」である。そこにおける「正しさ」とは、予め決められた定義や公理の組み合わせから外れていないこと、(もしくは新たな概念を導入する場合)元の体系との整合性がとれていること、になる。この世界にいる限り、その「正しさ」は疑いようもない。だが、この世界を知らない人は、どうやってその「正しさ」を理解するのだろうか。

 この問いに対し、ソクラテスと無学の少年との対話を始め、ユークリッド原論やインド・イスラムの数学、和算など、歴史と文化を跨いだ考察を深めながら、数学の「正しさ」の変貌と普遍の根っこに潜む、ほとんど信仰に近いほどの「確信」に迫る。自分の数学への確信を揺さぶられるスゴ本。


 『世界を変えた17の方程式』イアン・スチュアート(ソフトバンク・クリエイティブ)

世界を変えた17の方程式 17の方程式で語る知の歴史。方程式とは、パラダイムなのだ。地図の作成からGPSナビゲーション、CDやテレビ、原爆や優生学やデリバティブなど、善し悪しともかく現在の世界を作り上げた「方程式」が主役の話。

 著者はイアン・スチュワート。数学の本質が抽象化であることをユニークに示した『分ける・詰め込む・塗り分ける』や、生物学を塗り替えようとする現代数学に迫る『数学で生命の謎を解く』など、少なくともわたしにとっては歯ごたえありまくりの、しかし深い知見と新たな視線が得られる良本を書いている。

 著者曰く、「方程式は、数学、科学、工学のいわば血液である」。もちろん数式よりも、「言葉」の方が一般的で強力だろう。だが、科学や工学からすると、言葉はあまりに不正確で限界がある。言葉だけでは、人間レベルの前提が立ちふさがり、ノイズが多すぎる。そのため、根本的な理解や洞察を得ることができないが、方程式ならできる。方程式は何千年ものあいだ、人類文明の一番の推進役だったという。

 出てくる方程式は、おなじみのピタゴラスの定理をはじめ、対数、微積分、トポロジーなど純粋数学のもの、正規分布や波動方程式など数学を応用したもの、ニュートンの重力の法則や量子力学のシュレーディンガー方程式など自然科学の法則を表したものなど多岐に渡る。

 正規分布と優生学、波動方程式と音楽、サブプライムローンと統計学、3.11と対数といったエピソードを交えながら、方程式が人類の考え方に影響や、覆された“常識”をあぶりだす。どの方程式を採択するかは、パラダイムシフトそのものなのだ。


 『ファスト&スロー』ダニエル・カーネマン(早川書房)

 わたしの嫁さんが美人である理由が分かった

ファスト・スロー上ファスト・スロー下

 本書によると、これは“認知の歪み”らしい。結婚に費やした時間、コスト、感情、労力が莫大かつ取り戻せないため、「この結婚はいいものだ」という認識に反する事柄を、予め排除しようとする。この結婚を否定することは、そこに費やしたわたしを否定することになる。あまりに犠牲が大きいため、結婚を疑うことに一種の恐怖を感じる。

 そしてこれを、「サンクコストの誤謬」と呼ぶことも知っている。莫大な投資をした事業から撤退しようにも、取り戻せない費用を、サンクコスト(埋没費用)という。これがあまりにも大きい場合、撤収をためらったり、プロジェクトを正当化しようとする。コンコルドの開発やベトナム戦争が有名だが、わたしの結婚にも当てはまる。自分が客観的に判断できないことを分かった上で、主観的に「まずまず」であればよし、と自分を納得させている。わたしは嫁さんを「美しい」と思いたいのかもしれぬ。

 人の認識は(本人が思っている以上に)歪んでいる。直感的な印象が、もっともらしいストーリーに結びつくと、人は「正しい」と信じる。いったん「正しい」と確信されたものは、それに反する証拠を斥けようとする。タイトルの「ファスト」はこの直感を、「スロー」はつじつま合わせの思考(指向/嗜好)を指す。豊富な例を挙げながら、意思決定の仕組みを解き明かし、人の認識がいかに錯覚の影響を受けているか、その判断がいかに歪んでいるかを浮き彫りにする。ギルボアの『意思決定理論入門』が“決め方の科学”なら、本書は認知の歪みに焦点を当てた事例集として読むことができる。

 『ファスト&スロー』はこれに科学的根拠を与えてくれる。わたしの頭の中にある世界は、現実の世界の複製ではない。認知の歪みを利用されないための予習として、さらには認知の錯覚に意識的になる訓練のため、何度も読み返すことになるだろう。


 『ヨーロッパ史における戦争』マイケル・ハワード(中公文庫)

ヨーロッパ史における戦争 戦争は社会を規定し、社会は戦争を規定する。ヨーロッパ史における戦争 ヨーロッパ史を通じ、戦争の歴史と社会の変遷は両軸を為していることが分かるスゴ本。ヨーロッパ社会はもとより、今日の歴史が戦争を通じていかに形成されてきたかについて理解できる。
 
 戦争が常態化している中、平和とは単なる一時的な秩序に過ぎないのはなぜか。戦争の原因として宗教や経済から眺めるのは、見えてる部分だけで語ることに過ぎぬ。戦争は歴史を通じて社会にロックインされており、この現状を築き上げたのは、他ならぬヨーロッパだということが分かる。

 ヨーロッパの歴史を考察し、社会変化に伴う戦争の様相の変遷を概観した一冊。わずか250頁に1000年間の戦争の歴史が包括的かつ体系的に圧縮されており、戦争を考える上で入門書であり基本書になる。封建騎士の戦争から、傭兵、商人、職業軍人、戦争、民族、そして技術者の戦争へと戦争の“主役”に焦点を当て、戦争がどのように変化したか、逆に戦争そのものがいかに社会を変化させたのかについて、簡潔かつ明確な枠組みを提供する。

 王が自分の利益のために行っていた戦争から、騎士という金のかかるシステムを維持するために封建制度が生まれ、封建制を守るために傭兵が雇われ、戦争は莫大な金が掛かる商人ものになる。敵の疲弊と枯渇を待つ戦争が、交易の略奪により財政的に相手を滅ぼす重商主義を生み出し、革命の輸出により生まれた「国民」が、相手を殲滅させる総力戦につながる。社会制度と戦争システムは、互いに補完しあい、歴史の両輪をなしていることがわかる。

 同時に、戦争と平和は対極に位置する概念ではなく、むしろ逆で、相互補完関係にあるという主張も見てとれる。平和とは秩序にほかならず、平和(=秩序)は戦争によってもたらされる。すなわち、戦争は新たな国際秩序を創造するために求められるプロセスであり、平和とは、そのプロセスから創り出されたという。この意味において、戦争の歴史は人類の歴史とともに始まったものであるが、平和とは比較的新しい社会現象というのだ。


 『アメリカ型ポピュリズムの恐怖』齋藤淳(光文社新書)

アメリカ型ポピュリズムの恐怖 これは、「アメリカンリスク」の教科書として読まれるべきスゴ本。

 そのジャイアニズムやダブスタにはちゃんと(構造的な)理由があることが分かる。なぜヒステリックな反応をしたのか、原因判明にもかかわらず、どうしてケジメをつけられないか理解できる。同時に、トヨタの大人の対応と、是々非々バランス感覚の絶妙さに唸らされる。さらに、アウディ、トヨタの次がどこであれ、どんな対応を取ればよいか教訓が得られる。

 2009~2010年の「トヨタ急加速疑惑」によるトヨタバッシングは異様だった。メディアの扇情報道がオレモオレモ苦情のループを呼んでヒートアップする一方、トヨタを蹴落とす陰謀論がまことしやかに語られていた。どこまでが「事実」で、どこからが「意見」なのか日本のメディアを探しても、「グローバル経営感覚の欠如」や「トヨタの油断や驕り」など、自虐的な報道ばかり。後手・放置プレイの日本政府―――311が強烈過ぎて、きちんと検証してこれなかった真相が、本書で総括できる。

 オバマ政権の下、大規模な公的支援を受け、再建途上だった米自動車業界の背景や、1980年代のアウディに起きた同事象との比較、そしてそこからトヨタが学んだ教訓が、「アメリカン・ジャイアニズム」を浮き彫りにしている。全面衝突は避けながらも、全面譲歩はしなかったトヨタの対応は、次に“被告席”に立たされ、責任追及される立場になった企業にとっての教科書になるだろう。

 よく言えば民主主義、悪く言えばポピュリズムに根ざした社会構造は、一部の業界の不満や怒りが、ダイレクトに政府や議会の意向に反映される。結果、米政府は外国に対して理不尽な要求を突きつけるようになる。民主主義が大衆迎合と合体すると、挙国イジメに発展する。そこでは理性の声、正義を求める意見はかき消される。ジャイアンを憂えるのではなく、どうやって付き合うか、学ぶところが得られる良書。


 『心の仕組み』スティーブン・ピンカー(ちくま文庫)

 「心とは何か」について、現時点でもっとも明快に説明している。

心の仕組み上心の仕組み下

 一言でまとめると、心とは、自然淘汰を経て設計されたニューラル・コンピューターになる。心とは、複数の演算器官からなる系であり、この系統は、狩猟採集によって生きていたわれわれの先祖が、日々の問題を解決しながら進化する過程で、自然淘汰によってつくり出されてきたという。

 この枠組みを持って思考と感情の仕組みを、情報と演算活動で説明しようとする。ヒトの心は脳の産物であり、思考は脳の演算処理の一つだというのだ。情報を処理する上で、複数のモジュールがそれぞれ特定の目的をもって設計されており、外界との相互作用を受け持つという。

 そして、これだけ精妙なモジュール性が生まれたのは、進化的適応によるという。外界の環境を把握し、どれほど適応できるかが、種にとって生存と繁栄の鍵を握る。食物の場所を把握し、天敵を察知し、ライバルを出し抜き、配偶個体と出会うといった問題を効率よく処理できる個体が、結果として生き残り、子孫を残してきた。そこでは、汎用性よりも状況依存的なシステムの方が効率的になる(フレーム問題を見るべし)。自然淘汰で生き残ってきたのは、生存や繁殖にダイレクトにかかわる問題ごとにチューニングされたモジュール的な情報処理システム───これがすなわち、心になる。

 認知科学の事例が面白い。サールの「中国語の部屋」への反論や、爆弾処理ロボットの思考実験、2次元の視覚に奥行き情報を追加した、2.5次元の立体視差の仕組み、さらに、「もっともらしさ」を「起こりやすさ(確率)」に置き換えてしまうバイアスなど、ヒトが世界をどのように認識しているのかを興味深く解き明かす。このスタンスから示される、数学の認知科学論や「音楽は聴覚のチーズケーキ」論は、もっと深く掘り下げたくなる。


 『レトリック感覚』『レトリック認識』佐藤信夫(講談社学術文庫)

 名著中の名著、ことばをあつかう全ての人に。

レトリック感覚レトリック認識

 使い慣れた道具の構造が分かり、より効果的に扱えるようになる。これまでヒューリスティックに馴れていた手段が、一つ一つ狙い撃ちできるようになる。こいつ片手に、そこらのラノベを魔改造したり、漱石や維新を読み直したら、さぞかし楽しかろう。

 レトリックというと、言葉をねじる修飾法とか、議論に勝つ説得術といった印象がある。もちろんその通り。アリストテレスによって弁論術・詩学として集大成され、ヨーロッパで精錬された修辞学は、言語に説得効果と美的効果を与える技術体系だ。

 だが、「技巧や形式に走る」といって、棄ててしまったのが現代なのだと弾劾する。「思ったことを正直に書けば、素直に伝わる」―――本当だろうか?そうでないことは、わたし自身がよく分かっている。「伝えたいこと」と「ことば」には距離があるのだ。

 この距離に注目しながら、直喩、隠喩、換喩、誇張、列叙、対比、逆説……と説いてゆく。用語に怯むなかれ、用例だけ着目すればよい。簡にして要な例が豊富にあり、理解を大いに助けてくれるから。本書がスゴいのは、レトリックの説得効果と美的効果を解きなおしたからだけではなく、創造的認識のメカニズムを探り当てたところにある。

 例えば、川端康成が「美しい蛭のような唇」という直喩を用いるとき、両者が似ているのだという見方が読み手に要求される。ぬめる質感とか放射線状のシワを想起し、(色はともかく)直喩によって両方の類似性にピントが合わさる。芸者の唇と吸血動物をいっしょくたにする感性に舌を巻くと同時に、(前後の場景とあいまって)想起させられてしまう自分の感性にヒヤリとする。表現者の意図は、「思ったこと」を伝えるのではなく、「伝えたいこと」を感じさせるのだということが、肌感覚で分かってくる。

 もちろん、すべてのことばは既製品にすぎない。だが、カスタマイズは無限に創造できることに気づかされる二冊。


 『毒になる親』スーザン・フォワード(講談社プラスアルファ文庫)

毒になる親 親とは呪いである。遺伝情報のみならず、思考や習慣、振る舞いや癖といった名前の「わたし」を渡しているから。プラスもあるが、ネガティブな奴もある。「わが子の不幸を望む親はいない」はキレイゴト。自覚の有無にかかわらず、歪んだ自分をダイレクトにうつされる。この場合、「伝染(うつ)される」が正しい。本書は、この負の連鎖に苦しむ人と、それを断ち切る処方が書いてある。正直、読むのが苦しかった(子どもである過去の自分と、親である今の自分を試されるようで)。

 自分に価値を見出すことができない人がいる。どんなに努力しても不十分であるという切迫感、罪悪感、フラストレーション、自己破壊的な衝動、そして日常的な怒りに駆られる人がいる。自分の人生ではなく、誰か他人の、親の望んだ「わたし」を強いられた結果だという。

 ところが、自分の身に起きている問題や悩みと「親」との因果関係に気づいている人はほとんどいないらしい。著者はこれを「心理的な盲点」と呼び、自分の人生を左右している問題の最も大きな要因が親であると考えることに抵抗を感じるという。「自分の問題は自分の責任だ」と抱え込んでしまうのだ。そうして心を病み、相談を求めるようになる。

 精神科医である著者は「あなたのせいではない」と断言し、その因果関係となった親とのかかわりを解きほぐし、清算し、決別する方法を紹介する。今の(親としての)自分を問われているようで、厳しい読書だった。その一方で、昔の(子どもとしての)自分が、どこまで影響を引きずっているか問われているようで、悩ましい読書だった。さらに、そういうわたし自身の「毒」も感じながら、身のすくむような読書だった。

 誰にでもオススメできる本ではないが、どうしようもない問題や感情を抱えて苦しんでいる人には、大きなヒントとなるだろう。これは、スゴ本オフ「親子」で紹介いただいた一冊。スゴ本に出合えて、感謝・感謝。


 『金枝篇』フレイザー(ちくま文庫)

 民俗学・神話学・宗教学の基本書にして、自分の発想の根っこを照らすスゴ本

金枝編上金枝編下

 物語作家にとって、『金枝篇』は宝の山だ。人類学・民俗学・神話学・宗教学の基本書であり、世界中の魔術・呪術、タブー、慣習、迷信が集められている。スケープゴート、死神の追放、外在魂、樹木崇拝、王と祭司のタブー、王殺し……おびただしい事例と、膨大な文献の引用で成り立っており、「本からできた本」という異名の通り。

 物語背景や世界観、ガジェット、仕掛けとなる材料がてんこ盛りで、たとえば『まどか☆マギカ』のソウルジェムは、「民話における外在の魂」の章に出てくる「ソデワ・バイの首飾り」から拝借しているだろうし、シャーリイ・ジャクソン『くじ』は、「スケープゴート」の章で紹介される風習そのままだ。独創的でありながら、人類の奥底で共通するアイディアなのだろう。中でも刺激的な「王殺し」について、スゴ本オフ「アイドル」にて紹介する。現代のアイドル(=かつての王)は、殺されなければならないという観点から、妄想全開でユニークに読み解いた。

 千年万年単位で人類を眺めると、そこには「野蛮」「非科学的」といったレッテル貼りで回避するには大きすぎる共通的な理解の仕方があることが分かる。現代の「科学」だって、いまの人類にとってほぼ共通する「世界の理解の仕方」(世界の説明の仕方)に過ぎぬ。百年前を振り返ると、「科学」は時代遅れとなり、千年経ったら、野蛮な俗信の一つとして数えられるだろう。

 巨視的な立場からすると、人間の肉体構造がさほど変わっていないように、精神構造も変わらない部分が大きい。非科学的、と斬って捨てるのではなく、「人類は世界をどのように理解しようとしたか」「その理解の仕方はどんな形で受け継がれているか」に注目しながら読むといいかも。


 『ぼくどこからきたの?』ピーター・メイル/谷川俊太郎訳(河出書房新社)

ぼくどこからきたの 今年、きちんと子どもに伝えたのが性と死。こればっかりは学校まかせにできない。真正面から、ごまかさず伝えてくれるのに、これほど役に立った本はない。

 男と女の違いから始まって、セックスとは?赤ちゃんができるとは?といった疑問に、生々しすぎず、抽象にごまかさず、ちゃんと答えている本。親子で読めて、きちんと話し合える。『南仏プロヴァンスの12か月』のピーター・メイルの文を、谷川俊太郎が訳している。一回だけ、一緒に読めば充分、あとは性の話を率直にできるようになる。変に恥ずかしがったり、冗談に堕としたりすることのないようにしたかったから。その次に、人工授精、性感染症予防、そしてAIDSの話を、順繰りにしている。

 ただ、これが成り立つのは信頼関係ができてから。命が大切なこと、あなた(=子ども)が大切なこと、あなたがかけがえのない存在であること、何億分の一の確率で、卵子と精子が出会っていることを、予め分かってもらっていなければならない。そして、この命がなくなれば、死ぬことを知っていなければならない。性教育の前に、死の教育。生とは何か、死とは何か、「子どもに死を教える」で伝えてきた。

死を食べる その上で『死を食べる』は、死というものを再定義するくらい重要な一冊。これは、動物の死の直後から土に還るまでを定点観測した写真集。キツネの死骸に蝿が群がり、蛆が湧き、その蛆を食べるための獣が訪れる様子が順に展開される。キツネ、ハクビシン、蛙、クジラなどの死んだ後の様子を写し取っている。いわば九相図の動物版で、どんな死も、誰かが食べてしまうということがわかる。クジラから蛙まで、さまざまな死の変化を並べることで、“死とは、誰かに食べられる存在になること”、そして“生とは、誰かの死を食べること”という結論に達する

 性と生と死を伝えるため、この二冊はぜひ覚えておいてほしい。





2013ベスト


 『タタール人の砂漠』ブッツァーティ(岩波文庫)

タタール人の砂漠 今年、もっとも突き刺さる読書となった。

 読書がある種のシミュレーションなら、これは人生の、それも自分の人生の「手遅れ感」の予行演習になる。この感覚は、カフカの『掟の門』。かけがえのない人生が過ぎ去って、貴重な時が自分の手からこぼれ去った、あの「取り返しのつかない」感覚に呑み込まれる。

 辺境を守る兵士の話で、いつ来襲するか分からない敵を待ちながら、宙吊りになった日常に埋没していく。大事なことは、これから始まる。だからずっと待っていた。ここに来たのは間違いだから、本気になれば、出て行ける。けれど少し様子を見ていた。習慣のもたらす麻痺が、責任感の強さという虚栄が、自分を飼いならし、日常に囚われ、離れることができない―――気づいたらもう、人生の終わり。

 最上のものを、みすみす逃してしまった。目の前を通り過ぎてゆく幸せを、通り過ぎてゆくがままに放置してしまった自分の愚かしさを、取り返しの付かなさを、ゆっくり、じっくり噛みしめる。わずかな残りの人生ぜんぶを使って、後悔しながら振り返る。

 そして、なにか価値があることが起っているのに、自分は一切関与できない、それも自分から動こうとはしないために。そういう焦りのようなむなしさに苛まれる。そうやって、じっと待ち続けるあいだにも、時は加速度的に、容赦なく流れ去る。

 期待と、言いしれぬ不安と、焦燥の苦しみから解き放たれるような“なにか”を待つのが日常である限り、いつまで経っても、“人生”は始まらない。日々の積分が人生であることに気づかない人が多すぎる(もちろん、わたしも含めてね)。時とは、命を分割したものなのだ。

 若い人こそ読んで欲しいが、分からないかも。歳経るごとにダメージ増、over 40 からスゴ本。人生の選択肢は、若い頃に集中し、歳とるごとに加速度的に減ってゆく。「四十にして惑わず」とは、「めぼしい選択肢がなくなりました」という意味なのだ


 『科学論の展開』チャルマーズ(恒星社厚生閣)

科学論の展開 科学の本質に迫るスゴ本。無批判に科学を信仰する者は悶絶する。

 「科学」とは何か。実験で立証されたから?再現性があるから?反証に耐えてきたから?この問いをハッキリさせ、それに答えようとする試みが、本書だ。帰納や演繹を始め、クーンのパラダイム論やラカトシュの研究プログラム、実証主義やベイズ主義など、科学哲学の議論を噛み砕き、咀嚼し、批判する。それぞれの議論を経るごとに、「正しさ」が時代や文化の影響の下に確立されてきた歴史を見ることができる

 「科学」の確からしさを信じる人は、衝撃を受けるに違いない。「科学」という確固たる観念があって、それが紆余曲折を経てきたのではないことが分かるから。その観念自体も揺れて再定義されてきたのだ。

 いわゆる科学の啓蒙書を読んでも、知識は増えこそすれ、本質には至らない。新刊ばかり追い求め、無批判に「新しい=正しい」罠に喜んで入りたがるのであれば、科学と信仰の区別がついていないに等しい。それぞれの理論がどんな性質で、どのように受け入れられてきたか分かっても、なぜそれを「科学」と言えるのかという疑問を抱こうとしないから(「学而不思則罔 思而不学則殆」を思い出せ)。科学は常に「前へ」向かっているから、いつもアップデートされるものだから、「新しい=正しい」という罠が見えないのだ(深くハマりこんだ人ほど、"進歩"という言葉を使いたがる)。

 科学技術とは、科学呪術なのだ――― そういう、わたしの中の「科学教」にトドメを刺した点でも、凄い。科学は、かなり非連続でゆるやかで、矛盾を孕み、かつ糊塗のさらに上塗りにして成り立っている。厳密な論理に曝されれば保たない概念である一方、それでいて世界を理解し拡張する上で最も役立つ具体的な方法でもあるのだ。科学を定義づける、一般的な言明は、新しい科学知識の中にはなく、そうした問いと答えそのものが、科学を「科学」たらしめていることに気づかされる。

 重要なのでもう一度。本書は、科学の本質に迫るスゴ本





スゴ本2014

 ブログを書くようになり、読む本もずいぶん変わってきた。自分で築いた壁にこもり、食わず嫌いな井戸の蛙になっていたことが、インターネットのおかげで相対化されたおかげ。同時に、本を介して人を知り、その人にもっと凄いのを教えてもらう。このフィードバックを繰り返しながら、ジャンルの拡張&ドリルダウンを進めていった。これは、スゴ本オフやビブリオバトルなど、オフラインでの出会いのおかげ。井を出よう、殻を破ろう、もっとオープンにしよう。

 また、自分で自分の興味を限定し、自分で自分に「ブンケイ」「リケイ」のレッテルを貼るのはやめよう。「ブンケイ」なら文芸しか読まぬ人、「リケイ」だと入門書だけで満足しちゃう人に多いような気がするが、自分に貼らなかったほうのレッテルを貶めるのはやめよう。加齢で硬化した興味を、咀嚼しやすい“入口”本で誤魔化すのはやめよう。それは知性の死だ。

 痛勤電車の現実逃避としても有用だが、わたしを確かにし、わたしを豊かにするのが、読書なのだから。わたしが確かに・豊かになっているのは、昨年までの探索結果を見ると瞭然だ。ラノベからヘビー級まで、ラブロマンスから血みどろ妄執まで、堅いのも柔らかいのも、知的好奇心を限定解除しよう。

この本がスゴい!2012
この本がスゴい!2011
この本がスゴい!2010
この本がスゴい!2009
この本がスゴい!2008
この本がスゴい!2007
この本がスゴい!2006
この本がスゴい!2005
この本がスゴい!2004

 2014は積山の標高を減らしたい。クルーグマン『ミクロ経済学』、ホフスタッター『ゲーデル、エッシャー、バッハ』、レイコフ『数学の認知科学』、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』……一年は短く、読む本は多い。

 わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる。その一冊を、オススメください。

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