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トヨタ・バッシングの正体『アメリカ型ポピュリズムの恐怖』

アメリカ型ポピュリズムの恐怖 アメリカのトヨタ叩きについての「もやもや」が晴れた。これは、アメリカンリスクの教科書として読まれるべきスゴ本。

 そのジャイアニズムやダブスタにはちゃんと(構造的な)理由があることが分かる。なぜヒステリックな反応をしたのか、原因判明にもかかわらず、どうしてケジメをつけられないか理解できる。同時に、トヨタの大人の対応と、是々非々バランス感覚の絶妙さに唸らされる。さらに、アウディ、トヨタの次がどこであれ、どんな対応を取ればよいか教訓が得られる。

 2009~2010年の「トヨタ急加速疑惑」によるトヨタバッシングは異様だった。メディアの扇情報道がオレモオレモ苦情のループを呼んでヒートアップする一方、トヨタを蹴落とす陰謀論がまことしやかに語られていた。どこまでが「事実」で、どこからが「意見」なのか日本のメディアを探しても、「グローバル経営感覚の欠如」や「トヨタの油断や驕り」など、自虐的な報道ばかり。後手・放置プレイの日本政府―――311が強烈過ぎて、きちんと検証してこれなかった真相が、本書で総括できる。

 本書が素晴らしいのは、次の三点の検証が行われているところ。「トヨタ・バッシングの構造的な背景」、「アウディとトヨタの対応の比較」、そしてそこから得られる教訓「アメリカン・ジャイアニズムの御し方」が、深堀りされている。

 まず、トヨタ叩きのバックグラウンド、これはネットで仄聞していた。経営危機に瀕し、大規模な公的支援を受けていたGMが、外国企業のトヨタに追い抜かれるようなことがあっては、ブランドも面目も丸潰れだろう。「巨額の血税を投じて救済する必要があるのか」といった議論が蒸し返され、オバマ政権の政策運営にケチがつくのは必至だった。

 この背景に加え、著者はUAW(全米自動車労働組合)からの視点と、騒動直前に閉鎖されたカリフォルニア州NUMMI工場の事情を解説してくれる。あくまで「状況証拠」に過ぎぬため、ここだけ「……と思う」という歯切れの悪い文になっている(ネットの陰謀論もここを突く)。

 次に、アウディとトヨタの対応の比較は鮮やかだ。大規模リコールに至ったこと、トヨタ車のドライバーが交通事故に遭ったという事実に対し、豊田社長は公聴会にて率直に謝罪。議会との不毛な対決を避け、慎重に言葉を選んで答弁した(トヨタを魔女狩りしたかった“原告”はこれで肩透かしを食らった)。豊田社長は「トヨタ」ブランドへのダメージを最小限に抑える賢い選択をしたのだ。

 これは、1980年代の米国における「アウディ叩き」と好対照を成している。急発進問題をめぐり、メーカー側と米当局が激しく対立した騒動だ。メーカー側は「米国の言いがかり」との対決姿勢を鮮明にしたため、政府と議会とメディアを全面的に敵に回すことになった。結局、原因はドライバーの運転ミスであることが判明したものの、ブランドイメージの悪化は回復せず、アウディの新車販売は激減し、大ダメージを受けたという。

 トヨタは、アウディの教訓から学んだ。反省と謝罪の弁を強調し、顧客の安全を最優先に考えた品質改善に全力を尽くす決意を表明した。だが、重要なのはここからだ。トヨタ側は大規模リコール問題については大幅に譲歩したが、電子制御装置などハイテク技術の問題に対しては、最後まで一歩も譲らない姿勢を貫きとおした。ここは、トヨタに限らず「日本」というブランドそのものだから。全面衝突は避けながらも、全面譲歩はしなかったトヨタの対応は、次に“被告席”に立たされ、責任追及される立場になった日本企業にとっての教科書になる。

 そして、アメリカン・ジャイアニズムについて。二枚舌四枚舌は分かってる、ダブスタに無自覚なことも周知のこと。だが、付き合いをやめるわけにはゆかぬ。アメリカはフェアな国ではなく、フェアであろうとする国なのだ。こことうまく付き合うには、アメリカにとって譲れない境目、フェアのアンフェアの間にある「プライド」が重要だという。

 著者は、司法取引の状況や、「ルール化された」政治献金・ロビー活動を挙げ、アメリカこそが白黒はっきりしない「グレー」の曖昧な部分が多い国だという。駆引きや交換条件、裏取引が通用する、法に則った取引社会なんだね。このグレーの濃淡を最終的に決めるのは、当事者のプライドだ。

 自尊心の塊アメリカ。これを傷つけぬよう、アメリカが掲げる「公平性と客観性」を持ち出して、怒らせない程度に繰り返し、表からも裏からも根気良く、やんわりと物申す―――政府が違うと、別の対応になることを期待したい。

 よく言えば民主主義、悪く言えばポピュリズムに根ざした社会構造は、一部の業界の不満や怒りが、ダイレクトに政府や議会の意向に反映される。結果、米政府は外国に対して理不尽な要求を突きつけるようになる。民主主義が大衆迎合と合体すると、挙国イジメに発展する。そこでは理性の声、正義を求める意見はかき消される。

 ロイターによると、「トヨタが世界販売台数で首位返り咲き確実、2年ぶり」だという。ジャイアンを憂えるのではなく、どうやって付き合うか。学ぶところが数多く得られる良書。


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『時間ループ物語論』はスゴ本

時間ループ物語論 古今東西の時間ループ物語を題材として、現代日本を生きる人々が抱く価値観、人生観へ肉薄する佳作。十年前のテキストサイトでよく見かけたオタ的論述スタイルが、暑苦しく膨大に展開されており、懐かしくも愉快な読書と相成った。

 うる星やつら『ビューティフルドリーマー』や、涼宮ハルヒ『エンドレス・エイト』といったアニメから、ゲーテ『ファウスト』、落語『芝浜』、漱石『それから』、果ては浦島太郎伝説を俎上に乗せ、定義、掘り下げ、類型化、普遍化し、物語の根っこである「願望充足」「カタルシス」にまで至る。

 アニメ、映画、小説、古典、神話……膨大な作品を次々と挙げ、脱線に次ぐ脱線を繰り返しながら語られてゆく、著者独特の「読み」の過程や考察がめっぽう面白い。リアルタイムでエヴァ論を読み重ねてきた人にとって、「時間ループ」はたまらない食材になるだろう。

 たとえば、若返り譚も含めると、ループ物語は古代から前史があったという。日、月、年で繰り返される暦や季節、輪廻転生からの発想やね。そうしたループ物語の原型は、学校や工場に次いでテレビの導入がもたらした近代の時間感覚によって「時間ループSF物語」という一つの定型へ収斂していったという。

 近代以前のループものは個人が時を遡及する話で、『まどか☆マギカ』のような時間全体がループするような物語は無いらしい。それは、時というものは暦のような円環的なものと捉えられていたから。時計の普及、学校や工場がもたらした近代の時間感覚が、時間全体の不可逆性を巻き戻す「時間全体ループ」をもたらしたという指摘はさすが。

 さらに、時間ループ現象はを「問題先送りのメタファー」あるいは「欠落のメタファー」から論じる件も面白い。あの頃をリセットしてやり直せたら、未来を知った上で過去を生きられたらという願望を、「時をかける少女」に託すこともできる。ループしている間は一種のモラトリアムで、これは何でもあるけれど「希望」だけがないユートピア、ニッポンを象徴しているんだと。

 論考はたいへん興味深いが、発想の八艘飛びについて行けなくなる。著者の「読み」に依存した論旨だから、「こうも読める」「ああも読める」とこじつけるのは、面白いけど説得力がない。偉い人(?)の論文を引っ張ってくるのもアリだけど、権威になびくほどのトシでもなし。

 エロゲは触れている程度で、論考の対象外にされているのが残念なり。さらに、ゲーテだけで満足せず世界文学から包囲してほしかった。たとえば『STEINS;GATE』を実際にプレイしたら、本書で分類分けされたパターンを踏破した先、ぜんぶの未来を潰したさらにメタのループをどう評価するだろうか。(観客も巻き込んだ)主観時間のループを重ね、妻殺しの真相を暴いてゆく映画『メメント』や、すべての可能性の分岐可能性を可視化させたボルヘス『八岐の園』、永劫回帰は「ループ」ではなく現在の近似値であることが分かるクンデラ『存在の耐えられない軽さ』を思いつく。「時間ループ」で物語を解くのではなく、「物語ループ」で時間感覚を捏ねくっても愉しい。

 ただ、暗い世相と同化して閉塞感あふれる自分のキモチを正当化するために、「成長しない時代を生きる」言い訳として時間ループを持ってくるのはいただけぬ。「日本人はもう欲しいものがない」「もう成長しない日本」と断じ、右肩下がりのニッポンで、いかに日常を楽しく過ごすかの手立てとして「時間ループ」を消費しちゃうのも勿体ない。どこか傍観者のように虚無的な姿勢は、しらけ世代の三無主義そのもの。これまでのヲタ経験で思春期を上書いているようで、嬉し恥ずかし似たもの同士。

 物語は、問題を明確化し、論点を見える化してくれる。「時間ループ」はもっと広く深く使えるツールとして遊べる。半分賛同、半分は強力なヒントをもらえる一冊。

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