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オーウェルを、開高健の名訳で『動物農場』

動物農場 夜更けに、大人が、暗澹として読む寓話。

 人間の搾取に叛乱を起こした家畜たちが、理想の共和国を築くが、指導者の豚に裏切られ、恐怖政治に取り込まれてゆく。深まる圧政のなか、こんなことのために闘ったのではないとつぶやきつつ、恐怖と、素朴と、信条そのものに対する善意からして、独裁者を疑い疑い、どこまでも従順についていく。

 ドヤ顔の豚が目印の角川文庫で読んだのだが、開高健の翻訳と聞いて飛びつく。ヒリヒリした風刺や、悲惨なユーモア、痛烈な欺瞞に暗澹とさせられる。このテーマは、寓話としてしか書けないし、寓話としてしか読めない。これが現実のルポならば、死屍累々の粛正の結果になるだろうし、でなければ政府声明のプロパガンダを読まされることになる。

 初読時は、社会主義の風刺譚だと独り合点していた。シュプレヒコールやスローガンが似ているために、レーニンやらスターリン、トロツキーの像を、それぞれの動物に当てていた。

 しかし、開高氏によると、それではこの作品はただのアテコスリや政治漫画にすぎないことになる。ちょっとスローガンを入れ替えてみたまえ、すると、同じ動物たちに、ヒトラーやレームやロンメルを読み取ることもできるし、孫文と蒋介石だって読み取れるというのだ。

これは左右を問わず、あらゆる種類の革命が権力奪取後にたどる変質の過程についての寓話で、寓話であるからには最大公約数なのである。宗教革命史、社会革命史、どの時代のどこの国でもいいから一冊ぬきだして注意深く読んでみる。叛乱の発生、爆発、成功、平和の回復、やがてめだたないちょっとしたところから起って全体にひろがっていく変質、そしてやがて気づいてみれば事態が、かつて“敵”としてものにいかに酷似した地点にきてしまったことか。
 裏切られてもついてゆく動物、また反乱を起こす動物、亡命する動物、ゴマスリをする動物、スローガンを繰り返すだけの動物……古今東西の革命に登場する諸人物と役割が全て描かれている。政治的独裁、あるいは革命というものの辿る運命を描いているというのだ。サイズは小粒ながら、ここ数年の政権の取り巻き連中に、同じものを見ることができる。本書に出てくる動物たちよりも滑稽に思えるのは、わたしの中でカリカチュアライズしているからだろうか。

 政治を文学が扱うとなぜかしらたいていは失敗するという。スタンダールは「文学で政治を扱うことは、音楽会でピストルをぶっぱなすこととだ」と言ったとか。開高氏は政治を扱った小説で成功したという例外として、アナトール・フランス『神々は渇く』、サマセット・モーム『昔も今も』、山本周五郎の『樅の木は残った』を挙げる(ちなみに、オーウェルの『一九八四年』は生に捉えすぎて失敗作らしい)。わたしはこれに、安部公房『良識派』を入れたい。寓話は政治を語るのに格好の道具だからね。いずれにせよ、政治を扱った最高傑作としてジョージ・オーウェル『動物農場』なのは激しく同意する。

 「むりやり天国を作るなら、たいてい地獄ができあがる」を地で行く。恐ろしいのは、地獄にいる自覚がないこと。堕落と退廃をとうに悟っているくせに、新しいスローガンが掲げられればまたぞろその後についていく。今度は何に「ハンタイ」する?

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