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数学は正しいか『数学の想像力』

数学の想像力 数学の「正しさ」について、ぎりぎり迫った一冊。

 何によって数学的な「正しさ」を認識するのか、その根拠とでもいうべきもの、正しさの深層にあるものを掘り起こす。

 本書の結論はこうだ。数学の正しさの「規準」は明快だが、正しさの「根拠」は極めて非自明である。そもそも「正しさ」に根拠などというものがあるのか?この疑問への明快な解には至らないにせよ、そこへのアプローチにより、数学の「正しさ」が少しも自明ではないこと、そしてその非自明性が数学を柔軟性に富んだものにしている―――この結論のみならず、そこへ至る議論の数々が、読み手に知的な揺さぶりをかけてくる。数学の正しさを疑わない人には、頭にガツンと一撃を喰わされる。

 もちろん数学は「正しい」。[Wikipedia]によると、数学とは「いくつかの仮定から始めて、決められた演繹的推論を進めることで得られる事実(定理)のみからなる体系の研究」である。そこにおける「正しさ」とは、予め決められた定義や公理の組み合わせから外れていないこと、(もしくは新たな概念を導入する場合)元の体系との整合性がとれていること、になる。この世界にいる限り、その「正しさ」は疑いようもない。だが、この世界を知らない人は、どうやってその「正しさ」を理解するのだろうか。

 例として著者は、ソクラテスの問答を示す。無学の少年に、正方形の倍積の原理を伝える対話だ。まず、対話を成立させるためには、ソクラテスと少年は、共通の世界に住み、共通の言語を話す基盤が必要だと説く。倍積を示した図といくつもの対話を通じ、ついに正しさの理解まで到達する。

 この過程を通じ、著者は、「見る」行為こそが証明の決済となっていることを指摘する。「見る」ことによって得られる認識は、普遍的な「正しさ」についての揺るぎない直感に限らず、見られた普遍的対象についての強い実在感をも伴うと主張する。

 一方で、「見る」という直感を排除しようとしたユークリッド原論を紹介する。そこでは、曖昧さを取り除いた定義や公理という形で事前に準備しておき、議論の本体ではこれらを出発点として淡々と事務的に流れてゆく。そこに留保される「正しさ」は、演繹的論証というスタイルに基づいた「様式化(儀式化)された正しさ」だという。

 まとめるとこうなる。著者は、「正しさ」を確信させるための基本的要素として、以下の三つを掲げる。そして、人類が数学をどのように理解してきたか、数学はどのように正しさを主張してきたかを、西洋、インド・イスラム、日本の数学の歴史を振り返りながら解いてゆく。

 基盤 : 共通の世界に住み、共通の言語を話すという前提
 流れ : 修辞的論証・対話や、計算・計算手順などの論理過程
 決済 : 議論の落としどころ、往々にして直感的

 数学の正しさは、基盤・流れ・決済といった「お約束」によって立つ。それは、最初は直感的な理解に則っていたとしても、数学が「進歩」するにつれ、直感からは極力離れた、お約束だらけの世界に支えられていることが分かってくる。

 著者はさらに、数学はそれを発展させてきた文化や社会での共通的な了解に依拠しているという。ある概念がはっきりと忌避されたり重視されたのは、普遍的な正しさが存在するのではなく、その社会で「何をもって“正しい”とみなすか」について異なっているから。

 例えば、アルキメデスら古代ギリシアの数学者たちは、無限に対する強い心理的抵抗から、無限を回避する路を選んだという。そのために背理法による証明を開発したわけ。つまり、計算を証明で置き換え、「証明はしたが計算はしなかった」というのだ。無限を孕んだ等式を「計算で導く」という発想はなかったことが、古代ギリシアで微積分学が発見されなかった要因の一つとまで主張する。

 また、インド数学は物事を計算ベースへ抽象化し、一度その枠組みに翻訳したら、後は淡々と機械的な計算手順を遂行する傾向にあるという。彼らにとっての議論の「流れ」とは、まさに計算だったのであり、証明という議論の形体は必要なかったと述べる。計算手順を劇的に簡略化させた、ゼロという位の発見のルーツはそこにあるのだというのだ。

 さらに、イスラム数学は、論理重視の演繹数学と計算重視のアルゴリズムをブレンドする好位置にあったという。その結果、イスラム代数学は数学全般の算術化の第一歩を踏み出した。「数学の算術化」という流れは近代西洋数学や現代数学にまで続けられることになる。実際、アルキメデスによって証明された円の面積や球の体積は、後に近代西洋数学の微分積分を用いて計算できるようになる。

 一方、和算は独自のスタンスをとっていたようだ。著者は、建部賢弘による円周率の計算を紹介し、現在ではロンバーグ法と呼ばれる手法を二世紀も先取りしていることを示す。ところが和算の真髄は、「遊び」なのだという。「無用の用」「芸に遊ぶ」、これが和算家の理想といい、古代ギリシアの「真理」への厳格な哲学探究と対照的だと述べる。確かに、無理数の発見者を処刑したピタゴラス派の逸話は、数学の解法を絵馬として奉納した算額の伝統とは好対照を成している。

 数学史をたどりながら、数学の「正しさ」の理解のされ方を比較してゆく。いかに抽象化が推し進められ、どんなに変貌を遂げたとしても、数学は日常的な事物と連続性を保ち続けるという。「正しさ」がどんなに様式化されたとしても、そこには必ず何らかの具体性と普遍性を保つとまで言い切っている。

 冒頭の「数学の“正しさ”の根拠とは何か?」には、答えられていない。著者は正直に告白する。

ゲーデルの不完全性定理が示すように、「内的整合性」という規準は原理的に立証不可能なものであるその意味では、「数学が正しい根拠は何か?」という問いにまだ答えられていない。数学の「正しさ」における「理性と信仰」という両義性を乗り越えられてはいない。
 数学は信仰なのだろうか?著者は前提つきでYESという。数学を一つの巨大な知的ゲームとみなし、公理をそのルールと見なすなら、「内的整合性という客観的な規準への信仰」こそが現代的な「信仰」の姿だというのだ。

 カッコ付であれ「信仰」とまで言われると、さすがに語弊があるだろう。だが、無理数や虚数を“発見”し、紆余曲折の末、そこまで積み上げてきた数学に呑み込んでゆく過程を眺めていると、(存在を実感することはないにせよ)理解と感覚の間を埋めているのは、正しいという“確信”なのかもしれぬ。

 数学の「正しさ」の変貌と普遍を同時に確信しながら、自分の数学への確信を揺さぶられるスゴ本。

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