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アートは欲望に宿るのか?『欲望の美術史』

欲望の美術史 口にするのは憚られるが、ずっと思っていたことを直球で言い切った本。アートと欲望の深い関係が見える。

 もちろん立派な「創作欲」という言葉があるが、本書で挙げられているのはそんな高尚なやつではない。ありがちな性欲、食欲、金銭欲から、根深い嫉妬や名誉、さらに闘争心や恨み・恐怖など、極めて身近な感情にドライブされて、美が生み出される。

 納期と罵声と安値に叩かれるインプットから、どす黒くてドロドロした何かを経て、美麗なグラフィックが誕生する現場図を見たことがある。あれはウェブやゲーム製作の話だけじゃないんだ。美が売り買いされるようになったあたりから、連綿と続く「欲望の歴史」でもあることが分かる。

 本書は、美術を生み出し、求めるときの様々な欲望に焦点を当て、美が生まれる原点を渉猟するエッセイとなっている。面白いのは、絵画や彫刻といった一般的な美術作品に限定していないところ。「絵馬」や「刺青」といった、通常は美術と見なされない特殊なジャンルまで目配りしており、非常に刺激的な作品が並んでいる(ボルハのキリスト修復画が大真面目に紹介されていて笑った)。

 たとえば、性欲といった分かりやすい欲望については、ヌードの“危うさ”という視点から切り込む。著者はまず、ヌードとは、「理想化された裸」であり、「ありのままの裸」はネイキッドという定義から始め、人体こそ美の基準とした古代ギリシアの例を引く。

 そしてヌードと猥雑の境界線の拮抗を、「腕を広げて横たわる裸婦」(モディリアーニ、1917)で示す。裸婦に黒々とした陰毛が描かれていたことが問題となったからだ。わたしくらいのオッサンになると、黒木香の腋毛や『Santa Fe』の陰毛を想起するが、欲望とモラルが衝突・融合・昇華した、まぎれもない美術作品と思う。

 また、「嫉妬」が、『ゲルニカ』(ピカソ、1937)を彩っていることを知って驚く。ゲルニカの背後に、オンナの泥沼劇があったというのだ。パブロ・ピカソは、愛人が替わるたびに作風が変わったといわれ、様々な女性がピカソの豊潤な作品世界にたち現れている。

 ある日、ピカソの二人の愛人が仕事場で鉢合わせ、つかみ合いの激しい喧嘩となったが、ピカソはなすすべもなくそれを見ていたという。その様子が、『ゲルニカ』の画面左端で子どもを抱いて泣く女性に表れているという。色恋沙汰や恋愛感情を超えた、どろどろした愛欲を、全然関係無いような美術作品からムリヤリ垣間見る。美は欲からひり出されるんだね。

 一般に、金銭へ執着し、貪欲な芸術家ほど、数多くの優れた作品を遺しているという。これ、何かのスケールで統計分析したら面白い(でもまっとうな)結果が得られそう。芸術家は己の純粋な創作意欲のみに従って創作し、見返りなど頓着しないと思われがちだが、まったくの幻想であることが分かる。

 本書では『枯木寒鴉図』(河鍋暁斎、1881)がその例として挙げられている。この簡素な水墨画に百円という破格値がついたが、速攻で売れたという(「昔の1円は今の何円?」によると、今の百万円)。あまりに高すぎるという非難に、「これはカラスの値段ではなく、長年の画技修行の値なのだ」と応えたという。「15分で描いたスケッチが5000フランとは高すぎる」という依頼主に、80年+15分の報酬だと返したピカソの逸話を思い出す。

 他にも、美を生み出す様々な動機が俎上で捌かれる。王の権力を強化するためのイメージ戦略としての絵画や、戦意高揚として利用されてきた戦争画は、背後の意図が丸見えだ。

 背後の感情に目を遣ると、異なる様相を帯びてくるのも面白い。空間恐怖症の患者が濃密に書き込んだ作品や、幼くして死んだ子の鎮魂画(なかったはずの結婚式のムサカリ絵馬)は、込められた感情が胸に迫る。日本の刺青は、本人の自意識と他者の眼差しとの相互関係の上に成り立っているという分析に膝を打つ。阿弥陀如来画とキリスト教の往生術の挿絵を比較して、それぞれの「死との向き合い方」の違いが示されており、翻って"自分の死"ならどっちのアプローチが好き?と考えさせられる。

 作品そのものの"美"ではなく、背後にある感情に着目すると、美が生まれる瞬間には、必ず欲望が寄り添っていることが分かる一冊。


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「遊び、ゲーム」のスゴ本オフと「スポーツ」のスゴ本オフ

好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合うスゴ本オフ。今回「も」趣向を変えて、二本立てで行きますぞ。

 とき 2013年7月28日
 ところ 東京都千代田区麹町

「遊び、ゲーム」のスゴ本オフ(13:00~17:00)

大人と子どもが一緒に遊ぶオフ会。絵本を読んだり、ゲームや遊びをしながら、オススメの本を紹介する『プチ』スゴ本オフ。参加費500円、定員20名。

「スポーツ」のスゴ本オフ(18:00~22:00)

「スポーツ」をテーマやモチーフにした作品を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会。もちろん子ども連れもOK。書籍に限らず、マンガ、写真集、映画、音楽なんでもOK。最後に持ち寄った作品をシャッフルしますが、放流できないモノは紹介するだけでもOK。参加費2000円、定員20名。

詳細・申込はリンク先のfacebookイベントページをどうぞ。

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「悪」は見る人に拠る『悪の哲学』

 時代と場所で、悪が変化する様相が透け見える。

悪の哲学 ちくま哲学の森アンソロジーで、「悪」をテーマにした論文、随想、小説が集められている。先人の思索の跡を訪ね、遺された一つ一つから自分の「哲学」を紡ぎ出す、温故知新ど真ん中のシリーズ。『生きる技術』に次いで手を出す。

 選者の妙が素晴らしく、「悪とは何か」が考えぬかれている。人の悪意のえげつなさを狙った小説から、周辺を徘徊しつつ悪人との距離感を推し量るようなエッセイまで、様々な「悪」を試すことができる。

 例えば、簡潔な文で残酷な運命を描くフラナリー・オコナーからは、『善良な田舎者』が入っている(傑作『善人はなかなかいない』は尺が長すぎるから外れたのだろう)。「この物語は読者にショックを与えるが、その理由の一つはこの物語が作者にショックを与えるからだ」というメッセージが冒頭に警告のように与えられるが、望み通り(?)鮮烈な衝撃を受けた。厭な悪夢のように、折に触れて思い出してしまうだろう。

 ラス・カサス『エスパニョーラ島について』にダメージを喰らう。15世紀の中南米における、キリスト教徒の残虐行為を告発した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』からの一章になる。虐殺、強奪、暴行の数々を、感情を排した筆致で描く。老若男女を一撃で殺せるか賭をする。身重の女の腹を割く。母親から奪った乳飲み子の足をつかんで岩に頭を叩きつける。救世主と使徒を崇めるためといって十三人ずつ吊るし(ぎりぎり足が届く)、生きたまま焼殺した。これだけの非道行為に、「悪」という形容が交じらないところが恐ろしい。

 悪という共通的な観念について集めたにもかかわらず、矛盾した主張が飛び交っているのが興味深い。聖人アウグスティヌスが「してはならぬことをして喜び、それが愉しいのは、してはならないから」と述べる一方で、独の大量殺人犯ペーター・キュルテンは、「単に悪への喜びから犯罪を犯すものはいない。つねに何かがこれに加わる。その何かは、当人の咎ではない」と告白する。悪とはバラエティに富むのだ。

 一見、「悪」と見まごうテーマもある。植民地主義がでっちあげたアルジェリア民族の特徴を指弾するフランツ・ファノンのアフリカ版「オリエンタリズム」や、「貨幣は目に見える神であるであり、貨幣は人類の外在化された能力である」というカール・マルクスの小論文は、読み手が悪のありかを探さなければならない。

 読者自身が「悪の哲学」で悩むのも愉しい。つまり、「わたしならこれを入れる」を頭に、比較しながら読むのだ。モーム『困ったときの友』があるなら、安部公房『良識派』を入れたい。ニーチェやアウグスティヌスで「悪」を探すなら、エーリッヒ・フロムやシュタイナーの「悪について」が欲しい。武田泰淳を出すなら、筒井康隆を入れたくなる。

 このテーマだけで一連のシリーズができそうだ。性的な、人類としての、史上○○の、現代の、想像上のetc...様々な「悪」を発見する。何をもって「悪」にするかは、見る人によるのだ。

 バラエティー豊かな「悪」を発見する一冊。

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人生は、競馬だ『優駿』

 夢中本、これは面白い。大切な人に読んでほしい、大切な逸品。

優駿上優駿下

 とはいっても、けして美しい話ではない。一頭のサラブレッドを中心にした群像劇だが、どいつもこいつもロクでもない。女はビッチで男は亡者、それも銭だったり馬だったり権力だったり、様々な欲と修羅を抱えている。

 だが、人間臭ければ臭いほど、サラブレッドが崇高に見えてくる。夢だの祈りだの、粘ついた欲望を綺麗に言い換えただけの願望を背負い込まされた馬が可哀想だ(この「馬が可哀想」というのも、わたしの勝手な想いだね)。そういう人間の弱さや悪意・狡猾さと、サラブレッドの美しさと闘争心が、見事なまでに対比をなしている。

 構成が見事だ。優駿「オラシオン」を真ん中に、牧場主の息子、馬主、娘、秘書、そして騎手それぞれの視点が、章ごとに入替わり、全部で十章を為している。これは第1レースから第10レースを指しているのではないかと。そして、最終レースの日本ダービーが終章、すなわち第11レースを暗示しているのかも。

 それぞれの“現実の章”と“夢の章”を描きながら、誕生や老い、病から死の四苦と、離別、憎悪、不得そして存在の苦を加えた八苦が練り込まれており、“狙って”書いているなぁと感心させられる。

 さらに面白くさせているのが、どちらも血を媒介とした運命と必然に彩られているところ。優れた血統を求めるサラブレッドは当然として、登場人物の運命に隔世遺伝や親の呪いが混ざり込んでいる。科せられたものから逃れるため、もがき、逃げ、追い、まくる。見事に逃げ切る人、宿命に差される人、運命と沈没する人がいて、これは馬にかこつけた業の縮図になる。

 登場人物に口寄せて、作者の思いが吐露されるのが愉しい。それぞれのキャラに言わせる名文句に、「サラブレッドの哀しみ」が共通しているから。

生き物はみなそれぞれに美しい。だが人為的に作り出されてきた生き物だけが持つ不思議な美しさというものが確かにある。サラブレッドの美しさが、その底に、ある哀しみに似たものをたたえているのは、他のいかなる生き物よりも過酷な人智による淘汰と、その人智だけでは到底計り知ることの出来ない生命の法則との対立によって生み出されて来たからなのだ
 このセリフを言う人自身が、「過酷な人智による淘汰」や対立に呑み込まれる。オラシオンと向き合うセリフは、言ったその人に降りかかる。恐ろしい暗喩だと思って読むとじわじわくる。

 馬で業を描いた傑作。もっと早くに読めばよかった。

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人生は芸術を模倣する『新訳 チェーホフ短篇集』

チェーホフ短篇集 「これはいい、胸にクる。だが、若い人には分からんだろう」、そう言えるくらい齢とってしまったことに愕然とする。

 人生は変わる。人も変わる。なのに、記憶だけは変わらずに追いかけてくる。ふいに思い出した若かりし日々の言動に、夜、独り身悶えしたり、もう何度目かの後悔を繰り返す。懐かしく痛々しくて情けない、そういう想起のよすがとして、チェホフは、恐いくらいに効いてくる。

 かつてのラノベがそうだった。押しかけ女房ヒロインや、ハーレム展開なんてありえない。だけど、そんなシチュに気持ちを重ねて共鳴する。好きだと言えずに初恋は、「すき」という言葉の戯れだけだった。「萌え」はバーチャル、リアルは「燃え」だった。そんな残滓や焼けぼっくいに、チェホフは、容易に点火する。

 「こんな女いるよね?」「いるいる!」と大きな声で言えなくなってしまったのが、『可愛い女』(『かわいい』と改題されてた)。なぜ声を潜めるのかというと→「彼女はいつだって誰かのことが好きで、好きな人なしではいられなかったのだ」。そして、いわゆる「あなたの色に染めてください」という女なのだ。惚れっぽくて、一途で、相手の受け売りばかりで、およそ「自分」というものがない。

 これを、愚かしいとか滑稽だと可笑しがった瞬間、某所から猛攻撃を喰らうだろう(発表当初も女性からの反発があったらしい)。一方で、これこそ理想の女性だ、素晴らしいと賞賛したのがトルストイ。自分を捧げて人を愛する行為は神聖で、神に近づけるとまで言ったそうな。

 もちろん、(昔も今も)彼女のような女は少ない。だが、振り返ってみると、確かにいた。そして、この『可愛い女』に自分がどう感じ、何をしたかを思い返すと、顔から火が出るという表現が適切だ。そういう、過去を掘り起こされるような普遍性を持っている。

 最も素晴らしいのは、『いたずら』という掌編。ほんの数頁の小話で、人生の酸いも甘いも味わわせてくれる。純白の雪に包まれた丘で、「ぼく」とナージャがそり遊びをするひとときと、その後日談。

 そりが奈落へ滑り落ち、トップスピードの突風の中で、「ぼく」はナージャにささやきかける。「す・き・だ・よ、ナージャ」。その告白は風なのか、空耳なのか、勘違いと思い込みで舞い上がる娘が可愛らしくいじらしい。『いたずら』という題が示すとおり、これは「ぼく」の戯れなのか、それとも漏れ出た本心か。

 面白いことに、ナージャの未来は「選べる」。そり遊びからかなりの時が経ち、「ぼく」はナージャにあることを、する/しない。それぞれは、二つの未来として並べられる(そう、ギャルゲのエンディングのように)。そしてもっと味わい深いことに、どちらも「あったかもしれない」未来で、どちらを選んでも甘くて苦い。読み手がおっさんなら、どちらも「あったかもしれない」過去のはず。悶えろ、萌えろ。

 ラノベを読むのは「ありえない過去」を追想するためで、チェホフを読むのは「あったかもしれない過去」を追創するため。チェホフを読むと、人生は確かに芸術を模倣していることが分かる。

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『神々の山嶺』は徹山小説

 徹山小説=徹夜するほど面白い+山岳小説。

 上下巻の1000頁、一気に読める・止まらない。2ちゃんねらが絶賛してて、blogやfacebookで猛烈プッシュされ、「さすがにハズれないだろう」と気軽に手にしたが運の尽き。

神々の山嶺上神々の山嶺下

 前人未到の「エベレスト南西壁冬期無酸素単独登頂」に挑む伝説のクライマーを描いた話なのだが、ラノベのように軽やかに青臭く、おっさんたちの生きザマを泥臭く描く。読むと心の奥に火が点けられ、ずっと昔に封印した「自分は何のために生きているのか」そして「自分が本当にやりたかったこと」を沸々と思い出す危険な副作用がある。

 しかも、ただ「山に登る」だけを単線的に描いていない。ジョージ・マロリーがエヴェレスト初登頂を成し遂げていたか、という登攀史上最大の謎解きに呑み込まれたり、陰湿で痛々しい人間関係のドロドロに絡みつかれたり、生活のために夢を矮小化させている自己欺瞞を暴かれたりと、なかなか忙しい。手に汗握る、抉られる読書になるだろう。

 そういう、汗臭さが滲み出るのと対照的に、そこから離脱し高みに昇ってゆく山が、ひたすら崇高に見えてくる。それでも、あいかわらず、人の熱や念じみたものが抱えられてゆく。というよりも、そういう人臭さがないと、登ってゆけないのかもしれぬ。

 「山」の話なのだから、登山に馴染みがないとハマれないか、というと全然ちがう。山にのめり込み、注ぎ込み、これしかないと思っていた自分が、時が経ち、金を稼ぎ、生活に削がれ、磨り減ってゆく人生と向き合わざるを得ないとき、どう向き合うのか。

 このテーマだと、「山」と「生」が見事にオーバーラップする。登山というドラマを使って、夢枕獏は、「なぜ登るのか」という繰り返されてきた問いかけを「なぜ生きるのか」の代わりに突付けてくる。読み手は「なぜ登るのか」に向き合わされる登場人物の心胆に同調しつつ、その裏面の「なぜ生きるのか」に直面させられる。昨年のNo.1スゴ本、『垂直の記憶』(山野井泰史著)を彷彿させる一節はここだ。

死にゆくために、山にゆくのではない。むしろ、生きるために、命の証しを掴むためにゆくのだ。その証しとは何かが、ぼくにはうまく語れない。山にいる時、危険な壁に張り付いている時に、ぼくはそれを理解しているのに、町に帰ってくると、ぼくはそれを忘れてしまう。考えてみれば、山にゆくというのは、それを思い出すためにゆくようなものだ。

 ここまで来ると「○○のために登る」というのは無い。山に何か良いものでも落ちているわけじゃない。"何か"のために山に行くんじゃないんだ。換言するなら、「○○のために生きる」という目標があるか!?と自身に問いかける。家庭やら仕事やらを持ち出してきてもいいが、それらは全て「生き甲斐」のカテゴリ。生きた「結果」、生きててよかったと言えるもの。そうじゃぁないんだ、生きる目的なんてない。できることは、ただ「生きる」だけ。

 でもね、もし"それ"(=生きる/登る目的)が見つけられたら、限りなく幸せだと思わなければならない。いや、ひょっとすると、限りなく不幸なのかもしれぬ。自分も周りも、ぜんぶ突っ込んで、"それ"を果たす───言い換えるなら、それを果たすために[生き/登ら]ざるを得ないのだから。

 これは、まちがいなく「面白い」と断言できる小説。言い換えるなら、これが次点なら頂点を見せろ、いや見せてくださいお願いします、と断言できる傑作。

 エヴェレストで撮影された動画を見つけたのでメモ。

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方程式というパラダイム『世界を変えた17の方程式』

世界を変えた17の方程式 17の方程式で語る知の歴史。

 地図の作成からGPSナビゲーション、CDやテレビ、原爆や優生学やデリバティブなど、善し悪しともかく現在の世界を作り上げた「方程式」が主役の話。

 著者はイアン・スチュワート。数学の本質が抽象化であることをユニークに示した『分ける・詰め込む・塗り分ける』や、生物学を塗り替えようとする現代数学に迫る『数学で生命の謎を解く』など、少なくともわたしにとっては歯ごたえありまくりの、しかし深い知見と新たな視線が得られる良本を書いている。

 著者曰く、「方程式は、数学、科学、工学のいわば血液である」。もちろん数式よりも、「言葉」の方が一般的で強力だろう。だが、科学や工学からすると、言葉はあまりに不正確で限界がある。言葉だけでは、人間レベルの前提が立ちふさがり、ノイズが多すぎる。そのため、根本的な理解や洞察を得ることができないが、方程式ならできる。方程式は何千年ものあいだ、人類文明の一番の推進役だったという。

 出てくる方程式は、おなじみのピタゴラスの定理をはじめ、対数、微積分、トポロジーなど純粋数学のもの、正規分布や波動方程式など数学を応用したもの、ニュートンの重力の法則や量子力学のシュレーディンガー方程式など自然科学の法則を表したもの、さらには、経済の新たな趨勢と破局のきっかけとなった強烈な奴まで含まれている。

 どの方程式に対しても、下記を共通して解説してくれる。おかげで、わたしの頭ではレベルの高すぎても、大づかみすることができる。

 ・方程式に出てくる記号のそれぞれの意味
 ・その方程式が何を表わしているのか
 ・なぜその方程式が重要なのか
 ・そこから何が導かれたのか

 では、方程式とその説明が延々と続くのかというと、違う。ここからがイアン・スチュワートの真骨頂で、様々なエピソードを繰り出しては、方程式が人々の「考え方」に与えたインパクトや、覆された“常識”をあぶりだす。

 例えば、正規分布の章。良いモデルだからといって鐘型曲線を前提とし、IQを人間の能力の正確な測定値とみなす考え方を批判する。「現実の抽象化⇒モデリング」は、物理科学では重要だが、社会科学でモデルと現実と一緒くたにする傾向に警鐘を鳴らす。遺伝や人種と知性との関係という微妙な問題に踏み込み、優生学や移民規制の問題まで拡張する。数学は強力な道具であり、使い方を誤ると恐ろしい結果を招くことがよく分かる(数学は嘘を吐かないが、嘘吐きが数学を使う)。

 あるいは、波動方程式の章。わたしの頭では波動方程式を読み解くまでには至らなかったが、「音楽は文化である」一つの証拠を手に入れた。それは、振動数が単純比でないsin波を重ね合わせると、「うなり」と呼ばれる効果が生じる説明にあった。波形が「ギザギザ」なのに、なぜハーモニーをなして聞こえるのか?著者は、「入ってくる音に対し耳自身も振動するから(結果的に調和を為す)」という理由の他に、「耳は最も頻繁に聞こえる音に適応する」という説明をする。

 それはこうだ。耳から脳への神経接合よりも、脳から耳への神経接合のほうが多く存在するため、脳のほうが、入ってきた音に対する耳の反応に合わせるというのだ。つまり、どんな音を調和していると考えるかは、どんな音を頻繁に聞いているか、即ち文化的側面によるところが大というわけ。

 他にもまだある。アメリカのサブプライムローン問題を発端とし、世界金融危機を招いたブラック=ショールズ方程式や、3.11の福島原発事故に深く関わる対数式など、数式事態はなじみ薄だが、実は極めて今日的な方程式が出てくる。方程式は、見えないどころか、あらゆるところで応用されており、わたしたちの考え方そのものもがっちり規定してしまっていることが、よく分かる。

 人類の進歩を17の方程式で語った物語、ご堪能あれ。

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40超えたら突き刺さる『タタール人の砂漠』

タタール人の砂漠 ある種の読書がシミュレーションなら、これは人生の、それも自分の人生の「手遅れ感」の予行演習になる。若い人こそ読んで欲しいが、分からないかも。歳経るごとにダメージ増、over 40 からスゴ本。

 この感覚は、カフカの『掟の門』。かけがえのない人生が過ぎ去って、貴重な時が自分の手からこぼれ去った、あの「取り返しのつかない」感覚に呑み込まれる。

 大事なことは、これから始まる。だからずっと待っていた。ここに来たのは間違いだから、本気になれば、出て行ける。けれど少し様子を見ていた。習慣のもたらす麻痺が、責任感の強さという虚栄が、自分を飼いならし、日常に囚われ、もう離れることができない―――気づいたらもう、人生の終わり。

神を見た犬 カフカの再来と称されたブッツァーティは、『神を見た犬』でも示すとおり、寓意性の高い幻想譚を描く。物語の面白さにうっかり釣り込まれると、極めて当たり前の、普遍とも言えるメッセージを突付けられる。普段なら目を逸らしていた事実と対峙させられ、気づいたら逃げられない。ほとんど恐怖に近い感情を覚えながら、ストーリーとともに苦い読後感をいつまでも引きずることになる。

 最上のものを、みすみす逃してしまった。目の前を通り過ぎてゆく幸せを、通り過ぎてゆくがままに放置してしまった自分の愚かしさを、取り返しの付かなさを、ゆっくり、じっくり噛みしめる。わずかな残りの人生ぜんぶを使って、後悔しながら振り返る。

 そして、なにか価値があることが起っているのに、自分は一切関与できない、それも自分から動こうとはしないために。そういう焦りのようなむなしさに苛まれる。そうやって、じっと待ち続けるあいだにも、時は加速度的に、容赦なく流れ去る。

 阿久悠の言葉に、こういうのがある。読中、何度もリフレインしていた。

  夢は砕けて夢と知り
  愛は破れて愛と知り
  時は流れて時と知り
  友は別れて友と知り

 だが、遅すぎた。何も始まっていなかった人生であることを、人生の最後になって知るということは、なんと残酷なことか。これが、自分の人生でなくてよかった。確かに日々は短調な積み重なりにすぎず、むなしく時が流れてゆくのみ。

 期待と、言いしれぬ不安と、焦燥の中で宙吊りになった苦しみから解き放たれるような“なにか”を待つのが日常である限り、いつまで経っても、“人生”は始まらない。日々の積分が人生であることに気づかない人が多すぎる(もちろん、わたしも含めてね)。時とは、命を分割したものなのだ。

 これが物語でよかった、わたしの人生でなくて、本当によかった。

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時間を可視化する『時間のデザイン』

時間のデザイン 「時間」とは何か、時間をデザインするとはどういう営みか―――第一線で活躍するデザイナーたちの、「時間」に向き合うインタビュー&事例集。建築や写真、アートといった“形体”を追求する人々なのに、それぞれの信念の裏側に共通した観念があることに気づく。

 それはこうだ、「空間をデザインすることは、時間をデザインすること」。すなわち、時間をデザインすることは、空間として時間をかたちにする(可視化する)ことであり、そこでの人間の「生」を演出することに他ならない。この「時間」に対し、瞬間、履歴、遷移、蓄積、密度といった16のキーワードから読み解こうとする。

 たとえば、都市設計に「リズム」の要素を取り入れた、「オリンピックと都市の研究」がある。開発に投入された資本や人の集積は、都市の新陳代謝と呼べる。一定の律動で代謝を行うはずが、オリンピックの開催により、特定の時期に資本・人・政治権力までが極端に集中し、リズムが乱れることになる。この不協和音を、どうやってもとのリズムに合わせることができるか、それが都市のマクロレベルでのオリンピック後の課題になる。

 あるいは、「瞬間」をデザインした事例として、『富嶽三十六景』と『あしたのジョー』が比較される。『富嶽三十六景』のように単独の絵で“瞬間を切り取る”のに対し、漫画の“瞬間を切り取る”表現は、複数のコマを並べた連続的なストーリーから構成され、前後のコマの大きさや配置、テキスト表現などあらゆる要素が、ある「瞬間」を際立たせるために機能する。『あしたのジョー』のクロスカウンターの場面はあまりにも有名だが、そこに至るまでのコマがあってこその、あの一瞬が焼きついているのだ。

 「持続」というシステムを、「学習机の囲み空間による集中力に関する研究」から解いているのが面白い。これは、生徒の机の回りに囲いを立てることで、「囲み空間」をつくりだし、囲み空間の大きさと、生徒の視線の動き、心拍、体の揺れの関係を調査したものだ。高さのある囲み空間は圧迫感があるのではないかと懸念されたが、逆に「落ち着く」「安心する」らしい。大きな囲み空間では集中力の持続が続きやすいというのだ。

 折々で示されるメタファーが目新しく、発想を刺激される。時間と空間の関係を端的に示すものとして、「地層の断層」が提示される。断層の縦方向の重なりは、堆積に要した時間を表す一方で、一つの層の横方向のつながりは、その場に広がっていた空間を意味する(降り注いだ火山灰や河川が運んだ沖積土だから)。

 つまり時間と空間の関係は、地層の縦方向と横方向の関係に喩えられる。関東ローム層は1mの堆積に1万年と推定されているから、階段を登るたびに、「この1段が1200年か」と考えると、自分が見ているもの全てが時間の層の重なりで、そのレイヤーの先端にいることが分かる。奇妙で斬新な感覚に襲われる。

 建築を生命体になぞらえる発想もユニークだ。イリヤ・プリコジンによる「生命体の定義」は、「エントロピーを食べること」で、放っておくと増大するなかで局所的にエントロピーが縮小する散逸構造が「生命体」になる。

 建築という行為もエントロピーを減らしている、と考えることができる。木であれ鉄であれ、素材そのまま外に晒しておくと、時の経過とともに崩壊する。しかし、建築は素材を組み合わせることで、それぞれ固有に持つ時間を延ばすことができる。即ち、全体としてはエントロピーを減らす方向の営みだと言える。こう仮定するなら、建築そのものは生命体のあり方と本質的に近くなる。「建築という営みは、生命と同じ方向を向いている」というのだ。

 さまざまな形態の、可視化された「時間」のイメージが並んでいる。地理情報システムを用いることで、犯罪の発生と空間の特性との関係を明らかにしたマップや、東日本大震災の地震直後の日本発ツイートに対するリツイートの地球規模の流れ図や、銀座、渋谷のエリアで、食べる、見る、撮る、休む、買う、待つという6つの行為のツイートを抽出し、地図と時間を3次元プロットした蓄積情報などを眺めるうちに、時間に自覚的になってくる。

 刻(とき)が見える中で、濃密な時間を感じる一冊。

 自分メモ:「時間のデザイン」という切り口は本書が嚆矢ではない。本書で紹介されている先達は以下の通り。

  • ギーディオン『空間・時間・建築』丸善出版 1955
  • ムスタファヴィ『時間のなかの建築』鹿島出版 1999
  • ケヴィン・リンチ『時間の中の都市』鹿島出版 1974
  • 日本女子大学高橋研究室『時間の中の住まい』2003
  • 多木浩二『生きられた家』岩波学術文庫 2001
  • 磯崎新『対論 建築と時間』岩波書店 2001
  • 加藤道夫『ル・コルビジェ 建築図が語る空間と時間』丸善 2011
  • アレグザンダー『時を超えた建設の道』鹿島出版 1993
  • 伊藤公文『時間都市 時間のポリフォニーとしての都市像』東京電機大学出版局 2003
  • 五十嵐太郎『現代建築に関する6章 空間、時間そして世界』講談社 2006

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「学校」をテーマにした本といえば

 好きな本を持ち寄って、まったりアツく語り合うスゴ本オフ。今回は東洋大学の教室をお借りして「学校」をテーマにした作品をオススメしあう。

 面白いなーと思ったのは、いろいろな「学校」があること。学校を舞台にした物語だったり、学校の課題図書で読んだことがあったり、人それぞれ。「学校といえばコレでしょ」と皆さんの頭にある“学校”に、それぞれの思い出や希望や毒が、正直に反映される。人によって「ど真ん中」「直球」「弩メジャー」の本が違う。これは、いかに学校が多様かを物語っている。

 まずは「ど定番」といいつつも多種多様の「学校」から。

兎の眼 灰谷健次郎『兎の眼』。新卒の女教師と、心を開かない少年の話。少年は蝿にだけ心を許す。なぜ蝿か?貧乏で、近所にゴミ処理場しかない家庭で、蝿しか飼えないから。これが物語後半になって花開く。わたしも読んだことがあるが、少年に寄り添っていた。これが大人の、親の視線からするとまた別。「子どもが好きだというのは、必ず好きな理由がある。何であれ、それを丸ごと受け入れる」という惹句は激しく同意。読み直したくなる。

01

告白 湊かなえ『告白』は、二人の方が強力にプッシュ。「学校が舞台」の、非常に胸クソ悪い小説らしい……にも関わらず、ラストが素晴らしいらしい。嫁さん曰く「すぐ分かるから読まなくても良い」とのことなので、敬遠していたが、そんなに凄いなら手にしてみようか……

02

桐島、部活やめるってよ ど直球の、朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』はタイトルからして良い。このタイトルからいくらでも話が膨らむ膨らむ。ちょいネタバレ(?)なのだが、想像を裏切って「桐島」くんは出てきません。桐島くんを巡る、シビアなスクールカーストの話。教室に入った瞬間からそういう上下が分かるらしい。映画の出来がものすごくいいらしく、原作を越えてたんだって。映画から入ろうか……

03

夜のピクニック 恩田陸は「学園モノ」の定番やね。『夜のピクニック』は、互いの表情が見えない夜の遠足と、すれ違う秘めた思いと、小さな奇蹟がまぶしい、ときめく、胸に迫るという、変化球なのに王道の逸品。地方の高校の奇妙な“ゲーム”をミステリアスに描いた『六番目の小夜子』とともに、あり得なかった高校時代を懐かしむべし。

 次は、ノスタルジーをかき立てる作品。スゴ本オフには、学生さんもいれば大学講師の方もいるが、ほとんどは学校とは「思い出」の中のもの。

時をかける少女 一種の「王道」は、筒井康隆『時をかける少女』。時間と記憶とラベンダーをめぐる奇妙な事件。思春期のときめきやらせつなさを思い出す。読み直してビックリするのは、あまりにも「短い」ことらしい。映画やドラマになっているから、とても2時間持たないと思わせるという。実際にアニメと比較すると、「盛ってる」んだって。盛り込みがいがある、胸キュンストーリー……ちょっとおじさん読み直してくる!眉村卓『ねらわれた学園』、赤川次郎『セーラー服と機関銃』と一緒に甘酸っぱくなってくる。このノリだと、あだち充『タッチ』『みゆき』が出てくるね。

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 松苗あけみ『純情クレイジーフルーツ』は、女子校時代に文字通り貪るように読みふけった作品とのこと。女子校が舞台のコミックで、まさに王道の少女漫画。書き文字の感じとかコマ割がいかにも懐かしい。発表年は、1982年!当時の女子高生の生活や感性はそのまんまで、ちょっと近寄りがたい魑魅魍魎的なところは今と一緒(?)。

のだめカンタービレ 二ノ宮知子『のだめカンタービレ』に出てくる音大の生態は、100%あのまんまらしい。音大出身者が断言しているから間違いない。いわゆる「音大ある」のリアル。あの強烈な、コンプレックスの塊で、でしゃばりで、こだわり強すぎで、むさいキャラクターが本当にいるとは……一方パリ編は想像で描いているんだって。

 ラノベやコミック、ゲームは「学校」との親和性が高いので、オススメ作品もいくつか。

 竜虎相食む恋と戦いの超弩級ラブコメなのが竹宮ゆゆこ『とらドラ!』。この第一巻が黄金で、これを超えるラノベがあれば教えて欲しい。もちろん沢山オススメがあるだろうが、『とらドラ!』の第一巻を基準値にしたいね───というぐらいの体を抱いて転げ回るくらい嬉し恥ずかし懐かしいラノベ。

のうりん フォーマットに則った、由緒正しく下品なラノベが白鳥士郎『のうりん』らしい。「ガイアが俺にもっと耕せと囁く」と、農業を見る眼を変えてくれる。農業テーマのラノベ。30年有機栽培やっている叔父さんに、「30年もやって凄いですね」というと「まだ30回しかやってません」と返してくる。荒川弘『銀の匙』やTAGRO『変ゼミ』、佐野菜見『坂本ですが』も強力にプッシュされる。『坂本ですが』はラストのブックシャッフル(本の交換会)でゲットして読んだが、確かに「水戸黄門+食パンマン」→「イケメン+真面目」を突き詰めた滑稽さなり。オススメ漫画こと推す漫さん(@osu_man)さんが、ツボに入る本をオススメしてくれる。ブクログは[ココ]

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ダンガンロンパ PSPの『ダンガンロンパ』は、言葉で相手をやっつける快楽をとトコトン味わえるゲームなり。言葉尻を捕えてやり込める。レトリックを弄して丸め込む。論理矛盾を突く。感情を込めた表現による人格批判―――リアルでは封印している言論術を駆使して、「学級裁判」を勝ち抜くのは痛快だ。一方で、「学校」や「クラスメイトで殺し合い」という設定が様々なメタファーを含んでおり、いかようにも深く読める。

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ご冗談でしょう、ファインマンさん 学校とは学ぶところ。「学問」という切口で出てくる本もあった。芳沢光雄『高校数学の教科書』は、やりなおし数学としての好著だし、リチャード・ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん』は「科学的な良心」を訴えかけてくる。あるいは、『老子』とは、2300年前のバカボンのパパなのだ。人生に勝っているとき(上り調子のとき)は『孔子』が良く、人生に負けているとき(うまくいっていないとき)は、『老子』を読めなんだって。学問から生き方へシームレスにつながる。

 「これが“学校”?」と異色ながら、話を聞くと腑に落ちまくる変化球もあり。

宇宙の戦士 最初は過酷なブートキャンプ、後半は士官養成学校でのエリート教育となるハインライン『宇宙の戦士』は、実はバリバリ「学校」の話。ガンダムの元ネタとしても有名で、ガンキャノンにしか見えない口絵の版があるらしい。映画化された『スターシップ・トゥルーパーズ』はアーマーもないし、別物として見た方が良いんだって。

バトルアンドロマンス そして、最初は異色中の異色だと思っていたにもかかわらず、話を聞くにつれこれぞ「学校」!と思ったのが、「ももいろクローバーZ」という現象。ももクロが活動開始をしたのは、2008年、最年少は中学2年、最年長も高校1年で、いつもは学校に通って、「週末だけヒロイン」するのが最初のコンセプトだったとのこと。

 マネージャーがプロレスマニアなので、「プロレスの文法」をアイドル育成に突っ込んだのが、「ももいろクローバーZ」なんだって。その生長のドラマそのものが、「学校」になる。人生の応援歌を歌っているけれど、あれは、自分たちを歌い上げているという指摘に目ウロコ。『BATTLE AND ROMANCE』は、震災直後のニッポンに対する応援歌だ、ラストの曲の終盤の歌詞でそれがわかるんだって。

 そんな「ももクロ」について、少し恥ずかしそうに、でもアツく語りかけるオッサンを見て、「これはプリキュアへの愛を暑苦しく語る私自身と一緒だ!」と感じる。エエトシこいたオッサンが狂うには恥ずかしく、でも熱く語りたく、それでいてカミングアウトしづらいところなんて、プリキュアだ。わたしの中で、「ももクロ=プリキュア」説が芽生えた瞬間であった。

宮沢章夫『14歳の国』:戯曲。14歳、中学校を舞台にした話。体育の時間、生徒がいなくなった教室で、先生が持ち物検査をやろう、と突発的に思いつく話。前半は、何も見つからなくてがっかりするが、後半はざくざく「モノ」が見つかる。その見つかったモノにまつわり、誰がどんなモノをもっていたかがストーリーの肝。ラストに「上演の手引き」があるらしい。エッセイの面白さが存分に出ている。高校演劇実践作戦。高校の演劇には「作戦」が必要らしい。

長崎源之助『東京からきた女の子』:小学生の課題図書とのこと。ぶっ飛んでて、とんがっている、東京から転校して女の子の話。結局東京へ戻ってしまうのだが、後になって、彼女の話に色々と嘘が入っていたことが分かる。

『月下の一群』吉野朔実。のちに『少年を荒野をめざす』などを描く筆者だけど、これはド少女漫画。女子大生の生活描いた作品で、女子高生時代に読んで、女子大生の華麗なファッションに憧れた。でもヒロインが付き合う相手は建築学科でコ汚いカッコをしている。

堀越正美『スーパーサイエンス ハイスクール講義』:高校生向け。古今東西の自然科学者の偉業とエピソードを紹介しているらしい。「高校の時にすべきこと」の章を読むと、大人になった今の学び直しに役立つ。

西原理恵子『はれた日は学校をやすんで』:某中学校の課題図書らしい。学校を「やすむ」ことを学校で紹介するのは、おもしろい。学校時代の思い出を刺激するいい本。

伊集院静『機関車先生』:しゃべることができない先生の話。大人の価値観を押しつけすぎると、子どもは歪む。これを教えてくれた、自分の人生を変えた本。

ヤマシタトモコ『ひばりの朝』は女性向けだけど、男性もハマれるエグい漫画。中学生の女の子は、中学生らしくない体つきをしていて、それで思い悩む話。人を「誘う」ような目つきをしているらしい。虐待を受けている噂もあるが、「あたしがわるいんです」と自己決着をつける。

とよ田みのる『友達100人できるかな』:文字通り友達を100人つくる話。宇宙人から「愛の存在を証明せよ」と強要された先生の話。そのためにタイムスリップして、友達を100人作る。アフタヌーン連載(現在は完結)。 「結局、100人友達ができたの?」というツッコミには、「一応」とのこと。裏技的な友達の作り方?宇宙人に「愛」を理解させるのはできるのか!?

エンダーのゲームオースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』:持ってこれなかったけれど、ぜひ紹介したかった。バリバリSFの士官養成学校の話。私も探したんだけれど、軒並み絶賛売り切れ中。大人に搾取されて酷使される子ども達、『エンダー』の三部作はかなり涙ものらしい。

辺見じゅん『収容所から来た遺書』の紹介。過酷な強制労働の話。軍人もいれば一般人もいる。収容所なのに身分の上下により労働内容も違うみたい。シビアな状況でも俳句を作ったりする。

嘘つきアーニャの真っ赤な真実米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は面白いよー。プラハのソビエト学校に通っていた米原さんのエッセイ。学校で知り合った三人の友人の話。学校というユートピアに現れる社会の真実(というか嘘)と折り合ってゆく少女たちの話。

浦沢直樹『MASTER KEATON完全版』:2巻に収録されている「屋根の下のパリ」。図書館のエピソード。主人公キートンの学生時代の回想。戦争の中、爆撃を受けた直後に「あと15分ある」と講義を続ける恩師。勉強ってどこでもできるんだ、と知った。

河合雅雄『少年動物誌』:動物学者の少年時代の話。子どもが大きく育つときには、小さな「異年齢の」小集団が必要なんだという。映画化されたタイトルが「森の学校」という。丹波篠山で育つ少年達の話。

木原敏江『摩利と新吾』:明治時代の旧制高校を舞台にしたコメディ漫画。BLの元祖的作品なのだが、長髪をなびかせ睫毛バサバサの旧制高校生なんて完璧にフィクションの存在なのだが、敢えてありえない設定したことで、男の子たちのロマンや友情や恋愛がリアルに迫る。

暗殺教室 吉田秋生『櫻の園』もオススメだし、スージー・ベッカー『大事なことはみーんな猫に教わった』、号泣モノのヴィッキー・マイロン『図書館ねこデューイ』、意外と大穴だった学校の本である、ローリング『ハリーポッター』、中二病をこじらせたとしか読めない夏目漱石『坊ちゃん』や、澤井健『イオナ』の物語構造そっくりな松井優征『暗殺教室』、実は鉄板中の鉄板な、クラインバウム『いまを生きる』などキリがないくらい出てくる出てくる。

 場所が教室だから、発表者は教壇に立つから先生気分を味わえるし、当然アルコール厳禁だから“初の”ノンアルコール・スゴ本オフだったし、書画カメラのおかげでスクリーンに映した漫画をみんなで「共読」できるし、ずっとこもっていたい素晴らしい図書館巡りツアーだったし、500円で腹一杯の学食でお昼できたし、初ものづくしのスゴい場でしたな。Fさん、ありがとうございました。

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 次回は8/4、「山」をテーマに渋谷のモンベルさんでやりまする。ほとんど枠が埋まってしまっているけれど、以下で募集(してるはず)。このblogでの告知よりも、facebook「スゴ本オフ(Book Talk Cafe)」をチェックするほうが情報早いかも。

 facebookアカウント持ってる人→スゴ本オフ「山」から、
 匿名で申し込みたいという方は→ATNDからどうぞ

 どちらか一方からどうぞ。


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