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あわせて読む『ソードアート・オンライン』と『クラインの壺』

 これはゲームであっても遊びではない。

ソードアートオンラインクラインの壺

 なぜなら、ゲーム・オーバーは、プレイヤーの現実の死を意味するから。死にたくなければ、クリアを目指しひたすら攻略せよ―――『ソードアート・オンライン』(SAO : Sword Art Online)を読み始めたとき、『クラインの壺』のラストを予感した。だが、嬉しいことに、この斜め上の予想は王道展開に裏切られることになる。

 ライトノベル、あわせて読むと、より深い。

 同じモチーフでも、時代をずらす、斬口を変える、物語を捻ることで、違う作品に仕上がる。同じ食材なのに、料理人によって別物になるのと一緒。それも、ラノベ同士ではなく、ラノベと、「ラノベ以外」の食合わせの妙を味わう。もちろん、三人目の料理人として自ら混ぜると、より愉しい読書になるやも。

 どちらも、ゲームの仮想空間へ意識をダイブさせるもので、ある「事故」が起きるところまで似ている。ただし、テーマもラストも全く違う方向なので、『SAO』のお約束展開を期待して『クラインの壺』を読むと、ひきつけを起こすかも。これはこれで、ミステリの一つの典型なのだから。

 『SAO』が素晴らしいのは、「かもしれない現実」を実現させたこと。剣と魔法のバーチャルリアリティRPGだけでなく、そうした「ゲーム」を受け入れられる“現実”を小説化したことだ。いま現在、ネトゲはある、みんなで参加するRPGもある、体感ゲームもある。そこから跳んで、「ゲームの中に丸ごと入る」“現実”を創造し、ゲームの中に「読者にとっての今」を持ち込んだのだ。

 だから、虚栄心や承認欲求が追いかけてくる、リアルから逃れるためにダイブしているのに。(ラノベというフィルタを通してであれ)チートや妹といった“現実”の生々しい設定が、ゲームの中に持ち込まれる。カタルシスをもたらすのは、“現実”が主人公の手を借りて、ゲーム世界を掴み、裏返しにするところ。くつしたを裏返すように、つながった世界がでんぐり返るところ。

 そして、でんぐり返した世界を、再度くつしたにつなげると、『クラインの壺』ができあがる。境界も表裏の区別もない曲面が本作を象徴し、物語/ゲームの進行に伴い、ゲーム(裏)と“現実”(表)があいまいになってゆく様子が描かれる。

 『クラインの壺』が素晴らしいのは、一回ひねった後、きちんと“現実”、すなわち物語世界のリアルに接続しているところ。読者は最初から読んでいるにもかかわらず、地の文と独白から、ゲーム/“現実”を区別しているつもりであるにもかかわらず、どこが「地」なのか見えなくなる。どこからが始まりで、どこが終わりなのか、分からなくなってくる。

 『SAO』が“現実”と対となるキャラや設定を有するRPGである一方、『クラインの壺』は、“現実”とは異質なシナリオに沿ったアドベンチャーゲームであるところが面白い。分化した自己、アバターを操作する『SAO』と、シナリオにロックインされたキャラに同化する『クラインの壺』を比較してもいい。二十年前の小説のほうが、ゲームとリアルの区別がついていないことが、よく分かるから。そして『クラインの壺』読了後の何ともいえない「嫌な感じ」を味わうのも一興。

 なぜなら、『クラインの壺』―――これは遊びであってもゲームではないのだから。

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