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俺の嫁が美人なわけ。『ファスト&スロー』はスゴ本

 わたしの嫁さんは、美人である。

 いわゆるカワイイ系ではなく、美人。レトロなフランス人形のような整った顔立ちをしている。一目惚れから十数年、結婚してよかったなーと思う。

 だが、男女が一緒に暮らすのだから、順風満帆というわけにゆかぬ。カッとなって激しくやりあった夜や、冷たい応酬の日々が続いたときは、後悔することもある。

 さらに、メタ視点から、「この結婚」に対する認知の歪みも自覚している。結婚に費やした時間、コスト、感情、労力が莫大かつ取り戻せないため、「この結婚はいいものだ」という認識に反する事柄を、予め排除しようとする。この結婚を否定することは、そこに費やしたわたしを否定することになる。あまりに犠牲が大きいため、結婚を疑うことに一種の恐怖を感じる。

 そしてこれを、「サンクコストの誤謬」と呼ぶことも知っている。莫大な投資をした事業から撤退しようにも、取り戻せない費用を、サンクコスト(埋没費用)という。これがあまりにも大きい場合、撤収をためらったり、プロジェクトを正当化しようとする。コンコルドの開発やベトナム戦争が有名だが、わたしの結婚にも当てはまる。自分が客観的に判断できないことを分かった上で、主観的に「まずまず」であればよし、と自分を納得させている。わたしは嫁さんを「美しい」と思いたいのかもしれぬ。

ファスト・スロー上ファスト・スロー下

 本書によると、人の認識は(本人が思っている以上に)歪んでいるらしい。直感的な印象が、もっともらしいストーリーに結びつくと、人は「正しい」と信じる。いったん「正しい」と確信されたものは、それに反する証拠を斥けようとする。タイトルの「ファスト」はこの直感を、「スロー」はつじつま合わせの思考(指向/嗜好)を指す。豊富な例を挙げながら、意思決定の仕組みを解き明かし、人の認識がいかに錯覚の影響を受けているか、その判断がいかに歪んでいるかを浮き彫りにする。ギルボアの『意思決定理論入門』が“決め方の科学”なら、本書は認知の歪みに焦点を当てた事例集として読むことができる。

 例えば、1989年のエイラー事件。エイラー(Alar)は植物の生長を制御する化合物で、安全性が確認され、正規の許認可を得た上でリンゴに散布されていた。発端は、エイラーを大量摂取させたネズミからガン性腫瘍が発見されたという報道である。環境保護主義者とメディアが不安を煽り、騒ぎ立てた人がニュースになり、それがまた懸念を呼び出す。この連鎖的な自己増殖のパニックは利用可能性カスケードというそうな。先日紹介した、トヨタ・バッシングも一緒。そもそも報道されるものは、新奇性があるとか感情に訴えかけるといったバイアスがかかっていることを知った上で、煽られ耐性をつけたいね。

 あるいは、「もっともらしさ」を「起こりやすさ(確率)」に置き換えてしまうバイアスは、以下の質問で明らかにされる。

 問:次のどちらの確率が高いか?

  1. 来年、北米のどこかで、死者1000人以上の大規模な洪水が発生する
  2. 来年、カリフォルニア州で地震が発生し、死者数1000人以上の大規模な洪水を引き起こす
 当然ながら、事象2を含む1の方が起こりやすい。だが、実際にアンケートをとると、北米のどこかよりも、カリフォルニアで地震が起きるほうが「もっともらしい」と考える人が多いという。情報を加味するほどシナリオはもっともらしくなるが、分母が膨らむから起きる確率は下がる。飛びつかせたいシナリオを克明に描くことで結論を誘導する手法は、「予想CG」「再現VTR」でおなじみやね。確率計算の分子だけを心配しすぎて、分母の大きさを考えないことを「確率の無視」というそうな。どれだけ心配するかは、起きる確率と釣り合うわけではないのだ。

 本書を悪用することもできる。利用可能性バイアスとして、「ある車の長所をできるだけ多く挙げようとすると、その車に魅力を感じなくなる」事例が紹介されている。自分が下した選択について、その根拠を多く挙げれば挙げるほど、選択の正しさに自信が持てなくなるという。これは、ネットで側聞した、彼氏もち女の子を攻略する手法を思い出す→「彼の良いところを挙げさせる」。最初はあれこれ言い出すうち、似たようなメリットしか挙げられず、自分でバイアスに気づいてしまうからだろうか。

 ビジネス書かぶれには、厳しいことが書いてある。ビジネス書のほとんどは誇張だらけで、分かった気にさせて欲しいというニーズに応えるためにあるのだそうな。リーダーの手腕が企業の業績を左右するのは僅かで、成功は運にすぎないという。ローゼンツヴァイク『ハロー効果』を例に、「ハロー効果」と「後知恵バイアス」で両断する。カリスマっぽい風貌や言動だけで、優れたリーダーだと判断してしまう。さらに、結果から逆算して、もっともらしく物語ることができるリーダーを題材にしているから、昨日の天気予報のようなもの。この辺、エセ経済学者の物言いと似ていて面白い。

 勢いを駆ってコリンズの『ビジョナリー・カンパニー』まで叩き斬る。成功した企業を体系的に検証して経営規範を導き出そうとする方法は、ハロー効果と後知恵バイアスであらかた説明がつくという。成功事例として紹介された企業が、その後パっとしなかったことを掲げ、結局は運の良さ、平均への回帰だと断言する。

 もちろん鵜呑むのは危険だが、「過去事例は幻想」とするのはおかしい。経営に限らず、人は過去に学ぶ。自他に限らず、人は経験から教訓を得、生かすことができるから。平均回帰が全てだとドヤ顔されると、この指摘そのものが「後知恵バイアス」に影響されていないか、反問したくなる。反面教師として割引いて読もう。本書で注意を喚起されている、「一貫性のある分かりやすいストーリー」といえば、本書そのものだから。

 本書は、

  • 直感から最終判断までの一貫性を求めたがる
  • 整合的なパターンを欲しがる
  • 相関関係から因果関係を探したがる
  • 難しい質問を簡単な質問に置き換えてごまかしたがる
  • 自分が見たものが全てだと考えたがる
人の認知・判断の歪みを次々と暴いている。

 目の錯覚を利用した、錯視や騙し絵を見ているうち、錯覚が分かった上で「この線分の長さは同じだ」とか「これらの線は平行だ」と理解しはじめる。同様に、意識の錯覚を指摘する調査を見ていくうち、しまいには、そうした歪みを織り込んだ上で批判的に読む姿勢になってくる。

 なかでも、損失回避のゴルファーの話は、明らかにヘン。「人は損失を回避したがる」傾向には同意するが、その証拠として「バーディを狙うよりも、パーを取る傾向にある」例を挙げるのがおかしい。

 つまりこうだ。損失回避からして、パーを取る(=ボギーを避ける)ためのパッティングを、バーディ狙いのパッティングより重視し、集中して打つと考え、プロゴルフ250万回分のパッティングデータを集めて分析したそうな。

すると、予測は正しいことがわかった。パットの難易度やカップからの距離とは無関係に、パー狙いのパッティングは、バーディ狙いよりも成功率が高かったのである。バーディ狙いのパットで力を抜くことはない。しかしボギーは何としても避けたいという願望から、パーを狙うときは集中力が一段と高まるものと想像される。
 この考察は誤っている。なぜなら、一般に、パーよりもバーディの方が難しい。従ってパーの成功率が高いから(証明終了)。成功率が高いからといって、「集中している」と結論付けるのはおかしい。「パットの難易度やカップからの距離とは無関係に」とあるが、パー狙いのパットの中で「難度と無関係に」得られた成功率と、バーディ狙いの中で「難度と無関係に」得られた成功率とを比較しても、意味が無い。先に述べたとおり、パーよりもバーディの難度が高いから。

 もし、ゴルファーの「集中度」を比較するために、バーディ狙いとパー狙いの成功率を調べるのであれば、条件をそろえる必要がある(そもそも「集中度」なんて測れるのかというツッコミは置いとこう、彼らは「心理学者」なのだから)。つまり、同じ選手が同じ位置にあるボールに対し、バーディを狙ったのか、パーなのかを比較しなければならない。さらに、同一時刻、同一気象条件であるほうが望ましいだろう。250万ものパットを調べたということから、こうした条件はどれだけ考慮されているだろうか。

 もちろん、わたし自身が誤っているかもしれない。著者は「自分が見たものが全てだと考えたがる」といい、わたしは、カエサル「人は自分が見たいものしか見ない」をカウンターにしよう。認識の錯誤に陥っているのは、著者か、わたしか、考えるほどに面白い。

 「人の認識は歪んでおり、判断はバイアスがかかっている」「人は不合理な選択をする」という主張に異を唱えるつもりはない。にんげんだもの。

 しかし、著者が自慢顔で主張するほど、人はバイアスの奴隷になっているとは思えない。「人は、確率・統計的な情報に基づかない判断をすることもある」という方がしっくりくる。ホラあれだ、「コップ半分の水」の量は変わらないのに、「半分しかない」と言うのと、「半分もある」とでは、受ける印象が違ってくる。表現の仕方によって、とらえ方、評価も変わってくるのが人だ。それを、わざと(?)強調した、あるいは言及しない文面でアンケートをとり、認知の歪みをおびきだすのは、手の込んだ手品を見ているようだ。

 ただ、これは言い換えると、著者の主張の通りとなる。同じ事実でも、表現の仕方によっては逆の結果が得られる。だから、その歪みにもっと自覚的になろうってね。最初の数値によってプライミングされていないだろうか、経験と記憶を都合よく混同していないだろうか、直感を支える材料しか見ていないだろうか……振り返ることができる。

 どうやって人の欲望や恐怖を引き出して操るか、詐欺師も独裁者も広告主も、ずっと前から知っていた。そのカラクリを明かしたスゴ本は、チャルディーニ『影響力の武器』と、プラトカニス『プロパガンダ』だ。心理実験や歴史に基づきながら、買物や投票や価値観に影響を与える手法が、徹底的に紹介されている。

プロパガンダ影響力の武器

 『ファスト&スロー』はこれに科学的根拠を与えてくれる。わたしの頭の中にある世界は、現実の世界の複製ではない。認知の歪みを利用されないための予習として、さらには認知の錯覚に意識的になる訓練のため、何度も参照することになるだろう。

 認知の錯覚やバイアスを学んだ上で、あらためて思う、わたしの嫁さんは美しいって、この結婚は(病めるときも健やかなるときも)幸せだってね。なぜなら、そう考えるほうが幸せだから。

 「きれいだよ」って告ると、「ななななによ///」とじたばたする。それが可愛い。水に「ありがとう」と言い続けても美味しくはならないが、嫁に「きれいだよ」って言い続けると、晩飯のおかずが一品増える。どこまでが錯覚で、どこからがバイアスなのかは分からないが、おかずの数は客観的事実である。

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トヨタ・バッシングの正体『アメリカ型ポピュリズムの恐怖』

アメリカ型ポピュリズムの恐怖 アメリカのトヨタ叩きについての「もやもや」が晴れた。これは、アメリカンリスクの教科書として読まれるべきスゴ本。

 そのジャイアニズムやダブスタにはちゃんと(構造的な)理由があることが分かる。なぜヒステリックな反応をしたのか、原因判明にもかかわらず、どうしてケジメをつけられないか理解できる。同時に、トヨタの大人の対応と、是々非々バランス感覚の絶妙さに唸らされる。さらに、アウディ、トヨタの次がどこであれ、どんな対応を取ればよいか教訓が得られる。

 2009~2010年の「トヨタ急加速疑惑」によるトヨタバッシングは異様だった。メディアの扇情報道がオレモオレモ苦情のループを呼んでヒートアップする一方、トヨタを蹴落とす陰謀論がまことしやかに語られていた。どこまでが「事実」で、どこからが「意見」なのか日本のメディアを探しても、「グローバル経営感覚の欠如」や「トヨタの油断や驕り」など、自虐的な報道ばかり。後手・放置プレイの日本政府―――311が強烈過ぎて、きちんと検証してこれなかった真相が、本書で総括できる。

 本書が素晴らしいのは、次の三点の検証が行われているところ。「トヨタ・バッシングの構造的な背景」、「アウディとトヨタの対応の比較」、そしてそこから得られる教訓「アメリカン・ジャイアニズムの御し方」が、深堀りされている。

 まず、トヨタ叩きのバックグラウンド、これはネットで仄聞していた。経営危機に瀕し、大規模な公的支援を受けていたGMが、外国企業のトヨタに追い抜かれるようなことがあっては、ブランドも面目も丸潰れだろう。「巨額の血税を投じて救済する必要があるのか」といった議論が蒸し返され、オバマ政権の政策運営にケチがつくのは必至だった。

 この背景に加え、著者はUAW(全米自動車労働組合)からの視点と、騒動直前に閉鎖されたカリフォルニア州NUMMI工場の事情を解説してくれる。あくまで「状況証拠」に過ぎぬため、ここだけ「……と思う」という歯切れの悪い文になっている(ネットの陰謀論もここを突く)。

 次に、アウディとトヨタの対応の比較は鮮やかだ。大規模リコールに至ったこと、トヨタ車のドライバーが交通事故に遭ったという事実に対し、豊田社長は公聴会にて率直に謝罪。議会との不毛な対決を避け、慎重に言葉を選んで答弁した(トヨタを魔女狩りしたかった“原告”はこれで肩透かしを食らった)。豊田社長は「トヨタ」ブランドへのダメージを最小限に抑える賢い選択をしたのだ。

 これは、1980年代の米国における「アウディ叩き」と好対照を成している。急発進問題をめぐり、メーカー側と米当局が激しく対立した騒動だ。メーカー側は「米国の言いがかり」との対決姿勢を鮮明にしたため、政府と議会とメディアを全面的に敵に回すことになった。結局、原因はドライバーの運転ミスであることが判明したものの、ブランドイメージの悪化は回復せず、アウディの新車販売は激減し、大ダメージを受けたという。

 トヨタは、アウディの教訓から学んだ。反省と謝罪の弁を強調し、顧客の安全を最優先に考えた品質改善に全力を尽くす決意を表明した。だが、重要なのはここからだ。トヨタ側は大規模リコール問題については大幅に譲歩したが、電子制御装置などハイテク技術の問題に対しては、最後まで一歩も譲らない姿勢を貫きとおした。ここは、トヨタに限らず「日本」というブランドそのものだから。全面衝突は避けながらも、全面譲歩はしなかったトヨタの対応は、次に“被告席”に立たされ、責任追及される立場になった日本企業にとっての教科書になる。

 そして、アメリカン・ジャイアニズムについて。二枚舌四枚舌は分かってる、ダブスタに無自覚なことも周知のこと。だが、付き合いをやめるわけにはゆかぬ。アメリカはフェアな国ではなく、フェアであろうとする国なのだ。こことうまく付き合うには、アメリカにとって譲れない境目、フェアのアンフェアの間にある「プライド」が重要だという。

 著者は、司法取引の状況や、「ルール化された」政治献金・ロビー活動を挙げ、アメリカこそが白黒はっきりしない「グレー」の曖昧な部分が多い国だという。駆引きや交換条件、裏取引が通用する、法に則った取引社会なんだね。このグレーの濃淡を最終的に決めるのは、当事者のプライドだ。

 自尊心の塊アメリカ。これを傷つけぬよう、アメリカが掲げる「公平性と客観性」を持ち出して、怒らせない程度に繰り返し、表からも裏からも根気良く、やんわりと物申す―――政府が違うと、別の対応になることを期待したい。

 よく言えば民主主義、悪く言えばポピュリズムに根ざした社会構造は、一部の業界の不満や怒りが、ダイレクトに政府や議会の意向に反映される。結果、米政府は外国に対して理不尽な要求を突きつけるようになる。民主主義が大衆迎合と合体すると、挙国イジメに発展する。そこでは理性の声、正義を求める意見はかき消される。

 ロイターによると、「トヨタが世界販売台数で首位返り咲き確実、2年ぶり」だという。ジャイアンを憂えるのではなく、どうやって付き合うか。学ぶところが数多く得られる良書。


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『時間ループ物語論』はスゴ本

時間ループ物語論 古今東西の時間ループ物語を題材として、現代日本を生きる人々が抱く価値観、人生観へ肉薄する佳作。十年前のテキストサイトでよく見かけたオタ的論述スタイルが、暑苦しく膨大に展開されており、懐かしくも愉快な読書と相成った。

 うる星やつら『ビューティフルドリーマー』や、涼宮ハルヒ『エンドレス・エイト』といったアニメから、ゲーテ『ファウスト』、落語『芝浜』、漱石『それから』、果ては浦島太郎伝説を俎上に乗せ、定義、掘り下げ、類型化、普遍化し、物語の根っこである「願望充足」「カタルシス」にまで至る。

 アニメ、映画、小説、古典、神話……膨大な作品を次々と挙げ、脱線に次ぐ脱線を繰り返しながら語られてゆく、著者独特の「読み」の過程や考察がめっぽう面白い。リアルタイムでエヴァ論を読み重ねてきた人にとって、「時間ループ」はたまらない食材になるだろう。

 たとえば、若返り譚も含めると、ループ物語は古代から前史があったという。日、月、年で繰り返される暦や季節、輪廻転生からの発想やね。そうしたループ物語の原型は、学校や工場に次いでテレビの導入がもたらした近代の時間感覚によって「時間ループSF物語」という一つの定型へ収斂していったという。

 近代以前のループものは個人が時を遡及する話で、『まどか☆マギカ』のような時間全体がループするような物語は無いらしい。それは、時というものは暦のような円環的なものと捉えられていたから。時計の普及、学校や工場がもたらした近代の時間感覚が、時間全体の不可逆性を巻き戻す「時間全体ループ」をもたらしたという指摘はさすが。

 さらに、時間ループ現象はを「問題先送りのメタファー」あるいは「欠落のメタファー」から論じる件も面白い。あの頃をリセットしてやり直せたら、未来を知った上で過去を生きられたらという願望を、「時をかける少女」に託すこともできる。ループしている間は一種のモラトリアムで、これは何でもあるけれど「希望」だけがないユートピア、ニッポンを象徴しているんだと。

 論考はたいへん興味深いが、発想の八艘飛びについて行けなくなる。著者の「読み」に依存した論旨だから、「こうも読める」「ああも読める」とこじつけるのは、面白いけど説得力がない。偉い人(?)の論文を引っ張ってくるのもアリだけど、権威になびくほどのトシでもなし。

 エロゲは触れている程度で、論考の対象外にされているのが残念なり。さらに、ゲーテだけで満足せず世界文学から包囲してほしかった。たとえば『STEINS;GATE』を実際にプレイしたら、本書で分類分けされたパターンを踏破した先、ぜんぶの未来を潰したさらにメタのループをどう評価するだろうか。(観客も巻き込んだ)主観時間のループを重ね、妻殺しの真相を暴いてゆく映画『メメント』や、すべての可能性の分岐可能性を可視化させたボルヘス『八岐の園』、永劫回帰は「ループ」ではなく現在の近似値であることが分かるクンデラ『存在の耐えられない軽さ』を思いつく。「時間ループ」で物語を解くのではなく、「物語ループ」で時間感覚を捏ねくっても愉しい。

 ただ、暗い世相と同化して閉塞感あふれる自分のキモチを正当化するために、「成長しない時代を生きる」言い訳として時間ループを持ってくるのはいただけぬ。「日本人はもう欲しいものがない」「もう成長しない日本」と断じ、右肩下がりのニッポンで、いかに日常を楽しく過ごすかの手立てとして「時間ループ」を消費しちゃうのも勿体ない。どこか傍観者のように虚無的な姿勢は、しらけ世代の三無主義そのもの。これまでのヲタ経験で思春期を上書いているようで、嬉し恥ずかし似たもの同士。

 物語は、問題を明確化し、論点を見える化してくれる。「時間ループ」はもっと広く深く使えるツールとして遊べる。半分賛同、半分は強力なヒントをもらえる一冊。

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本を片手に街に出よう『TOKYO BOOK SCENE』

TOKYO本屋さん紀行 書を読んだら街に出よう、街で本を読んでもいい。

 読書は経験だから、いい本読んだら、語りたくなる。同じ本を読んだ人に会いたくなる。これは、それを、かなえてくれる。いい本は、見せびらかしたくなる。顕示欲と体験のおすそ分けをしたくなる。そして、その本を平積みしている書店や、オススメしてくる人に惹きつけられる。「もっと面白いのある?」って聞きたくなる。

 しかし、そういう場所は、なかなか見あたらない。好きな作家や作品を、熱っぽく粘っこく語れるほど、職場や家庭で自分を曝けていないから。だからネットに穴掘って、王様の耳よろしく叫んでいるわけ(ここはそのログ、オフ会だと[スゴ本オフ]がある)。

 本書では、そういう密やかな(?)欲求をかなえる「場」を紹介する。オススメの一冊をプレゼンして、みんなの「読みたい!」を決める「ビブリオバトル」(次回のテーマは「コンピュータ」らしい)。出版業の中の人を呼んで、出して欲しい本や提案や質問を直接ぶつける「公開編集会議」。あこがれの作家が選んだ本をまとめて再現した「作家の本棚」。作り手と売り手、読者との垣根を取り払う空間を目指した書店が紹介されている。

 あるいは、5千人のメンバーを誇る日本最大の読書会コミュニティ「猫町倶楽部」。マンガをきっかけにコミュニケーションが生まれ、マンガを介して出会いと輪を広げるしゃべり場「マンガナイト」。売り手と買い手の垣根を壊し、誰でも「本屋さん」になれる、「不忍ブックストリートの一箱古本市」。本とは、知と人と好奇心が出会うメディア、ノードなのだということを、まざまざと思い知らせてくれる。

 タイトルに惑わされてはいけない。「東京」は集中しているだけで、全国規模で見ると、もっとスゴいのが出てくる。なりきり本屋さんワークショップや、オススメ本の交換会(ブクブク交換)、大通公園で一日だけ本屋さんを営む、「札幌ブックフェス」。岩手・秋田・宮城・福島・山形の本とモノの詰め合わせである「東北ブックコンテナ」、本とカフェ、本と神社、一箱古本市のお祭りである、「Book! Book! Sendai」。街と本を楽しむため、テレビ塔を中心に名駅から本山まで本のイベントで埋め尽くす「ブックマークナゴヤ」。twitter や U-stream と連携しし、古書・新刊書の区別なく、本に親しんでもらうことを目的とした「ブックスひろしま」。福岡を本の街にするために、書店・出版社・古書店・編集者など本に関わる人々、そして本好きが集うBOOKUOKA。本を軸に人と街をつなげる試みは山とある。神田古本まつりや一箱古本市で満足してたらあかんな。

 本の紹介ではなく、本屋の紹介ではなく、「本を介したコミュニケーションの場」を紹介するという、(たぶん)日本初の面白い試み。この本を片手に、街に出よう。あるいは、街で読んでもいい。


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あわせて読む『ソードアート・オンライン』と『クラインの壺』

 これはゲームであっても遊びではない。

ソードアートオンラインクラインの壺

 なぜなら、ゲーム・オーバーは、プレイヤーの現実の死を意味するから。死にたくなければ、クリアを目指しひたすら攻略せよ―――『ソードアート・オンライン』(SAO : Sword Art Online)を読み始めたとき、『クラインの壺』のラストを予感した。だが、嬉しいことに、この斜め上の予想は王道展開に裏切られることになる。

 ライトノベル、あわせて読むと、より深い。

 同じモチーフでも、時代をずらす、斬口を変える、物語を捻ることで、違う作品に仕上がる。同じ食材なのに、料理人によって別物になるのと一緒。それも、ラノベ同士ではなく、ラノベと、「ラノベ以外」の食合わせの妙を味わう。もちろん、三人目の料理人として自ら混ぜると、より愉しい読書になるやも。

 どちらも、ゲームの仮想空間へ意識をダイブさせるもので、ある「事故」が起きるところまで似ている。ただし、テーマもラストも全く違う方向なので、『SAO』のお約束展開を期待して『クラインの壺』を読むと、ひきつけを起こすかも。これはこれで、ミステリの一つの典型なのだから。

 『SAO』が素晴らしいのは、「かもしれない現実」を実現させたこと。剣と魔法のバーチャルリアリティRPGだけでなく、そうした「ゲーム」を受け入れられる“現実”を小説化したことだ。いま現在、ネトゲはある、みんなで参加するRPGもある、体感ゲームもある。そこから跳んで、「ゲームの中に丸ごと入る」“現実”を創造し、ゲームの中に「読者にとっての今」を持ち込んだのだ。

 だから、虚栄心や承認欲求が追いかけてくる、リアルから逃れるためにダイブしているのに。(ラノベというフィルタを通してであれ)チートや妹といった“現実”の生々しい設定が、ゲームの中に持ち込まれる。カタルシスをもたらすのは、“現実”が主人公の手を借りて、ゲーム世界を掴み、裏返しにするところ。くつしたを裏返すように、つながった世界がでんぐり返るところ。

 そして、でんぐり返した世界を、再度くつしたにつなげると、『クラインの壺』ができあがる。境界も表裏の区別もない曲面が本作を象徴し、物語/ゲームの進行に伴い、ゲーム(裏)と“現実”(表)があいまいになってゆく様子が描かれる。

 『クラインの壺』が素晴らしいのは、一回ひねった後、きちんと“現実”、すなわち物語世界のリアルに接続しているところ。読者は最初から読んでいるにもかかわらず、地の文と独白から、ゲーム/“現実”を区別しているつもりであるにもかかわらず、どこが「地」なのか見えなくなる。どこからが始まりで、どこが終わりなのか、分からなくなってくる。

 『SAO』が“現実”と対となるキャラや設定を有するRPGである一方、『クラインの壺』は、“現実”とは異質なシナリオに沿ったアドベンチャーゲームであるところが面白い。分化した自己、アバターを操作する『SAO』と、シナリオにロックインされたキャラに同化する『クラインの壺』を比較してもいい。二十年前の小説のほうが、ゲームとリアルの区別がついていないことが、よく分かるから。そして『クラインの壺』読了後の何ともいえない「嫌な感じ」を味わうのも一興。

 なぜなら、『クラインの壺』―――これは遊びであってもゲームではないのだから。

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スゴ本オフ「親子」のご案内

 オススメ本を持ちよって、まったりアツく語り合うスゴ本オフのご案内。2013年の最初は、「親子」がテーマですぞ。

 慈愛、支配、愛憎、確執、重荷……「親子」というキーワードから、あらゆる人間関係が紡ぎだされる。物語の形をした親子のドラマは、それこそ星の数ほどあるし、ドキュメンタリーやレポート形式の良書も沢山ある。そこから、「これは!」という本、マンガ、映画などを選んでほしい。

 難しいなー(面白いなー)と思うのは、テーマとの距離感で選ばれる本が違うところ。自身の経験に引きつけて選ぶとしても、自分が子どもだった場合と、親である今の視点とで、まるで違ってくる。また、親子関係が鍵となるドラマは、理想と現実の双方向で異なる本が思い浮かぶ(しかもどちらも傑作)。親子のドロドロを描いた私小説もある一方、「親子関係」を拡張すると、聖書にまで届く。沢山思い浮かぶなか、ピンと来たのを持ってきて。

 とき 2月23日(土) 14:00~19:00
 ところ 麹町
 参加費 2千円(軽食とドリンクでます)

 申込・案内は、facebook「親子のスゴ本」か、やすゆきさんの記事2013年最初のスゴ本オフは「親子」がテーマですをどうぞ。

 毎回強調しているけど、集まるメンツは「本が好き」なだけで、読書家でもなんでもないですぞ。読書は競争じゃない、楽しく新しくなるもの。twitterで「いいなー、参加したいなー」とつぶやいているだけだと一生入れません。「この一冊が好き」を伝えてくだされ。

 そして、来ると世界がババッと広がります。「こんな作品があったのか」と驚くだけでなく、「自分の好きな本を好きな誰か」を見つけることができるから。プレゼン勝負をする場じゃないので、気楽に熱く、その本への愛を語ってくださいまし。

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この書店がスゴい『TOKYO本屋さん紀行』『TOKYOブックカフェ紀行』

 いわゆる、物量で圧してくるギガ書店ではなく、厳選され演出されたセレクトショップをご紹介―――というよりも、そのガイド本をご紹介。いつもの本屋を通り過ぎ、電車に乗ってでかける価値あり。

TOKYO本屋さん紀行 『TOKYO本屋さん紀行』に紹介されてる書店に共通するのは、「人と本のつながり」。本は単品で並べられるのではなく、ある意図をもって他の本との関連性のもとで棚が編集される。そこには店員の意思があり、店のポリシーまで手繰ることができる。興味を惹いた一冊や既読本、さらにはイベントを通じて、棚とスタッフに共感する。同調する人が集まってくる―――これからの書店は、そういう「場」を目指しているようだ。

 たとえば、千駄木駅から5分の往来堂書店。丁寧に編集された棚が、読み手に「発見」の喜びを教えてくれるという。著者や出版社で分けるのではなく、意味のつながりがある本を並べてつなげてゆく、いわゆる「文脈棚」。これが十八番だった松丸本舗が無くなってしまった今、堪能できる希少な店。

 あるいは、新宿駅から10分の模索社。「新宿にたまり場を作ろう」というコンセプトで、ミニコミ、思想書、サブカルチャーを集める。クリエイターの持ち込み歓迎なんだって。「表現したい」衝動が所狭しと詰め込まれており、写真なのに息苦しくなるほど。本というメディアを通じて、念が集まってくる場やね。本書に紹介されるまで、知らずに通り過ぎていた。今度寄ってみる。

 他にも、「本は情報だけではなく人の記憶、思い出をもつないでいくもの」という百年(吉祥寺)、古今東西のあらゆる食の本で人をつなげるCOOK COOP(渋谷)、キーワードは「東京発の旅」の本と東京土産のTokyo's Tokyo(羽田空港第2ターミナル)など、わたしの視野を丸ごと拡張→深化するショップに出会える。

TOKYOブックカフェ紀行 『TOKYOブックカフェ紀行』に出てくる書店にも「人と本のつながり」が見える。いい本を読むと、誰かに伝えたくなる。このもどかしい感覚が本に人を、書店に人を集めるのだろうか。本の「しゃべり場」ともいうべき、ソーシャル・ブックショップが紹介されているので、カタログ的に眺めて、自分好みを選んでもいい。

 下北沢のB&Bは、「毎日何かが起きている書店」として紹介されている。毎日(!)イベントやっているからね。本とビールのブックショップで書いたが、「本を売る店」というよりも「本で何かをする場所」のようだ。本を通じて人と会い、人を通じてスゴ本を知るのを信条とするわたしにとって、うってつけの場やね(ビールも呑めるし)。

 新宿のブルックリン・パーラーは、ブルックリンラガーが絶品で、読みながら酔える(酔いながら読める?)。混沌とした空間に詰め込まれた、「人生における無駄で優雅なもの」というキャッチーはぴったり。セレクトされた本もクロスボーダーなやつばかりで、棚に人があらわれている。ただし、やかましい。いい本に出会えるカフェバー「Brooklyn Parlor」でも紹介したとおり、静かに本を読むところではなく、ブックトークに花を咲かせる場やね。特大のソファに身を沈めて、ビール片手に本談義→店内ブックハンティング→ブックトーク……の無限ループに漬かりたい。

 代官山のAnjinはスゴかった。蔦谷書店のカフェなんだが、カフェというよりも、ホテルのラウンジといった趣で、「一流の読・食・癒が揃う至極の空間」という紹介文はそのとおり。ただ、わたしが訪れたのは日曜午後だったので、ごった返してた。朝イチとか深夜(26時まで営業)を狙おう。本書によると、泉麻人氏が通っているらしい。出没帯は朝方、仕事合間に昔のPOPEYEをめくって、駆け出しの頃のコラムを見つけるのを楽しんでいるそうな。

 読みたい一冊を特定できるなら、なにも出かけなくてもいい。それこそ家から一歩も出ることなく、届けてもらえるのだから。だが、わたしが探す一冊は、わたしが知らないスゴ本なのだ。そして、そのスゴ本を読んでる店員さんは、書店にいる。

 書を探しに、町へ出よう。その水先案内のための2冊。

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より“良い”判断のため『意思決定理論入門』

意思決定理論入門 十年前、初めて買った年末ジャンボは、一等の番号と完全一致していた。

 実は組違いだったのだが、問題はその後。一等組違いの十万円に味をしめ、毎回結構な額を買うようになる。当然かすりもせず、購入額の累積が十万を越えたあたりで期待値に気づく。以降、きっぱりやめてしまった。

 文字通り「夢を買う」宝くじを、なぜ買ってしまうのか。合理的に考えるとワリの合わない賭けに、どうして乗ってしまうのか。本書を読むと、不合理な選択をする理由が“合理的に”分かる。

 もちろん「宝くじはバカに課せられた税金」と貶してもいい。だが、これによると、人は意思決定する際、自分が直面している確率を歪んだ形で認識しているように振る舞うらしい(プロスペクト理論というんだそうな)。

 つまり、誰でも確率の計算はできるものの、必ずしもその通りに行動しないのが、“人”なんだそうな。自分では「正しく」判断しているつもりでも、「統計的な確からしさ」からズレている。その歪みや偏差が見えるようになっている。期待効用理論、ベイズの定理、プロスペクト理論といった基礎理論を、「問題・解説」形式で検証する。自分を試すつもりで向かってみると、気づかなかったバイアスが見える化されてくる。

 たとえば、次のうち、死亡者数が多いのはどちら?

  a.消化器疾患
  b.交通事故











 多くの人はb.を選ぶ傾向があるんだそうな。wikipediaによると、a.が正しい。消化器疾患による死亡者数は交通事故の死亡者数よりも50%以上も多い。これは、「利用可能性ヒューリスティック」の例で、本質が偏ったサンプルにあることが顕になっている。aとbの二つの死因の確率を比べる際、そのデータを持っていないのが普通だ。

 そうなると、自分の記憶の中で例を探し求めようとするだろう。自分が知っている死因の多くは、メディアの報道によるものだ。もし、メディアの報道に偏りがあるならば、記憶からたぐり寄せた「サンプル」が偏っていても不思議ではない。

 一方、注目度の高いネタを欲しがるジャーナリストは、消化器疾患よりも悲惨な交通死亡事故を頻繁に取り上げる。結果、知ってる事例が(主観的な)確からしさを引きよせる。メディアの大合唱が認知を歪ませる好例として、ロス疑惑やら国民総幸福量を思い出すが、主観なんてそんなもの。

 もっとセキララな例もある。子供がいる人は、いない人よりも、自分のことを幸福だと考えがちなんだって。子育ての苦労を乗り越えて、子供がいて幸せだと申告するのは、自分が幸せであると思いこもうとしている可能性も大いにあるというのだ。主観的幸福度と定義されているが、わたしの経験に照らすと“思い出補正”になる(確かに歪んでいる)。ただし、認知の歪みが分かったとしても、判断は変わらないのが面白い。

 これは本書の結論に通じる。意思決定論における考え方に習熟し、“より良い”意思決定をする上で必要な理論を学ぶうち、何をもって“より良い選択”なのかを決めるのは、実は主観に拠ることが分かる。それでは、方法論なんていらないじゃん、にならないところがミソ。その意思決定のどこが歪んでおり、どこからが統計的に確からしさを有するのか分かるだけで、価値があるというもの。

 次の意識決定を、より確かにするための一冊。

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