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数学が生物学を変える『数学で生命の謎を解く』

数学で生命の謎を解く 数学の生物学への応用、かなりの歯応え。

 テーマというか問題意識はこうだ―――「20世紀における数学の推進力が物理学だとしたら、21世紀のそれは生物学となるだろう」

 最初は入りやすい。コッホの顕微鏡やメンデルの遺伝から始まり、ダーウィン、DNAをさらりとおさらいした後、倍率を拡大し、時計を早送りする。分子レベルのDNAの振る舞いや、ヒトゲノム計画、ウイルスの構造、細胞の構成、ウイルスの形や行動、および生態系の相互作用まで深堀りする。

 本書の構造は、生物学の歴史をトレースするようだ。はじめ、生物学は植物や動物に関する学問だった。次に細胞に関する学問となり、現在では、複雑な分子に関する学問となっている。生命の謎に関する科学的思考の変化に合わせ、本書は日常の人間のレベルからはじめ、生物の微細な構造にどんどん細かく焦点を合わせていき、最終的に「生命の分子」であるDNAにたどりつく。

 ユニークなことに、それぞれの詳細化の過程で、応用数学を適用する事例を紹介する。生物学のフロントラインだけでもじゅうぶん刺激的なのに、そこに数学の応用を見出すことはスリリングな読書になる。

 ただ、適用している分野はわたしになじみが薄く、妥協のない説明にたじたじとなった。確立論、ダイナミクス、カオス理論、対称性、ネットワーク、力学、弾性理論、結び目理論と多岐にわたる。理解まで引き付けて読めたのは、葉序における黄金比の役割や、フィボナッチ数あたりまで。そこから先は、裏づけとなる数学の理論に追いつけなかった。

 たとえば、粘菌を使ったネットワークが、関東平野の鉄道網に酷似している事例が紹介される([粘菌の輸送ネットワークから都市構造の設計理論を構築])。主要都市を粘菌の餌として、餌の場所どうしをつなぐネットワークを粘菌がどのように作っていくかの実験だ。コンピュータでシミュレートした「最善の」アルゴリズムを、粘菌がどうやって見つけているかが分からない。試行錯誤? でも粘菌って全体が「見えて」いるの? ネットワーク障害に対する頑強性や脆弱性について理解が深いと、腑に落ちるのかも。

 わたしの「常識」をひっくり返す主張もある。自然界に現れる黄金比のほとんどは、数学的な都市伝説だと警告する。ヤギの角やオウムガイの殻のらせんは黄金比の好例といわれるが、考え違いだという。角や殻の形は、一周ごとに一定の割合(成長率)で拡大する、対数らせんに近い。確かに成長率が黄金比と関連するような対数らせんは存在するが、実際は異なる成長率を持つ。統計分析の手法を使って、データを黄金比の周りに集中させる、一種の数秘術なんだって。このやり方で名画や建築物に強引に黄金比を当てはめることもできる。着眼点をいじれば、黄金比はいくらでも出てくるのだから。

 新しい斬り口を示したのは、地球外生命体を考察する上での、知性(intelligence)の扱いについて。知性(intelligence)は、哺乳類でも進化したため、普遍的特徴である。しかし、extelligenceと呼べる、文化的智識やノウハウを、自分の身体の外に、誰もが手にできるような形で蓄積する能力は、地球上では一度しか進化していない。extelligence は普遍的ではないが、普遍的であると論じることは理にかなっているという。extelligenceは遺伝上の特定の偶然ではなく、進化上の強みをもたらす一般的な仕掛けになるというのだ。別の場所で進化をやりなおすなら、「ことば」に相当する/成り代わるものが何になるのか、想像するだに面白い。

 著者は、「物理学と数学のような関係が、生物学と数学の間にはたらく」という。物理学とは、宇宙を数学で説明することならば、生物学とは、生命を数学で説明する試みになるのだろうか。

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『垂直の記憶』はスゴ本

 今年読んだ一番。

ギャチュン・カンの代償はあまりにも大きく、一時は落ち込みそうになった。しかし、ギャチュン・カンを選んだことを誤りだと思ったことはないし、アタックしたことに対しても悔やんではいない。むしろギャチュン・カンに挑戦してよかったと思っているくらいだ。あれほどの厳しい状況に追い込まれても、びっくりするくらい冷静に判断を下し、自分の能力を最大限に発揮し、行動できたことに喜びさえ感じている。今まで積み上げてきたことに間違いはなかったのだ。

垂直の記憶 著者は日本を代表するクライマー、山野井泰史。氷と岩の山行を日記のように綴る。「ギャチュン・カンの代償」とは手足の指を十本、凍傷で失ったこと。登頂後、嵐と雪崩に遭遇し、妻・妙子とともに脱出を試みて奇跡的に生還した―――代償になる。

 すさまじい登攀への思いと生きる意思に、そのまま撃たれる。「生きている」という強烈な感情が伝わってくる。もちろん、著者のように限界まで肉体を酷使して、生死の境を切り抜けたわけじゃない。それでも、生そのものを握りしめる著者の喜びが伝わる。自分の身体を、動作を、あらためて体得するような読書になる。

 書き手は、これっぽっちもドラマティックに書いていないのに、読んでるわたしが、勝手に勇気をもらっている。巨大な壁があって、それを乗り越える記録に、ここまで己が命を感じるとは。

 淡々とした語り口で、過酷な事実を積み重ねる。平凡な形容詞だが、なるべく正確に記そうとする。しかし、書かれていることは平凡から遠い。冬季、単独初登、無酸素、新ルート開拓といった世界記録が並ぶ。別に記録のためではないらしいが、自分を試すをギリギリまで追求した結果だ。そしてギャチュン・カンで直面する状況は、絶望的だ。沢木耕太郎『凍』では超人的に見えた彼も、その内面では充満する恐怖と向き合っていたことがよく分かる。

 描写の折りに、独白が交じる。「ぎりぎりの登攀をしているとき、『生きている』自分を感じられる」や、「山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だ」と言い切る。そこには力みも誇張もない。自分を試すにも限度がある。恬淡とした凄絶ぶりに、狂気じみたものを感じつつ、心底うらやましい。本当に好きなものをやれているのだから。

 翻ってわたしはどうだ? 日々平穏に過ごし、時にはわずかな跳躍で満足している。それがやりたいことなのか? 『生きている』自分を感じられることなのか? 自問してゆくうち、本を持つ手が焼けてくる。彼が向かい合った、美しく強大な『壁』はあるのだろうか。

 かつてどこかに沈めた感情が湧いてくる一冊。

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