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『昭和史』はスゴ本

 日本の現代史の決定版。

昭和史上昭和史下

 過去を見ると未来が見える。本質的に変わっていない日本がある。むしろ、変わらない本質が得られる、というべきか。波乱と躍動に満ちた昭和は、ドラマよりもドラマチックで、おもしろい。

 維新だ改革だと、やたら変化が叫ばれている。ニッポンの上っ面はめまぐるしく、スローガンとキャッチコピーはどんどん入れ替えられる。だが、本質はこれっぽっちも変わっていない。昭和と平成を比べると、同じ問題に同じ応対をしている。その学習能力のなさは、悲しいぐらい変わっていない。翻ると、未来を考える上で非常に示唆に富むといえる。

 まず、不況時の国民に選ばれたカリスマは、スタンドプレーな外交で国際関係に危機をもたらすだろう(マスコミが煽ったら戦争になる)。これは、未来に起きる昭和の話だ。アメリカ相手に強気一辺倒で、三国同盟を結んできた外相・松岡洋右のことだ。マスコミはこぞってヒーロー扱いしていたが、まさか戦争になるとは考えてもみなかったらしい。日米開戦の報を聞いて「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」「死んでも死にきれない、何ともお詫びの仕様がない」と号泣したという(Wikipedia 松岡洋右)。「戦争は爺さんが決めて、おっさんが命令して、若者が死ぬ」という箴言があるが、まさにズバリ。しかもこの爺さん、極東裁判の公判中に病没している。不況の閉塞感はカリスマを呼び、カリスマはスタンドプレーに走る。覚えておこう。

 そして、国会を包囲するようなデモも、選挙には何の影響も与えない。かなりの人が「あれは何だったのか?」と不思議に思うに違いない。反原発デモの話ではない、安保闘争だ。20万人のデモ隊が連日国会を取り巻き、全国では560万人に及ぶストライキ運動が起きるような猛烈な大衆闘争だ。いま流行の民主化革命を凌ぐ盛り上がりだったが、問題はあの騒ぎではない。その直後の内閣総辞職・総選挙の結果だ。投票率は変わらず、自民惨敗どころか、逆に大幅に議席を伸ばしている。信じられるか、この間5ヶ月だぜ。

 ここに、熱しやすく冷めやすい典型を見ることができる。首が代わったら不問に処す? 違うね、騒ぐだけ騒いで、醒めたんだ。自らの抗議行動を半年も覚えていないなんて、すばらしい記憶力だ。その一票を何に使ったのか。いつも選挙に行かないくせにデモだけで何かを成し遂げたつもりなのか。ひょっとすると、安保反対の不支持票はあったが、ごく一部であったのか。要するに、デモは「ふいんき」を醸すだけで、民意を集約したものではないのだ。もちろんマスコミが煽って「国民の意思」が揺らぐことはある(流されやすいからね)。だが、投票で意思表示しましょうというルールに則る限り、あの騒ぎは選挙によって否定されたといえる。歴史はくり返す、次は喜劇だぞ。

  文化・思想面でも変わらない。キーワード「民主主義」を「グローバルスタンダード」に置き換えても見事に通じるので笑える。知識人のスタイルは不変、固有名詞が変わるだけ。理想化された欧米社会と比較して、日本に抜きがたい後進性を見いだす。でもってオチは、伝統の殻を背負った構造にもとづく宿命論に行き着く。なんでも日本の特殊な後進性に結びつけて、悲観的に考える、1940-50年代に風靡した講座派の発想なんだって。

 今でも通用するどころか、ビタ一文も変わってない。フランスがフィンランドに変わっただけ、FordをiPhoneにしただけ。たとえGNPで抜いてても、他の比較要素を持ってきて「日本はダメだ」と強弁する。曰く、バカンスの日数、社会保障、なんでもいい、自分の主張を聞いてもらうための方便として、日本を腐す。国算理社、体育、美術、学級委員、掃除当番、習い事、それぞれの「一番の子」を持ってきてわが子と比べ、「だからおまえはダメなのだ」と嘆くバカ親と同じ。この詭弁スタイルは、変わらないだろうな。

 わたしの思い込みを打ち砕いた効用もあった。島耕作効果により、「戦後の経済成長は団塊のおかげ」と信じていた。だが本書によると、真逆の神話だそうな。団塊の世代は、「お荷物」扱いされていたんだと。戦後ベビーブーム世代が働き始める1962-3年には、労働力が過剰化し、雇用が大問題となると心配されていたという。いざフタを開けたら高い成長にともなう雇用増で心配はなくなったが、この頃からお騒がせ世代だったんだね。そして老人問題、年金問題、生活保障問題の起爆剤&火付役になるのも団塊、まだまだ目が離せませんな。

 このように、経済を中心に、政治・思想・文化から多面的に描いており、読み手の抱いているテーマによって、いかようにもヒントが得られる。経済的な断面から昭和を分析することもできるし、社会風俗のような時代の空気の側面から眺めることも可能だ。どのように昭和を読むかによって、成果が変化する。わたしは、今と比較しながら、一種の事例集として読んだ。

 たとえば、不況や恐慌に対する政府の打ち手は、平成に生かされているのだろうか。昭和40年、山一證券倒産の危機に際し田中角栄が実行した施策は、40年後のバブル崩壊の機に俎上にすら乗らなかったのか。あれは不正会計だから違うと切ることも可能だが、それはなぜか、どの程度検討されたのか、何を元に違うといえるのか(完全に同じ経済状況なんて再現できないのに)。成功例、失敗例、「昭和」には素晴らしい教材が詰まっている。

 あるいは、震災直後の対応が対照的だ(関東大震災は大正だが、なぜか本書にある)。「震災地の債務者への全ての金銭債務の支払いを延期する」という支払延期令(モラトリアム)を施行し、暴利取締令を公布し、臨時物資供給令により、経済の収拾につとめる。さらに震災地だけでなく、全国115都市の近代化・区画整理、基幹街路計画まで進めたのだ。「地震だ火を消せ」は染みついているし、「防災の日」は子どもまで知っている。平成は? 9月1日の教訓は3月11日にどう生かされているのか(いないのか)、調べていこう。

 このように振り返っていくと、後知恵による疑問がわきあがる。なぜあのような、愚かな戦争を選んだのか、テロとデモで彩られたシュプレヒコールが、果たして民意だったのか。

 もちろん、「無謀な判断」とか「盲目的に信じた」という評価は、後付けだからいえる(マスコミや評論家がよく使う手だ)。だが、それで原因を局所化してお終いにしない。状況に流されやすい日本人だから、同じ空気になったら、昭和と同じ選択をするだろう。そのとき、「これはアレと同じだ」と気づけるようになるために読むのだ。たとえば、「治安維持法」や「破壊活動防止法」は、最初から弾圧的なものではなかった。これらが、どのように生まれ育って利用されたかを追いかけることで、未来の轍を避けることができる。未来の治安維持法、総動員法は、その名前で呼ばれないから、これで予習しよう。

 大臣の下半身スキャンダルも、カネと政治のしがらみも、国策捜査の検察ファッショも、噂だけでトイレットペーパーを買い占める婆たちも、売上税・消費税・福祉税も、明日マスコミが騒ぎ立てることは全部昭和に書いてある。同じ過ちをくり返しているからバカだと罵るのではない(そしたらマスコミと同じだ)。そこから教訓を引き出し、未来に適用するのだ。311震災の渦中、某国人を取り締まれという声を聞いた。直後に、関東大震災の朝鮮人虐殺事件を引き合いにして戒める声を聞いた。過去から、学ぶことができるのだ。

 価値ある教訓は過去にある、未来は昭和に書いてあるのだ。

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本が本を呼び、本が棚を呼び、棚が書店をつくる『書店の棚 本の気配』

書店の棚 本の気配 本好き、本屋好きなら、うんうん、あるある読書になる。神保町の老舗中の老舗、東京堂書店の元店長さんの、本と読書のエッセイ。帯の惹句が、いいこと言ってる。

  本が本を呼び、
  本が棚を呼び、
  棚が書店をつくる

 そう、書店の顔は棚だ。どこへ行っても同じ棚なら近所の本屋に行けばいい。お目当てあるなら一本釣りだ(amazonでね)。だが、本が本を呼び、棚を呼び、ゆるやかにつながった今の知を見るためなら、電車に乗ってでかけるべき。

 ちょっとウロつくだけで、旬の言葉と関心の的が目に飛び込んでくる。同時に関心分野へ深入りするための導線としての書籍が、さりげなく並んでいたりする。世の中を「ばくっと」知るのなら、棚を眺めるのがてっとり早い。この読み手の考えを見透かしたかのように、本の選び手は「現在の知」を一覧化してくれる。

 やさしく、やわらかな口調の端々に、現場のプロフェッショナリズムが垣間見える。さらに、長年この業界で働いてきた重みや、昨今の出版動向に対する問題意識が、ずしりと伝わってくる。

 たとえば、ベストセラーの便乗商法や自転車操業的な返本のやりとりに苦言を呈する。出版洪水が書店員の「選ぶ力」を減衰させるとか、「売れる本=エンタメ」の構図に沿って、書店員オススメもそっちへ流れてしまうといったあたりは、『本の現場』で知ったとおり。あるいは、POPだらけの平台を「本の押し売り」とバッサリ斬る。1日200点を超える新刊を展示するため、スクラップ&ビルドのエンドレスな毎日を、“賽の河原”に喩える。

 プロの目利きによる、暖かく、厳しく、ユーモアを交えた本談義には、思わず膝うつこと必至の文句がずらりと並んでいる。ネットや図書館まで話が及ぶが、その認識は限定的で、書店員としての限界を垣間見ることができる。

 例を挙げると、ネットは一覧性に欠けるという。実物の並ぶ書店を見回すのと異なり、「スクロールしながら少しずつ確認している」のが欠点という。本来比べられない小さい画面と大きな書棚を比較するのは、書店員の勇み足か。

 ネットのよさは、時と場に限定されずにつながること。いま惹かれた一冊の他に何があるか、その本をめぐる話題はどうなっているのか、アクセスできるのがネットなのだ。ネットのおかげで、本はもっとメタな存在になれる―――バーチャル/リアル関係なく、これを利用しない手はない。

 また、図書館は棚の広がりがないという。十進分類法に従って部門ごとにしっかり配列されているが、書店のようなジャンルを超えた広がりがないという。ホント? 日比谷図書文化館の展示コーナーや企画棚を見たことがあるだろうか。地域性、時期、世論、世間の関心に応じて作り変えるテーマ棚やフェア棚は、図書館で最もアツい場所だと思うぞ。

 もちろん書店にもフェア棚はあるが、図書館の強みは、新旧の幅があるところ。絶版になってない本しかそろえられない書店は、むしろ選択の幅が限られている。真の意味の「ベストセラー」といえる貸出履歴に沿った棚作りは、書店員さんは盗むところが沢山ありそう。

 棚作りについても、引っかかる。書店員の独りよがりな棚作りは問題だという。じゃぁ「独りよがり」ではない棚作りは何だろうかと進めると、こうある。

わたしは、本が本をよぶのであって、その声を聴きながら棚を構成していうことをできるだけ心がけてきた。本にしたがうことは、大げさにいってみればハイデッガー風に「存在の声を聴く」といったことの実習をしているようなものである。
 「その本の存在が素直に自分の意識を呼び覚ましてくれる」という指摘は確かに寸鉄だ。その感覚は分からないでもないが、そうやって作った棚が、「独りよがり」ではない、「自分の思いだけ」ではないことは、どうやったら確認できるのだろうか? 不思議だ。

 単に「独りよがり」ではない、「自分の思いだけ」ではない棚を作れというなら、一人より二人、三人、チームで棚を作るべしという話になる。なぜそれが選ばれているのか、なぜそういう並び、構成なのかは、できあがった棚という解を見れば即分かる。書店員同士で、それぞれの「自分の思い」を相互に定期的に参照できるようになれば、目利きの底上げになる。それこそネットが

 著者と話しているように読みながら、今の書店の課題、これからの方向をあれこれ思いやる。すると、思いもよらないヒントが続々でるから不思議だ。

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