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ものつくりの科学の歴史「工学の歴史」

工学の歴史 科学史や技術史とは一線を画する「工学史」という新しい領域を読む。

 かなりの大著と思いきや、ポイントを絞ってコンパクトにまとめている。機械工学を中心に据え、細部は参考文献に任せ、キモのところを大づかみに伝えてくれる。おかげで、歴史・地理の両方から俯瞰的に眺めることができる。知のインデックスとして最適な一冊。

 テクノロジー&サイエンスといえば、西洋の専売特許だが、長い目で見ると違う。ニーダム線図、ニーダム・グラフと呼ばれるグラフが顕著だ。歴史的には、長いあいだ中国こそが科学技術の先進国だったことは知っていたが、ここまであからさまだとは。

 中国は古代から中世まで科学技術で世界をリードしていた。だが西洋は後期中世から急激に成長し、ルネサンスを境に両者の関係は逆転している。新参者にすぎない西欧が、なぜ中国を追い抜いたのか?

戦争の世界史 もちろん科学と軌を一つにしてきた軍事面から説明できる。「戦争の世界史」を読むと、あらゆる科学技術の進展は、技芸化→商業化→産業化された戦争の賜物だということが分かる。ヨーロッパの歴史はそのまま戦争の歴史であり、戦争の歴史はそのまま科学技術史になる。

 しかし本書では、軍事技術の側面も認めつつ、当時の「価値観」から説明する。ガリレオ、パスカル、ニュートン……彼らは、自然の背後に隠された神の意思を読むこと、つまり自然法則や原則の発見を最高の使命と考えたという。数学を用い、現象を計量的に分析し、結果を論理的に統合するやり方は、近代科学そのものだから。

 これに対し、中国では、こうした方法による原理・法則の探求が普遍化しなかったという。世界を数学と結びつけ、論理的な体系を打ち立てようとはしなかった―――これが決定的な差なんだと。では、なぜしなかったのかというと、「文明論的な問題」と逃げる。工学の歴史の手に余るのだろう。

 とても興味深いのは、技術者の地位について。一言なら、西低東高になる。

 例えばBC3世紀の世界最古の技術書「考工記」を見ると、工人(技術者)は国家社会に欠かせない職業として尊敬され、高い地位にいたという。一方、古代ギリシアでは、自然を理解する科学は哲学同様「高貴な学問」だったが、手仕事である技術は「奴隷のわざ」として軽蔑されていたそうな。ローマでは土木技術は発達したが、機械は人々の生活に浸透しなかった。なぜなら、安価で確実な「人間機械」である奴隷が容易に手に入ったからである。

 「エンジニア」の語源を追うと、技術者の倫理的責任が見えてくるのが面白い。民衆に公益を提供する技術者と、軍事技術を発明・開発する技術者は、責任の負い先が異なる。

 中世ヨーロッパでは、技術者は民衆に対してじかに職業上の責任を負っており、ギルドをつくって相互扶助と技術の維持・伝承にあたったという。ギルドごとに倫理綱領がつくられ、その技術者には社会的教養と倫理が要求されていた。

 ところがルネサンス期になると、軍事上の必要からギルドに属さない新しいタイプの技術者が現れた。軍事技術の開発には、ギルドの倫理綱領は邪魔でしかないからだ。一切の責任は雇い主が引き受け、技術者は社会や民衆に関わらないといった風潮は、ここから始まったという。そこで開発された新技術をラテン語でインゲニウム(ingenium)といい、engineの元になる。そして、軍事技術者であるかれらをインゲニアトール(ingeniator;要塞建築師)と呼んだ。フランス語のingenieur、英語のengineerの語源である。

 現在のエンジニアは、国家や企業に雇われて新技術の開発にあたる。エンジニアとしての活動で生ずる責任は、民衆にではなく、雇い主に対してのみ負う。この性質は、ルネサンス・インゲニアトール以来の伝統を受け継いでいるといっていい。

 そして、昨今のモラルハザードはエンジニアも民衆の一人であることから生じている。新聞沙汰になる耐震偽装も隠蔽操作よりも、いち職業人として「技術者の倫理と社会的責任」が問われるタイミングは、かなり身近なところにある。引き継いだプロジェクトがズサンな設計なことに気づいたとき、会社が有害物質をタレ流していることに気づいたとき、エンジニアの責任は雇い主が負ってくれるのか───否、逆にトカゲのしっぽとなるのが現在だろう。

そのとき、エンジニアは何をするべきなのか この、エンジニアが直面する倫理問題は、「そのとき、エンジニアは何をするべきなのか」が詳しい(レビュー)。雇用者やエンジニアの立場を超えたところから、倫理綱領を引き受ける第三者的な組織が求められている。工学の歴史のなかで、いったんは雇用者が引き受けた「モラルの問題」が、再び戻されようとしているのかも。

 技術史的な面と、それを扱う人や社会の側面から解説してくれるおかげで、常軌のように、芋づる式に読んできた本と記憶がつながってくる。この点は大いに感謝だが、技術の本質について、著者と徹底的に意見を異にしている。p.261の以下の部分だ。

軍事技術を除けば、技術はつねに人類の生活上の便利さを豊かさを与えるために開発され、発展してきた。人と社会はこれを歓迎し、技術が善であることを疑うものはなかった。ところが最近、技術を取り巻く社会環境は急変した。科学技術の発展にともなって深刻な社会問題が顕在化し、人々はもはや技術を「無条件で」善とは考えなくなったのである。
 つまり、技術は本質的に「善」であったが、最近では必ずしもそうでなくなった───これが著者の主張になる。しかし、わたしは本書の末尾で紹介されている「クランツバークの法則」に近い考えを持っている。技術は、社会や文化のコンテクストの中で(相対的に)評価されるものであって、その本質は善悪から離れたところにあるという主張だ。まとめるとこうなる。
  1. 技術は善でも悪でもなく、また中立でもない
  2. 発明は必要の母である(≠必要は発明の母)
  3. 技術は「パッケージ」としてやってくる
  4. 技術政策上の決定では、しばしば非技術的な要因が優先される
 第二法則が面白い。「必要は発明の母」の逆を言っているが、イノベーションが効果的であるためには、さらなる発明を要するのだろう。iPhoneが顕著な例だね。第四法則も生臭くて良い。レアメタルを要しない加工技術が急ピッチで開発されている理由は、チャイナリスクになる───これも第四法則の好例だろう。

 技術の歴史に限らず、その技能や知識が社会の中でどのように位置づけられていたも併せて分かる一冊。

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