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食欲だけが、死ぬまで人間に残る「ラブレーの子供たち」

ラブレーの子どもたち 食べることは生きること。生きることを文学から知ろうとした人にとって、本書は、懐かしくも未知の味に充ちている。

 著名な芸術家が何を好んで食べてきたかを調べあげ、その料理を再現する。それをみずから口に運び、かの人の「人となり」に思いを馳せるコンセプト。愛好している料理から、その人物の幸福感、ひいては世界観を引き出そうとする。ブリア=サヴァランのこの箴言を、素直にリアルに追求しているね。

「何を食べているのか言ってごらんなさい、あなたがどんな人だか言ってみせましょう」

 俎上にあがるのは、ロラン・バルトの天ぷら、小津安二郎のカレーすき焼き、谷崎潤一郎の柿の葉鮨など、いかにも美味そうな一品から、魔女の蛙スープ、ウナギのクリーム煮など、ちょっと遠慮したいものまで。

 こういう本は、書き手の読量がモノを言う。料理の感想文ではないのだから。たとえ素朴な料理でも、その背後の思想まで透徹するぐらい作品を読み込んでなければならないから。マドレーヌから長編小説を紡ぎ出せる経験の厚みと想像力が必要だ。

 この点、著者は四方田犬彦なので安心できる。たとえば、「バルトにとって天ぷらとは、ほとんど純粋な表面からできている、理想的な食物であった」だって。揚げられた実質ではなく、揚げる油の処女性こそが、求められるのだという。できたての天ぷらに、そんなキャッチが添えられると、見慣れた料理が見違えてくるから不思議だ。

 いっぽう、著者の着眼にハッとさせられる。魔女のスープなんてまさにそう。レシピは次の通り(黒山羊の頭の煮込みは俗信で、「蛙のスープ」が一般的だそうな)。

  1. 蛙を洗って皮を剥き、胸と肢を別々にする
  2. セロリ、ニンジン、ニンニク、タマネギを微塵切りにし、ラードで炒める
  3. 胸肉を加え、少々の白ワインを振りかける
  4. ワインがすべて蒸散してしまったら水を足し、グツグツと煮込む
  5. スープを一度濾し、さらに肢を加える
  6. できあがったスープにバターを添え、辛めのチーズを擦り下ろしていただく

 ポイントは、当時に忠実なところ。15世紀のイタリアの魔女のレシピなのだ。著者は「何か風味が足りない」ことに気づく。それは、16世紀にスペイン人が"発見"した胡椒やトウガラシといった香辛料になる。もし現代のイタリア人ならば、間違いなくトマトベースに塩胡椒で下味をつけ、トウガラシがアクセントの「蛙のスープ」になるだろうと喝破する。そこからの洞察がスゴい。ちと長いが引用する。

そして21世紀に住むわれわれは、知らずのうちに塩と胡椒、トウガラシとトマト、それにオリーヴオイルを基本とするイタリア料理の約束ごとによって、すでに舌をコード化されてしまっているため、そのコードが成立する以前の料理を口にしたとき、奇妙な違和感を感じるまでになってしまった。魔女の料理は逆に、世界食物史におけるペルーの偉大さを、わたしに改めて考えさせてくれたのである。

 「舌をコード化されてしまっている」発想に犯られた、たしかにその通りだ。料理をするとき、わたしは"お約束"のように塩胡椒する。和なら出汁、中なら鶏ガラ、洋ならブイヨンなど、ベースの味付けに寄せて、アクセントとして辛味や酸味を加える。毎日つくる「新しい料理」は、料理史の振り付け通りに譜面をなぞっているのかも。

 真面目(?)な考察から離れて、ほとんど冗談のようなネタもやってくれる。これは、著者というより編集者のたくらみやね(画にかいた企み、"企画"とはよくいったもの)。

 たとえば、アンディ・ウォーホルの「キャンベルスープ100缶」をリアルでやってしまう。大衆文化を代表する「キャンベルスープ缶」をモチーフに、アメリカ社会をメタ化したポップアート―――これをさらにメタ化(メタ「メタ化」)して、作品どおりに「現実の」キャンベルスープを並べる。並べるだけでなく、食べてしまうのだ―――全部!

 グラス「ブリキの太鼓」で精神に異常をきたした母親が食べたとされるウナギ料理も再現される(そして食す)。「ブリキの太鼓」そのものが陽気で不吉で饒舌で猥雑さに満ちているのだが、その象徴みたいな食べ物であることが、実物の写真を見て分かった。純白の生クリームに濃緑のウナギがとぐろを巻いている姿は、グロテスク&エロティックだ。食事は色事に通じる。胃袋から玉袋(子袋)に届けよ。

 「食とは記憶である」ことを再認識させられる一冊。

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現実はSFよりもSFだ「ロボット兵士の戦争」

ロボット兵士の戦争 現実はSFよりもSFだ。しかも、SFよりも「お約束」な展開が恐ろしい。

 革新のスピードが速すぎて、考えるのをやめ、「なりゆきを見守っている」のが、現状になる。SF好きには堪らないだろう。なんせ、ロボット兵を作り出すアイディアを、SFから拝借しているどころか、SFでもやらないベタな地雷を正確に踏んでいるのだから。

 軍用ロボット技術の現状を洞察し、イラクやアフガニスタンで活躍する無人システムを、(良いとこ悪いとこ含めて)解説する。紹介される無人偵察機やロボット兵はSFまんまだけれど、だいたい想像つく。むしろ、使い勝手の良さや、ユーザ巻込み発想はスゴい。

 たとえば、ルンバで有名なiRobot社のPackBot(パックボット)は、箱から出してすぐ使える。8つのペイロード・ベイがあり、地雷探知機や生物化学兵器センサー、ズームカメラなど何でも搭載できる。イラクではカメラ+かぎ爪を組み合わせ、遠隔地から爆弾を分解するのに使われた。ロボットといえば汎用人型決戦兵器を発想する国とは違うのだ。

 後継機はUSBポート搭載され、センサー、散弾銃(最近の銃はUSBで接続できる)、テレビカメラ、iPod、スピーカーなど、プラグイン周辺機器市場が広がる。iRobot社はこれを「プラットフォーム・ロボット」と呼び、マイクロソフトがソフトウェア産業でやったことを、ロボット産業でやろうとしている。

 軍事ロボットの現場はスゴい。C-RAMシステムは自律的な機関砲を使って、人間では遅すぎて反応できないミサイルやロケット弾を撃ち落す。命中率100%のSWORDSは、むしろ撃たれたがる。「そうすれば、相手を標的をみなせるからだ」。砂、雪の中を進み、水深30メートルまで潜り、バッテリーで7年間スリープ状態で潜伏し、目覚めて敵を撃ち倒すことができる。

 地上だけではない。5メートルの波浪でもUSV(無人水上艇)なら活動できる。呼吸や水圧による潜水病といった問題に煩わされることもない。クリック一つで離着陸するグローバル・ホークは、GPSで飛行ルートを確認しながら、完全自動で任務を遂行する。UCAV(無人戦闘機)にとって人間のパイロットはむしろ邪魔だ。あまりに高速で旋回・加速できるため、Gによって失神してしまうからだ。イラクで何度も"戦死"したスクービー・ドゥーについて、指揮官は評価する───「戦死したのがロボットだから、母親に手紙を書かなくてすむ」。

 そう、人は防衛システムの最も弱い環(weakest-link)だ。無人システムはこの限界を回避できる。機内のやわな人間を気にすることなく、より速く飛べ、より激しく旋回できる。もっと深くさらに長く潜行・航行・遡行することができるのだ。人は標的を間違えるし、狙いを外す。休憩が必要で、訓練に時間がかかる。何よりも厄介なのは感情というやつ。怒り、悲しみ、憎しみ、妬み、不安にさいなまれ、名誉欲、権力欲、色欲、野心に振り回される。機械は、人の不安定さから完全に自由だ。

 ここで徹夜SF「戦闘妖精・雪風」と「グッドラック」を思い出す。二十年前の傑作なのに、まったく同じ議論をしている。地球へ侵攻する異星体("ジャム"と呼ばれる)に反撃する特殊戦の話だが、メインは雪風というAIの戦術戦闘電子偵察機だ。

戦闘妖精雪風グッドラック

 ジャムとの戦況が膠着するにつれ、「戦争」がヒトからますます離れてゆく。テクノロジーが先鋭化するにつれ、搭乗する"ヒト"の存在が、機動性や加速性へのボトルネックになる。無人化・遠隔化が進むにつれて、「戦いには人間が必要なのか」という問いかけが繰り返し重ねられてゆく。

戦争は人間の本性をむき出しにさせるものである。だがジャムとの戦闘は違う。ジャムは人間の本質を消し飛ばしてしまう
 「雪風」の予言が、まさに今の米軍の課題になっている。低予算と効率性を追求することで、戦争の現場から人を減らした(一番高くつくのは人件費だからね)。その結果、戦争から人間性が喪われているというのだ。

 本書は主張する。戦争を煽り、持続させるのは、人間の感情だと。激しい恐怖、憎悪、名誉、誇り、そして、怒りこそが、戦争の燃料なのだと。「怒りは兵器や甲冑と同様に、戦争の一部である」と喝破するが、無人システムには「感情」が無いのだ。「リスクを遠ざけた」のではなく、「リスクが存在しない」ところから、一方的に殺戮を行うことができる。

 そこには、敵との間に相互依存の関係は生まれない。感情は制限されたり抑圧されるのではなく、完全に排除される。自律性のあるロボットは、怒りに任せて戦争犯罪を引き起こすことはしないが、プロの兵士なら拒否するような戦争犯罪を淡々と遂行できる。ロシアの戦車T80にミサイルを発射するのも、80歳のおばあさんにミサイルを発射するのも、ロボットにとっては同じことになる。

 そこでは、敵を人間ではなく、画面上の光点とみなすようになる。デジタル処理された「目標」は、リアルとバーチャルくらいかけ離れた存在になるのだ。エヴァンゲリオンの「目標をセンターに入れてスイッチ、目標をセンターに入れてスイッチ」を思い出すね。

 無人システムは「戦闘の非人格化」に深刻な影響を与えるという。物理的な距離を広げるだけでなく、従来にない心理的な断絶を生む。爆撃機のパイロットは従来のように標的の上空にいるのではなく、1万キロ以上離れたところにいる。ゲーセンの筐体に似た制御装置に座って、危険といえば腱鞘炎という状況で、午前はアフガニスタン、午後はイラクを攻撃した後、PTAの会に出席するお父さんもいる。

 いまや戦争体験そのものが変わってしまった。無人機プレデターのリアルタイム情報共有は、マイクロソフト・チャットで行われる。操縦者、サポート部隊、支援されている隊、そしてそれぞれの上司が入り乱れ、匿名性と飛び入り自由の雰囲気が軍の上下関係を混乱させている。友軍が窮地に陥っても遠い場所から「見ているだけ」しかできない。目の前でアメリカ兵が殺されていく様子で受けたストレスを、「メタル・オブ・オナー」で解消する。

 この戦争と人間性の断絶は、戦争のショー化につながる。1991年の湾岸戦争で、ロケット砲が飛び交う夜襲の映像を見たとき、「テレビゲームみたい」だった。2007年の時点で、イラクでの戦闘を撮影したビデオクリップは、Youtubeだけで7000件を超えたという。本書の言葉では、「戦争ポルノ」と化している。サッカーのスーパープレイと一緒で、メールとつぶやきで瞬時に拡散する。

 これも、SFがいつか来た道、かつて開けたパンドラの箱になっている。昔なら松本零士「銀河鉄道999」の惑星ライフル・グレネード、最近なら森博嗣「スカイ・クロラ」だね。本物の戦争を見せることで金を取る、「ショーとしての戦争」だ。999の第47話「永久戦斗実験室」が放送されたのは、1979年9月20日、戦争を観光にしている話は(ラストも含めて)衝撃的で、よく覚えている。

「お前もやっぱりただの観光客さ。防弾ガラスの中でうまいものをたらふく食って、戦争見物をして笑いながら、またこの星から旅立って行くんだ」
 今はもっとひどいのかもしれぬ。無人システムが「安全に」攻撃する様を、銃弾から地球半周り離れたところから視聴する。プレデターが人々の体を吹き飛ばす映像に、シュガー・レイの「I just want to fly」(空を飛びたい)をつけて流す悪趣味なクリップもあるという。無人機のおかげで、戦争が「娯楽」になっている。「巻き込まれていない人間にとっては、見るスポーツ」となのだと。

 長弓であれ銃であれ飛行機であれ、あるいは原子爆弾でさえ、変わったものは「戦争の距離と破壊力」だけだ。これに対し、無人システムは、単に戦い方を変えるだけでなく、誰が戦うかを根本的なレベルで変える。戦争の担い手の能力だけでなく、担い手そのものを変えてしまっている。

 明確な前線はめったになく、戦闘は敵味方の区別がつきにくい状況で行われる。遠くから指揮され、通信システムの不備が民間人に死と破壊をもたらす。この現実は、アメリカ本土では理解されておらず、相手側はもちろん、ときには味方の死傷者についても驚くほど無神経という。

 もっと悪いことに、この「遠い戦争」は(アメリカにとって)安全なので、「軍事」カードが切りやすくなっているという。無人システムは米国民と軍との断絶を象徴している。徴兵制が停止され、議会の承認も不要で、戦時公債もなく、危険にさらされているといえば、もっぱらアメリカ製の機械だけというのが現状になる。戦争から人間的要素をなくすことで、戦闘の経費が安くなり、結果、紛争が増える。「最後の選択肢」だった武力行使が、無人システムのおかげで「お手軽」になっているのだ。

 これまで、著者P.W.シンガーの著書は「戦争請負会社」「子ども兵の戦争」を読んできた。国際紛争の視点は中立的(国連的)で、多国籍軍とは距離をおいた言い方をしていた。ところが本書では、驚くほどアメリカンな視線で語ってくれる。戦場から人を排し、ロボット兵を送り込むことで、自国がどのように見られているか、ようやく気づいたようだ。

戦争請負会社子ども兵の戦争
  • 戦争から人間性を奪うことによって、世界から見れば、われわれ(アメリカ)こそ「ターミネーター」のように見えてしまうかもしれない
  • アメリカは「スター・ウォーズ」の悪の帝国のように、相手はロボットの侵略者に応戦する反乱同盟軍のように見える
 正義の味方になりたがり、「戦争を終わらせるための戦争」をしたがるアメリカ人にとって、無人機は、誤ったメッセージを発信するという。曰く、無人機は無差別テロを「引き寄せる」のだと。イラクの民間人の発言が印象的だ。
「イスラエル人やアメリカ人は冷酷で残忍だという象徴が、無人システム。私たちを戦わせるために機械を送り込んでくる臆病者だと考えている…男らしく戦おうとせず、戦うのを怖がっている、と。だから自分たちが勝つには、イスラエルやアメリカの兵士を何人か殺すだけでいい」
 ロボットというと、アメリカ人は「ターミネーター」のような不気味な存在を思い浮かべるらしい。お国柄だろうか、ロボットというと友達やメイドを作りたがる日本人と偉い違う。2003年のイラク戦の作戦名「Shock and Awe(衝撃と畏怖)」で役立つと思いきや、「正々堂々戦わない」という、まるで逆の印象を植え付けている。著者は、テロリストにアメリカ本土を攻撃する動機を与えることになると警告する。無人機が、「テロを推奨する」のだ。

 じゃぁどうすればよいのか?本書に明確な「解答」は無い。現状を詳らかに事細かに開陳して、あとはオマエが判断しろ状態で放置している。それはそれで正しい。変革のスピードが早すぎて、上が追いついていない。重要な判断が、教義(ドクトリン)なしで決まっていく。SF読みなら行き当たる疑問、「アシモフのロボット三原則は?」はスルーどころかナンセンスとして放置される。ロボット工学が原子力物理学の二の舞になろうとしているのか?

 様々なアイディアが展開されるが、製造物責任の考え方を、民間の法律から戦時国際法に応用している。無人システムは自律的だとしても、作った人間はシステムのすることになんらかの責任を負う。戦争犯罪の原因が、作り手の落ち度ではなく、使い方が間違っていたり、適切な注意を怠っていたりしたためであるケースにも、この考え方が使えるという。

 犬と飼い主の話が適切だ。飼い主は自分の犬が何をするか、誰に噛み付くか、把握しているわけではない。しかし、犬が自律性のある「生き物」だからといって、犬が子どもを襲っても、自分の責任ではないと知らん顔をしていいわけない。飼い主はその場にいなかったとしても、刑事責任を問われる可能性がある。つまり、ロボットも同様に「不作為による」責任を問われることもあるというのだ。

 その予防措置として、鑑札やナンバープレートをつけることを義務づけるアイディアが、古くて斬新だ。登録や免許のような、何らかの正式な承認によって、自律的システムの製造および配備の段階ごとの責任の所在を明確化することを主張する。この辺はSFよりも泥臭くて現実的だ。宙ぶらりんの状態で不安になりながら、次の2つのセリフが未来を暗示している。ひとつはアイザック・アシモフの「社会が知恵を集めるより早く、科学は知識を集める」だ。もう一つはロボット工学者のこの一言。

「有罪無罪は状況次第さ。ただ、あまりにしょっちゅう起きる場合は、リコールすればいい」
エンダーのゲーム もう一つの、見たくない未来は「エンダーのゲーム」か。ネタバレになるので一切触れられないが、傑作だ。だが、エンダー(ENDer)が終わらせた方の世界は、本書が示す「現状」と真一直線上にある。SFこそ未来予想図(しかも一番おぞましい奴)を指してくれる。

 知らない方がよかった現実と、知っていた方がマシな未来を識る一冊。


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