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歯を食いしばって読む『凍』

凍 一気に読んで気がついた、口の中は血の味がした。

 中盤はクライミングの緊張感のあまり、後半は手術シーンの痛みのあまり、全身に力を込めた読書になった。日本を代表するクライマー、山野井泰史の話だ。頂上を目指す彼の“欲望”に直接触れる件では、持つ手が震えた。ギャチュン・カン北壁の凍りつく寒さだからではない、武者震いだ。著者は、タイトル『凍』をトウと読めば『闘』になると言う。なるほど、これは、闘いだ。

 クライミングがスポーツなら、他と決定的に異なるところがあるという。それは、「最も素晴らしい核心部を見せることができない」になる。確かにそうだ、登攀の写真や日記などで伝え聞くばかりだから。新田次郎の山岳モノでは、演出された瞬間を見ることはできるが、一種の伝説を読んでいるような気になる。

 だが、沢木耕太郎は成功している。腐りやすい形容詞を削ぎ落とし、徹底的に絞ったルポルタージュに仕上げている。これっぽっちもドラマティックに書いていないくせに、クライマーとともに緊張感が1ミリずつ上昇するのが分かるし、恐怖心を利用し、ねじふせるしたたかさも一緒に味わうことができる。雪崩の巣の中、つるつるの一枚岩を騙し騙し登るところは、爪先に力が入るだろう。

 しかし、絶望的な状況に圧倒されたとき、わたしはパニックになった。標高差二千メートルの壁に宙吊りになっているのではなく、満員電車の中なのに、思わず叫びそうになった。馬鹿馬鹿しいかもしれないが、それほどシンクロしていた。

 彼を衝き動かす根源にある、欲望に近いものに触れる。失うものが大きくても、やめようと惑っても、最後にはそこに戻ってくる。わたしにとって、クライミングの経験はないが、このせっぱつまったヒリヒリする裸の感覚は、非常に危険だ。なぜなら、日々のルーティンに爛れたわたしに、触媒の役割を果たすから。昨日と一緒の今日と一緒の明日で、消化試合をこなすような人生に、沢木耕太郎は「背中」を押してくれる。『深夜特急』のようにふっと行けてしまいそうな一冊。

 こんなスゴ本が数百円で手に入る、この事実こそが凄いのかもしれぬ。

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