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「貧乏人の経済学」はスゴ本

 「経済学者≒ソフィスト」と冷やかに観察しているが、本書は例外。

貧乏人の経済学 なぜなら、後知恵の机上論を分かりよいストーリーに押し込んで一丁あがりにしないから。あらゆる問題を一般原理に還元し、紋切型に落とし込む発想を拒絶するから。解決策はランダム化対照試行(RCT:random control test)によって検証済のものだから。

 紋切型の経済学者が唱える「銀の弾丸」はないものの、「こんな状況下でこういう対策を打つと、確かに効果が期待できる」といったシナリオは描ける。面白いことに、そのシナリオを支える理屈は、「いま」「ここ」にも適用できるセオリーであるところ。わたしが貧困の罠に陥っていない理由は、わたし個人の努力よりも、社会システムに依拠しているものが大であることが分かる。見えるもの(社会保険、公衆衛生、教育システム)だけでなく、そこからくる見えないもの(安心、安全)に二重三重に保護された「わたし」が見える。

 「最貧者にもっとお金を」「外国援助が発展を潰す」「紛争解決を優先せよ」「自由市場に任せなさい」―――ほとんどスローガンのよう解決策は、あっちこっちでさんざん読まされてきた。それぞれの主義主張に沿ったエピソードが語られ、単純な図式による貧困からの脱出対策が描かれる。著者は、そうした「大経済学者」の一刀両断方式に対し、「単純な問題には単純な答えしか出てきません」と静かに返す。

 「大経済学者」サックスとイースタリーの主張の相違が象徴的だという。マラリア予防の蚊帳の無償で配るべきか否かといった、厳密な答えがあるはずの具体的な問題でさえ、まるで違った見解が出てくるのには、ちゃんと理由があるのだと。いささかカリカチュアライズされてはいるものの、それは、その人に固有の世界観に左右されることが多いというのだ。つまり、突き詰めると理論ではなく、「何を信じるか」に拠るのだ。

 やっぱりね、と頷きながら読む。経済学の理論の「客観性」に疑義をさしはさむと、脊髄反射される方がいらっしゃるが、「客観性」を支える前提条件やモデルを選ぶ主観は、確かに存在する(ばっさりイデオロギーと呼んでもいい)。そして、経済学の「正しさ」は、拠って立つモデルや前提条件の範囲で「正しい」といえる―――などと常々考えてきた。

 しかし、本書ではそうした前提やモデルのパラメータを変えて、複数の対照群に適用する。あたかも、新薬の実験で偽薬を飲ませる対照群を用意するように、経済施策でもプラセボを考慮するのだ。経済がほとんど成り立たない田舎に、突然セレブやらカメラやら補助金が押しかけたら、そりゃあ豊かにもなろうもの。だけどその「豊かさ」のどこまでがドーピングで、どこからが施策そのものの効果か、どうすれば見えるようになるか―――この疑問への解が、ランダム化対照試行なのだ。

 もちろんこれも万能ではない。経済状況は流動的で、環境はどんどん変わるし、だいたいプラセボ(偽薬)のほう、要するに「援助なし」のほうは不公平ではいないかといった不満も出てくる。それでもめげずに根気よく実施する。そもそも「援助あり」は良い結果になると限らないから、必ずしも不公平にならないという信念(疑念?)とともに。

 潔いのは、経済状況の複雑さを、対策がうまくいかない言い訳のために用いないところ。複雑なものは複雑なものとして扱い、費用対効果を睨みながら予想と結果のFit/Gapを淡々と分析する。得られる知見は驚くべきものだ。わたしのこれまでの「貧乏な国」に抱いている常識をうち破ったうえ、(わたしの日常に常識に照らしたうえで)納得できるのだ。

  • 飢えている人でもカロリーよりおいしいものやテレビを優先する
  • 就学率が上がらないのは、学校がないからでない。むしろ子ども自身や親が学校に行きたがらない/行かせたがらないから
  • 途上国に多い作りかけの家は、実は貯蓄手段
  • 制服がある女子校と、その生徒の初性交の年齢に相関があるわけ
  • 貧乏人が貯蓄をしないのは、貯蓄を「安心して」「半強制的に」できるシステムがないから(自制心のなさは、貧困国、富裕国似たり寄ったり)
 それぞれのストーリーは、必ずしも「効率的」「経済的」な便益を持つものではない。なぜ貧乏な人がさらに貧乏になる選択肢を積極的に取るのか、わたしの常識から見える。わたしの常識の「前提」や「モデル」を、貧困国のそれに置き換えてみるのだ。すると全く同じ動機にうごかされるだろう。「マラリア予防施策のオプション」と「フィットネスクラブに通うと保険金が安くなるオプション」は、同じ動機付けに支えられている。

 そこから得る結論は、自分の健康や安全について、正しい決断を責任をもって下せるほど忍耐強くも、知識もない「わたし」だ。情報不足、弱い信念、問題の先送りをしている「わたし」だ。これは貧乏な国に住む人となんら変わりはない。わたしの強みは、わたしが当然のように享受しているもの―――安全な水や食べ物、(おおむね)信頼できる医者や金融システム、保険制度や予防接種や、警察システム―――こうした後押しに支えられ・囲まれて生活していることなのだ。

 システムに組み込まれた「安全」は、「安心」を支える。わたしがその日暮らしに陥らず、ある程度未来を見据えて予防的に動けるのは、この「安心」に拠るのだ。ちょっと自分の思ったとおりに動かないようにみえる行政に目くじら立てて、行政そのものを否定したり、こき下ろしたりする連中にならないように。これがダメなら全部ダメという二択の罠に陥らないためにも、本書の結論を引いておこう(p.349、p.101より、太字化はわたし)。

貧乏な人は自分の人生のあまりに多くの側面について責任を背負い込んでいます。金持ちになればなるほど、だれかが「正しい」判断を代わりに下してくれます。貧乏人には水道がなく、地方政府が水道に入れてくれる塩素消毒の恩恵を受けられません。きれいな飲料水がほしければ、自分で浄水しなければならないのです。栄養満点の出来合い朝食シリアルは買えないので、自分や子どもが十分な栄養素を得ていることを、自分で確認しなくてはなりません。退職年金天引き制度や社会保障料天引きなど、自動的に貯蓄する方法もないので、自分が確実に貯金するような方法を考案しなければなりません。
こうした意思決定はだれにとってもむずかしいのです。いま考えたり、今日ちょっとした費用が必要で、その便益を回収できるのははるか将来のことだからです。だから、すぐに先送り傾向が邪魔になってきます。貧乏人たちにとっては、人生がすでにわたしたちよりずっと面倒なので、さらに事態は悪化します。
豊かな国に住む者こそ、そうした過干渉の絶え間ない受益者ではないでしょうか?ただそれがシステムにしっかり埋め込まれているため、気がついていないだけなのです。おかげで、自分で何もかも決断を下さなくてはいけない場合にくらべ、ずっと健康状態もよくなるばかりか、そういった問題に煩わされずにすむので、生活のほかのことに専念するだけの心のゆとりも生まれます。

 訳者は例によって山形浩生氏、いつもの砕きまくりの翻訳ではなく、抑制した筆致で正確さを求める著者を代弁するかのような文章に仕立てている。本書を手にする方は、いつものように末尾の「訳者解説」から読み始めるのが吉。ちょっと毒を含んだいつもの山形氏ではない、(耳に痛いことを言われて)ちょっと背筋を延ばした訳者が見えるから。

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