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「戦争の世界史」はスゴ本

戦争の世界史 ギルガメシュ王の戦いから大陸弾道ミサイルまで、軍事技術の通史。人類が「どのように」戦争をしてきたかを展開し、「なぜ」戦争をするのかの究極要因に至る。本書は非常に野心的な構想に立っている。軍事技術が人間社会の全体に及ぼした影響を論じ、戦争という角度から世界史を書き直そうとする。

 最初は大規模な略奪行為だったものから、略奪と税金のトレードオフが働き、組織的暴力が商業化する。戦争という技芸(art of war)を駆使する専門技術者が王侯と請負契約関係を結ぶ。常時補給を必要とする野戦軍を、その経済的作用から「移動する都市」と喝破したのはスゴい。略奪して融かされた金銀地金は市場交換を促進し、従軍商人は日用品から武器まで売りつけていたから。

 そして、現代の軍産複合体の前身にあたる軍事・商業複合体が形成され、ライバルとの対抗上、この複合体に依存して商業化された戦争を余儀なくされる。民間から集めた税金で軍事専門家を雇って戦ってもらい、その支出が有効需要として経済を刺激する。増加した税収でさらに軍事力が高度化し……このフィードバックループこそが、ヨーロッパを優位に立たせたのだ。

 さらに、イギリス産業革命は軍事・産業複合体が支配する産業化された戦争を生み出す。そこでは、アメリカで開発された旋盤技術により、ライフル小銃の大量生産が可能となり、大砲や戦艦の製造技術が産業化されることによって、全世界を顧客とする近代兵器製造ビジネスが誕生する。

 戦争をする主体(王侯・政府)の財政・経営上の決定と、民間企業である武器製造会社の財政・経営上の決定とは、縦横の糸のように交錯しあう。そしてついに、公共政策と民間企業のポリシーとは、二度と解きほぐせないほど緊密な布地に織りあわされる。

 本書の視線で西欧史を眺めると、社会そのものが、長い時間をかけて、戦争というシステムにロックインされてきたのが分かる。もちろん、戦争は欧米の専売特許ではない。だが、フランス革命とイギリス産業革命をトリガーに、全世界を巻き込みながら戦争と産業というシステムを二人三脚で輸出する過程こそが西欧史なのだ。このダイナミズムに圧倒される。

 本書をユニークにしているキーワードは、コマンドになる。文脈により「指令」、「注文」、「勅令」と変えられているが、補給や戦略における命令の伝わり方に着目しているのが面白い。たとえば、戦友がばたばた倒れているのに、隊列を崩さず頑張る行動様式は、本能からしても理性からしても説明がつかない。しかし、18世紀のヨーロッパの軍隊は、これをあたりまえにこなしていた。なぜか。

 あるいは、軍隊の戦闘単位が上官からの命令に厳密に従うことについて。命令の出所がすぐそこの丘の頂だろうと、地球を半周した先の本国であろうと、同等の正確さで服従したという事実は、驚くべき事なのに、ルーティンワークとしてこなしていた。これはなぜか。

戦争における「人殺し」の心理学 それは二つある。ひとつは頻繁に反復される体系的な教練を発達させたこと、もうひとつは主権者(国王、為政者)に発して最下級の下士官まで行き届く明快な指揮系統をつくりだしたことにある。「戦争における人殺しの心理学」が述べているように、たとえ戦場であっても、人は人を簡単に殺せない。人を殺す抵抗感を減らすため、「相手を人とみなさない」「戦闘行為の反復化」こそが鍵となる。練習による殺人は、グロスマンが「戦争における『人殺し』の心理学」で述べている通りだが、今に始まったことではないのだね。

 そう、歴史を俯瞰しているのに、過去問ではなく、極めて現代的な課題にぶち当たることが多々ある。

ロボット兵士の戦争 たとえば、人間性を排除した戦争が、戦争の非人道化を招いていること。テクノロジーの発達の歴史は、戦場を拡大化───戦線の無効化を促しているように見える。近接武器を手にした格闘戦から投擲器、弓矢による遠距離、クロスボウ、鉄砲、大砲、ミサイル、空爆、そして無人機と、殺戮は非対称で一方的となる。シンガー「ロボット兵士の戦争」と同じ議論が展開される。

 つまり、肉体の鍛錬による殺人行為ではなく、技術的な技能は、昔風の勇気と武勇を無用の長物とする脅威をはらんでいる。より遠くから、より効率的に(≒より安く)殺戮が行えることにより、軍人であるということが何を意味するのか、定義自体に疑問符が付けられる。象徴的な言い方をするなら、エヴァンゲリオン初号機のパイロット、碇シンジ君なんてそうだ。戦士としては非力だが、人類が保有する最後にして唯一の対抗手段となっている。

 ミエー銃やアームストロング砲など、近代兵器の拡充は、そのままドコモのiモードの盛衰と重なる。いわゆる技術の馬跳び現象だ。いったん兵站の標準化を成しとげたら、砲弾や銃弾サイズは柔軟に変えられない。設備投資は10年サイクルなのだ。だから、後追いの方が馬跳びのように先行者を追い越してしまう。フランス軍のジレンマは、なまじiモードが成功したからスマートフォン移行が遅れたdocomoに重なる。さらに、アナログ端末が普及していたためデジタル携帯革命に乗り遅れ、2Gを一気に飛ばして3Gスマホにジャンプした米国は、そのままクリミア戦争当時のロシア陸軍の戦備とダブって見える。

 軍備が遅れていた国が、一つ先の設備とサービスを取り入れてジャンプしてしまうのだ。ガラパゴス携帯は日本を揶揄する物言いだが、イノベーションのジレンマは、戦争の世界史のあちこちに散見される。古いのに新しい問題だ。

 Howから入り、Whyに至る。「なぜ」戦争をするのかの究極要因は、急激な人口増だ。人口が過剰になって成年に達しようとする世代が、今までのやり方で暮らしを立てられなくなれば、非常な緊張を生むことになる。新しいドグマ、新しい土地、新しい生活様式を探し求めてやまない、焦燥と激情にみちた精神状態は、どんな形態の政府で動揺させずにはいないという(いっぽう軍隊は雇用受入皿として有用だ)。ヨーロッパの1750~1950年がまさにそれで、アフリカ、アジアはまだ続く。日本はどうだろうか。団塊が老害として居座るのであれば、この不安定は解消されないだろうが、わたしの生きている間で行く末は定まるだろうか。

 著者・ウィリアム・マクニールの研究テーマは「西洋の台頭(The Rise of the West)」だ。西洋文明が他の文明にもたらした劇的な影響という観点から世界史を探索し「世界史」「疫病と世界史」を著している。前者は、読むシヴィライゼーションともいえる名著で、後者は、感染症から世界史を説きなおしたスゴ本だ。

 マクニールは何度も読む。そのたび異なる視点で現代を「過去問」として取り組むだろう。

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