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「スゴ本オフ@最近のオススメ」のお誘い

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 好きな本を持ち寄って、まったりアツく語り合うスゴ本オフのお知らせ。

 SF、恋愛、POP、ミステリ……毎回テーマを決めてきたけど、今回はノンジャンルで、最近のオススメにします。あれこれテーマを選んだり、決まったテーマで脳内・本棚ブック・ハントもまた楽し。悩ましい楽しみなのだが煩わしいことも事実。なので間口を広げて、

   最近(ここ一年)読んだ中で、「これイイ!」というもの

を持ち寄り・紹介しあいましょう。業界の回し者のように、「2010年に出版された新刊」とかの縛りはありません(新刊恐怖症は煽りません)。10年前の本でも、1世紀前に出たものでも、あなたが読んだそのときが new! なのだから。

 日時 3/4(金)19:00開場、19:30~21:30
 場所 麹町のKDDI Web Communicationsさんの会議室
 参加費 千円(軽食と飲み物が出ます)
 終わったら有志で飲会へなだれ込みます(懇親会は三千円程度)

 申込方法は、こちらからどうぞ→3/4 スゴ本オフ申込みフォーム(締め切りました) 簡単な自己紹介を添えて、やすゆきさん(@yasuyukima)にtwitterかfacebookでメッセージを飛ばしてください。 twitterもfacebookも入ってないぜ、という方は、わたしにメールを送ってください(右上のプロフィールからどうぞ)。 twitterやメールですでに申し込まれた方は、フォームから再度申し込む必要はありません。

 よくある質問と答えは以下の通りです。

  1. 「勉強会なの?」→【非】勉強会です。好きな本を持ち寄って、みんなで語り合う会です。本を介して新たな読み手を知ったり、人を介して知らない本に触れるチャンスです
  2. 「マンガとかあり?」→ありです。テーマに沿っていれば、小説、コミック、エッセイ、ハウツー、詩歌……なんでもOKです。重要なのは、その本への思い入れなのです
  3. 「ブックシャッフルって何?」→「本の交換会」です。オススメ本をランダムに交換しあいます。交換する本は「放流」だと思ってください。「秘蔵本だから紹介はしたいけれど、あげるのはちょっと……」という方は、「紹介用」と「交換用」、別の本にしてください
  4. 「ネットに公開するの?」→ネットで広がります。Ustream/Twitter/Blogで、オススメ合いをさらに広めます。抵抗がある方には、「見てるだけ」「透明人間」も配慮します
  5. 「オススメがかぶったら?」→よくありますが、無問題です。大事なのは、その本がいかに自分にインパクトを与えたかですから

 2010/04/07 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@SF編
 2010/05/14 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@LOVE編
 2010/07/16 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@夏編
 2010/08/07 スゴ本オフ@松丸本舗(7時間耐久)
 2010/08/27 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@BEAMS/POP編
 2010/10/20 スゴ本オフ@赤坂
 2010/10/23 スゴ本オフ@松丸本舗(セイゴォ師に直球)
 2010/12/03 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@ミステリ

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タイトルは釣り「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」

 タイトルに釣られたものの、じつに愉しい読書だった。

もうすぐ絶滅するという紙の書物について 最高峰の知識人ふたりの、書を愛でるウンチクをたっぷり味わう。本好きにオススメ。これは、「物語を消費するのが好き」とか、「情報を吸収するのが好き」という意味ではない。消費や吸収なら、アニメやネットでイケるでしょ(「本」じゃなくて「画面」でおk)。そうではなく、「本を読むのが好きな人」なら、ニヤニヤしながら読むだろう。

 本書は、ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの対談集。「薔薇の名前」「フーコーの振り子」の原作者エーコと、「存在の耐えられない軽さ」「マックス、モン・アムール」の脚本を書いたカリエール、どちらも最高の作家であり読者だ。

 そんな二人が、「電子書籍は本を滅ぼすか」について、開始30頁あたりで早々に結論を下す。勢い込んだ読み手には、ひょうし抜けするほどあっさりしてる。

ですから、「電子書籍」が書物を滅ぼすことはないでしょう。グーテンベルクが印刷術という素晴らしいものを発明した後も、ひきつづきコデックスが用いられ、パピルスの巻物やウォルミナが売り買いされたように、さまざまな実用と習慣が並存し、選択肢が広がるのは願ってもないことです。
 電子書籍を、デジタルカメラの比喩で予想する人がいる。要するに、フィルムカメラがデジタルの波に飲まれたように、電子ブックは紙の本を駆逐するというのだ。だが、われらがエーコ&カリエールは違う考えだ。「映画は絵画を滅ぼしませんでした。テレビは映画を滅ぼしませんでした。ですから、画面ひとつで世界中の電子文書にアクセスできるタブレット型のブックリーダーだって大歓迎なのです」なんていいだす。むしろ大事なのは、画面上で本を読むようになることで、これまで本のページを繰りながら得てきたものが、どんなふうに変わってゆくのかを知ることなのだという。

 二人はむしろ、本を、車輪のような、それにまさるものを想像できないほど完成された発明品だと考える。モノとしての本は、自転車やメガネ、スプーンやハサミと同じような存在だという。もちろん材質やデザインの点で変化はあるだろうが、本質的な機能や構造は、それ以上うまく作りようがないとまでいうのだ。

 その本質がコデックスなら、グーテンベルク以前も以後も「本」はあったし、これからもそうだろう。でも「紙」の本は?という問いには直接答えるのではなく、カウンターパンチを食らわせる―――曰く「耐久メディアほどはかないものはない」と。つまりこうだ、情報や個人の記憶を長期間保管できるものと見なされてきた、一連の記憶媒体の歴史を振り返る。フロッピーディスク、カセットテープ、CD-ROMなど、既に見向きもしなくなったメディアについて昔話を始める。

 たとえば、「フーコーの振り子」の初稿は1984年にフロッピーに保存したはずだという。あの時代なら5インチだろうから、読むならスミソニアンまで行かなければならぬ。しかもなんと、その初稿のフロッピーを失くしてしまったのだそうな。負け惜しみのように「タイプライターで打った原稿なら、今でも手元にあったはずです」というが、理解できる。学生のときワープロで打った卒論のフロッピーはもうないけれど、印刷したやつはダンボールに突っ込んであるから。

 ここからわたしの妄想。紙の本の他に、(もともとは紙メディアだった)デジタル化された「本」が普通になると、デジタル化された本の寿命はメディアの寿命に左右されるだろうね。たとえば、ほとんどのコミックはデジタルで流通し消費され、「モノとして残したい」欲求を叶えるために紙化されるだろうね。その瞬間、紙化された本は延命することになる。反面、本じゃなくてもよかったものがどんどんデジタル「本」になると、記録方式を越えて引き継がれるためには、『本』である必要がでてくるわけだ。

 この顕著な例が、古典だ。著作権という制約もあるが、「コンテンツの寿命>メディアの寿命」となる古典を考えると、読まれる度に新しくなる強さを思い知るね。

 古典はあらゆるメディアに染み出していると言える。CD-ROM本になったのは、「ダ・ヴィンチ・コード」ではなく、「シェイクスピア全集」だし、オーディオブック化されるのは古典と相場が決まっている。源氏ひとつとっても、それぞれの時代の、「現代語」訳者が違うし、ドラマ化、映画化、メタファー、オマージュ、インスパイア、本、巻物、襖絵、塗りから歌、詩、唱、フィルム、LP、FD、CD、カセット、VHS、DVDそしてブルーレイと、さまざまな読み、読み方が提案され翻案されて、それぞれの時代の先端メディアに乗って流通する。電子書籍を「ブーム」だけで終わらせないためには、コンテンツのチャネルが「増えた」という視点が必要だね。青空文庫のテキストに限定せず、音声や画像も盛り込んだ「iPhoneで読む源氏物語」という サービスが生まれるだろう。

 妄想おわり。次々と繰り出されるウンチクに巻き込まれるうち、読んでるこっちも触発されるのだ。面白いねぇと反応したのが、「本を読むときの視線」。そういや、松岡正剛氏も、一流の作家は一流の読者でもあるから、その「読み方」「本の触り方」「本の愛で方」を撮影・録画しておけ、だなんて言ってたな(「読書とはなにか」まとめ)。カリエールは、読むときの視線を、書くときの視線に置換して考える。たとえば、フランス語や英語なら左から右だろうが、アラビア語やペルシャ語は右から左に動くことを指摘する。そして、この動きがカメラの動きに影響を与えているのではないかと仮説を立てるのだ。例として、トラベリング・ショット(カメラの位置を移動させながら撮影する技術/traveling shot)を挙げている。西欧のトラベリングが左→右がほとんどだというが、ちょっと注意してみよう。

 この、本を読むときの癖がその文化圏のものの見方に影響を与えている可能性を考えると、愉しい。本能的に目がそう動くのが、文化により縛られるのだ。遺伝のように引き継がれるのか、面白い。「マンガはなぜ面白いのか」を読んだとき、カンディンスキーの絵画論があった。描かれた人物の「向き」に比喩が隠されているというのだ。つまり、これから事件に(未来に)向かってゆく主人公は、たいてい左を向いている。これは、「左に向かって読んでいくことが左を進行方向とし、右を逆進や戻る方向として受け取るという、暗黙の了解を成り立たせているというのだ。宇宙戦艦ヤマトが左向きなのは、日本語のコンテンツだからという仮説だね。きちんと数えたわけではないが、「WATCHMEN/ウォッチメン」のキャラクターは右を向いた顔が多かったような気が(左を向くときは、「振り返る」動作だったような…)。次に読むときに気をつけてみよう。

 「本」の達人だからこそ、「言語の寿命」のスケールもデカい。「日本語が滅ぶ」と声高に叫ぶ連中の目線はせいぜい数十年。あたりまえだ、自分が生きたスケールでしか測れない想像力しか持ち合わせていないから。だがエーコは数百年、数千年のスパンでメッセージを伝える手段を考える(ケタ違いだね)。

 たとえば、「放射性核廃棄物質を警告する方法」が面白い。核廃棄物の放射能は一万年持続するという。厳重に格納しておくとしても、そこへ侵入を防ぐために、どのような標識でまわりを取り囲めばよいのかが問題だ。二、三千年たったら、読み解く鍵の失われた言語が出てくる。現在は英語をはじめ何十ヶ国語で「危険」だの「近づくな」と警告しているだろうし、絵文字や記号もあるかもしれない。

 しかし、厳重に囲めば囲むほど、「何か価値があるもの」というメッセージを出しているのと一緒だ。使われなくなった言語の末裔か、さらには宇宙や未来からの来訪者たちがやってきた場合、どのように「警告」すればよいか?NASAが依頼した言語学者の結論は、「どのような言語も絵文字も有効ではない」だ。言語は失われたらおしまいだし、絵文字はそれが生まれた文脈の外では理解されえないという。

 エーコの解決策はシンプルだ、反転表示にしよう。

一番上の層では廃棄物を希釈して放射能を微量にし、その次の層ではもう少し放射能を強くする、というような埋め方にするのです。もし来訪者たちが、誤って、手もしくは手に相当する器官を、廃棄物の埋まった土地に突っ込んでも、指の骨を一個失うくらいですみます。それでもしつこく続ければ、指を一本は失うかも知れません。しかし、そのくらいで諦めるだろうと確信できます。
 こういうケタ違いのスケールに曝されていると、「日本語が滅ぶ!」とか「最近の若者の言葉づかいが!」とかいう爺婆があわれに思えてくる(エーコもじいさんだがw)。危機感を煽って売りつけるマッチポンプは商売の基本なので、商売っ気のないエーコ爺さんならではともいえるな。

 このように、「本」を物質としてのメディアとみたり、数千年に渡るメッセージとみたり、はたまた「発明品」という位置づけで歴史の文脈においたりする。そのたびにわたしは、ハッと気づかされたり妄想バブルを膨らまされたり、かなり忙しい読書だった。この二人、筋金入りの書痴でありながら、「本」をかなり自由に考えているね。

 さまざまな「本」の読み替えがユニークだが、本棚を「ワインセラー」として比喩したのには膝ポンだった。本の達人だから、積読なんてもってのほかなんてくるかと思いきや、「本棚はワインセラーです。入れておくのは、読んでも(飲んでも)いい本か、読んでも(飲んでも)良かった本です。そのまま一生読まないかもしれませんけど、それでかまわないんですよ」という。「話題の」本を三年後に読んだっていいじゃないか、と新刊恐怖症に対抗するメッセージをもらって元気付けられる。

 原題を直訳すると「本から離れようたって、そうはいかない」だそうな。タイトルはかなり「意訳」だが、この釣りに掛かるような本好きなら大満足の一冊になる。喜んで釣られろ。

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現実をスウィングしろ「宇宙飛行士 オモン・ラー」

 これは傑作。現実からすべり落ちる感覚を満喫する。

宇宙飛行士オモン・ラー ベースは30年前の冷戦時代。米ソの月探索競争を背景に、宇宙飛行士を目指す若者・オモンが語り部だ。現体制を守るため理念や思想が自己目的のお化けとなるトコなんて、いかにもソヴィエトらしくて笑える。だが、ステレオタイプな「ソヴィエト」に心許してると、裏をかかれる。現実から感覚がズれてしまう。

 この感じは、「止まったエスカレーター」だ。ふつうエスカレーターは「流れて」おり、わたしはタイミングよく「乗っかる」ことで運ばれてゆく。ところが、点検か停電で止まった状態のエスカレーターで上ろうとすると、体と感覚のバランスが取れなくなる瞬間がある。目に入るのは「エスカレーター」なので、体を自然に「流れ」に合わせようとしてフラッとなるのだ。

 同様に、「戯画化されたソヴィエト」や、「一人称のお約束」に沿って乗っていこうとすると、オヤッ、フラッとなる。わたしが「現実」だと考えていたものが、「わたしが現実だと考えていた」ものに横すべりする。世界はそのまま(に見える)のに、認識だけがズれていく感覚にとらわれる。だいたい、主人公であり語り手であるオモンからして、知覚を捏造する技術を習得している。さらに、自意識に自信がもてない瞬間が出てくる。気絶するように眠って、目が覚めたらぜんぜん違う場所にいたと報告したり、平気で「いま」「ここ」と少年時代の夏を同一視する。

 でんぐり返った先が非現実的だったら、まだ分かる。マジック・リアリズムとはまさにそんなもので、リアリズムに満ちた語り口で途轍もないホラを吹く。だが、もともとのソ連が悲惨な現実として描かれているため、「悪夢から目覚めたら地獄だった」カフカ的展開となる。いや、カフカならファンタジックな逃げもあろうが、ズれてはいてもリアルなのだ。狂っていても、体制維持という目的には合理的な不条理を飲まなければならないのだ。

 この黒い笑いは、ヘラー「キャッチ=22」や、ブルガーコフ「巨匠とマルガリータ」と同じツボを突く。前者の、「自分が狂人であることを証明できるのであれば、それは狂っていないという証拠であり故に狂人ではない」。あるいは後者の、「悪魔を現実に投げ入れたら、人は、悪魔付きの現実を認めるが、悪魔そのものは認めようとしない」を思いだす。オモンが、「ほんとうの」英雄、「真の」宇宙飛行士となるためには、「ハリボテの」体制を自分の血と肉でもって埋めあわせなければならない。ジレンマの笑い、いや笑いのジレンマか。奥歯にモノ挟まっているようなしゃべり方をしているのは、ネタバレたくないから。ちなみに見返しやamazon紹介はかなりネタバレだから、見ないほうが吉。

恐怖の兜 著者ペレーヴィンが仕掛けてくる「現実への揺さぶり」は、読み手にまで効くようになっている。世界なんて、「わたし」というウツワの観測範囲から定義された「現実」に過ぎないのだ。この、入れ子細工の現実というテーマは、「恐怖の兜」でもいかんなく発揮されている。これは、バラバラに閉じ込められた男女八人が、部屋にあるパソコンでチャットするという、「チャット小説」だ。一種の脱出小説でもあるのだが、脱出した先で読み手が迷宮に取り残される気分を味わうだろう。曰く、「ここはどこ?」「わたしは誰(だったんだ)?」ってね「恐怖の兜」

 ロシアン・ブラック・ユーモア、極上の黒い笑い、そして現実のスウィング感覚を、堪能あれ。

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