« 2011年1月30日 - 2011年2月5日 | トップページ | 2011年2月13日 - 2011年2月19日 »

「生命の跳躍」はスゴ本

 How(いかに)を追って、Why(なぜ)に至る。

生命の跳躍 分子レベルのメカニズムから、深海の熱水噴出孔の生態から、地球の歴史から、生きる営みの"わけ"に迫る。つまり、構造に理由を物語らせるわけだ。もちろん、生命現象すべての理由が明らかになっているわけではない。だが、最新の科学的解釈や研究の成果・仮説を元に、分子レベルから地球規模まで、スコープを自在に操りながら、なるべくしてなった必然と、そうとしか考えられない偶然の握手を提示してくれる。その推理の推移が大胆・周到・スリリングなのだ。

 ニック・レーンは、進化における革命的な事象を10とりあげ、俯瞰と深堀りを使い分ける。この10の革新的事例を "invention" と銘打っているのは面白い。「発明」というよりも「創造」というニュアンス。自然選択がすべての形質を厳しい検査のふるいにかけ、そのなかで環境やパートナーに最も適応したデザインが生き残ってきた。この "invention" の成果こそ、無数の選択を経ている、「いま」「ここ」の「わたし」だと考えるに、ただ驚くしかない。ここにいる「わたし」は、それなしでは世界を認識できない前提のような存在なのに、同時に生命進化の最新鋭の "invention" なのだ。

 その10の "invention" は以下のとおり。

  1. 生命の誕生
  2. DNA
  3. 光合成
  4. 複雑な細胞
  5. 有性生殖
  6. 運動
  7. 視覚
  8. 温血性
  9. 意識
 蒙を(強制的に)開かされたのは、4章の有性生殖と10章の死。要するに、「なぜセックスするのか?」「なぜ死ぬのか?」という疑問に正面から応えたもの。少数のアメーバのように、クローンでいいじゃないか。生存の観点からは最高に不合理な行為なのに、多くの生物はセックスをするのか。あるいは、どうして老いて死ななければならないのか(そしてその過程で悲惨な病気で苦しめられなければならないのか)。ともすると哲学的な応答になってしまうのを、生存闘争の視点から科学で斬り込む。

 まずセックスについて。生物である限り、変異は必ず起きる。そして、変異のほとんどは、集団全体の適応度を低下させる働きをするという。これを何度も繰り返すことによって、集団全体が衰退し、絶滅に至る。クローン生殖を行う場合、適応度を変化させる変異と、それを押さえ込む変異が、同じ子孫に起きない限り、衰退をとめることができない(と、わたしは理解した)。

 だが、有性生殖はこの窮地を救う。変異のない遺伝子をひとつの個体に持ち寄れば、変異のない個体をまた作り出せるからだというのだ。著者はユニークな喩えを用いる。2台の車が故障した場合を考える。1台は変速機がいかれ、もう1台はエンジンが壊れているような場合、修理工は使える部品を組み合わせてちゃんと走る車1台に仕立てられる。有性生殖はこの修理工のようなものだというのだ。

 さらに、クローン生殖と有性生殖を、それぞれ旧約聖書と新約聖書になぞらえているところが面白い。要するに、変異とは罪のようなものなのだ。変異率が1世代あたり1個に達すると(=だれもが罪人ということ)、クローン集団において罪をなくすには、旧約聖書のように大洪水でおぼれさせ、集団全体を罰して滅ぼすしかない。だが、有性生殖は違う、新約聖書のように。

有性生殖をおこなう生物が多数の変異を(後戻りのできない限界まで)蓄積しても危害を被らなければ、有性生殖には、健常な両親のそれぞれに多数の変異をためこませて、すべてを1体の子に注ぎ込む力があることになる。これはいわば新約聖書のやり方だ。キリストが人々の罪を一身に引き受けて死んだように、有性生殖も、集団に蓄積した変異を1体のいけにえに押し付けて、処刑してしまえるのだ。

 また、有性生殖は寄生虫対策でもあるという。捕食者や飢餓よりも、寄生虫のもたらす病気によって死ぬ可能性のほうが明らかに高いことを指摘する。急速に進化する寄生虫は、宿主に適応するのに長くはかからないし、適応に成功したら今度は集団全体に取り付き、全滅させてもおかしくない。一方、宿主に多様性があれば、一部の個体がたまたま寄生虫に耐性をもつまれな遺伝子型を備えている可能性がある(はず)。そして、そのような個体は繁栄し、次は寄生虫の方がこの新たな遺伝型への対応を余儀なくされる───寄生虫と宿主とのたゆまぬ競争こそ、有性生殖が大きな利益をもたらすというのだ。

 一種のショックを受けたのは、「死」について。医学の発達によって、たしかに人の寿命は延びた。だがそれは、既に死んでいるはずの存在を人為的に伸ばしているだけであるということが、遺伝子により証明されている(とわたしが感じた)からだ。たとえば人の場合、150歳まで生きられない。したがって、「150歳で病気を発症させる遺伝子」は、自然選択により排除できないことになる。同様に、70歳が寿命だった自然選択では、71歳でアルツハイマーを発症させる遺伝子は排除されなかったことになる。

 いま、まさに起きていることがこれで、「老い」とは、ヒトが死んでいるはずの年齢をはるかに超えてから働く遺伝子がもたらしている衰えだと定義しなおせる。捕食者や感染症などにより、統計的には死んでいるはずの個体への自然選択の力がおよばなくなっているのが「現在」なのではないかと考えるとゾッとする。主要な死因を排除する方法で伸ばしてきたが、まさにその方法により「死」がそこらじゅうに顕れている。著者はもっとスマートに「われわれは、墓場から掘り返した遺伝子に、墓場へと追い立てられている」と述べる。

 喩えの秀逸さも特筆すべきだ。「老化の原因と言われるフリーラジカルは、危険を知らせる火災報知機のようなもの。だから、そのシグナルを押さえ込むことは、火災報知機のスイッチを切ることに等しい」とか、エネルギーの伝達メカニズムで、分子から分子へリン酸塩が運ばれてゆく様子を「鬼ごっこ」になぞらえる。意識の存在を量子のふるまいによって説明しようとする説に、「量子にとってシナプスとは海だ」というたとえは腑に落ちたし、細胞の中を巨大な都市空間とみなした描写は壮麗なり。熱力学での電子のやりとりをエロティックに、「求める」「斥ける」「放出する」といった用語で書き表し、あまつさえ「熱力学とは『欲求』を扱う科学なのだ」と断ずる。この独特・ユーモアあふれるセンスのおかげで、理解が一気に深まる。

 著者の口ぶりから、科学者の楽観を垣間見るのも嬉しくさせられる。太陽エネルギーを使って水を分解し、されにはその産物をまた反応させて水を再生することができ―――水素エコノミーを夢見るのではなく、本気で目標としている。そしてこれは、近い将来、きっと成功をおさめるだろうと言い切る。人類が水と少しの日光で暮らせるようになるのも、遠い未来ではあるまいと構える───この楽観主義が、現在そして未来の科学を支えるのだろう。経済支配だとかジェネリック囲い込みとか科研費獲得の奔走とは別のもの。

 intelligent design に対しては、名指しこそ控えめだが、ずばりトドメを刺している。著者はラストで、進化を疑うのは、分子からヒトへ、最近から惑星全体へと証拠が収斂していることを疑うに等しいと主張する。これは、生物学の証拠を疑い、それが物理学や化学、地質学、天文抱くとも矛盾しないのを疑うことでもあるというのだ。そして、実験と観察の正しさを疑い、現実による検証を疑うことになる。つまり、現実を疑うのだとID論者に突きつける。残念ながらID教の方にとって、これは最後に手にする本になるだろう。だが、このメッセージは、科学に対してわたしがどんな態度をとるべきかを厳しく定義している。

 本書を手にしたきっかけは本屋オフ@丸善ジュンク堂で同著者の「ミトコンドリアが進化を決めた」を紹介されたから。「けっして簡単な本ではありませんが、読むたびに発見があります」に惹かれて「跳躍」から手をつける。@thinkeroid さんありがとうございます、スゴ本でした。p.302 の「眼の最初の原型は、藻類で生まれたのである」あたりがビビビとくると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

集まれ!化学バカ「Mad Science」

 狂ってるとしか思えないが、美しい。
MadScience
 凍った稲妻や、硬化した雪の結晶は、綺麗かつ不思議だ。ふつうなら一瞬に起きる現象を「見える化」する。オレオクッキーを燃料にしたロケットを発射したり、シャボン玉爆弾を放ったり、身の回りのものから物騒なものを作り出す。自称(?)マッド・サイエンティストである著者が、自宅やガレージでできる究極の化学実験をフルカラーで紹介したのが、本書だ。

 そもそもまえがきのところで、「この本の実験の中には、狂っているとしか思えないものがある。どう考えても狂っているものが」と断言している。そして、朱書きで、

  この本には、
  すべての実験を安全に行うために
  必要なことが
  書いてあるわけではない!

と警告する。材料や方法や実験手順が図解で示されているので、「やればできる」気に思わずなってしまう……のだが、マグネシウムリボンを強火にかけたり、ナトリウムの反応を加速させたり、ちっぽけなコインに高電圧を目一杯かけたりと、危険きわまりない。わたしのようなシロートは、写真だけでニヤニヤ楽しむことにしよう(この映像が迫力きわまりないのだ)。動画が公開されているので、わたしが一番気に入っている「凍った稲妻」をご紹介。

 これは、プラスチックの塊を駆け抜ける電荷を凍結して、電気の動きを見る実験だ。まず、アクリルに電子をぎゅうぎゅうに詰め込んでおく。そして、打ち込まれた釘を合図に閉じ込められた電子が数百ナノ秒の間に輝く枝状のスパークとなって飛び出してゆく。手の中のイナズマという不可思議な光景なり(リヒテンベルク図形
[google画像])。
 世界で一番アブない化学の授業が、安全に楽しめる一冊。

……ここから余談。これ読んで、高校3年の3月を思い出す。受験がひと段落したころ、「自由参加の実験」なるものを持ってきた。化学のセンセとしては、詰め込み授業の罪滅ぼしか、受験優先へのささやかな反抗だったのかもしれぬ。卒業単位に関係ないのだが、ヒマつぶしのつもりで挙手する。

 フタを開けてみると、センセ、わたし、女子一名(種島ぽぷら似)とお寒い限り。教科書を開けば10分で済む話を、座学、準備、実施、レポート、後片付けと手間ヒマかけたのに、残念ながら欠片も覚えておらぬ。黙々とこなしつつ、傍らの女子(種島ぽぷら似)に「なぁ、なんでこの補習受けたの?」「なんとなく……」「化学好きなの?」「べつにー」などという会話を交わす。そして幾年月が流れた、いまなら分かる、オジサンになったから分かる、あれはフラグだったんだ……さもなくば、フラグになり得たんだと。

 フラグは大切にね!

| | コメント (6) | トラックバック (0)

マンガはなぜ面白いのか

 答えをずばり→「動き」が楽しい。

マンガはなぜ面白いのか 物語の盛り上がり具合と、コマを行き来する目の動き、キャラの挙動が重なるとき、わたしは喜ぶ。「コミPo!」でマンガを描く(というか構成する?)ようになって、能動的にマンガを「見る」ようになり、さらに本書を読んで、ようやっと気づいたのだ。「マンガはなぜ面白いのか」は、自分がいかに複雑な手続きを経て、マンガ文法を読みこなしているか、改めて自覚させてくれる。

 (自分で)マンガを構成うえで、かなり役に立ったのは、「コマの変化による圧縮と開放の効果」だ。コマの大きさとコマ内の人物の比で緊迫感を表し、コマの広がる方向と、人物の動線を合わせること(合わせないこと)で、開放感と示す。指摘されれば、ああ成程かもしれないが、石ノ森章太郎の作成でもって腑に落ちる。わたしが「意識して」つくると、こうなる。
600_001
小説のストラテジー この「運動」をキーワードに、小説の快楽を追求した評論がある。「小説のストラテジー」だ。記述の対象が移りかわる運動によって「快」がもたらされるといい、アイキュロスのアガメムノーンにおける炎を例にとる。炎は描写としてのかがり火だったり、憎悪や情炎の象徴だったり、戦火そのものだったりするが、その炎が時間・空間を渡っていく運動を感じ取ることで、そこに「快」を感じるという。ただし、ラインの行き来からもたらされる運動であり、マンガの二次元とは別物になる。

 小説の線的、マンガの面的側面を表すのに、一つの小話がある。生まれたときから盲目の子が、母に向かって「見えるってどういうこと?」と問うたとき、母は「遠くのものまでいっぺんに触れることよ」と答えたという。第一行から始まって、順番に遠くまで触ってゆくことが小説を読むことなら、「ここ」からいっぺんに遠くまで見渡せるのがマンガだ。行き来の運動の快のみならず、面や空間を視線が滑ってゆくのは心地よい。

 さらに、カンディンスキー「点・線・面 抽象芸術の基礎」を引いて、描かれた人物の向きの比喩を示す。ほとんど無意識のように考えていたが、言われると納得できる。つまりこうだ───これから事件に(未来に)向かってゆく主人公は、たいてい左を向いている。これは、「左に向かって読んで行くことが左を進行方向とし、右を逆進や戻る方向として受け取るという暗黙の了解を成り立たせている」というのだ。

 本書でいちばんハッとしたのは、「作品の中に流れている時間」に着目したところ。①描写される物語という一時的な発語の場所と、②話の中で回想場面が入り、③その場所を外から(将来から)眺めるメタ的な場所が生じる。つまり、現在の言葉、過去の言葉、ナレーションの言葉と、それぞれの場所の言葉を読者は選別して、三層に流れる時間を統合しながら作品を読んでる───という。

 これは、少女マンガによって開発された手法で、読む順序を与える時間分節の機能は、できるだけ解除されている一方で、読者の心理を誘導する圧縮・開放も解除されるのが常だという。異なる時間軸・空間の想起をアニメのセルのように重ねるコマ構成だ。こうやって抽象的な言葉だと分かりにくいが、見れば一発「あたりまえ」の世界だ。複数のコマをブチ抜いた立ち姿なら、少年マンガでもよく見られるだろう。

 マンガが、「どのように」面白くなっていったかを振り返る章も面白い。戦前マンガと手塚マンガの決定的な差や、厩戸の王子の記号(彼岸花のような髪型と髪飾り)が、心理表現に自由度を与えた証左、そして手塚マンガとゴルゴ13の「表情」からみる時代感性の落差。さらには吾妻マンガのような不定形の面白さが現れるためには、マンガ表現の記号的な意味の体系が一般化している前提を要する(だからそうした一般を少しズらした異化効果が成り立つというのだ)。

 まだるっこしい(抽象的な)書き方をしているのは、例がないから。一度「コミPo!」をお試ししてみるといいパワーポイントのようにキャラを配置でき、自由にポーズを決められるようになって、はじめてハタと気づき/思い悩むだろう。「どっちに向けて、どこにフキダシを置こうか」←いわゆる「暗黙のお約束」が分からないと、いつまで弄っても違和感ありまくりのマンガになる。

コミポパーフェクトガイド 「コミPo!パーフェクトガイド」は、そんなかゆいところに手が届く。コマの並びの空隙は、たての並びと横の並びと、どちらが広く取るのか?から始まって、フキダシの位置、数、どこからどちらへ読まれる(べき)なのかをアドバイスしてくれる。「手に何かを持たせる」とか「背景を水彩画風に変える」といった、ソフトウェアのTipsに限らず、「マンガとはこう描くべきだ(こう描くと読みやすい)」ルールが紹介されている。構図を変えるときのイマジナリーラインの重要性は、恥ずかしながらコレで初めて知った。

 マンガの場合も、blogと同様のゴールデンルールを適用する。つまりこうだ、「まず描いて(書いて)公表する、反応があったらフィードバックする」。ほらアレだ、兼好法師の徒然草の黄金律───「うまくなるまでは周りに隠しておこう」と、こっそり習っている人は多い。しかし、そういう人は決して上手くならない。むしろ、まだ下手なうちからうまい人の中に混じって、まわりからけなされたり笑われたりしても、それを恥とはせずに、平気で受け流すようにしないといけない。

 絵はモデリングにお任せするとして、構成とネームとアイディアで勝負しよう。それを可能にしてくれた「コミPo!」に感謝。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2011年1月30日 - 2011年2月5日 | トップページ | 2011年2月13日 - 2011年2月19日 »