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どうせなにもみえない

どうせなにもみえない

 写真よりもリアル。諏訪敦絵画作品集。

 図書館で一目惚れ、4回借りて取り憑かれた。だから買った。舐めるように見て飽きず、目が広がった。

 対象をリアルに写し取るのであれば、それは機械の仕事だ。だが、対象をいかにリアルに近づけるかは、人の仕事だ。諏訪敦は写実を極めるが、実は対象は存在しない。不在の写実って、それだけで矛盾してる。だが、もしそこにあるのなら、そうあるはずだという想像のいちいちを裏付けるように描く。つまり、あるように描く。

 ヌードを描くなら、ひじから肩の"しみ"の一つ一つを、乳輪の突起の凹凸を、捩れた陰毛と真っ直ぐなのを一本一本、脱いだばかりの下腹部についた下着跡まで描いてある。貌なら産毛の一本一本、潰れたにきび跡、ファンデーションの微小な輝きの欠片まで見える。死顔の、開き気味になった唇の端がくっつく様子や、薄い皮膚を透かした腱と老斑の乾いている感覚が、さわるようだ。どこまで細かくみても、あるように描いてある。大型の画集なのだが、どんなに目を近づけても、ちゃんと「見える」。貌・肢体・皮膚・体毛は、どんなに微分しても連続性を保つ。

 実際の絵は「巨大」といってもいいほどらしい。だから画集に縮めた精密度はハンパじゃなく、目を凝らした程度では解体され得ないのだ。肖像画を描いてもらった古井由吉さんは、こう言いあてる。「写実はそれ自体、いくらでも過激になりうる。そのはてには、写すべき『実』を、解体しかかるところまでいく」

 「わたしゲーム」を思い出す。「わたしゲーム」とは、わたしが名付けたもので、「どこまで切ったら『わたし』じゃなくなるか」という思考遊戯。わたしの頭髪を一本抜いても、わたしは『わたし』のままだろう。逆から考えると、わたしの頭を一個抜いたら(一個しかないがw)、生き物としても姿かたちとしても『わたし』たりえない。だから、この間を微分していくなら、頭髪一本から頭一個の間に『わたし』が存在することになる。

 諏訪は、この微分を許さない。髪一本抜くことも許さない執念のようなものが見える。写される「実」は解体可能だが、写実そのものは手のつけようのないほど「そのもの」になる。にもかかわらず、これが絵であることを主張する。描きあげた最後に、何か飛沫が散った跡や、微粒子のようなものを混ぜ込む。これが絵である証拠を執拗に残そうとするのだ。リアルよりも実物に近く、それでいて絵である側にいようとするのだ。

 「どうせなにもみえない」はいくつかの連作でver.を持つ。そのモチーフは、裸の女だ。骸骨の眼窩をまっすぐ覗き込んだり、一眼レフのファインダーを構えたりしている。女の視線の先に共通するものは、「写されているもの」だ。カメラであれマナコであれ、写されているものをどんなに見たって、「どうせなにもみえない」のかもしれない。

 見るより魅入られるべし。

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完璧な小説「モレルの発明」

モレルの発明 いまなら分かる、ボルヘスが「完璧な小説」と絶賛した理由が。

 なぜなら、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという驚くべき小説なのだから。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた、SF冒険小説として読むと、ただの面白いお話になるのだが……あらすじはこうなる。

絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……
 どうやら、彼ら来訪者たちに、《私》の姿は見えていないようだ。まるで《私》が幽霊であるかのように、来訪者たちは気づかない。これは罠なのか、油断していて捕えるつもりなのか、そう疑う語り手。

 この秘密そのものは、早い段階でピンとくるが、問題はその後だ。秘密に気づいた《私》がとった行動が、非常に示唆的なのだ。それは、「わたしは、リアルに意識を這わせて生きている」欺瞞を暴く。わたしが現実だと思っている表象へのリアクションこそが、「わたしが生きる」ことを気づかせる。

 「パーティを続ける来訪者と、それを見つめる《私》との関係は、」を見つめる《私》と、それを読み進めるわたしと鏡像関係にある。つまり、ちょうどページが鏡のように、以下の等式の間に立っている。

      来訪者 : 《私》 = 《私》 : 読み手

 この関係から、わたしが抱いている他者性に一撃を食わせる。《私》が見るのをやめれば、『彼ら』は不在となるし、読み手であるわたしが読むをやめれば、《私》は不在となる。これは、他者を他者たらしめているのは、ほかならぬ自分自身であるという事実を突きつけてくる。

 解説によると、「モレル」の発明は、「モロー」博士のオマージュなのだそうだ。人を人たらしめている根拠に一撃を食わせたのは、ウェルズの「モロー博士の島」だ。絶海の孤島で続けられる恐ろしい実験は、「人を人扱いする理由は、他ならぬ自分がそう認めているからにすぎない」という事実を突きつける。そして、自分が「人」として見えなくなったとき、文明や都市はモロー博士の島と化す。

 「モレルの発明」は、他者を他者たらしめるのは、自分自身であることを指摘する。そして、「モロー博士の実験」は、人を人たらしめるのは、自分自身であることを指摘するのだ。

 本当の他者というものは存在するのだろうか。語り手であれ読み手であれ、主体と関わりあって、初めて他者が「人」として立ち上がってくるのではないか。実存は本質に先行するサルトル云々を持ち出さなくてもよい。「プリティリズム・オーロラドリーム」や「輪るピングドラム」を観ればいい。あそこに出てくるモブキャラ(mob character)は、完璧にデフォルメされている。群集や背景として抽象化されているくせに、動いたり話しかけたりしてくるのが新鮮だ。しかし、登場人物に関わらない限り、他者にすらなれない。

 「致死量ドーリス」というコミックがある。美しい女がいて、知的で痴的で、狂気と貞淑と奔放をそれぞれ見せる。対する男は、自分が望んだ性質を彼女に投影して愛する。男に応じて性格を使い分けるのではなく、都合のいい"女"を(彼らが)彼女から汲み取るのだ。「だれも本当の彼女を知らない」って話なのだが、そこが要点ではない。

 むしろわたしたちを確かにしてくれるのは、愛なんだということ。現実を微分しても、そこには「奔放な女」や「サイケな女」が断片的に現れるだけだ。モブキャラが「板」っぽく見えるのは、微分された一つのキャラクターだけが割り当てられているから。

 しかし、そこに興味が好意が愛情が湧いて出るとき、拡張現実は現実になる。3DSになってもラブプラスは幻影かもしれないが、寧々さんへ愛は本物だ。オクタビオ・パスは、「愛は特権的な認識」と喝破する。「美しい水死人」の解説に、こうある。

肉体というものは想像上のものでしかなく、われわれはその幻影の圧政下に生きているのである。そうした中で、愛は特権的な認識であり、愛を通してわれわれは世界の現実だけでなく、自分自身の現実をも全体的、かつ明晰に把握することができるのである。つまるところわれわれは影を追い求めているにすぎないのだが、そのわれわれ自身もまたじつは影でしかないのである。
 わたしも含め、影でしかない存在が現実と関わっても、残すものは幻でしかない。それでも、関わろうとする情熱を支えているのは愛なのだ。表紙のフォスティーヌと、裏表紙の《私》の奇妙な関係が分かるとき、あっと驚くかもしれない(そしてきっと、二度じっと見るはずだ、表紙と裏表紙を)。だが、それでも関わろうとする《私》は、たしかに現実を認識しているのだ―――わたしという読者が見ている存在とは独立にね。

 そして、本を閉じても、この思いはいつまでもわたしから離れない。わたしが読んでいなくても、《私》は続く。《私》が「モレルの発明」を知ってしまったように、わたしが「モレルの発明」を読んでしまったのだから。

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料理を好きに自由にする「料理の四面体」

 読んだら覚醒した。料理が好きに自由になるスゴ本。

料理の四面体 たとえばオレンジページの「絶品ベスト20レシピ」があるとしよう。すると、その20品しか作れない。20だって凄いのだが、いかんせん替えが利かない。食材や調味料が欠けると作れない。つまり、わたしにとって料理とは、「レシピ通りに切ったり火を通すプロセス」に過ぎなかった。

 それだけでない。実は、本書に出会う前に、衝撃的な料理を食べた。

 一つは「大根のコンソメ煮」もう一つは、「白菜サラダ」だ。「大根のコンソメ煮」は、面取りした大根をコンソメスープでひたすらぐつぐつ煮込んだやつ。「白菜サラダ」は適当に切った白菜にドレッシングをかけたやつ。

 なんだぁフツーと言うなかれ。わたしがガツンとやられたのは、「大根は出汁+醤油か味噌で」「白菜は鍋物」しかなかったから。大根とは根菜だから人参や玉葱と一緒だから、コンソメ煮も美味しい。白菜とは葉物だからサラダになる←そういう発想がなかったことにガツンとやられた。クックパッドかレタスクラブあたりでこのレシピに出会ったら驚かないだろうけど、問題は、その発想に驚いているわたし自身にある。

 そして、本書のトドメの一撃になる。

 料理とは、振付け通りに踊るキッチンのダンスにすぎず、料理上手とは、いかに振付けを完璧に再現できるかだと思い込んでいたわたしは、この薄い文庫で、木っ端ミジン切りにされた。

 本書の本質はこうだ。要するに、料理ということは、道具や調味料の差異はあれ、「空気」「水」「油」という要素が「火」の介在によって素材をいろいろな方向へ変化させることだと喝破する。それぞれを頂点とした四面体を考案し、あらゆる料理はその四面体のどこかに位置するというのだ。そして、ある料理が占める一点を動かすことにより、違った形の料理へと導くことができるというのだ。

Photo

 この四面体を腹に落とすために、世界中のさまざまな料理の「本質」を換骨奪胎(文字通り!)してくれる。冒頭の「アルジェリア式羊肉シチュー」が、「コトゥレット・ド・ムトン・ボンパドゥール」に変換され、さらに「ブフ・プルギニョン」から「豚肉の生姜焼き」に一気通貫する様は鳥肌モノ。

 それぞれの皿の相違点ばかり見つめていると、それらの料理は相互に関連のない別物になる。だが、本質を射貫くと、実はひとつの料理なのだということが分かる。ひとつの本質が、時と所に応じて風土ごと様々に異なる姿を見せているだけなんだということに気づくと、次の料理が格段に広がってくる。言い換えると、料理のレパートリーが、ぱあっと広がる。料理の一般原則を「手が探し当てていく」状態になるのだ。

 そうすると、経験から類推したケースが「いま」「ここ」の目の前に当てはめて、どう「入替え」「アレンジ」していくかの話になる。もちろん唐揚げをチキン南蛮か油淋鶏にするぐらいの頭はあるが、唐揚げをフリッターや「グルテン質で肉汁を閉じ込めた料理」にまで抽象化するようになる。料理本はインスピレーションのヒント集になる(もちろんレシピ通りにつくるワケない、味強すぎるから)。そうした"年季"が要る仕事が、一冊で手に入る。オーソドックスに時間かけて試行錯誤するよりも、これ読むほうが特急電車ナリ。

 ただし、料理を職業とする人からは、かなりの酷評をもらっているらしい。料理の原理原則に迫るあまり、枝葉をバッサリ斬ってるから。確かに牽強付会じみている(でも本質)なトコもあり、干物とは太陽に炙られたグリルだといい、サラダの語源が「塩味がつけられたもの」だからあらゆる料理はサラダになるという。著者も分かっているようで、「料理の原理は簡単だ、といったのであって、料理をつくることが簡単だといっているわけではない」と弁解しているのが可愛らしい。

 また、この「料理の四面体」で全ての料理を包括できると言い切るモノの、人類が冷蔵庫を手に入れてから発明したデザート、「アイスクリーム」が入っていない点や、煮こごりといった、(室温より)マイナスの温度を応用した料理が入っていないなど、穴もある。しかし、だからといって本書の価値はいささかも減らない。

 なぜなら、料理の本質は、「おいしくする」そのものにあるのだから。そしてそのプロセスは、何億回もくり返されて「見える」状態になっているのだから。プロフェッショナルではないわたしにとって、料理とは、「組み合わせ」なのだから。

 選んで、育てて、頼りたいスゴ本。

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