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えろ乙女ちっく「女の穴」

女の穴 エロくて不思議で、だいぶ切ない。

 一緒になって十年たって、それでも嫁さんというか女が分からない。いや、分かり合えるところは、すごく分かり合える…そう、家族のように。あたりまえだ、「家族」を十年続けてきたからね。だが、分かり合えないところは、金輪際ムリ!と断言できるくらい不可能。

 男と女は同じ生物(せいぶつ)だが、ちがう生物(いきもの)だ

 なんてうそぶく人もいるが、説明や論理をつけようとすることが無理難題なのかもしれぬ。ただし、「女のわけの分からなさ」は分かる。「理解不能」と思考を止めるのではなく、「この部分は違う生き物」として扱う。そして理解のためのコミュニケーションではなく、同感のためのコトバのやりとりに集中すると上手くいく。

 もっと推し進めると、ハナから別の生き物として、女を捉えなおすことができる。その思考実験が、このマンガだといっていい。というのも、出てくる女という女が、ちがう生き物だから───宇宙人だったり、合体してたり、鬼を飼っていたりするから。

 女を男(人?)あつかいしなくなったら、突然わかりやすくなる。美人なのに無愛想な彼女が、一回だけ、一コマだけ微笑んで、「分かった気がする」という意味が…相手の男の真摯さも込みで。兄と一体化した妹が、最初に男を受け入れるとき、後背位でお尻を高く差し上げたのはナゼか(思いやりやね)。弱みを握ったセンセと豚のごとく扱う理由と、そもそもそんな自分になれたワケが、ね。

 女は、あるところまではリクツで進めて、そこから先は理屈で理解しちゃ、ダメなんだね。女だって、人を好きになる。ただ、その好きになり方は、男(人?)とだいぶ違う。もうわたしにとって、女は別の生き物だというポジションにいた方が、より近くに寄れるような気がする。

 生き物係としての男どもに。

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ハマる読書「はてしない物語」

 本を開くということは、本の中に入ること。

はてしない物語 そして夢中になるとは、夢の中に入ること。夢中読書をお約束する。ただし、ソフトカバーの上下巻はダメ。あかがね色のクロス張りの、あの一冊のハードカバーで読むべし(なぜだか読んだら分かる)。ハードウェアとしての本のチカラを思い知るだろう。

 三十年ぶりに読み返す。映画に捻じ曲げられた記憶を掘り起こし、新たな発見を得る。主人公のバスチアンは、(記憶の中では)美少年だったのに、活字は残酷にも「でぶでエックス脚、チーズのように血の気のない、美しいとはとうていいえない姿」と述べる。怒りっぽくて泣き虫で、いまいち自分に自信が持てないが、本を読むのが大好きな少年だ。

 そんな彼が、「はてしない物語」という本に出会い、ハマっていく。これは読み手の年齢にシンクロする。十代の、まさにそんな多感な時期に読んだなら、いっぺんに共感してしまうだろう。ミヒャエル・エンデもそこを狙って書いてるし、装丁もそこを狙ってる。本というモノ自体が持つ魅力が、ストーリーの引力とダイレクトにからみあう。読んでる途中に何度も表紙を確認したり、模様を撫でたりするだろう。

 もちろん、入れ子になった物語を解いていくのは気持ちがいいし、物語のもつチカラがリアルと相互に響きあうところでは、カタルシスをぞくぞくと感じる。これを超一級のファンタジーとして読んでもいいし、失われた自己を取り戻す回復物語として受け取るのもありだし、自己欺瞞の牢から脱出する成長譚として扱ってもいい。

 しかし、オッサンの再読となると、話は別。ちょうど本の真ん中のクライマックスで、重大なエラーに気づく。ひっそり隠れて本を読み始め、日が落ちたので七枝燭台のろうそくに火をつけたのが午後4時。そして、ある大きなイベントにより

膝の上にのせていた本のページから吹きだし、ばたばたとはげしくページをあおった。風はバスチアンの髪や顔に吹きつけ、息もできないほどになった。七枝燭台のろうそくの炎がおどり、水平にのびた。
これが午後12時、真夜中だ。いくらなんでも8時間も点いているのはおかしい。バスチアンはろうそくを替えなかったし、だいたい「溶けたろうが指のようにのびた」使いさしだ。バスチアンの運命に大きくかかわるこの場面は、ひょっとすると、"フィクション"なのではないだろうか。

 当然「はてしない物語」は"物語"だからフィクションであることは承知している。その上で、"物語というフィクションの中の現実"が虚構だったら? つまり、バスチアンは、真夜中になるずっと前から、眠ってしまっていたのだったら?

 地の文の、さらに外側の「語りえぬこと」について。物語の後ろ半分は、夢だったのではなかろうか……勉強も運動もコンプレックスを抱いていたから、「世界を救う物語」の主人公で自己を開放しようとしたのではないか。物語と現実との呼応は、ヒーローに自分を重ねたい願望が夢化したものであり、彼が挿入した妄想になる。妄想が現実を侵食するにつれて、うとうとし始め、あとは物語が夢を改変する(あるいは夢が物語を改変する)。

 覚えがないか? 物語の設定が丸ごと再現され、その世界を自分の思うがまま生きなおすような夢を見たことがないだろうか? わたしは、そんなバスチアンの夢を食んでいるわけだ。あかがね色のフォントや、青緑色のフォントで、現実と物語を刷り分けているつもりかもしれないが、ちょっと待て。上に記されているページ数の色は、ずっと青緑色で統一されている。それは、物語が現実へと相互作用しているからではなく、最初の1ページ目から物語だった証左なのかもしれぬ。いや、「はてしない物語」と謳っている以上、「 『 { はてしない物語 } を読むバスチアンの物語』 を読むわたし」という、"わたし"をひっくるめてフィクションなんだ。

 バスチアンは、「閉じている本の中では、物語はどうなっているのだろう? 」と問いかける。過去は思い出されるたびに更新されるように、物語は、読まれるたびに今を生きる。ひょっとすると、開いた人によって、物語は動的に変わっていくのかも。あなたが読んだ「はてしない物語」と、わたしが読んだ「はてしない物語」は、ぜんぜん別の"物語"なのかもしれないね。

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