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「10代の子をもつ親が知っておきたいこと」はスゴ本

10代の子をもつ親が知っておきたいこと あと数年で思春期にさしかかる。「なってから」読むのでは遅い。だから、「なる前に」やれる準備はしておこう。そのための心強い一冊となった。一読、「思春期の親業」に自信がつく、スゴ本というよりも、心構えをつくる本。

 もちろんマニュアル世代ですが何か? こういう手引き本というかマニュアル本を良しとしない人がいる。だが、むしろ先達の経験+専門家の知識を短期間で吸収できる。あたって砕けろ的な現場主義はいただけない。本で練習して、実地に適用する。教本ばかりも情けないが(ビジネス書フェチの畳上水練)、選んで読んで、実践とフィードバックをしていこう。

 思春期のポイントは2つ、「自尊心」「コミュニケーション力」を育てること。「自尊心」とは、そのままの自分の存在を肯定する気持ちのこと。「コミュニケーション力」は気持ちを分かりやすく伝えることで、他者とのつながりを深めたり、求めるものを得る能力のこと。両者は密接な関係にあるという。自尊心が低いと、「どうせ誰も自分のことなど聞いてくれない」と思い込んでコミュ力も低下するが、反対にコミュ力を通じて相手とのつながりを感じると自尊心が育つそうな。そして本書の目的は、その具体的な育て方にある。

 このエントリでは、受け取ったものをいったん咀嚼して自分向けに"まとめ"直している。

 まず、著者の姿勢が潔いというか謙虚だ。著者自信も10代の子を持つ母親。だから親の不完全さはよく分かっており、本書を「こうすべき」と読まないでと釘を刺す。ありがちな「親の不安を煽って売ろうとする育児書」とは一線を画している。そして、彼女の基本スタンスはこうだ。

  変えられるものは、変える
  変えられないものは、折り合い方を考える

 ラインホルト・ニーバーのコレを思い出す。

  神よ願わくは我に与えたまえ
  変えられるものを変える勇気を
  変えられないことを受け入れる忍耐を
  そして、その二つを見分ける知恵を

 本書はその「知恵」を、クロニンジャーの7因子モデルで紹介する。

 つまりこうだ。遺伝的な影響を強く受ける4因子(冒険好き、心配性、人情家、ねばり強さ)と、環境的に作られる3因子(自尊心、協調性、精神性)が、その人となりを作り上げる。変えられない「性格」を受け入れて折り合いをつけ、変えられる要素を意識して補強する。

 たとえば「ねばり強さ」、これは後から訓練して身につくものではない。だから、「どうしてコツコツやれないんだ!」「なんでガマンが足りないの!」となどと怒ることの無意味さに気づけという。代わりにこう考えておくのだ。「ねばり強くないほうだから、ねばり強さが要求されることは避けておこう。コツコツやらねばならないときは、特別な工夫をしよう」というのだ。

自己信頼 そして、後天的な影響を受けるのが「自尊心」。これを育むためには、親はどう対応するのか。エマソンの「自己信頼」(Self-Reliance)を思い出す[レビュー]。自分の考えを徹底的に信じて、付和雷同せず、自己をよりどころとして生きろ、というのだ。梅田望夫「自分を信じろ、好きを貫け」や、カミナ「お前を信じろ。俺が信じるお前じゃねぇ。お前が信じる俺でもねえ。お前が信じる、お前を信じろ」でずいぶん勇気付けられてきたが、子どもにどう教える?天元突破グレンラガンでも見せるかw

 著者は「子どもにとって安全な環境」と「一貫性」が重要だと説く。安全な環境とは、「自分が何を言っても、批判・評価せず、とにかく聞いてくれる環境」のこと。そして、「一貫性」とは、親が突然キレたりすることなく、自分が続ける限りコミュニケーションが続くことだという。

 それには、まず子どもの感情を否定するなという。感情とは痛みのような身体感覚と同じく、本来は自分を守るための防御能力だという。感情によって状況の意味を理解し、自分に何が起こっているかを知ることができるという。だから、味わうべき感情は味わい、必要なら状況を変えろという。

 たとえば、「怒り」などネガティブな感情を否定し、押さえ込んだり無かったことにするような対応はご法度だという。怒りを感じるのは人間として未熟だということではなく、その怒りをどう扱うかが成熟度によって左右されるのだ。どんな感情であっても、本人がそう感じた以上、すべての「感情」は正しい。その表わし方や伝え方に上手下手、未熟成熟はあるが、それこそトレーニング次第だろうな。

女の子が幸せになる子育て いわゆる「キレる子」は、伝え方こそ極めてつたないが、きっと何か伝えたいことがあったのだろう、という前提に立てという。本当は何を伝えたかったのかを聞いて、その後に「キレる」コミュニケーション効率の悪さを認識させるのだ。「女の子が幸せになる子育て」で知ったアドバイスを思い出す[レビュー]

  「なぜ、そんなことをしたのか?」
   と問い詰めるのではなく、
  「本当は、どうしたかったの?」
   と受けとめる

 この姿勢は本書のなかでくりかえされる。「どうして」で始まる質問は要注意
なのだ。なぜなら、「どうして」には非難の響きがつきまとうから。多かれ少なかれ、現状を否定する響きを伴う。「どうしてあなたはそうなの?」は、現状が気に喰わないというメッセージになるし、「どうしてプラスに考えれないの」は「マイナス思考のあなたはよくない」というメッセージを伝えていることになる。話し手にとって、いつ否定されるか分からない、安全でない環境になってしまう。

 「どうして」と聞いている限り、どうしても問題行動に焦点が当たってしまう(子どもは防御の姿勢をとる)、だから代わりに、「どういう気持ちだった?」「どうしたかったの?」とたずねるのだ。そして、とにかく話をさえぎることなく、「どういうつもりでそれをやったのか」という子どもの意図をよく汲み取れという。すると、子どもの説明の中で「なるほど」と思うところが見つかるはず。そのときは口に出して「なるほど」と言ってあげて、意図したことを、実際に起こったことはどう違うのかを子どもに考えさせるのだ。「なんでそんなことをしたのよ!」と叱るのではなく、「本当はどうしたかったの?」と教えてもらうキモはここにある。

 この聞き方は「非暴力コミュニケーション」だという。相手に評価を下すのではなく、自分の事情を話すコミュニケーションだ。主語は「わたし」で「述語」は「~と思う」やり方。まずは暴力的コミュニケーションから。

 「おまえはいつも、嘘ばかりつく」
 「今日も塾をサボったな!なんで塾に行けないんだ」

 代わりに、このプロセスで伝えるのが非暴力コミュニケーションになる。

 「○が起こったとき」(客観的な事実の説明)
 「自分は~と感じた」(自分の気持ち)
 「なぜなら、わたしは△を求めているから」(自分の要望)
 「だから、□をしてもらえませんか?」(具体的な依頼)

 言い換えると、こうなる。

  • 「おまえはいつも、嘘ばかりつく」→「あなたが本当のことを言わなかったので、わたしは悲しかった。親として信頼してもらいたいから。これからは、本当のことを言って欲しい」
  • 「今日も塾をサボったな!なんで塾に行けないんだ」→「君が今日も塾に行かなかったと聞いて、心配している。親として必要な教育をちゃんと与えられているか確認しておきたいから、塾に行かない理由を教えて欲しい」
 これは、親子の会話だけでなく、わたしが接するあらゆるコミュニケーションにつながっていく。意見の相違が見えるとき、ロジカルな帰結を説明すればすんなり納得してもらえると思ったら大間違い。論理が明白であればあるほど、心を閉ざし頑なになる人がいる(大人の自己防衛やね)。そんなとき、「これだと嬉しい/したいから"お願い"」と、自分の感情を差し出すとうまくいくときがある。

男の子が自立する子育て そして、子育ての原則となる「待つこと」の重要性を強調する。「男の子が自立する子育て」[レビュー]で再確認したとおり、親の仕事は「準備」と「見守る」こと。そして、あとは子どもが成長していくのを待つことなのだ。著者はこれを、子どものペースを尊重するこという意味で伝えてくる。成長にはそれぞれの子どもに合ったペースがある。「今すぐ結果を出してちょうだい」というのは大人の都合であって、子どもは「いつ結果を出すか」「そもそも、結果を出すのかどうか」を自分で選べばいい、というのだ。

 このように、思春期の子育てを越えて、いまのわたしの姿勢を見直すことができた。「子どもが『死にたい』と言ってきたら」とか「親の離婚の影響」など、今のわたしにそぐわない、でも覚えておくべきアドバイスも多々ある。すべてを実践できるわけではないが、折に触れてここで振り返ってみるつもり。

 今までの子育ての再確認と集大成となる一冊。

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わが子に読ませる「この世でいちばん大切なカネの話」「ぼくんち」

 スゴ本オフ「元気をもらった本」で手に入れた逸品。

この世でいちばん大切なお金の話 サイバラ節が炸裂しつつも、「これからオトナになる人に読んで欲しい」想いが詰まっている。というのも、お金がないことが人をどれほど追い詰めてボロボロにするか、お金があることでどれほどの不幸から身を守れるかが、文字通り身を削って描かれているから。

 そう、「カネさえあれば幸せになれる」といったら異論が出るだろうが、「カネさえあればかなりの不幸を回避できる」は本当だ。カネを使って不幸を撃破しつつ、幸せに匍匐前進するのが"勝ち目"のある戦い方だろう。まちがえてはいけないのは、戦う場所と相手。彼女が目指したのは、予備校の順位で最下位からトップを目指すのではなく、「この東京で、絵を描いて食べていく」こと。これが、最下位による、最下位からの戦い方だという。

 そして、自分の得意なものと、自分の限界を知ったうえで、「ここで勝負」という、やりたいこととやれることの着地点を探す―――後からふりかえると、こんなにキレイにまとめられているが、当時はその日その日をクリアすることで手一杯だったんだろうなぁ。「まあじゃんほうろうき」をリアルタイムで読んでいた当時、あれは「聴牌即リー全ツッパリで原稿料が毟られていく様を、サイバラと共にヒリヒリしながら笑う漫画」だと思ってた。カネの話なのに彼女の破天荒な生きざまの動機付けみたいだ。

 いいな、と感じたのは次の一節。子どもが「夢」と「現実」のFIT/GAPに気づいたとき、使ってみよう(さも自分で考えたみたいに)。

「どうしたら夢がかなうか?」って考えると、ぜんぶ諦めてしまいそうになるけれど、そうじゃなくって「どうしたら稼げるか」って考えてみてごらん。そうすると、必ず、次の一手が見えてくるものなんだよ。
ぼくんち 次に「ぼくんち」を読む。自伝的要素の入った物語のようなエッセイのような漫画で、絵柄ほのぼの、中身リアルに叩きのめされる。えずくように読まされる。貧乏がしがみついてくる生活のなか、死に物狂いで生きる姉兄弟の物語なのだが、不思議と"生活臭"がない。貧乏を書くと、臭いだとか騒音だとか、空気や床が"ベタベタした感じ"が練りこまれるもの。だが、そんな属性はきれいに漉し取られて、ヤクザやホームレスたちの言葉に"酔う"ことができる。「幸せの閾値を下げる」ことの大切さを思い知ろう。

 これは、子ども向けではなく、オトナの絵本(児童書)やね。全編ありったけに詰め込まれているメッセージは、一言「生きろ」。

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題名のない読書会(またはジュヴナイルで選ぶならコレ)

 次回のスゴ本オフは「ジュブナイル」ですぞ

 どれ持っていくか、再読したり悩んだり……この時間がとても楽しい。この記事では、その"楽しさ"について語る。本のタイトルは出さないのでご安心を。題名を出さずに本を紹介するという、難度の高いレビューになる。いわば、「題名のないオンライン読書会」やね。もちろん、スゴ本オフでは実物を持っていくので、予想してみてほしい。

 まず、以下の言葉わけは意味ないですな。

   児童文学
   ジュブナイル(ほんとは"ジュヴナイル"が肌に合う)
   ライトノベル
   ヤングアダルト

 「子ども向け」「若者向け」とラベルを貼っても無用、読みたい子ども/若者は、ラベルにちゅうちょせず手にとるから。いっぽう、既に子持ちでかなり若者から遠ざかったオッサンにとってみれば、ぜんぶ一緒、同じものの方言に見える。だから、「自分がジュヴナイルと思ったらジュヴナイル」でいいかと。学校の図書室にありそうなやつとか、○○コーナーに並んで沿うな一冊にこだわらなくてOK。

 さらに進めて、「若者/子どもが主人公ならジュヴナイル」もありかと。子どもが困難や恐怖を乗り越えて成長する物語なら、学校の図書室になくても"ジュヴナイル"の資格は充分にありかと。たとえば、スティーヴン・キングといえば"モダンホラーの旗手"(もう古語やね)だけど、以外と子ども視点の成長譚がある。子どもの読み物→ファンタジー系から連想する、すぐ隣の芝生「ダークファンタジー」「モダンホラー」に目を向けるわけ。

 そして、親視点で読んだら別の感触を抱くものを選んだ。子どもにとっては、主人公が成長する冒険譚として読める。だが、親にしてみれば、見慣れたわが子が、見知らぬ化物に変わってしまう恐怖譚に読めるもの。そう、子どもが成長するということが、"おぞましい"ほど強烈なショックを与える物語、でも子どもが読むものを選んだ。ツカミの、「ママ助けて…」といいながら、どんどん子どもが膨張していくシーンは、親トラウマ本になりかねない。ダークファンタジー、恐るべし。

 もう一つ、いわゆる王道をもってきて、別の読み方を提案することもアリだ。わたしが持ってく鉄板の一冊は、まちがいなく誰かと被るだろうが、問題ない。オッサンになった今、読み返してみたところ、新しい経験を得たから。

 まず、記憶が残酷なこと。自分の記憶が、いかに改ざんされていたかが分かった。可愛げのある少年だったはずだが、「でぶ」で「ちび」で性格的にもちょっとアレなことがキッチリ記されている。とすると、上書きされたんやね、映画にw 脳は選択的に覚えているもの。読んでる途中、主題歌がずーーーーっとリフレインしていたもの。

 それから、再読で気づいたのが、これは、ドン・キホーテを裏側に持っている。シェイクスピアで遊んでいるのは分かるが、ドン・キホーテは隠しつつ伏水流のように物語を潤している。お話の構造はまるで違うが、少年は彼の狂気を引き継いでいる。ドン・キホーテはお話が始まると速やかに旅立つが、これは"ドン・キホーテになりきるまで"が前半で、後半は"なったあと"と取れる。

 さらに気づいたのが、これは「ループもの」であること。通常はループというネタが登場人物を翻弄させたり利用させたりするいち現象として扱われる。しかし本書は、ループを物語に組み込んでしまいつつ、そのループをたどっているのは誰?という気にさせてくれる。登場人物だけじゃないのだ、そのループにハマるのは。自己言及の罠を回避しつつ、なおかつ外出しに堂堂と見せつつ、それでいて物語として成立している傑作だ。

 さて、お分かりだろうか?二つ目は、おそらくアナタの浮かんだ一冊でアタリだ。では会場で/twitterで/ブログでお会いしましょう。

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