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本を愛する人へのごほうび「おかしな本棚」

 本の「触った感じ」や、「手に取った重み」との相性は大切だ。

おかしな本棚 さて買うとなれば、その色合いや風合いに合った「最も映える場所」を考えたりする―――そんな人には、Queerな"おかしさ"が詰まっている。一方、「本=データ塊」だからpdfでいいんですとか、裁断をためらわない本ばかりが蔵書です、なんて人には難しい。insaneな所業に見えるだろうから。

変身 たとえば、フランツ・カフカの「変身」といえば、新潮文庫のあの色あの薄さを思い出さないか? 「おかしな本棚」の著者も、あの完璧なデザインにやられて、古本屋で見かけるたびに必ず(必ず!)買っていくという。だから、「おかしな本棚」には、文庫の「変身」ばかりの棚がある。様々な年代、刷、活字の印字の、旧かな新かなの、「変身」が並んでいる。癖のように集めてしまうのだ。これが「分かる」人なら、「おかしな本棚」は宝物のような一冊になる。

 あるいは、著者のこんな独白が「分かる」だろうか───「ぼくにとって本棚とは「読み終えた本」を保管しておくものではなく、まだ読んでいない本を、その本を読みたいと思ったときの記憶と一緒に並べておくものだ」。つまり、本はまぎれもなく一箇の物なのだ。ブツとしての本を見た/手にした/読んだときの記憶やら感情を託したり媒介するメディアなのだ。だから重みやにおいや触った感触も込みで「本」になる。「本」好きには有名な、クラフト・エヴィング商會の中の人ならではの感覚だね。

「この本を読みたい」と思ったその瞬間こそ、この世でいちばん愉しいときではなかろうか。それをなるべく引きのばし、いつまでもそこに「読みたい」が並んでいるのが本棚で、その愉しさは、読まない限りどこまでも終わらない。
 そう、読まない限りいつまでも続く喜びがある(けして積読の言い訳ではない)。クラフト・エヴィング商會の中の人によると、本には三つの醍醐味があるという。まず、いちばんの醍醐味は、本を「探すこと」。その次に「なかなか読めない」醍醐味があり、三番目にようやく「読む」醍醐味がやってくる。

 ネットやリアルを徘徊して、やっと見つけたお気に入りとはいえ、未読だから未だ片思いの一冊を買い求め、一番映える場所に鎮座してもらう。いつ読もうか、週末の楽しみにしようかと、「取っておき」にしているうちに、別の一冊に浮気して「これ読んだらキミだから」を繰り返すうちに棚の奥へ行っていまい、何かのはずみに手にとって、買ったときの喜びや想いがわーっと沸き立って、あれよあれよと一気読み。そういう経験がたくさん詰まっている。

  終わらない本棚
  ある日の本棚
  森の奥の本棚
  金曜日の夜の本棚
  美しく年老いた本棚
  年齢のある本棚
  蜂の巣のある本棚
  遠ざかる本棚
  見知らぬ本棚
  ...

 テーマごとに、ありがちなもの、意外なもの、全く知らなかった「棚」と出会う。本書は、「本の背中の本」ともいえる。背中は本の入り口、そこに徹底し、説明を省き、見た人の「おや?」「こ・これは!」というシズルをあぶってくる。誘惑に満ちた「本の背中の写真集」なのだ。

 「本」の作り手としての興味深いアイディアも紹介されている。「読まない」という企画なんかがそうだ。ドストエフスキー「罪と罰」は有名だし、あらすじなんか誰でも知っているだろう……が、その割に読んでない人は多い。そんな人が集まって、ああでもないこうでもないと白熱の妄想推理合戦をくりひろげる企画だそうな。きわめて2ちゃんで面白そう。

 また、「年齢のある本棚」というアイディアは(やるほうの本屋は大変だが)ぜひとも見たい。つまりこうだ。売り場の本をジャンルや名前ではなく、「年齢」で仕切るのだ。「二十歳」の棚には、さまざまな時代の二十歳が書いた本が並ぶ。「二十一」「二十二」「二十三」と数字だけが記された仕切り板によって並べられ、その歳に書かれた本がプレゼンされる。松丸本舗の窓側(東京駅側)には、「年代」すなわち出版年ごとにソートされ仕切られたラインナップが並んでいたが、近現代史を早回しで見るような棚だった。「年齢」棚は、きっと人類の精神史を早回しで見るような、ものすごく濃い棚になるだろう。

 遊びゴコロも愉しい。本書に載っていることが「おかしな本」がある。というのも、本書、つまり「おかしな本棚」そのものが紹介されている。作中作というか、自己言及の極みだね。ご丁寧に装丁も一緒だが、唯一のほころび(というかツッコミどころ)は、背表紙の文字「おかしな本棚」の「本」の文字が白抜きなところ(ホンモノは赤色)。この世に存在しない本が、しれっと出でているところや、未刊行本を「本の中の本」としている試みは、斬新で懐かしい。ほら、"無い本"とか"作中作"なんて、スタニスワフ・レム「完全な真空」やジョン・アーヴィング「ガープの世界」みたいじゃないか。

 本書は、「持った感じ」がまたイイのだ(計算し尽くしている)。まずは、書店でおためしあれ。


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JUST DO IT!「正法眼蔵随聞記」

 仏法ライフハック。

正法眼蔵随聞記 道元禅師から聞き書いた仏道修行の至要をまとめたものとして有名。歴史や倫理でタイトルだけは見知ってたし、やたら持ち上げる人がいるのも知ってる。だが、難しがることもありがたがることも無用、シンプルでパワフルなライフハックと思えばよろしい。

 たとえば、「病気が治ってから仏門に帰依しよう」とか、「この事業が完遂したら修行を始めるぞー」なんて言ってるうちに人生終わる。「この戦争が終わったら、故郷に帰ってフィアンセと結婚するんだ」と一緒やね。死亡フラグにならないよう、お灸とかで症状をだましながら修行しなさいと説く。

 あるいは、語録や問答を集めた本を読んでもダメダメという。そんなの読んでいるくらいなら、ひたすら坐禅せよとくり返し述べる。ライフハックとか称して、「○○の効率を10倍にする20の方法」なんかをリッピングしてるよりも、素直に○○をやれと同じ。中学の頃、学習雑誌の勉強法特集を読みふけってばかりで、一度たりとも徹底したことがなかったことを思い出す。勉強法が仕事術に変わっただけで、同じことをくり返していおり、痛々しくて、情けなくて、恥ずかしい。

 きわめてプラクティカルな考え方も学べる。海の向こうでは、「七軒だけ托鉢せよ」と言うけれど、この国は庶民が貧乏だから七軒じゃ足りなくね? とか、そもそも道が汚いから、袈裟つけてたら汚れちまうだろという。それぞれの場所、時勢、風俗習慣に即した修行をすればいいと割り切る。郷に入ってはの精神やね。さらに究極の問題→「老母の介護と仏道と、どっちが大事」という難問には、「よく考えてね」と突き放す。とはいえ、彼のアドバイスはこうだ。

もし、この一生を捨てて仏道に入ったならば、老母はよしんば飢え死にしても、ひとり子をゆるして仏道に入らせる功徳は、将来道を得るすぐれた因縁ではないか。また自分も、今までの長い長い間、生まれ変わり死に変わりしても、捨てることのできなかった恩愛の情を、今この世に人として生を受け、難値難遇の仏の教えにあった時に捨てたならば、これこそ真実の報恩者というべき道理である。どうして仏の心にかなわないことがあろうか。
 しかし、疑問なトコもある。「我見を離れよ」だ。この身に執着するな、自分のために仏法を学ぶな、自分の身も心も一切捨て去って、仏法にむかって投げ捨てよと、これまたくり返し主張する。道を得ようと「望む」「願う」「求める」こと、それ自身が我執に囚われているとまで言い切る。これが分からない。

 なぜなら、我そのものを本当に捨て去ってしまったら、仏法を「学ぶ」「行する」「得る」存在はなくなるから。我があるからこそ認識できるその意識を捨てたら、もはや主体なしの世界になってしまうではないか。まっすぐに読んだら、只管打坐で心神喪失をめざせ、になる。理由は言葉で伝えられない、そういう境地に至ったら自ずと悟るよという逃げもアリだが、それなら言葉で伝えようとする行為を否定しているではないか。ひょっとすると、わたしの誤読で、「我=我欲我執」かもしれないし、「自分を捨てる覚悟で」という方便なのかもしれぬ。凡夫の仏教ではなく、法の仏教か。ありがたがるより JUST DO IT! 分かった気になって威を借るよりも、この「分からない」を核に進めよう。

 本書はfinalvent氏に背中を押された一冊。いい出会いでした、ありがとうございます。

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ビブリオバトル@紀伊国屋書店顛末記

 オススメ本を紹介しあい、「チャンプ本」を決めるビブリオバトル。6/26に行ってきた→惨敗だった。まずは敗因分析をレポートし、ビブリオバトルの傾向と対策を分析しよう。そしてチャンプ本や印象に残った本を紹介しよう。まずは参戦した本の山をご覧あれ。

20110626_

 参戦者の持ち時間は5分。観覧者に向かってオススメを一冊プレゼン+質疑応答する。一巡したら、最後に挙手で多数決を採るシステム。わたしは第一ゲームの最初の発表者で、持ってきたのは永江朗の「本の現場」。けして他の参戦者の本と遜色ない(というか、ダントツでスゴ本)、さらに「スゴ本知ってる人います?」と聞いたら、かなりの人が反応したので、こりゃイケると思いきや、得票は最低。読書意識が高く、本が好きなら必ず食いつくネタなのにーというわたしの思いは空回り。

 なぜ、わたしのプレゼンは最低だったか?

 それは、「読みたくなった本」を選んでもらう場だから。本をダシに自分語りをしたり、本をネタに一席ぶつ場ではないから。もちろん自分語りをしてもいいし、「親爺の主張」をしても問題ない。だが、評価は"語り"や"主張"ではなく、そいつを通じて、観客が「読みたくなったか」に懸かっている。

 わたしは、これが分かっていなかった。「本が売れていない」「最近の若者は本を読まない」というマスコミ・ストーリーに統計情報で対抗する姿勢を評価したかった。あわせて、本との付き合い方がドラスティックに変わったことを伝えたかった([このへん]でアツく語っている)。わたしの熱意は伝わったようだが、だからといってその本が「読みたくなった」かは別だ。

 それよりむしろ、純粋に「これ面白いよ」と差し出されたエンタメや、大好きだーという気持ちがダイレクトに分かる作品の方が、「読みたい」気分を後押ししたようだ(なぜなら、わたし自身が読みたいと思ったもの)。

 もう一つ。観覧者からのフィードバックで知ったのだが、「スゴ本ブログで知ってた/もう読んだ」(だから改めて読みたいとは思わない)という意見がかなりあったこと。なるほど、確かにおととしこのテーマで誉めまくってたからねぇ…古かったかもしれぬ。ここ経由で見に来てくれる人のために、このブログで出してない奴を引っ張ってこないと【課題1】。

 非常に参考になったプレゼンがあった。中身には全くといっていいほど言及せず、その周囲をウロウロしたり、その本と自分のエピソードを思い入れたっぷりで語る語る。持ち時間をシズル感でいっぱいにするやり方、これはいい。特に、最初は訥々としたしゃべりなので、場慣れしていないのかと思いきや、だんだん熱っぽく饒舌になり、「ああ、この本が本当に好きなんだな」という愛情が素直に伝わってくる。

 後になってパラ見したら、なあんだという気分になったが、実際に開くまでは「読みたい」とワクワクさせられたから、これは成功といえる。悪い言い方になってしまうが、ビブリオバトルの必勝法は「読みたい気分にさせる」ことだから。中身を圧縮して伝えればいいと思い込んでいるわたしは、学ぶべき→中身に触れず魅力だけ伝える【課題2】。

 あと、決め文句重要。POPみたいなもので、本そのものを伝える短い決めゼリフは練っておかないと。今回のチャンプ本では、「この本を読むと、"本が呼ぶ声"が聞こえてきます」と「恐い本は好きで沢山読んできましたが、これが一番恐いです」。あざといかもしれないが、「レジまで持って行かせれば勝ち」に通じるものがある。それでも、レジの後、読ませるまでの動機付けとなるような、磁力ある惹句を準備するぞ【課題3】。

 ビブリオバトルの傾向と対策は、次の3つのポイントに絞られる。

 まず斬新性。必ずしも新刊でなくてもOKなんだが、聴衆にとって「未知の本」であればなおよろし。「本が好き」で集まってくる人たちは、そのまんま小説好き、ストーリー好き。マイナー出版社や傍流の翻訳文学がねらい目。あるいは、逆サイドを突いて、メジャーな作品の新しい読み方を提示できるなら―――かなり上級だが―――勝利に直結する。若手が集まりそうなら、ちょい古め(ボルヘスとか石川淳)を持ってくると目新しがられるかも。

 次はシズル感。すべて言う必要はないし、むしろ言わぬが華。ポイントをまとめて伝えるということは、「読まなくてもいいや」という気にもさせる。正確に伝えるよりも、むしろボかすことで聞き手が都合よく「面白そうだ」と採ってくれるように仕掛ける(やりすぎ注意)。本のタイトルを冒頭にもってこず、イントロダクションでジらすという小技も使える。内容を最低限に魅力だけを伝えるには、話術が必要、エピソードを組み立てろ、熱っぽく語れ。

 そして決め惹句。「この本を読むとこんなオトク感がありますよ」などと、メリットを短く強く言い表す言葉を選ぶ。冒頭のツカみとラストでくりかえす。「人生でありえないほど泣きじゃくる」「ご飯も食べずにイッキ読み」と、五七調を心がけろ、韻を踏め。面白い理由を観客に考えさせない、5分かけて刷り込ませる。ランキング重要。シズル感にもつながるが、「第3位~」「第2位~」と並べることで、聞き手の既読本と友釣りで釣れる。紹介本は一冊限定だが、別の本を出してもいいらしいので、ランキング形式は使える。

―――こうやって文章化すると、あざとさが透け見えるなぁ。だが、そんな後ろめたさを吹き飛ばすようなスゴ本を選べばヨロシ。

 では、どんな本が「チャンプ本」すなわち「一番読みたくなった一冊」に選ばれたか?

WWZ 第1ゲームはマックス・ブルックス「WORLD WAR Z」でゾンビもの。しかもゾンビ戦争が終結した後に、関係者にインタビューをするという異色作だ。紹介者の「得体の知れない恐怖がゾンビというメタファー」という評に惹かれた。あと、普通のゾンビものと違って、最後に人類が勝つのだそうな。ではどうやって? それは読んでのお楽しみ! なんだって。ドキュメンタリーなゾンビなら、ヒロモト森一の「少女ゾンビ」あたりを思い出すなぁ。

小さな本の数奇な運命 第2ゲームはケルバーケル「小さな本の数奇な運命」で、本好きな人のためのファンタジーだという。本よりも「語り」が抜群にうまい。その一冊と自分とのエピソードを積み重ねることで、中身を言わずに面白さだけを伝える、かなり高度な技術だ。"ある本"が二人称で自らを物語るのだが、シズル感満載のプレゼンに、衝動買いしたくなる。わたしが発した質問「"その本"のタイトルは?」への返答がまた秀逸→「明かされていません、これは、読んだ人があれかな、これかなと思い巡らすものでしょう」

 第3ゲームは井上靖「補陀落渡海記」。人生で一番こわい思いをした短篇なんだって。即決だったね(聴衆の反応もそう)。自分の人生が、ある日、期限付きの人生になってしまう怖さ、人生が時限爆弾になってしまうという惹句に、これは! と即買い→即読んだ……が、この怖さは生の一回性の可視化の怖さ。トルストイ「イワン・イリイチの死」のほうが、同じベクトルでより怖い。どんどん「死」へ向かう恐怖をイヤというほど思い知らされる。死に無縁なフリをしている人が想像できる、"最も恐ろしい死の形"を覗き見ることができる(自分は生きながらね)。

補陀落渡海記イワン・イリイチの死

着倒れ方丈記 チャンプ本ではないけれど、最も戦闘力の高かったのが、「着倒れ方丈記 HAPPY VICTIMS」、都築響一の写真集だ。良く言えばファッションマニア、悪く言えば服オタ、ブランドにハマって染まって貢いだ半生が、服・服・服の洪水で満たされた生活空間で語られる。ふつうの、マニアたちを写した一枚一枚が、痛くて切なくて、ちょっとあこがれる(その清清しいほどの潔さに!)。「トーキョースタイル TOKYO STYLE」の服版だね。

 ……しかしリアル書店は危険だ。本をオススメに行ったのに、帰ったときはこんなに買ってる…本マニアならぬビブリオマニアかもしれぬ。所有に拘泥しないから、読書マニア(もしくは読書狂)やね。

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