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キスの科学「なぜ人はキスをするのか?」

 キスをする究極の理由から、科学的に正しいキスの仕方まで。

なぜ人はキスするのか 特に、効果的なファーストキスのアドバイスは、シングル(の男性)に朗報かと。ただし、「ファーストキス」の意味合いが違う。一般に「ファーストキス」とは、その人にとって生まれて初めてのキスのこと。だが本書では、その相手とする最初のキスのことを、ファーストキスと呼ぶ。初物と初キスの違いやね。

 見返しを眺めると、ずばり美人。こんなサイエンスライターが「キス」についてあれこれ調べて・自らも被験者となったレポートだなんて、ドキドキながら読むのだが……中身は至極まっとう。たがいのくちびるをかさねる、その行為を、以下の2つのアプローチから分析する。

  1. 生物学的、遺伝学的な要因
  2. 文化的、社会環境的な要因

 ボノボの例を用い、「キス」は人の専売特許ではないことを説明する。仲間をなめたり、鼻をこすりつけたりする行為は、人のキスに匹敵する。では、なぜ口なのか? 著者によると、ポイントは「匂い」になる。匂いは、他人と親しい人(パートナーやわが子)を区別する手がかりになる。

 その元となる皮脂腺が集中しているのが、鼻の周り、うなじ、顔だ。だから、顔を近づけて匂いをかぐことが、人類にとってのキスの始まりとなる。だが、おおっぴらに相手をくんくんかいでしまえば、相手は困ったりイラついたりするかもしれない。これをスマートに解決する手段が「キス」なのだという。もともとは生物学的な行為だった「匂いかぎ」が、文化的な行為「キス」に洗練されていくさまは面白い。

 同時に、キスの対象となる「くちびる」の機能について分析を深める。誰もが思いつきそうな(そしてデズモンド・モリスが喝破した)「口紅メーカーが作り出しているのは美しい口ではなく、一対の特大の陰唇」を解説し、「唇は女性の生殖能力の指標」と言い切る。四足歩行の頃なら、発情期かどうかは尻のあわいで一目瞭然だ。が、二足歩行になり、見えにくくなったラヴィアの代わりに、くちびるが象徴化されたという。尻が胸に、陰唇が陽唇になったんだね。

 文化的側面からのキスの分析も興味深い。キスに言及した最古の文書は、B.C.1500頃のバラモン教の聖典「ヴェーダ」にあるという。"kiss"にあたる言葉は載っていない代わりに、「口を使って匂いをかぐ」行為として紹介されている。それは、「くんくんかぐこと」と「匂い」の両方を意味し、「ふれる」行為もほのめかす言葉だそうな。著者はカーマスートラや古代ローマのオウディウス「愛の技法」を渉猟し、キス(や互いの匂いをかぐ行為)は、文化や時代を超えているという。

 さらに、未来のキスとして、「セカンドライフのアバター同士のキス」が盛んなことや、Nintendo-DSの「ラブプラス」を紹介し、「CG技術が向上しリアルに見えれば、プレイヤーは仮想の恋愛関係であろうとアニメのキャラクターに喜んでキスするようだ」という。そうかぁ? ……画面の少女にキスするか否かは、グラフィックスの多寡ではなく、リアルと一緒で「その気になるか否か」によると思うぞ。「ときめきメモリアル」の伝説の樹の下でキスを交わしてきたからこそいえる。ブラウン管は、あたたかいぞ。

 キスをしている人に注目し、神経学的・生物学的に何が起こっているかを分析しているあたりで、大胆な仮説を立てている。キスをすると生体の化学反応、嗅覚、触覚を通じて情報のやりとりがおこなわれるが、これは、「キス以上の関係を進めるかどうかの判断」をしているというのだ。これは、意識の上ではあたりまえすぎることかもしれない。だが、本書では意識下に言及する。つまり、カップルがキスすると、互いの健康状態、生殖能力、遺伝暗号の適合性の手がかりを手に入れるというのだ。

 ちょっと残念だったのが、「キスの音」の分析がなかったこと。キスする2人がやりとりするものは、味覚、聴覚、触覚、フェロモンの感覚情報だという。聴覚が抜けているぞ。相方の舌が蠢く感じや、息の通る音、むむむといった唸りが(口づけで接触しているから)直に頭ン中に響く。これ、極めてエロいんですけど。これは音というよりも震動で、唇という感覚器官を通じてはじめて成り立つ、あの、「キスの感じ」だ。蠕動する触れ心地があり、なま温かい味と吸われる痛み、ナッツ系に微かに脂の混ざった香りが直接、脳にくるのだ。なので、わたしにとってキスとは感覚ぜんぶ入りの行為だ。この辺が言及されてなかったので、ちょっとさみしい。

 最後に。ファーストキスを成功させる秘訣をまとめてみた。詳細な説明は直接あたってみてほしい。いかにも恋愛講座でてきそうだが、科学に裏打ちされた経験則は黄金則。だから素直に利用しましょう。

  1. 口臭予防必須
  2. カップルの相互理解
  3. あせらず、期待感を育む
  4. リラックスできる環境
  5. キスの前の愛撫
  6. 神経質にならず、思い切って脳と身体に任せる
  7. 感情的にも身体的にも相手を受け入れる
 他にも、男女のキスの好みの違い(キスは目的か手段か)、キスをするとき顔を右に傾ける理由など、キスについての知識はかなり増えたが、キスの不思議な魅力は、さらに増すこととなった。

 次のキスが楽しみになる一冊。

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真摯さは、ここにある「夜間飛行」

 ピーター・ドラッカーが強調する「真摯さ」は、サン=テグジュペリの「夜間飛行」にあった。

 飛行士が書いたものとして有名だし、じっさい操縦席に居るように生々しい。まぶしいほどの星明りを浴びながら、嵐の目を上昇するシーンは、同じ光を肌に手に瞼に感じるだろう(絶望感とともに!)。徹底して削ぎ落とされ・濃縮されており、描かれなかった場面が、幻肢のようにうずく。そう、飛行士の嫁さんのとこだ。彼女の不安とその先の感情は、削られたからこそ、わたしの肉が削がれたように感じる。

 しかし、ここでは夜間飛行の指揮を執るリヴィエールについて書く。郵便会社のマネージャーとして欧州-南米航路を受け持つ。自分に厳しく、同じ厳しさを部下にも強いる「情け容赦のない」プロフェッショナルだ。飛行士や整備士と交わす会話の端々から、畏れられ絶対視されていることが分かる。だが、リヴィエールの内省に触れると、彼の繊細さ、思いやり、感受性の高さが直に伝わってくる。部下が感じる痛みを手に取るように分かっていながら、そのそぶりを毛ほども見せない。

 リヴィエールは自虐的(?)に独白する。「ひとに好かれたければ、ひとの気持ちに寄り添ってみせればいい」。ところが、同情しようとする自分を、それを外面に出そうとする自分を鉄の意志で押さえつける。なぜなら、自分の仕事は、状況を制することにあるから。部下を鍛え上げ、郵便事業を進める「状況を制する力」をもたせてやらなければならないというのだ。

 ときには部下を危険にさらし、おもねる整備士は無慈悲に斬る。「夜間飛行を続行させる」―――この目的のために、自分を、部下を、文字どおりささげるのだ。「人間の幸福は、自由の中に存在するのではなく、義務の甘受の中に存在するのだという事実を、明らかにしてくれた点に感謝する」と平然とつぶやく。仕事人間の残忍さにも見えるこの態度は、ドラッカーのいう「真摯さ」そのもの。だが、リヴィエールは「仕事人間」ではなく、強いていうなら「目的人間」だ。

 原語は "integrity" という「真摯さ」は、よく言い換えられる「誠実さ」「率直さ」とは異なる。マジメで素直な性格という意味ではない。その証拠に、不真面目で、ひねくれた性格だが、「真摯なボス」というのは確かに存在する。その違いは、「目的」にある。"integrity"は、まず「目的」を要するのだ。それに対し、ひたむきに厳密に向き合う。目的に対して、正直さや誠実さを一貫して発揮できる―――これこそ、ドラッカーが強調したマネージャーに必須の条件「真摯さ」であり、リヴィエールそのものなのだ。

「ものごとというものは」と思った。「ひとが命じ、ひとが従い、それによって創り出される。人間は哀れなものだ。そしてひと自身、ひとによって創られる。悪がひとを通じて現れる以上、ひとを取り除くことになるのだ」
 彼は、マネージャーの孤独を知っている。目的を遂げること、そこへ向かって進む・進める全ての打ち手を実行する。そのために「誠実」「率直」に振舞うのだ。態度は、自分で決めることができるから。自分のしていることが善なのかどうか、分からない。仕事をするうえでの正義の価値もわかりやしない。それでも、折り合いをつけて努力していくことしかない……部下に声をかけるリヴィエール、「いいから、ロビノー、言われたとおりにするんだ。部下を慈しめ。だがそれを口に出すな」。本当は、自分に向かってつぶやきたかったのではないだろうか。

 リヴィエールの描写が彼の内面に寄り添ういっぽう、彼が下した決断・行動・指示を受け取る人物は客観視した書き口だ。いわば、上長は内から、部下は外から見ていることになる。そのため、彼の独善性の出所を知っている読者は、その結果を受ける整備士、飛行士、その新妻の心象を思いやって、二重の苦しみを感じる。つまり、リヴィエール側からの「あなたのことは分かっている…だが、やらざるを得ないのだ」と、部下側の「どうして分かってくれないんだ」に挟まれて動けなくなる。夢中に読んでるときは、サン=テグジュペリの"手"は見えなかったが、考察するに、狡猾なほど巧妙なテクニックだ。

 さらに、加速性や多角的な展開で進行感を高める手法は見事だ。作中時間はわずか2時間、そこに12章の「シーン」を詰め込んである。全体像はあたかも設計図を引いてつくりあげたような構成美を成し遂げている(光文社古典新訳の解説に詳しい)。特に後半、展開がトロットからギャロップへ駆け上がるように、「シーン」を小さく間を狭くとるように配置する。この結果、最も濃密となる時間は、ほぼ読む速度に合わせるリアルタイムなスピードになっており、否応なしに臨場感を促す仕掛けだ。

 本書はスゴ本オフ@松丸本舗(読まずに死ねるかッ編)でMOTOさんにオススメされたもの。ありがとうございます、MOTOさん。食わず嫌いは良くないですな。

夜間飛行_新潮 新潮文庫は美文の誉れ高い堀口大學訳。時代がかったカタさがまたいい、という方もあろうかと。納得いかないのは、併録されている「南方郵便機」の方を持ち上げているところ。おそらく当時流行のフレームにムリヤリ合わせて書いたようにしか見えぬ。

愛されようとするには、同情さえしたらいいのだ。
ところが僕は決して同情はしない。いや、しないわけではないが、外面に現さない。僕だとて勿論、自分の周囲を、友情と人間的な温情で満たしておきたいのはやまやまだ。医者なら自分の職業を遂行しながら、それらのものを勝ち得ることもできるのだが、僕は不測の事変に奉仕している身の上だ。不測の事変がいつでもこれを使いえるように、僕は人員を訓練しておかなければならない。
夜間飛行_光文社 光文社古典新訳文庫は、二木麻里訳。人文系リンク集「ARIADNE」(アリアドネ)の主催者、といったほうがご存知の方も多いかと(老舗だからね)。解説を読む限り、解剖するほど読み込んでいることが分かる。なによりも、「いまのことば」の方が好ましい。
ひとに好かれたければ、ひとの気持ちに寄り添ってみせればいい。
だがわたしはそんなことをまずしないし、心で同情していても顔には出さない。とはいえ友情や、人としての優しい感情に包まれたいと願わないわけではないのだ。医師であれば仕事を通じてそうした交流を得られるだろう。だがわたしの仕事は状況を制することにある。だから部下たちも鍛え上げて、状況を制する力をもたせてやらなければならない。
 いわゆる「名訳」は新潮文庫。だけど「読みやすさ」は光文社古典新訳になる。お試しあれ。


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横田創「埋葬」はスゴ本

 事実へのかかわり方で世界がズレる、これは初感覚ナリ。

埋葬 読んでるうち、世界がでんぐり返る瞬間は体感したことがある。だが、これはその先がある。でんぐり返った所が真空となり、そこが物語を吸い込み始めてしまうので、穴をふさぐために自分が(読み手が)解釈を紡ぎなおさなければならない―――こんな感覚は、初めてだ。

 若い女と乳幼児の遺体が発見された。犯人の少年に死刑判決が下されるが、夫が手記を発表する。「妻はわたしを誘ってくれた。一緒に死のうとわたしを誘ってくれた。なのにわたしは妻と一緒に死ぬことができなかった。妻と娘を埋める前に夜が明けてしまった」―――手記の大半は、妻と娘を「埋葬」する夫の告白なのだが、進むにつれ胸騒ぎがとまらなくなる。

 なぜなら、おかしいのだ。冒頭で示される記事と、あきらかに辻褄があわないのだ。「信頼できない語り手」の手法は小説作法でおなじみだが、夫は嘘は語っていない。妄念と真実の混合でもない。さらに、この事件を取材される側のインタビューがモザイク状に差し込まれる。どれも核心に触れながら、微妙にズレている。インタビュアーの会話で芥川の「藪の中」が出てくるので、おもわず現代版「藪の中」と評したくなる。

 しかしこれは罠だ、あの短篇とはまるで違う。むしろ正反対の問題を差し出している。「藪の中」の本質は、「真実は一つ、解釈は無数」だ。死者も含む登場人物の数だけ解釈はあるものの、ただ一つの真実は「藪の中」にしたいから、タイトルでそう伝えている。ところが「埋葬」は、事実へのかかわり方(深度と密度)によって、事実のほうがズレてくる。インタビューと手記の穴が食い違ってくる。

 そして、だれかの"語り"だけを選べない。選んだ瞬間、選ばれなかった"語り"が埋めていた空虚をふさぐため、読み手が再解釈しければならなくなる。その余地が大きすぎで、選んだ"語り"が空虚に飲み込まれてしまうほど。あたかも、地の文であるインタビューの記録と、表の文である夫の手記が、角度を変えると入れ替わってくるかのよう。

 たとえば、わたしが写真を「見る」とき、プリントされた被写体を見ているのか、写真という媒体物を見ているのか。どちらかを選ぶことはできない。なぜなら、被写体を見ずに媒体を眺めることも、媒体物を目に入れないように被写体だけを見ることも不可能だから。この、見るものと見ているものの境界線は、みるみるうちに、やすやすと超えられてゆく。

 そして、ある到達点で、地の文と手記が逆転するかの感覚に呑み込まれる。地の文も手記も、記述として完全に独立に示されているのに、互いにロックインされていることに気づく(ここで、わたしはもう一度読み直した)。さらに、「地の文と会話文」、「見るものと見られるもの」、さらには「他者と自己」のダブルミーニングが、隠喩となって作中のあらゆる場所に埋め込まれていることに気づく。だまし絵のように巧妙堂堂としているので、気づいた瞬間にぎょっとなる。

 このとき、わたしはこの物語を外から見ている読者なのに、どう読むの? どう再解釈するの? と急かされている気分になる。見ているのでなく、見られている。読んでいるはずなのに、読まれている。物語に見かえされているのだ。わたしが"語る"のを待っているのだ。

 わたしは、読み手「わたし」であることを放棄して、物語そのものにならなければならない。折りしも、登場人物たちは、気味が悪いほど本質的に同じことをしている―――「あなた」のように考え・行動する「わたし」が語られ、「他人のためになにかを言うということは、他人をわたしにすることである」と主張される。

 読み手を語り手に逆転させること、これこそ、この作品のホントのねらいだったんだね……気づいたときには手遅れで、読んだ人に"語り"たくなる。そういう、麻薬的なスゴ本。読むのなら、注意深くどうぞ。くれぐれも、流し読んで、「○○○ワンアイディアのミステリ」なんて評さないように(もったいないぜ)。

 本書は、The Red Diptych 「2010-12-10 横田創『埋葬』を再読したが……」(ネタバレ有)で知った。HowardHoaxさん、ありがとうございます。

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