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スゴ本オフ@ジュンク堂池袋本店のお誘い

 ゴールデンウィークは、狩りにいこうぜ。

 今回も、アツくユルくやりますぞ。自由参加、自由退場方式なので、お好きなときにいらっしゃいまし。赤いウェストバックをナナメ掛けにしてるオッサンがいたら、わたしです。一緒に書棚をめぐりましょう。孤独な狩りよりグループハンティング、わたしが/あなたが知らないスゴ本を、直接オススメあいましょう。

 今回のわたしのテーマは、「教養」。春は新しい学びを始める季節。クルーグマンの経済学を探したり、「数学ガール」の最新刊をチェックするつもり。そして、「学問の入り口フェア」に寄せられた人文・教養本をU-Streamで紹介するよ。

   日時 4月30日(土) 12:00~17:00
   場所 ジュンク堂書店池袋本店[URL]

事前申込不要。好きな時間にいらっしゃって、わたしを探してください。一緒に語り、狩りましょう。わたしの目印は、赤いウェストバック。背中にナナメにかけてマス。店内はちょっとした街並みに広いので、見つけられないかもしれません。どうしても会いたい、という奇特な方は、以下の時間を参考にしてください。フェア棚を漁っております。

   12:00  7Fカウンター前フェア台 「新入生応援フェア」
   15:00  4F人文・思想フェア棚 「学問の入り口フェア」

ひとりU-Streamします、予定時間は 15:00~16:00
ハッシュタグ #sugohon


Live streaming video by Ustream

 終わったら有志で飲みにいきましょう。

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読まずに死ねるか「ゲド戦記」

 人生は短いのに、読みたい本は多すぎる。

ゲド戦記 せめて「入」を絞ろうとしても、欲望は際限なく湧きあがる。興味と関心の赴くまま濫食しているうちに、逃している本があることに気づく。しかも、だいぶ遅くになって。かろうじての救いは、死にぎわでないこと。死期が不可逆に迫ったなら、読書どころじゃなかろう。何を読んでも後悔するのは目に見えている。しかし、それでも、「コレ読んでおけばよかった」の「コレ」を読む。そして、「ゲド戦記」は「コレ」だ。

 重厚な世界設定に心奪われ、緻密な内面描写に感情移入し、謎が明かされるカタルシスに酔う。ただひたすら夢中になれるのだが、哀しいかなハマる自分を醒めて見ると、著者の意図が映りこんでくる。キャラやイベントの出し入れについて、ル=グゥインはかなり計算しており、読み手の年齢まで考慮した上で、時間軸を決めている。

 たとえば、第1巻「影との戦い」は、ゲド自身の成長譚になる。生い立ちから青年になる過程を、その葛藤とともに描くことによって、最初の読者―――「少年」を獲得する。思春期にありがちな高慢が招いた災厄「影」は、姿こそ異なれど、読者の現実にシンクロしてくる。それは、虚栄心によるコミュニティ内の「不和」だったり、自信過剰がもたらした「失敗」、あるいは自身の「欠点」になる。自覚の有無はともかく、少年はゲドが戦うように「影」と向き合うことを覚悟するはずだ(こじれると厨二病になる)。

 そして、第2巻「こわれた腕環」では、自己を剥奪された少女の視点で展開することにより、次の読者―――「少女」を得る。大迷宮の探索や闇の儀式といった演出を振り払うと、これは少女を救出する物語になる。ただし、囚われた少女と白馬に跨ったゲドという話ではない(むしろ逆だ)。これは、「日常」に埋め込まれて見失っていた「自分」を手に入れる苦悩とあがきの軌跡になる。「選ぶ」という自由を手にしたならば、選ばなければならないという恐怖に向き合うことになる。「少女」や「女子○学生」といったラベルをきゅうくつに思い、「妻」や「母」に底知れなさを感じている女の子こそ、少女テナーに共感するに違いない。

彼女が今知り始めていたのは、自由の重さだった。自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手の分からない大きな荷物である。それは、決して気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ―――「こわれた腕環」より
 さらに、第3巻「さいはての島へ」は、少年と少女が見まいとして目を背けていた最大のテーマ、「死」になる。青春の蹉跌を克服し、自分を自分にすることが(物語のなかで)できた読者に対する挑戦だ。これは、ゲドへの挑戦だけに限らず、読み手に「死を直視する」ことを強要する。思い上がった「わたし」を「影」というメタファーで引きずり出し、日常に埋没していた「わたし」を明るみに出し、若者にとってのタブー「死」と対決させるのだ。ゲドの活躍からよりも、むしろ読み手に内在する「死」の克服から得られるカタルシスが大きい。ドーパミンあふれるラストとなるだろう。
大賢人は大きくうなずいた。「それだよ、わしの言いたかったのは。過去を否定することは、未来も否定することだ。人は自分で自分の運命を決めるわけにはいかない。受け入れるか、拒否するかのどちらかだ」―――「さいはての島へ」より
 きたないほど上手いぞ ! と唸ったのは、4巻以降。書かれたのは1~3巻から20年ほど経過しているのだが、同じだけの時間が物語にも流れている。明らかに、もう少年少女でなくなった、(かつてゲドと同じ時間を共有したことがある)大人に対するメッセージが込められている。注意深く避けられてきた微妙な話題や、20年で染まった主義がテーマとして織り込まれている。それはずばり性と力の関係や、剥き出しのフェミニズムだったりする。訳者は「揺らぎ」「ぶれ」というオブラートに包んでやるが、主張のあまりのどぎつさに読み手は辟易するかもしれない。

 しかし、あれほど多様な物語を紡いだ同じ手が、「男vs女」で割ろうとしたり、「知の独占と排斥」という一本線で歴史を解こうとする。光と闇、正と邪だけで割り切れない、現実的な歴史をアースシーに再現させることに成功させたにもかかわらず、後半になると「支配する男」と「育む女」に押し込めようとするのは、かなり不思議だ。結果、つじつま合わせが難しくなり、ほころびというよりもつなぎ目にまで拡大している。そんなに「オンナを排するオトコ」を映したいのか、それとも「そういう読者」を念頭においたのか、さもなくば「歴史とはおしなべてそういうもの」と嘯くのか……読み手や物語の上だけでなく、作家にも同じだけの時が流れたんだね。

 作品の"つながり"について。「ゲド戦記」は、「指輪物語」「ナルニア国物語」と並び世界三大ファンタジーとして名高い。だからこれがオリジン、根っこになるのだが、その豊かな果実のほうを先に味わっているので、要所要所で懐かしい驚きに出会う。たとえば、「真の名を知ることで、相手を支配する」なんてくだりは、「ベルガリアード物語」「闇の戦い」シリーズで幾度もお目にかかっている。未知の存在への恐怖は、分類できない(=分からない)恐れからなる。分類され・名づけがなされた瞬間、警戒する必要はあるが恐れや不安から離脱する。

「名まえを知るのがわたしの仕事、わたしの術だからさ。何かに魔法をかけようと思ったら、人はまず、その真の名を知らなくてはならない。わたしの故郷では、誰も、絶対に信用できる人以外には、生涯、本名はあかさずにおく。なぜって、名まえは大きな力と同時に、たいへんな危険をもはらんでいるからね」―――「こわれた腕環」より
 人は名づけにより世界を分類し、支配してきた。大きなもの、複雑なものは、順番に分けていって、それ以上分けえないほど細分化し、それぞれの属性と性質と関係を調べ、名前をつける。直接的な喩えは一切ないが、この行為はアースシーでは「魔法」と呼ばれ、読者の世界では「科学」と呼ぶ。そして、エドワード・エルリックの世界では、「錬金術」と呼ぶのだ。バタフライ効果を「均衡」と呼んだり、科学の普遍性は、人の観測世界に基づく人間原理で測ろうとする態度は、「鋼の錬金術師」を彷彿とさせる(いや、逆だ逆! 「鋼」が影響を受けているだよね)。第1巻の「影」や第3巻の「門」なんて、ビジュアル的には「鋼の錬金術師」まんまを脳内展開させたぞ。

 作品には出会う旬がある。だが、死ぬ前に読めてよかった。「読まずに死ねるか」というよりも、むしろ「読んでから死ね」ともいうべき作品。

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宮崎駿ぜんぶ入り「シュナの旅」

風の谷のナウシカ 「風の谷のナウシカ」を読んだ。

 ナウシカ読んでないよと告白すると、かなり驚かれる。むかし昔、映画を観た頃、同じとこ(トルメキア撤兵)まで読んだのは記憶している。「映画は"序盤"にすぎないよ」とか「あの後のナウシカが辛いんだよ」とかオフ会で刺激されてイッキ読み。虫と人との共存という映画版のテーマが、相容れない異文化の融和にシフトしてゆく様子はお見事だが、環境問題に絡めた前者の方が性に合うなぁ……

 初読が311より後だったので、(わたしの)世界の見え方がまるで変わってしまっている。だから、少女が背負うには世界は重過ぎるし、広すぎるし、命に満ち溢れすぎている。メシアを崇める方角へ押しやってしまうという後知恵もアリだが、もしそうした"演出"が加わると、宗教臭さが鼻につくだろう───なんてつぶやいていると、ナウシカの原点という触れ込みで「シュナの旅」を紹介される(ゆりぽありがとう)。

 「シュナの旅」を読んで驚いた、これは宮崎駿の原点だ。

 貧しい国の王子シュナが金色の種を探す苦難を描いた物語なのだが、いままで観てきた宮崎駿がぜんぶ詰まっている。ナウシカに限らず、もののけ、千尋、ラピュタなどのさまざまなイメージが渾然と浮かび上がってくる。似ているというよりも、むしろ「完全に一致」してる構図・アイディアが、後から後から湧き出てくるので、映画を観たときの感情の噴出をとめるのに一苦労する。

 もとはチベットの民話を児童書化した、「犬になった王子」を下敷きにしている。民を救うため辺境まで赴き、異化して戻ってくるというお話だ。物語の骨格は完全一致しているが、ロストテクノロジーや舞台やキャラによる置き換えが、異質なものにしている。骨は一緒でも、身にまとった肉や装束が違うことで、新しいのに懐かしい感覚がある。「ナウシカは虫愛づる姫君」とか「宇宙戦艦ヤマトは西遊記」と同じようなデジャヴを受けるかもしれない。
Photo
ブラッカムの爆撃機 かつて「ブラッカムの爆撃機」を読んだとき[参照]、宮崎駿がどんな相似形に描くか見えなかったが、今や「シュナ」が補助線となってくれる。原作と時代や舞台を大幅にズラし、後は一つ一つ置き換えをするんだね。キャラチェンやエピソードの膨らましは、「その一つ」の置き換えに着目して行う。「ブラッカム」は第2次大戦下、ドイツへの無差別夜間爆撃をした、英爆撃部隊の若者たちの物語だ。おそらく、黙示録後の未来を舞台に、(やっぱり)主役を女の子にしてしまうんじゃないかと。

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