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ラテンアメリカ十大小説

ラテンアメリカ十大小説 垂涎の狩場ガイド、繰るたびに嬉しい悲鳴。

 特別意識してなかったにもかかわらず、「これは」というのが結果的にラテンアメリカ圏だったことは、よくある。幻想譚や劇薬小説が「ど真ん中」で、めくるたびハートをワシ掴みされる。自他彼我の垣根をとっぱらう、のめりこむ読書、いや毒書を強制されるのがいいんだ。

 そしてこれは、ありそでなかったラテンアメリカ文学のガイドブック。ブラジルを除いたラテンアメリカのスペイン語圏を中心に、10人の作家の10作品を選び取る。いくつか読んでいるので目星がつく、どれも珠玉級。

  1. ホルヘ・ルイス・ボルヘス『エル・アレフ』―――記憶の人、書物の人
  2. アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』―――魔術的な時間
  3. ミゲル・アンヘル・アストゥリアス『大統領閣下』―――インディオの神話と独裁者
  4. フリオ・コルタサル『石蹴り』―――夢と無意識
  5. ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』―――物語の力
  6. カルロス・フェンテス『我らが大地』―――断絶した歴史の上に
  7. マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』―――騎士道物語の継承者
  8. ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』―――妄想の闇
  9. マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』―――映画への夢
  10. イザベル・アジェンデ『精霊たちの家』―――ブームがすぎた後に

 それぞれの章の冒頭で、2ページほどの引用があり、醒めて見る夢の断片のようで、それだけで引きずりこまれるかもしれない。そして、サービス精神旺盛な著者は、その小説の解説だけに終始せず、作者の半生から影響を受けた作品、他の代表作・見所、読みどころをぎっしり・たっぷり・みっちりと紹介してくれる。と同時に、著者の見聞も織り込まれており、得がたい気づきも沢山あった。

 たとえば、幻想文学と現実との距離感について。欧米文学(とその影響を受けた日本文学)に染まった目には、 fantasy と real は対立したり包含したりする概念になる。しかし、本書によると、幻想文学は、あくまで現実に基づいたものになる。一見「現実ばなれ」した描写でも、書き手は何らかの現実に依っているというのだ。ガルシア・マルケス「自分の書くものには現実に基づかないものは一つもない」の言葉は聞きかじっていたが、暴走した妄想や濃密な心性も、脳外に出た現実なのだろうね。

 そして本書で、目を引く仮説をうちたてている。近代日本文学で似た話を聞いたが、もっとスケールはでかい。つまりこうだ、「偉大な作品が生まれるのは、その国語の変革期と軌を一にする」―――これを、ラテンアメリカ文学のみならず、シェイクスピアやゲーテやプーシキンも引っ張ってきて主張する。なるほど、和語が「日本語」になった明治の変動期に、いわゆる「傑作」が数多く誕生している。漱石盲愛の信者は気づきにくいが、時代と文学の生命力は同じ一つの根にある。

 ラテンアメリカ文学の場合、植民地の時代と革命の時代が色濃く影をおとしている。植民地時代を通じて中世末期のままに凍結されていたものが独立後の解凍期を経て爆発的に広がる。口承や絵文字の形で残された「切断された歴史」は、ヨーロッパ的に言うなら、歴史というよりも、むしろ神話に近いそうな。現地で用いられる言語が象徴的に語っているように、ヨーロッパという大木からスペイン文学という枝が切り取られ、挿し木され、だんだんと巨大に育ったのが、今なのだ。

 表現手段としての言語は借りながら、咲いた果実はまるで違う。膾炙した「魔術的リアリズム」は、ヨーロッパ的な「原因と結果の法則」からかけ離れている。たとえば、女が深い淵に落ちたとする。慣れ親しんだ因果律で解くならば、「草が濡れていて足を滑らせた」とか「実は誰かに追われていた」という読みになる。

 しかし、インディオ特有の心性と深く結びついている『リアリズム』でと、「淵が女を呼び寄せた」とか、「淵が女を泉に変えようとしたから」といった解釈になる。シュルレアリスムが奉る不条理じゃないんだ。条理は通っているのだが、異なる理(ことわり)によって支配された世界になる。そして、どちらの世界にもするりと入り・出てゆく手わざにゾクゾクさせられるのが醍醐味なんだろね。この「味」を上手く伝えられるかどうか分からないが、いくつか読んで書いてきたものをまとめてみよう。

■ ボルヘス「伝奇集」

伝奇集 ボルヘスの、どろり濃厚・短編集。

 読者の幻視を許容するフトコロの深さと、誤読を許さない圧倒的な描写のまぜこぜ丼にフラフラになって読む。これはスゴい。特に「南部」と「円環の廃墟」は大傑作で、幾重にも読みほどいても、さらに別のキリトリ線や裂け目が現れ、まるで違った「読み」を誘う。シメントリカルな伏線の配置や、果てしなく反復される営為が象徴されるものを、「罠だ、これは作者のワナなんだ」と用心しぃしぃ読む。

 それでも囚われる。語りはしっかりしてて、描写は確かだから、思わず話に引き込まれ、知らずに幻想の"あっち側"に取り込まれる。どこで一線を越えたのか分からないようになっているのではなく、「一線」が複数あるのだ!そして、どこで一線を越えたかによって、ぜんぜん違ったストーリーになってしまう。解説で明かされる「南部」の超読みに、クラッとさせられる。語り手の夢なのか、語られ人の夢なのか、はたまたそいつを読んでいる"わたし"の幻なのか、面白い目まいを見まいと抗うのだが、目を逸らすことができない。「「「胡蝶の夢」の夢」の夢」の夢……

 読み手の想像力というか創造力を刺激するのも一流ナリ、さすが「作家のための作家」だね。たとえば、あらゆる本のあらゆる組み合わせが揃っている「バベルの図書館」は、まんまエッシャーの不思議絵をカフカ的に読んでいるような気になる。「カフカ的」と表したのは、明らかな歪みや矛盾をアタリマエとして淡々精緻に記されている点がそうだから。作品でいうなら「城」だ、あの「城」に図書館があるのなら―――いや、もちろん"ある"に違いない―――まさに本作で描かれたまんまの無限回廊になっているはず……続きは「伝奇集」はスゴ本

■ フリオ・コルタサル「南部高速道路」

短篇コレクション1 世界文学全集を追いかけてきて良かった!逸品。なかでもコルタサルはすばらしい、これはいい作家に遭えましたな。渋滞に巻き込まれただけなのにサヴァイヴァルになる不条理感覚もさることながら、道路を走ることはそのまま人生のメタファーでもあることに気づく。わたしは、周囲のほとんどを分からないまま生きている。知ってはいても外見だけ、互いがぶつからないようにゆずりあって生きている―――というか、場所を分け合って生きているのだ。「出会い」や「別れ」なんて、クルマが近づいたり離れたりするようなもの。ラストシーンを読み終わるとき、濃密だった時間がほどけてゆく"はかなさ"を味わう……続きは、「短篇コレクションI」はスゴ本。そうそう、スゴ本オフ@松丸本舗でコルタサルの短篇集をオススメされて狩ったのだが、楽しみだー(MOTOさん、ありがとうございます)。

■ ガブリエル・ガルシア=マルケス「コレラの時代の愛」

コレラの時代の愛 51年9カ月と4日に渡る片想い。

 女は男を捨て、別の男(医者)と結婚し、子をつくり、孫までいる年齢になる。普通なら絶望して破滅するか、あきらめて別の人生を選ぶかだろうが、この男は待ち続ける。ヘタレ鳴海孝之の対極となる漢だ。現実ばなれした片恋をリアルに描くために、ガルシア・マルケスは周到に準備する。あ、だいじょうぶ、心配ご無用。「百年の孤独」のクラインの壷のような入り組んだ構成になっていないし、登場人物が多すぎてノートをとることもなく読めるから。

 時間処理の仕方が上手い。キャラクターを中心に背景をぐるりと回すカメラワーク(何ていったっけ?)を見るようだ。ひとまわりの背景にいた人物が次の中心となって、その周囲が回りだす。遊園地のコーヒーカップを次々と乗り移っているような感覚。象徴的なのは「コレラ = 死にいたる病」だな。もちろん、当時猛威を振るった伝染病としてのコレラと、そっくりの症状を見せる「恋の病」が掛けられている。片思いをする男のコレラのような恋患いだけでなく、恋のあまり死を選ぶ人々の生き様も伝染病そっくりなのが深いね……続きは、「コレラの時代の愛」で濃い正月を過ごす

■ カルロス・フェンテス「老いぼれグリンゴ」

パタゴニア・老いぼれグリンゴ 革命時のメキシコを舞台とした、エロマンティック愛憎劇。

 実はハナシはシンプルだ。老いた男と、若者と、女が出会って別れる話。老いた男は死に場所を求め、若者は革命を求め、女は最初メキシコを変えようとし、最後はメキシコに変わらされようとする物語。「女ってのは処女が売春婦かどちらかなんだ」とか、「世界の半分は透明、もう半分は不透明」といった警句が散りばめられており、ヒヤリとさせられる。

 しかし、「語り」が断りなく多重化したり、「今」が反復ヨコ跳びしており、読みほぐすのに一苦労する。「ひとり彼女は坐り、思い返す」――この一句から始まり、要所要所で形を微妙に変えつつ挿入されている。読み手はこれにより、彼女視点から時系列に描かれるのかと思いきや、別の人物のモノローグや観察に移ったり、いきなり過去話に飛ばされる。ときには地の文に作者の意見がしゃしゃり出る。まごまごしていると、「ひとり彼女は坐り、思い返す」が繰り返され、彼女視点に戻っていることに気づかされる。読み手は、このポリフォニックな技巧に翻弄されるかもしれない。

 そして、登場人物の告白をとおして、アメリカの影としてのメキシコがあぶりだされてくる。あるいは、アメリカのなれなかった未来としてメキシコが写し取られる。ちがう肌色と交じるとき、アメリカは殺し滅ぼし、メキシコは犯し孕ませたのだ。

 圧倒的なチカラの格差があるとき、殺すほうがいいのだろうか、それとも、犯すほうが人間的なのだろうか。殺した方が後腐れなく、かつ速やかに土地を奪える。一方、犯すということは、(本人の感情さておき)結果、子孫の誕生につながってくる。混血の私生児たちは成長し、国のあり方そのものを変えてくる……続きは、死とは、最後の苦痛にすぎない「老いぼれグリンゴ」

■ マリオ・バルガス=リョサ「楽園への道」

楽園への道 いいトシこいたオトナが、自分探し・夢探しを始めたら、どうなる? それは悲劇だろうか、喜劇になるか。

 本書の2つの人生が、それぞれ答えを示している。ひとりは、ポール・ゴーギャン。高給と妻子を投げ捨てて、絵を描き始める。もう一人は、その祖母フローラ・トリスタン。貴族生活から脱し、労働者や女性たちの権利確立のために奮闘する。自分を生贄にして楽園を目指す。ゴーギャンは芸術の楽園、フローラは平等な社会を。もちろん周囲には認められず、極貧と冷遇を余儀なくされる。その孤軍奮闘ぶりと確信・妄執っぷりは、何かに取り憑かれているようだ。

 さらに、それぞれの半生と照らし合わせると、文字通り「人が変わってしまった」ようだ。まさにキャラチェンジという言葉がぴったり。安定した生活から離れ、精力的に動き回る。いくつもの国や海を「横に」移動するだけでなく、ブルジョアや貴族社会から最底辺まで「縦に」堕ちていく。文明化社会から野蛮人の生活にダイブする。夫の奴隷から逃げ出す。キリスト教的禁忌を破り、桁外れのセックスライフを味わう……やりたいようにやればいいじゃん、しゅごキャラが憑いてるよ「楽園への道」

■ ホセ・ドノソ「夜のみだらな鳥」 【劇薬注意】

 愛する人をモノにする、究極の方法。

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 それは、愛するものの手を、足を、潰して使えなくさせる。口も利けなくして、耳も目もふさいで使い物にならなくする。そうすれば、あなた無しではいられない身体になる。食べることや、身の回りの世話は、あなたに頼りっきりになる。何もできない芋虫のような存在は、誰も見向きもしなくなるから、完全に独占できる。感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。まさに狂愛。

 ドノソ「夜のみだらな鳥」では、インブンチェという伝説で、この狂愛が語られる。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた生物の名だ。インブンチェは伝説の妖怪だが、小説世界では人間の赤ん坊がそうなる。老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも老婆たちの手を借りなければならなくなるから。成長しても、決して部屋から出さない。いるってことさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をするのだ。

 子どもの目をえぐり、声を吸い取る。手をもぎとる。この行為を通じて、老婆たちのくたびれきった器官を若返らせる。すでに生きた生のうえに、さらに別の生を生きる。子どもから生を乗っ取り、この略奪の行為をへることで蘇るのだ。自身が掌握できるよう、相手をスポイルする。

 読中感覚は、まさにこのスポイルされたよう。「夜のみだらな鳥」は、ムディートという口も耳も不自由なひとりの老人の独白によって形作られる…… はずなのだが、彼の生涯の記録でも記憶でも妄想でもない独白が延々と続けられる。話が進めば理解が深まるだろうという読み手の期待を裏切りつづけ、物語は支離滅裂な闇へ飲み込まれるように向かってゆく……続きは、劇薬小説「夜のみだらな鳥」

■ イザベル・アジェンデ「精霊たちの家」

精霊たちの家 物語のチカラを、もういちど信じる。驚異と幻想に満ちた物語に没入し、読む、読む。小説とは解剖される被験体ではないし、解体畜殺する誰かの過去物語でもない。身も心も入っていって、しばらく中を過ごし、それから出て行く世界そのもの。

 百年分の歴史が「いま」に向かって語られるに従い、「マジック」は次第に影を潜め、「リアリズム」が表出する。「百年の孤独」が追い立てられるように加速していくのとは対照的だ。ことに恐怖政治の跋扈のあたりになると、同じ小説かと驚かされるほど、濃密に血と暴力を塗り重ねる。拷問シーンでは酸欠にならないように気をつけて。

 さらに、語りの構成が絶妙だ。「私」、「わし」、それから三人称は、誰がストーリーテラーなのか推察しながら読むと二倍おいしい。「わし」はすぐに分かるのだが、あとが分からない。タイトルに「精霊」があるし、一族が住む屋敷のあちこちに精霊がウロウロしているので、最初は精霊が語り部なのかなぁと思いきや――見事に外れた。さらに、「私」が誰か分かるのは最後の最後で、物語の扉が再帰的に開いてゆく悦びを味わったぞ。物語がわたしを圧倒する。わたしを蹴飛ばし、喰らいつき、飲み込む……魂をつかみとられる読書「精霊たちの家」

 薄い岩波新書なのに、「ラテンアメリカ十大小説」は濃密なブックガイドとなっている。この導きにより、次はボルヘス「エル・アレフ」、「コルタサル短篇集」、マルケス「百年の孤独」に行こう。「百年」は再読になるが、呑み込まれないように用心しながら読むつもり(だが、呑まれるんだろうなぁ…)

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セックスの回数が増えている件について

 3.11の前と後で、増えてる、きちんと数えてないが、2倍ぐらい(当社比)。

 未曾有の危機を目の当たりにし、「ゆれ」に対して極端に敏感になっており、身体モードが戦闘態勢に入っているからだろうか。加えて、目先の不安、将来の不確かさが「生きること」そのものへの欲求をつのらせているからだろうか。生命の危機に瀕すると、生命を残そうとする情動スイッチが興るのだろうか。

 吊橋効果というコトバがある。ぐらぐらする吊橋を男女で渡るとき、恐怖によるドキドキを恋愛によるドキドキと勘違いしてしまうやつだ。聞くところによると、婚約指輪がバカ売れしているそうな。コンドームも然りかと。揺れているのは福島だけではない。日本列島という弧が巨大な吊橋と化しているのか。

 いずれにせよ、スイッチが入ったのは、わたしだけでない。行為に没頭することで不安を鎮めようとするのか、互いが互いにしがみつく。だが、これが「本」になると想像力を要する。それでも、プラトニックから生モノまで、心に掛かるやつを振り返ってみる。

エロティック・ジャポン まず、「エロティック・ジャポン」。エロスとは、生きるチカラそのものだということを思い知る。自分を見ることはむずかしい。鏡なしでは自分を見ることすらできないし、その像は反転している。「他人から見た自分」を見るためには、最低2枚必要だ。どんなにレンズが歪んでいても、カメラや他者の目があれば、自分が「どう見られているか」を知ることは可能だ。これを「日本人のエロス」でとことんヤったのが、本書。

 「趣味はエロス」というわたしだが、本書には大いに教えられる。単純にわたしの精進が足りないのか、それとも著者のフランス女が半端じゃないのか、分からぬ。徹底的に、全面的に、過激に貪婪に、日本人のエロスを詳らかにする。もちろん、「俺はそんなことしない」「それは普通の日本人じゃない」とか弁明するのは可能だ。

 だが、普通ってなに?どんなに異様で異常だろうと、それを追求・志向する人が居るのは、日本そして日本人なのだ。そいういう特殊もひっくるめて普遍化しているのが、日本なのだろう。カレーから宇宙船まで、なんでも取り込み自家ヤクロウにする。ケモノレベルのエロスから、高度文明化した情動まで、想像力の尽き果てるまで許し許される。わたしはこの大らかさが好きだ。目ぇにクジラ立てるよりも、まぁまぁなぁなぁゆるめなトコが大好きなのだ。残念ながら昨今の情勢では、堂堂エロスを語れない。外のレンズを通してでしか、日本のエロスを語れないのは残念だが、本書が語れるウツワは残っていると信じたい。

 次は、「オンナの建前・本音翻訳辞典」を推す。男性のコミュニケーション能力の低下に起因するモテ格差は、今に始まったことではない。本書があったなら、どれほど楽できただろうに… と、わたしも思っているから。

オンナの建前本音翻訳辞典オンナの建前本音翻訳辞典2

 つまり、オンナの発言の真意をくみ取れず、カン違いや軋轢を引き起こす鈍感男がモテない一方で、女性言語の読解に長けた一部のヤリチンの草刈場が現代の恋愛市場なんだ。来る本格的恋愛格差社会に備え、本書で保険をかけておくことをオススメしよう。本書は I と II があるが、 I からのエッセンスを問題形式にまとめた→オンナの建前からホンネを見抜く10問。格好の(?)「地震」という話題がある。虚勢張るのではなく、正しく怖がり、適切な準備をアドバイスできれば株も上がるというもの。

愛するということ さいごは、スゴ本オフ@恋愛編より考察。これは、テーマに沿ってオススメ本を持ち寄って、ゆるくアツく語り合うオフ会だ。いちばん面白かったのは、「オススメの恋愛本を紹介しあう」のが目的なのに、だんだん話が「恋愛とは何か?」にシフトしていったこと。なぜその本がオススメなのか?についての説明が、そのまま「自分にとって"恋愛"とはこういうもの」に換えられる。それは経験だったり願望だったりするが、それぞれの恋愛の定義なのだ。「本」という客観的なものについてのしゃべりが、「私」という個人的なものを明かす場になる。

 「レンアイ」ってのは、ドラマや映画や小説で市場にあふれ、ずいぶん手垢にまみれているのに、いざ自分が体験するとなると、非常に個人的な一回一回の出来事になってしまう。墜ちて初めて、一般化されていたワタクシゴトに気づくという、とても珍しいものなんじゃないかな。いわゆるスタンダードな王道から、変則球なのに「あるある!」「そうそう!」と手や膝を打った覇道まで、この恋愛本がスゴいにまとめた。わたしのオススメは、[5冊で恋愛を語ってみよう]に書いたので、あわせてどうぞ。

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 振り返ると、恋愛が「レンアイ」として成立するには、一定の平穏が必要やね。たとえ嵐のような激情が吹き荒れるとしても、それが嵐として成立するためには、先立つ凪が必要なのだ。俗にいう「極限状態での愛」というのは、そういう『ストーリー』を形容するための言葉だ。そして、いったん『ストーリー』というからには、始まりと終わりを持つ、一つの閉じた語りになる。この「ゆれ」でどうなるか分からない、いつ終わるかも不確かな、一寸先は薄ぼんやりとした日々、さらに目に見えない恐怖を圧殺しながら日常を送る中、「レンアイ」そのものが絵空事ぽく見えてくる。いや、絵空事なんだけれど、よりその非リアリスティックが際立つ。

 あの日を境に、色、酒、欲が増したような気がする。生きることに執着することは、性欲ならぬ生欲なのかもしれぬ。

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私小説とは内臓小説だ「塩壷の匙」

 私小説とは内臓小説だ。

塩壷の匙 自分自身をカッ斬って、腸(はらわた)をさらけだす。主人公=作者の、あたたかい内臓を味わいながら、生々しさやおぞましさを堪能するのが醍醐味。キレ味やさばき方の練度や新鮮さも楽しいし、なによりも「内臓の普遍性」に気づかされる。そりゃそうだ、美女も親爺も、外観ともあれ内臓の姿かたちは一緒なように、えぐり出された内観は本質的に同じ。だから他人の臓物に親近感を抱く読み方をしてもいい。

 松丸本舗にて松岡正剛氏から直々にオススメされた車谷長吉「塩壷の匙」を読む。傑作短編集だ。松岡正剛さんオススメの劇薬小説という触れ込みだが、これは内観のおぞましさだね。そいつをハッとするほど美麗な筆致で削りだす。たとえば、「なんまんだあ絵」で井戸の中の鮒に近しいものを感じていた老婆が、こんな光景にであう。

釣瓶を井戸へ落とし込んだのだが、ゆるゆる闇の底から上がってきた水桶の中に、鮒の白い腹が浮かんでいた。おかみはんは、あ、と息を呑んだ。しかしそれで腹が決まったのである。
 彼女の腹がどう決まったかを思いやると、ちょっと胸にせりあげてくるものがある。けれどもここで指摘したいのは、ビジュアルのコントラスト。闇に白い腹を浮かばせた鮒の死体が、あまりにも鮮やかなのだ。幸薄き半生を、淡々と積み上げるように描いてゆき、ラスト近くでこの白い腹だ。"希望"じゃないことぐらいは分かる。行く先の"なさ"を照らす白さ、「ここより先三途の川」の標(しるし)なのだろう。

 純朴で残酷であるほど、美しい。「白桃」は、ラストの悪意と対照的な、この出だしが素晴らしい。カメラ的絵と3D音響効果と脳裏への焼きつきが、一文にて示される。

納屋の背戸から涼しい風が吹いて来た。竹藪の葉群が風に戦ぎ、納屋の土間から見ていると、黄色く変色した葉の残る、篠竹の葉裏が目の中で騒ぐようだ。
 「白桃」のストーリーには一切口をつけないので、愉しんで欲しい。著者の内奥の記憶の痛みは、「塩壷の匙」よりも優れていると思うぞ。他人の不幸は蜜の味。その悪意に触れたときの無残な味と、それを黙ってさらしておくようなむごさとさみしさを胸で感じる。

 腹の中のものを、ほらこれだよ、ほらどうだよ、と手づかみで見せ付けてくる。おもわず目を背けたくなる。自分の半生の汚辱や怨恨を暴露し、それを切り売りすることで、自身を救済しようとしているのか。描かれる「不幸」がありふれていればいるほど、抉り出す狂気のほうに目が行く。書くことは煩悩そのものやね。

 では読むことは?女が男に求めるグロテスクさにたじろぎ、澱んだやりきれない生活に安堵感を見つけてうな垂れる。ひきつけて読むと、主人公=作者と共に、感情を生き埋めにすることを覚えるだろう。この本をつかむ手が、そのまま深闇の淵をつかむ手になる。同じ臓物を、わたしも持って生きていることが分かる。読むこともまた煩悩なのだ。

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