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あたらしい本との出会いかた

 ブログのおかげ、ネットのおかげで、質量・世界ともに広がった。ここでは、あたらしい本との出会いかたについていくつか、紹介する。

 昔は書店通い・ハシゴをするか、書評を漁るしかなかった。Popで店員さんのシュミを探るとか、文庫の解説から本の目利きを探すのも(地味ながら)有効だった。通いつめるうちに、「本に呼ばれ」て即買い→アタリだったという経験もある。無意識のうちに背表紙を読んでいたのだろうか?

 今は、blogやtwitterやfacebook経由で触手を伸ばしたり、amazonのオススメに誘惑されたりと忙しい。大型書店や出版社の新刊情報も外せないが、玉と糞が混交しており仕分けほうが大変だ。本との出会いのチャネルが増えたのは嬉しいが、フィルタリングが要となる。「あたらしい本との出会いかた」に共通するのは、そこに「人」が介在するところ。ネットの向こうの人を介して、本を探す。「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」というタイトルの通り、逆説的だが、本よりも「読者」を探すんだ。

「人を探す」 これは昔の書店ハシゴに似ている。twitterのつぶやきや、はてなブックマークコメントを拾い集める。キーワードは、自分がさっき読んだ本のタイトル。それについてコメントを発している「人」を探すんだ。amazonでは「レビューアー」を探すことで、その「人」が発している別の本を見つける。同好の士というやつだね。見つけた「人」をRSSに詰め込んでおくと、RSSがアンテナ代わりになる。

「場をつくる」 ピンポイントに一本釣りすることは、あまりない。ジャンルやテーマといった、一定の範囲で取捨選択をくり返す。2chでスレ立てたり、便乗質問のフィードバックを受けるのが良いが、保守が面倒だし乱立してるので探すのも一苦労。そんなとき、「本読みのスキャット!」がありがたい。「本をテーマにした2chまとめ」があるのでジャンル横断的に見るときに重宝している。また、「人力検索はてな」で訊いたり、書評コミュニティー「本が好き」で「オンライン読書会」を開いてしまうのもアリだろう。

  「オンライン読書会」
  「本読みのスキャット!」
  「人力検索はてな:書籍」

「本のプレゼン」 好きな本を持ち寄って、まったりアツく語り合う。Book Talk Cafe (スゴ本オフ)という会をここ一年続けてきたが、やっぱり「人」がカナメやね。本をダシに語ることで、その「人」と本との距離感が掴める。複数の本に言及すれば、より立体的にその「人」の嗜好が比較できるのだ。親近感がわいた人の「これはスゴい」なら、必ず手に取るだろう。本そのものは既読だったり未読だったりしていても、そいつをどうプレゼンするかによって、選ぶきっかけになるのだ。本を介して「人」と出会い、人が今度はノードとなって、「次の」本へつながる。この感覚は、何度やっても新鮮だぞ。

 2010/04/07 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@SF編
 2010/05/14 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@LOVE編
 2010/07/16 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@夏編
 2010/08/27 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@BEAMS/POP編
 2010/12/03 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@ミステリ
 2011/03/04 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@最近のオススメ報告

「グループ・ハンティング」 本屋は孤独に巡るものだったが、「本屋オフ」を体験してからは、集団での狩りに目覚めた。数人でワイワイいいながら周遊するだけなのだが、同じ棚でも目線が違うと、新たな発見がもりもり出てくる。「ソレがいいなら、これは?」というレコメンドが、直接・即座に出てくるのが嬉しい。初対面でも「本」を通じてすぐ仲良くなれるから不思議だ。しり込みしていた有名本・大作に後押しされたり手ほどきされたり、動機付けには困らない。やるたびに、今まで、自分がいかに狭い世界で読みふけっていたかを『何度も』思い知る。自分の職場・学校・近所ではなく、同じ興味の人を直接お誘いできるのは、twitterのおかげ。

 2010/08/07 スゴ本オフ@松丸本舗(7時間耐久)
 2010/10/20 スゴ本オフ@赤坂
 2010/10/23 スゴ本オフ@松丸本舗(セイゴォ師に直球)
 2011/01/29 本屋オフ@丸善ジュンク堂
 2011/03/26 スゴ本オフ@松丸本舗(読まずに死ねるかッ編)

 そして、「場をつくる」+「本のプレゼン」+「グループ・ハンティング」を重ねたのが、本屋オフ&オン会だ。本屋でオフ会しつつ、U-Streamで中継し、twitterでフィードバックを受けるのだ。松丸本舗で一人U-Streamやったとき往生した。パソコン持って本屋をウロウロする明らかに怪しいオッサンでしたなw ハンディなやつを準備するとか、スタッフや店員さんの協力を仰ぐとか、ちと考える!


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劇薬小説「夜のみだらな鳥」

 愛する人をモノにする、究極の方法。

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 それは、愛するものの手を、足を、潰して使えなくさせる。口も利けなくして、耳も目もふさいで使い物にならなくする。そうすれば、あなた無しではいられない身体になる。食べることや、身の回りの世話は、あなたに頼りっきりになる。何もできない芋虫のような存在は、誰も見向きもしなくなるから、完全に独占できる―――「魔法少女マギカ☆まどか」で囁かれた誘いだ。

 悪魔のようなセリフだが理(ことわり)はある。乱歩「芋虫」の奇怪な夫婦関係は、視力も含めた肉体を完全支配する欲望で読み解ける。まぐわいの極みからきた衝動的な行為かもしれないが、彼女がしでかしたことは、「夫という生きている肉を手に入れる」ことそのもの。早見純の劇薬漫画「ラブレターフロム彼方」では、ただ一つの穴を除き、誘拐した少女の穴という穴を縫合する。光や音を奪って、ただ一つの穴で外界(すなわち俺様)を味わえというのだ。

 感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。まさに狂愛。

 ドノソ「夜のみだらな鳥」では、インブンチェという伝説で、この狂愛が語られる。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた生物の名だ。インブンチェは伝説の妖怪だが、小説世界では人間の赤ん坊がそうなる。老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも老婆たちの手を借りなければならなくなるから。成長しても、決して部屋から出さない。いるってことさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をするのだ。

 子どもの目をえぐり、声を吸い取る。手をもぎとる。この行為を通じて、老婆たちのくたびれきった器官を若返らせる。すでに生きた生のうえに、さらに別の生を生きる。子どもから生を乗っ取り、この略奪の行為をへることで蘇るのだ。自身が掌握できるよう、相手をスポイルする。

 読中感覚は、まさにこのスポイルされたよう。「夜のみだらな鳥」は、ムディートという口も耳も不自由なひとりの老人の独白によって形作られる……はずなのだが、彼の生涯の記録でも記憶でも妄想でもない独白が延々と続けられる。話が進めば理解が深まるだろうという読み手の期待を裏切りつづけ、物語は支離滅裂な闇へ飲み込まれるように向かってゆく。

 これは、ポリフォニーな構成だからなのかと、最初は疑った。さまざまな登場人物の「一人称」を織り敷いているので、誰の告白か分からなくなってしまったのだという仮説だ。しかし、登場人物の時空がバラバラなのだ。複数の時空軸が説明なしで入れ替わり、切り替わる。登場人物どうしは同じ過去を共有しているときもあるが、読者が既に読んだはずのエピソードはガン無視したやりとりをする。「おれ」で指すのが主人公ではなく、別の時空のムディートの記憶を持つ「おれ」が、突然出てくる。「あなた」が登場人物の誰かだったり、読み手そのものを指し示す。

 畸形のわが子のために、世界中から畸形ばかりを集めて、畸形の楽園を作るエピソードや、肉体の器官が少しずつ取り替えられ、20%しか残っていない「おれ」が赤ちゃんとしてぐるぐる簀巻きにされる話など、ストーリーラインも狂気を孕んでいる。アリストテレスは「醜いものも、美しく模倣することができる」と説いたが、この世界は「狂ったものも、正確に描写することができる」と呼んでもいいだろう。

 気づいたときには「おれ」の饒舌に囚われており、読み手は、「おれ」はいつ・どこのおれなのか、「あなた」とは誰なのか、探しながら惑いながら読むハメになる。現実と妄想、歴史と神話、論理と非合理といった要素が入り混じっており、何が確かな事実であり、何が根も葉もない虚構でしかないのか、疑うことも確かめることもできない。密閉された、息苦しい世界を這い回るような、袋の中で生きているような感覚だ。「おれ」の執念のかずかずによって歪曲され、誇張される描写に、読み手は突き飛ばされる。精神衛生上、非常によろしくない。読めば読むほど、ダメになってゆく。すがるように独白にしがみつく。この連想世界では、「おれ」しかいないのだ。たとえどんなに非合理であっても。

 本書は、「劇薬小説ベスト10」で教わった逸品。「狂鬼降臨」や「城の中のイギリス人」といった肉体的おぞましさをキワ立たせるものや、「児童性愛者」や「隣の家の少女」のような精神的衝撃を受ける中で、本書は、悪夢に呑まれて帰ってこれなくなる肉体・精神の双方に対してダウナー系ダメージを喰らわせてくれる。

 生きた迷宮をさまようような、誰かの悪夢を盗み見ているような毒書。

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「風が吹くとき」再読

風が吹くとき 絶句した、わたしはこの老夫婦を笑えない。むしろ、いまの"わたし"そのものだ。

 イギリスの片田舎が舞台、時代から取り残されたような老夫婦を描く。絵本というよりグラフィック・ノベルやね。穏やかな二人の生活に、さいしょはジワジワと、次に割り込むよう、最後は全面的にのしかかってくる「核の恐怖」が、すべてを塗りつぶしてゆく。初読は二十ン年前、「さむがりやのサンタ」しか知らなかったわたしには、ほのぼの+おどろおどろのギャップが衝撃だった。

 しかし、当時のわたしは、「フィクションというフィルター」を通じて受け止めたがる節があった。全面核戦争が勃発すれば、日曜大工の「シェルター」や、窓ガラスに白ペンキごときで防げるワケがない。それでも政府が発行するパンフレットを、一字一句、忠実に守ろうとする彼らに、一種ほほえましさを感じ、待ちかまえる運命を案じ、微笑しながら涙ぐんだ。

 核戦争が「ラジオ」で告げられ、3分後に飛来するところまで放送される"演出"も、「フィクションというフィルター」を"演出"してくれている。おかげでカウントダウンを身構えるようにページをめくれる。だが、放射能がじわじわと二人を蝕んでゆく様子は違う。「ここ」と「あそこ」の区別がつかないのだ。つまり、どの時点で手遅れなのか、そうでないのか、最後まで分からない。最初は丸々と血色のよい初老の夫妻だったのが、だんだん白色化してゆく。そう、この絵本では、放射能の影響は「白色」に彩られる。

 救援がくる、と信じて待つ二人。既に政府のパンフレットでは「想定外」の出来事に満ち溢れているのに、明らかに「おかしい」ことが周囲にも自分の体にも起きているのに、認めようとしない。その、頑固なほど「政府」を信頼する様子は、愚かなりと嘲笑(わら)えるだろうか。かつてわたしは、愚かだと思ったが、いまのわたしは、その「愚か」そのものだ。

 なぜなら、信ずるに足る情報を元に下した判断ではなく、"信じたい"という欲求を満足させるために、信じるから。さらに、"信じてきた"結果がもたらした事態を認めたくがないために、信じるから。ほら、ここにもサンクコストが。信頼をコストで測るならば、すでに費やしたコスト(信頼)はとり返しがつかないため、投資(信頼)し続けるしかないのだ。ご破算にして撤退するということは、それまでの自分の信頼を否定することにほかならいから。

 一応、わたしの場合、夫婦の間で、「いざというとき」のデッドラインとシミュレーションは練ってある。だが、このデッドラインは政府発表を基にしている。信頼するしかないわたしはもはや、自分を除き、誰も嘲笑うことができない。

 老夫婦の運命は、ショック療法のように効く。現実への免疫をつけられるフィクションなのだが、自身の位置に愕然とするかもしれない。たいして変わらないって理由でね。

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