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「醜の歴史」はスゴ本

 醜いものは作られていることが分かる。

醜の歴史 「美は文化なり」これは知ってた。さもなくば、美は歴史でもある。あるプロポーションとか、あるハーモニーが「美しい」とされるのは、それぞれの文化でもって定義され、歴史の中で再定義をくりかえす。だから、ボニータは「分かる」が、「小町」を美人とするには抵抗がある。

 さらに、同じプロポーションやハーモニーといっても、「どの」プロポーションとハーモニーに着目するかは、文化や時代によって違う。ある世紀に『プロポーションがとれている』と見なされたものが、他の世紀ではそう扱われないことがある。

 たとえば、中世の哲学者はゴシックの大聖堂について語っているのに、ルネサンスの理論家は黄金分割に基づいた16世紀の神殿のことを考えているという。ルネサンス人にとっては、大聖堂のプロポーションは蛮族の、文字通り「ゴシック(ゴート族の)」のものに見なされる。黄金比や白銀比は美を再構成する基準として有名だが、どこにその比を見るかは、文化や歴史が決めているのやね。

 しかし、「醜」はどうだろう。絵画をはじめとする美術品を分析することで、美は再構成が可能だが、「醜」は事情が異なるという。「美醜」という言葉に代表されるように、美と醜は対立するものとして定義されてきた。にもかかわらず、「醜」そのものについて充分な長さの論文が書かれたことはほとんどなく、せいぜい注釈的・副次的な言及にすぎないと指摘する。

 知の巨匠ウンベルト・エーコが、この挑戦に受けて立つ。古今東西の大量の絵画・彫刻・映画・文学作品から、暗黒、邪悪、狂気、異形、嫌悪、逸脱、酸鼻を極めたエッセンスを残らず開陳する。思わず目を背けたくなる残虐なカットから、魅入られたように覗き込んでしまう細密画まで取り揃えてある。肌を粟立てながら読み耽る(というか、目を奪われる)。

 いわゆるサタンやグールといった神話上の魔物や、フランケンシュタインのような小説や銀幕上の怪物は、分かりやすい。ただし、その「醜」を知るためには宗教や文学、映画の下地を必要とする。だが、そういう文化・歴史から離れて、その醜さを理解することができるのだろうか? エーコは、ニーチェのナルシスティックな神人同形説で応える。

人間は結局、事物に自分を映し、自分の姿を反映するすべてのものを美しいとみなす…醜さは退化の兆候だと理解される…衰退、重々しさ、老化、疲労のあらゆる兆候、痙攣や麻痺といったあらゆる種類の不自由、とりわけ腐敗の臭いと色と形…これらすべてが同一の反応、「醜い」という価値判断を呼び起こす…いったい人間が憎悪するのは何か?決まっている。自分自身の没落を憎むのだ。
 エーコは、「醜い」の類義語を引いてきて、そこに表わされる不安や不快の反応を指摘する。たとえ激しい反感や憎悪、恐怖にまで至らないにしても、不安の反応を引き出す要素があれば、それを「醜」だと定義づける。さらに、排泄物や腐敗した死体といった、それ自体で「本質的な醜」を孕むものと、全体の中の諸要素の有機的関係の不均衡に由来する(つまり、比例と調和の不一致からくる)醜さを指摘する。後者は「形式的な醜」で、いわゆる文化と歴史に基づいたものになる。美と対になるのはこちらで、アリストテレスのいう「醜いものも、美しく模倣することができる」がこれだろう。

 エーコは、この「本質的な醜」と「形式的な醜」のそれぞれの例を引きながら、あざなえる縄のようにつむぎだす。醜の歴史を再構成することによって明らかにされるのは、「形式的な醜」だ。醜の概念は美の概念と同じように、さまざまな文化によってだけでなく、さまざまな時代によって相対的なものだという。現代からすると噴飯ものの醜の観念が、"科学的論拠"や"客観的事実"によって証明されてきた過去を振り返ると、今わたしが信じる美醜もあやふやなのかもしれぬ。

 たとえば、19世紀の社会学者チェーザレ・ロンブローゾの見解は、古くて新しい。彼は、犯罪者の容貌が常に肉体的異常と結びついていることを証明しようとした。醜いものは常に犯罪者であるという単純化にまでは行かなかったが、科学的だと称する論拠によって、身体的特徴を道徳的特徴とを結びつけた。エーコは相関を因果にこじつけているとバッサリ斬った後、「『醜いものは生まれつき邪悪である』という偏見が生まれる、あと一歩である」と警鐘を鳴らす。

 1798年のブリタニカ百科事典の「黒人」の項が美醜の偏見の典型かもしれぬ。「肌の色が黒色で、特にアフリカの熱帯地域に存在する人種」とまでは良いが、そこから先が当時の「美」意識に満ちている。

不恰好で不規則な形が彼らの外貌の特徴である。黒人女性は腰の肉がかなり垂れ下がっており、また、尻が非常に大きい。そのため、後姿が鞍のようである。この人種が不幸な運命にあるのは彼らの最も悪名高い欠点ゆえに思われる。怠惰、裏切り、復讐、残酷さ、無分別、盗癖、虚言癖、不信心、放蕩、不潔、不摂生によって自然法の原則が消滅され、良心の呵責が沈黙させられている。
 たんぶらで見かける黒人のヌードは、ほんとうに美麗だ。そういうモデルだからプロポーションが優れているのだろうといった理由ではない。高解像度ごしに見える肌の質感が素晴らしいのだ。蜂蜜の滑らかさに喩えた文人がいるが、18世紀の美としては一般化されていなかったんだろうね。

 美醜が相互に塗り替えられる、形式的な醜のダイナミズムが面白い。わたしの持つ美醜の基準を軽々とクリアしてくれるから。19世紀、ユーゴーが新しい美学の典型としてみた醜は、「グロテスク」と名づけられた。芸術の領域まで達した、不恰好で、恐ろしく、不快なもので、芸術的創造へと開かれる最も豊かな水源なのだと。シュレーゲルは「詩論」(1800年)において、グロテスクとは、自由な奇抜さにおいて見慣れた秩序を破壊するものだと述べ、ジャン・ポールは「美学研究入門」(1804年)において、「破壊のユーモア」だと語る。醜とは、凝った美意識を砕く道具なのかもしれぬ。ピカソの「泣く女」は「美」術というより美「術」だろうね(アルテが主)。

 美と醜がいかにうつろいやすいかを示す好例として、「当初の批評」を集めたものがある。ブラームスを評してチャイコフスキーは、「ならずもので才能のないろくでなし」と書いた。ピカソの「アヴィニョンの娘たち」をアンブロワーズ・ヴォラールは「狂人の作品だ」と評した。ヴァージニア・ウルフは「ユリシーズ」を冗長で不愉快で下品で失敗作だとした。吐き気がするから1000年間、石の下に埋めることをお勧めされたのは、ナボコフの「ロリータ」だ。

 知らないものに触れるとき、人は不安を感じる。異なる文化や違う時代の境目に立つ、そのダイナミズムが次の「美」意識を生む。醜の本質は異だ。「異」か「同」かは、何に因っているかによる。すなわち、自分の属する文化・歴史のこと。

 醜の歴史とは、異化の歴史。美と同様、醜いものは作られている。見て観て魅入ってほしい一冊。

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スゴ本オフ@松丸本舗(読まずに死ねるかッ)のお誘い

 某誌によると、「放射能がくる」らしい。ならば迎え撃とうではないか、煽りを。被災地では分け合い・助け合っているのに、東京では買い占め・奪い合っているという。ならば買い占めるとしようぞ、本を。

 耄碌ズ・おばちゃんズはトイレットペーパーを買い占めていると聞く。40年前の石油危機だから、教訓が揮発しちゃったのは当然か。40年後に後悔しないよう、わたしは「死ぬまでに読みたい本」を買い占める。もとい、天命もあるが、40年後はちゃんと読めないだろうから、元気な今のうち読みたい本を狩りに行く。というわけで、ハンター募集。

 案内は以下の通り。アツくユルくやります。自由参加、自由退場方式なので、お好きなときにいらっしゃいまし。赤いウェストバックをナナメ掛けにしているオッサンがいたら、わたしです。話しかけて、一緒に狩りをしましょう。

日時 3月26日(土) 13:00~18:00
場所 松丸本舗(丸善丸の内本店4F)
方法 事前申込不要。好きな時間にいらっしゃって、わたしを探してください。一緒に語り、狩りましょう。わたしの目印は、赤いウェストバック。背中にナナメにかけています。U-Stream のため、ノートPC持ってウロウロしているかもしれません。


大きな地図で見る

U-Stream 予定 : 3月26日(土) 14:00~15:00
ハッシュタグ #sugohon
オススメ本が映ってたり、「このコーナーを写して!」というリクエストがあったら、つぶやいてくださいまし。照明は暗め(ムーディーともいう)なので、どこまで伝わるか分かりませんが、鋭意流してまいります。お気軽にアクセスしてくださいませ。


Live streaming video by Ustream

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自分を疑う深い穴「春にして君を離れ」

 「自分を疑う」これが最も難しい。

春にして君を離れ 誰かの矛盾を突くのは簡単だし、新聞などの不備を指摘するのは易しい。科学的説明の怪しさを探すのは得意だし、だいたい『言葉』や『記憶』こそあやふやなもの。しかし、そんなわたしが最も疑わない―――あらゆるものを疑いつくした後、最後に疑うもの―――それは、自分自身。わたしは、自分を疑い始めるのが怖くて、家族や仕事に注意を向けて気を紛らわしているのかもしれない。自己正当化の罠。

 では、こうした日常の諸々から離れたところに放り出されたら? たとえば旅先で交通手段を失い、宙吊りされた場所に居続けたら? 読む本も話し相手もいないところで、ひたすら自分と向き合うことを余儀なくされる。最初は、直近の出来事を思い出し、何気ないひとことに込められた真の意味を吟味しはじめる。それは次第に過去へ過去へとさかのぼり、ついに自己満足そのものに及ぶ。

 クリスティーにしては異色作、誰も死なないし、犯人もいない。中年の女性の旅先での数日間が、一人称で描かれる。しかし、暴かれるものはおぞましい。読み手はきっと自分になぞらえることだろう。

 「いろいろあったが、自分の人生はうまくいっている」「それは全く、自分のおかげ」「わたしこそ良妻賢母の鑑だ」「あいつのような惨めな境遇ではない」「あいつがああなったのは、自業自得だ」「夫のダメな部分はわたしが正してやらないと」「いつだって子どものことを考えてきた」───こうやって書くから、読み手はこの中年女の"自己中心"が見える。しかし、それは"ほんとう"なのだろうか? 疑いはじめるとキリがない。自分の人生が蜃気楼のようなものだったことに気づく恐ろしい瞬間が待っている。

 自己欺瞞がもたらす帰結を想像したが、それを裏切るラストだった。これは、イヤ~な最後やね。ある意味、幸福な生涯なのかもしれない。オススメいただいたのは、有村さん。ありがとうございます、自分に映して読んでかなり痛い思いをしました(そして、目を逸らすことにも成功しましたw)。

 「自分を疑う」のもほどほどに。


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