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この本がスゴい!2011

 今年もお世話になりました、すべて「あなた」のおかげ。

 このブログのタイトルは、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」。そして、このブログの目的は、「あなた」を探すこと。ともすると似た本ばかり淫するわたしに、「それがスゴいならコレは?」とオススメしたり、twitterやfacebookやtumblrで呟いたり、「これを読まずして語るな!」と叩いたり―――そんな「あなた」を探すのが、このブログの究極の目的だ。

 昨年までの探索結果は、以下の通り。

 この本がスゴい!2010
 この本がスゴい!2009
 この本がスゴい!2008
 この本がスゴい!2007
 この本がスゴい!2006
 この本がスゴい!2005
 この本がスゴい!2004

 昨年から始めたオフ会で、たくさんの気づきとオススメと出会いを、「あなた」からもらっている。目の前でチカラ強くプッシュしてもらったり、物語談義を丁々と続けたり、楽しすぎる。さらに、今年始めたビブリオバトルで、本の魅力を「しゃべりで」伝えるヨロコビを味わっている。読書は孤独な行為なのに、こんなにも豊かにつながっているのかと思うと、嬉しいのとありがたいのが込み上げてくる。

 以下の長い紹介は、今年の選りすぐり。いい出会いをくれた「あなた」への感謝の気持ちを込めて。

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子どものために、できること「40歳の教科書」

 親業の確認のつもりで読む、だいたい合ってた。

40歳の教科書 親を見て子は育つ。だから、子の努力を望むなら、まず親が努力する。「幸せ」とは何か伝えたかったら、親がイライラするのをやめる。「英語」はツールにすぎないが、「お金」の教育は重要。学校は人間関係を学ぶところだから、失敗の練習場と思え。社会に出ると、失敗は有償だぜ。

 受験マンガ「ドラゴン桜」を本にした「16歳の教科書」、その番外編が「40歳の教科書」になる。以下の4テーマに対し、強いメッセージ性をもつ人からのインタビュー集といったところか。一問一答に「まとめ」ると、こんなん。

 英語早期教育
   「もっと早く英語の勉強をしておくんだった…」
   「小学校から英語なんて、破滅するぞ!」

 中高一貫校
   「早いうちにいい学校に入れば、あなたがラクできるのよ
   「その受験で幸せになるのは、子どもじゃなくてあんただろ!」

 お金と仕事
   「お金の話をするのは恥ずかしい」
   「お金で人生を踏み外す人がいるのに、しないでいいのか?」

 挫折と失敗
   「第一志望に行けなかった」
   「それがどうした、良かったじゃないか」

 まず母国語である日本語をマスターせよ、というのが至上命令。一番重要な科目は「国語」だと伝えてある。なぜなら、「相手の意図を間違いなく受け取る」「自分の意思を正確に伝える」は、科目に関係なく、生きていくうえで最重要だから。Thinking in English はいいけれど、日本語でちゃんと考えられないような奴は、英語でも無理。どんなに研鑽しても、英語力は日本語力を越えられない。

 だから、小学英語は適当でいい、中高は「受験英語」をちゃんとやれと言っている。もちろん、力を入れるのは、グラマーだ(後がラクだから)。受験英語は役立たないという奴に限って、ちゃんと英語やってない(ソース俺)。「最大の問題は、『親の』英語コンプレックス」とある。然り。ン十万する、ディ○○ーの幼児英語教育セットを、夫婦で話し合ったこともあったな…(遠い目)。

この世でいちばん大切なお金の話 お金について。「お金」の教育は、むずかしい。というのも、「この世でいちばん大切なカネの話」を渡せば済むという話ではなく、わが身をもって、子どもとの対話で伝えていかないと。「カネさえあれば幸せになれる」といったら異論が出るだろうが、「カネさえあればかなりの不幸を回避できる」は本当だ。カネを使って不幸を撃破しつつ、幸せに匍匐前進するのが"勝ち目"のある戦い方だろう

 「お金の教育」で西原理恵子氏のメッセージが重たい。正直、この章だけでも充分に読む価値がある。自分で読み返すため、ここにまとめる。

  • 専業主婦ってものすごくリスクが高い職業
  • 「夫が一生健康」&「夫の会社が一生安泰」&「夫が一生自分だけを愛してくれる」&「夫のことを一生愛することができる」極めて限られた条件下で、ようやく成立する職業が、専業主婦
  • 他人(夫)の感情に自分と子どもの人生を預けてしまうなんて、ほとんどギャンブルのような行為だと思いません?
  • 稼ぎ頭の夫が心身を壊したら、家族でサポートするが、稼がない専業主婦が心を壊しても「面倒くせーな」のひと言で終わる
  • このとき、いちばん被害を受けるのは子ども
  • 「自由」と「責任」って、有料なんですよ
  • お金のことを口にするのは卑しい、という考えは昭和で終わった
 「専業主婦は人生のギャンブル」―――西原氏がギャンブルに喩えると、重いなぁ。

 「やりたいこと」の選択の自由を広げるには、お金が必要。言い換えると、お金がないことは自由がないことと同義。「やりたいことが見つからない/決まらない」あいだは、お金を貯めることに徹せよ、やりたいことを見つけたときに、すぐ取りかかれるように―――と伝えるつもり。

 アルバイトは重要だけど、「バイトに明け暮れる」はダメ。ポイントは「カネ」そのものではない。知らない年上に揉まれること、知らない年下を扱うことに慣れるのが、バイト。バイトで失う最も痛いものは、時間だ。小遣いに毛が生えた程度のカネを手にするために、若い貴重な時間を使い果たすのは愚かだ(ソース俺)―――と伝えるつもり。

 そして、もっとも期待値の高い投資は、自己投資。目標像とのFIT/GAPから必要なものを一覧化→自分で自分を教育する(足りないものは外から「買う」)のだ。この「自分で自分を教育する」が教育の最終目標だ。自律して学んでいけるようになれば、職も遊びも安泰だ。これはわたしが身をもって実践しているところ。

 わたしの中で、かなり大事な位置を占めつつあるのに、本書で一切言及されていないのが、「食べたいものを食べる自由」。それはカネさえあれば代替できるというものではない。自分で作れるようにならないと。ただ空腹を紛らわすための食はむなしいことなのに、おざなりにしてきた。「食べる」は生きる基本、生きることは食べることに等しい。だから、料理をちゃんと教えよう(というより、わたし自身も学びながら、だね)。


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「要約 ケインズ 雇用と利子とお金の一般理論」はスゴ本

 経済学者が嫌いだ。

 イソターネットで可視化された「経済学者」は、嘘つきで尊大で、自分以外は馬鹿に見えるらしい。誤りを指摘されると、猛々しく開き直り、詭弁を弄して話をすりかえる。「経済学者だから、さぞ金持ちだろう」は冗句だが、「経済学者だから、リーマンショックは予見しただろう」は洒落にならぬ。「経済学者が集まったから、EUクライシスの処方箋がまとまるだろう」は、もはや寝言だ。

要約ケインズ しかし、わたしが間違っていた。ダメな「経済学者」がいるかもしれないが、「経済学」は価値がある、まちがいなく。ずっと避けてきたのに、とうとう出てしまったのだ、「ケインズ一般理論」の要約版が。岩波文庫で何度も撃沈していたものを、ていねいに噛み砕き、今に合わせて剪定してある。ありがたく感謝して読む。

 もちろん一読で理解できるはずもないが、どこまで分かっていて、どこまで分かっていないかが、判別できた(←これ重要)。なのでクルーグマン先生のデカイ教科書に取り組める。ここでは、わたしがどのように読んだかを備忘的に記す。

 まず、これを翻訳・要約したのが山形浩生氏だ。だから、末尾の解説から読むのが正しい。氏が訳した本に共通するのだが、本文よりも解説の「まとめ」のほうが分かりやすい。その本の位置づけから見通しを語り、そこから拡張した氏の主張まで展開している。だから、そこだけ読めば事足りる(その証拠に、解説だけを集めた「訳者解説」という本が出ている)。

 そんなわたしの「横着」ぶりを見透かされつつ、クルーグマンを引きつつ、さらに要約してくれる。p.246によると、ケインズ一般理論の肝はこうなる。

  1. 経済は、全体としての需要不足に苦しむことがあり得るし、また実際に苦しんでいる。それは非自発的な失業につながる。
  2. 経済が需要不足を自動的になおす傾向なんてものがあるかどうかも怪しい。あるにしてもそれは実にのろくて痛みを伴う形でしか機能しない。
  3. これに対して、需要を増やすための政府の政策は、失業をすばやく減らせる。
  4. ときにはお金の供給(マネーサプライ)を増やすだけでは民間部門に支出を増やすよう納得してもらえない。だから政府支出がその穴を埋めるために登場しなきゃいけない。
 さすがにまとめすぎだが、解説を予め読んでおくと、すっきりした見通しで取り掛かれる。さらに、各巻の冒頭はそれぞれの「訳者の解説」が、そのうえ各章の最初は「Abstract」があり、ここだけでも充分価値がある。

 語り口はざっくばらんで、「根拠レスな批判」「こいつがイカレポンチだ」などと、いかにも山形氏が言いそう(だがケインズの言)。本文中にも迷いそうなところには [ ] で山形コメントがあり、たいへんありがたい。だが、地の文(ケインズ)も、解説や[ ]の文(山形)も、どちらの主語も「ぼく」なので、注意が必要。例えば、20章 雇用関数のセクションI は、次の文で始まる。

(数式が嫌いな人は、このセクションを飛ばしても全然オッケー!)
めんどくさい数式がずらずら並んでいるので、喜んで飛ばさせてもらった。だが、これはケインズ?山形?どちらの発言か想像すると楽しい(どっちの場合でもニヤっとさせられる)。ケインズは茶目っ気たっぷりのおっさんだったらしい。山形氏もそうなのだろうか。VI巻ラストのこの一文なんて、ケインズの地の文なのにモロ山形節で、爆笑させてもらった。
知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどっかのトンデモ経済学者の奴隷だ。虚空からお告げを聞き取るような、権力の座にいるキチガイたちは、数年前の駄文殴り書き学者からその狂信的な発想を得ている。
これは冒頭でわたしが嫌っていた「経済学者」じゃねーか。

経済学思考の技術 わたしの理解不足も分かった。まず、何度も出てくる「限界効率」。もうかっているお店が、さらにバイトを雇ったとき、どれくらい儲けが期待できるかという話だが、わたしの理解がアヤシイ。飯田泰之著の「経済学思考の技術」を再読して復習しよう。ロジカルシンキングものとして読んだことがあるが、もっと広くて深くて実践的だ(ロジシン本に矮小化したら失礼だ)。限界効率について目ウロコだったことを覚えているが、もう一度目ェ洗ってくる。

 「金利」について、復習が必要だ。というのも、中央銀行が決める政策金利と、債権の利息として扱われるものと、2種類(もっと?)の意味が混在して使われているように読めたから。文脈によってきちんと読み分けられないわたしにとって、混乱の元になった(あるいは、政策金利も債権の利息も「同じ」とみなす?)。ちゃんと勉強してこなかったツケがまわってきたね。

 さらに、わたしは「危機」について分かっていない。本書では、「危機(crisis)」「暴落(slump)」「バブル崩壊(collapse)」が同じ意味で使われている(ように読めた)。景気循環の下降局面なら「危機」、資本の限界効率が急落し、みんなが現金を欲しがっている状態を「暴落」、さらに過剰投資(=バブル?)が行過ぎて、期待収益がゼロ以下になることを「バブル崩壊」と呼んでるみたい。いわゆる「バブル崩壊」は、そんな景気循環から外れた、日本だけの極端な現象だと思っていたが、ケインズも指摘しているくらい「予見されたこと」なのだろうか(あるいは山形氏の勇み足?)。これは、「原書にあたれ」やね。

 わたしの理解のために、もうワンクッション要る。これは自分で式を展開したり図を書くことで補完しよう。あれ?と思ったのは、第10章の「限界消費性向と乗数」。既存の資本設備を500万人雇って動かして生産している社会の話に、こうある。

すると、50+n×10万人が雇用されているときの限界での乗数は100/nになって、国民所得のn(n+1) / 2(50+n)が投資にまわされる。
ここでは、520万人が雇用されているときを考えているから、「50+n×10万人」ではなく、「500+n×10万人」なのでは?と引っかかった。投資にまわされる割合の式から考えると、「(50+n)×10万人」のほうが妥当だろうか。「分かってる加減」を確かめるため、本書をベースに手を動かす必要がありそうだ。

 いずれにせよ、食わず嫌いだった「経済学」にも手を出す。まずはクルーグマン先生の「マクロ経済学」「ミクロ経済学」から。警戒すべきは、慢心。「自分以外は馬鹿に見える」病に陥らないよう、気をつけて学ぼう。

 追記。本書の全文は、以下のリンクから読める。わざわざお金を出して「紙の本」で読む必要なんてないじゃないか、というツッコミもあるだろう。だが、やってみるがいい(全部読めないから)。いま全体のどこにいるかを押さえつつ、行きつ戻りつしながら「読み」「書き」「付箋貼り」には、どうしても紙の本でないと。一読腹に落ちるような代物ではなく、「取り組む」「格闘する」ものなのだから。オールドタイプのノスタルジーという揶揄上等、やってみなはれ。

ケインズ『雇用と利子とお金の一般理論』要約

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「2011最もオススメする本」をビブリオバトルで紹介する

 12月28日(水)、ビブリオバトル@紀伊國屋書店に参戦しますぞ。

 ビブリオバトル(書評合戦)は極めてシンプルだ。

 1. 参戦者が本の魅力を5分で語る + 観覧者と質疑応答
 2. 参戦者と観覧者で投票して「最も読みたい一冊」を決める

 わたしの「読む」傾向偏差がデカいことは承知しているから、一般の人様にオススメできる(したい)ような本が少ないのも分かってる。幾度も言及している本なので、ここの読者には目新しくないかもしれない。それでも、2011年、一番オススメしたい一冊を持って、全力でプレゼンするので、ぜひご観覧くださいませ。

 しかも、かつての優勝者や歴戦のビブリオバトラーが集う「年忘れ☆オールスター2011」組に入れてもらえるので、猛者を探すならうってつけかも。「本を探すのではなく、人を探す」良い出会い場だと思う。いつもの片隅のブースではなく、サザンシアター借り切ってガッツリやるので、お楽しみに。もちろん一般参加もありなので、オススメしたい本がある方は、ぜひ。

 当日はtwitterやU-Streamで実況があるので、@KinoShinjuku や #bibliobattle をチェックすると吉。

ビブリオバトル案内

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「死ぬまでにやりたいゲーム1001」はスゴ本

 読まずに死ねない本があるように、死ぬまでにやりたいゲームがある。

死ぬまでにやりたいゲーム1001

 本とゲームの違うところは、「読まずに死ねない本」の大半は既知だが、「やらずに死ねないゲーム」は未知であるところ。つまりゲームは日々進歩しつづけており、スゴゲー(すごいゲーム)とはこれから出てくるものと思っていた。ところが本書で振り返って、どうやら違うようだ。

 世界初の家庭用ゲーム機Odysseyが発売されたのが、1972年。以降、2010年の初頭ぐらいまでの、家庭用ゲーム、携帯ゲーム、筐体ゲーム、PCゲームが発売年順に並んでいる。対応機種やジャンルと併せて、スクリーンショットも掲載しており、強烈に懐かしさをかき立てる。一方で、自分が熱中していたゲームが「クラッシックゲーム」扱いされてガクゼンとする(「懐メロ」と一緒やね)。

 「スペースインベーダー」、「パックマン」といった伝説級はもちろん、ドラクエ・FFといったRPG、ストII・VF・鉄拳の格闘モノ、リッジやBOPといったレース、DoomやHaloのFPS、マリオ・ソニック・ゼルダの定番、DDRやパラッパなどの音ゲーなど、およそ思いつく名作ゲームは全部あるといっていい。「シェンムー」や「シーマン」といった"お騒がせ"したものや、よくぞ入れてくれたと感涙モノの「クロノ・トリガー」「R-TYPE」を見てるだけで胸が熱くなる。

 20年30年というロングスパンで見ると気づかされる、セガは時代を先取りすぎや…また、最初の頃はグラフィックもシステムも知名度も、日本のゲームが群を抜いていたのが、年を追うごとに海外勢に埋もれていく。さらにこれからは、iPhoneアプリやFacebookのソーシャルゲームが席巻していくのだろうか。レイトン教授の人狼モドキなんて伸びていきそうだ。

 逆に、この本に教えられたことも沢山あった。ドリキャスにトドメを刺した「シェンムー」に続編が出ていたとは知らなかったし、あの「人喰いの大鷲トリコ」が未だにリリースされていないことを知って驚く。出たらPS3ごと買いだな(+アンチャーテッド)。零シリーズの評価が高いらしいが、未プレイだった(サバイバルホラー好きなのに)。激賞されている「魔界戦記ディスガイア」は未プレイだったのでPSPで手を出してみるか。他にも、「ベヨネッタ」「犬神」など、未プレイだったのを思い出させてもらう。ある意味危険な本でもある。

 ただし、注意を要するのは、これはアメリカ人が編集したこと。隠れた名作やゲームの歴史を塗り替える傑作まで、網羅性を目指しているものの、どうしても偏りが出る。どころか、(意図的か無知かによる)モレヌケも生じる。日本人とのセンスが違うのか、それともわたしがマイナーなのか…

 例えば、Wizardoryシリーズや、Y'sシリーズ、三国志シリーズ、大戦略シリーズは、充分資格ありなのに選外。また、「ノベルゲーム」というジャンルそのものが無い。黎明期の「テキストアドベンチャー」に該当するいくつかはあるが、あくまで初期マイナーとして。「かまいたちの夜」や「EVER17」「ひぐらしのなく頃に」なんて傑作の類に入るのに(やはりマイナーなのか?)。「ギャルゲー」は難しいところだが、一切無い。「プリンセスメーカー」や「アイドルマスター」、「ラブプラス」はゲームとの付き合い方を変えてしまった作品だと思うぞ。

1001games も一つ、注意が必要なのは、広辞苑レベルの扱いにくさ。このデカさは書影だと分かりにくいので以下をどうぞ。鈍器並みの殺傷力を持っていることが分かるだろう。これこそiPadで欲しかった。7000円超える本書は、原書(1001 Video Games You Must Play Before You Die)だと2600エンぐらいで手に入るが、扱いにくさは一緒だろう。こういうのは持ち出して、飲み屋でワイワイ言いながら懐かしがるものだから(ついでにニコニコへ飛びたくなるから)ね。

Photo

 数えてみたら、本書で紹介されている中でわたしがプレイしたことがあるのは、以下の105本だった。

1970s

  • スペースインベーダー(タイトー)
  • ギャラクシアン(ナムコ)
1980s
  • パックマン(ナムコ)
  • ドンキーコング(任天堂)
  • STAR WARS(Atari)
  • フロッガー(コナミ)
  • ドラゴンズレア(Cinematronics)
  • ディグダグ(ナムコ)
  • ゼビウス(ナムコ)
  • ハイパーオリンピック(コナミ)
  • スパルタンX(アイレム)
  • 空手道(データイースト)
  • パックランド(ナムコ)
  • 戦場の狼(カプコン)
  • グラディウス(コナミ)
  • スーパーマリオブラザース(任天堂)
  • テトリス(Alexey Pajitnov)
  • ダライアス(タイトー)
  • アウトラン(セガ AM2)
  • ドラゴンクエスト(エニックス)
  • スペースハリアー(セガ)
  • スーパーハングオン(セガ)
  • R-TYPE(アイレム)
  • 大魔界村(カプコン)
  • シムシティ(Maxis)
  • ヘルツォーク・ツヴァイ(テクノソフト)
  • ポピュラス(Bullfrog Productions)
  • ストライダー飛竜(カプコン)
1990s
  • クラックス(Atari)
  • R-360(セガ)
  • ボンバーマン(ハドソン)
  • コラムス(セガ)
  • シヴィライゼーション(Microprose Software)
  • ソニック・ザ・ヘッジホッグ(セガ)
  • ゼルダの伝説 神々のトライフォース(任天堂)
  • ドラゴンクエストV(チュンソフト)
  • ファイナルファンタジーV(スクウェア)
  • ソニック・ザ・ヘッジホッグ2(セガ)
  • バーチャレーシング(セガ)
  • ウルティマVII(Origin Systems)
  • ストリートファイターII(カプコン)
  • ミスト(Cyan Worlds)
  • デイトナUSA(セガ)
  • リッジレーサー(ナムコ)
  • バーチャファイター(セガ)
  • 鉄拳(ナムコ)
  • Doom II:Hell on Earth(id Software)
  • ファイナルファンタジーVI(スクウェア)
  • タクティクスオウガ(Quest)
  • バーチャコップ2(セガ)
  • クロノ・トリガー(スクウェア)
  • セガラリー・チャンピオンシップ(セガ)
  • ガーディアンヒーローズ(トレジャー)
  • ナイツ(Sonic Team)
  • バイオハザード(カプコン)
  • パラッパラッパー(七音社)
  • タイムクライシス(ナムコ)
  • ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド2
  • I.Q.(ソニー・コンピューターエンタテインメント)
  • グランツーリスモ(ポリフォニー・デジタル)
  • シャイニング・フォース(キャメロット)
  • バーニングレンジャー(Sonic Team)
  • ダンス・ダンス・レボリューション(コナミ)
  • 電脳戦機バーチャロン(セガ)
  • パンツァードラグーン(チーム アンドロメダ)
  • バイオハザード2(カプコン)
  • ソニックアドベンチャー(Sonic Team)
  • ゼルダの伝説 時のオカリナ(任天堂)
  • サイレントヒル(コナミ)
  • シェンムー(セガ)
  • シーマン(ビバリウム)
  • スペースチャンネル5(United Game Artists)
2000s
  • バイオハザード コード:ベロニカ(カプコン)
  • ファンタシースターオンライン(Sonic Team)
  • 罪と罰 地球の継承者(トレジャー)
  • ゼルダの伝説 ムジュラの仮面(任天堂)
  • バルダーズゲート2・ダークアライアンス(Snowblind Studios)
  • デビルメイクライ(カプコン)
  • サイレントヒル2(Team Silent)
  • ピクミン(任天堂)
  • クレイジータクシー(ヒットメーカー)
  • ソウルキャリバーII(ナムコ)
  • ゼルダの伝説 風のタクト(任天堂)
  • アヌビス Zone Of The Enders(コナミ)
  • Zuma(PopCap Games)
  • ドラゴンクエストVIII(レベルファイブ)
  • 塊魂(ナムコ)
  • ピクミン2(任天堂)
  • ぷよぷよフィーバー(Sonic Team)
  • 脳を鍛える大人のDSトレーニング(任天堂)
  • ゴッド・オブ・ウォー(ソニー・コンピュータエンタテインメント)
  • おいでよ どうぶつの森(任天堂)
  • ワンダと巨像(Team Ico)
  • バイオハザード4(カプコン)
  • The Elder Scrolls IV:オブリビオン(Bethesda Game Studios)
  • ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス(任天堂)
  • ポケットモンスター ダイヤモンド・パール(ゲームフリーク)
  • バーチャファイター5(セガ AM2)
  • Wii Sports(任天堂)
  • メトロイドプライム3コラプション(任天堂)
  • Wii Fit(任天堂)
  • バーンアウトパラダイス(Criterion Games)
  • Dead Space(Electronic Arts)
  • 大乱闘スマッシュブラザーズX(任天堂)
  • バイオハザード5

 おまけ。この中で、わが「ベストゲーム」を5つ挙げるなら、以下になる。最もプレイ時間を費やし、最も熱中し、最も胸が熱くなるやつ。ハード指定で、リメイク、移植されたものはバランスが変えられているので論外。

   タクティクスオウガ 【SFC】
   ヘルツォーク・ツヴァイ 【MD】
   ゼルダの伝説 時のオカリナ 【N64】
   R-TYPE 【筐体】
   ワンダと巨像 【PS2】

 タクオは、70時間超×4回やった(もちろんカオス→ロウ→ニュートラルの順にクリアして、もう一度カオスだ)。寝食忘れて死者の宮殿をさまよったが、SFCなら再プレイしたい。ヘルツォークは知られざる傑作。一見シューティングなのに、戦略性と高度なマネジメントを要求される、シビアーなゲーム。WiiかXboxでダウンロードできる日を首長くして待ってる(or このためにMDを買ってもいい)。R-TYPEは2周するまでやりこんだが、Xboxのダウンロード版では戦艦で早くも撃沈、鈍ったな。ゼル伝は来週が楽しみすぎる。ワンダと巨像(とICO)ともども、子どもにやらせたいゲーム。

 そう、「子どもに読ませたい必読書」ではなく、「子どもにやらせたい必須ゲーム」がある。いい本は放っておいてもそのうち出合うが、いいゲームは導きが必要。しょうもないクリックゲーに時と金を吸い取られるよりも、とーちゃんが教えてやろう、人生を一変させるスゴゲーを。

ゼルダの伝説 プレイ・オア・ダイ級のゲームが1001本、まずはDragonAgeからいくか、それとも来週発売のゼルダ新作から攻めるか、あるいは来月発売のオブリビオン新作にしようか。まだまだ死ねないなw

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雲マニア必携「驚くべき雲の科学」

驚くべき雲の科学

 雲フェチならずとも魅了される。

 オッサンになっても空を見るのは、いつまでたっても厨二だから。刻々と姿を変える層雲のうねりに魅入り、巻雲の高みを想像して地べたの自分を見下ろしたり、いろいろ遊べる。デカい低気圧(必ずしも台風に非ず)がやってくるとわけもなく興奮し、取乱し、窓を開けて空を見る。雲マニアまでいかないけど雲好き。そんなわたしが大興奮した写真集。

 奇妙な雲、めずらしい雲、レアな空の現象を集めているのだが、「雲」っぽくない。理由は、撮った場所にある。山頂や飛行機の窓、はたまた人工衛星から撮影した「雲」は、別の何かに見える。たとえば、太平洋上の層積雲は、雲というより、洋上を浮遊する氷棚に見える。ちょうど割目が氷のそれとそっくりなのだ。圏外から大気を眺めると、雲と地球の距離はほぼ無いに等しい。薄い膜(殻?)のような存在になる。

 バラエティー豊かな雲を眺めていると、そこが空であることを忘れてしまう。レース編みのようなカルマン渦の雲や、色合い・質感ともに「おっぱい」に見える乳房雲は、とうてい雲に見えない。何か生き物の細胞を拡大したような像だ。本書ではレンズ雲は「めずらしい」うちにはいらず、それは見事なレンズ雲がふんだんに出てくる。見事なやつだと、アダムスキー型未確認飛行物体まんまだ。真珠母雲の虹色は真珠よりもシャボン玉に見える。

 信じられないような雲もある。ハリケーン・カトリーナの"内側"を撮ったものは、地球のものとは思えない光景だし、命の危険を顧みず写したスーパーセル・サンダーストームは、まどかマギカの「ワルプルギスの夜」そのもの。音速を突破する戦闘機の衝撃波を撮った「雲」は有名だが、失速した戦闘機の主翼にあわ立つようなウィングクラウドは、まるでそこだけ水中のようだ。そして、画像だけでなく、「なぜそういう現象が起きるのか」「どんな天候の変化が予想されるか」を説明してくれるのはありがたい。

 こうした映像モノは、ネットのほうに分がある。雲フェチの集う以下のサイトをどうぞ。癒されるか、瞠目するか、時を忘れることは確か。

THE CLOUD APPRECIATION SOCIETY

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「V.」はスゴ本

 取り囲まれ、振り回され、小突き回される、疾走・爆笑・合唱小説。

V1V2

 鼻をつかまれ引きずりまわされる。ジェットコースターに腹ばいに縛り付けられグルグル連れて行かれる(もちろん逝った先で放り出される)、この宙ぶらりんの射出感はキモ良い怖い。

 全方位に伸びるエピソードとウンチク、隠喩、韻踏み、奇談と冗談、伝説と神話といかがわしい会話の妙。声と擬音と狂態に、もみくちゃにされ、ふらふらにされ、もうどうにでもしてーと全面降伏する読書。次々と繰り出される挿話を正しい時間軸で再構成するのに一苦労し、多重にめぐらされた人物のつながりを手繰るのに二苦労する。

 これがポリフォニーなら分かる。ドストエフスキーのどんがらがっちゃんだ。おのおの言いたいことを一斉にしゃべり散らす「わわゎ~」は、うまくハーモナイズされると、勢いやら心地よさが生まれる。だが、「V.」はソロ演奏のとっかえひっかえがハウリング→ハーモニーに至る。つぎつぎと焦点が切り替わり、話者が代えられ、時を跳躍し、倫理感覚と予備知識のレベルがめまぐるしく上下する。そして、結節点として「V.」なる女の存在が瞬間(!)浮かんで輝き沈んでゆく様は、エピファニーまんまやね。

 この「V.」が誰であるか(何であるか)は、読んだ人の前に立ち現れる。ほんとうだ、「○○こそV.の正体だ」なんて指さず、でもV.が何であるか(誰であるか)はちゃんと記述される。要はそれを信じるか・信じないかだ。どこまで話者のいいなりになるかによって、V.の存在は変化自在となる。わたしは面倒だから全部信じたが、疑い出すとめちゃめちゃ厳密な読みを要求されそうだ。

 これが全体小説なら分かる。ジョイスやプルーストのあれだ。人の生きる総体的な現実をひとつの作品にぎゅうぎゅう押し込む。ところが、「V.」は特定の人の現実よりも、人のなす業(というか行動と思考を)めいっぱい詰め込もうとする。ニューヨーク地下で白子のワニを撃ち殺すこと、ドブネズミ(雌)をカソリックに改宗させること、亡父の残した日記に隠された暗号を解くことと、鼻骨をノミで削った奴の子を宿すことを全部押し込む。"あの世界"全体を詰め詰めしたパンパンのスーツケースの状態で、ロックを外したらバン!いちどに飛び出してくる"全部入り小説"になる。

 だから、「きちんと」「じっくり」を放棄して、ひたすら次から次へと出てくる料理を平らげるような読書。これ、果たして「読んだ」と言えるのか?(すげェ面白かったけど)。この疾走満腹感は「ヴァインランド」の一頁ごとに登場人物が入れ替わり立ち代りするさまになるし、ギガ盛り物語は「メイスン&ディクソン」で激しく既視してる。ああそうか、「V.」はピンチョンのデビュー作なんだよね。だからまだ入りやすい(かも)。

 登場人物は例によって200人は下らない。「主要」登場人物でも数十人だろう。いちいち覚えてられないのに、これまた脇役がこってり熱いイベントを引き起こすのであなどれない。「ヴィーナスの誕生」を盗み出す緻密な計画を、豪快に指揮する革命家とか、究極の自己愛を目指すあまり生命と無生命の、人間とフェティッシュの交換を果たすレズビアンなんて、ものすごく魅力的なキャラクターだ。それだけで一つの物語が作れてしまうのに、脇話として惜しげもなく消費する。

 そう、これは巨大な無駄話なのだ。普通の小説に仕立て直すなら、何百ものストーリーやキャラクターに小分けできるだろう。だが、われらがピンチョン、そんなケチなことはしない。贅沢にも一つに叩き込む…というか湯水のごとく、どくどく放流する。

 しかし、やりっぱなし・出しっぱなしではない。もつれあい、きしみあい、炸裂するストーリーは、楕円のように2つの焦点に収斂していく。だから、この2人を視野に入れておくと、ラクにイケる。デブなダメ男(なぜかモテる)ベニー・プロフェインと、V.を探し求めるシドニー・ステンシルだ。物語がドシャメシャに降り注いでいると思いきや、ちゃんと役割分担されている。

 つまり、プロフェインは空間軸を、ステンシルは時間軸を移動するように紡がれているのだ。仕事を探したり、女から逃げ出すため、プロフェインがヨーヨーのように移動するとき、物語は前へ進む。一方、ステンシルが世代を渡ってV.の謎に近づいたり遠ざかったりするとき、物語は前へ進む。そうでないものは伏線+挿話だと見ればいい。ただし、ステンシルが焦点のときは注意が必要だ。父ステンシルの回想記から始まり、息子ステンシルの妄想へつながり、誰がしゃべってるのか分からない"ステンシルの話"になるから。どこまで信じて良いものやら"つじつま"が合わなくなる。

 タイミングがそうだからプロフェイン=ステンシルが物語の駆動者かと思いきや、違う。物語は回転しており、自分の遠心力や求心力で軸がブレてズレて転がっていく。プロフェイン=ステンシルも物語に小突き回されているのだ。この物語は、自分自身を駆動力としてロックンロールしている。

 あけすけで杜撰で、ワイルドで精密。ロジカルで騒々しく、コミカルで生々しい、ピンチョンの世界へようこそ。

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ぐっと胸が温まる「レイモンド・カーヴァー傑作選(Carver's Dozen)」

カーヴァーズ・ダズン 村上春樹と池澤夏樹に感謝。

 優れた小説家の仕事は、小説を書くだけでは不十分で、他の作品を紹介することにある。優れた書き手は、優れた読み手でもあるから。池澤夏樹の小説はもう読まないが、彼が選んだ「世界文学全集」は鉱脈を見つける助けになった。村上春樹の小説はもう読まないが、彼が訳したレイモンド・カーヴァーのこの短篇集は素晴らしい。

 出会いは、池澤夏樹が「短篇コレクションI」に入れた「ささやかだけど、役に立つこと」。これはグッとくる、というか涙した。これほど平易な言葉で、これほど深いところまで届くのか、と驚きながら湧いてくる気持ちに感情を委ねた。

 乾いた文体でレポートされたような"悲劇"。感情を具体的な語で指さず、淡々と行動で記録してゆき、ラストの最後の、「ささやかだけど、役にたつこと」のところで綿密に描写する。そのワンシーンだけが読後ずっと後を引くという仕掛け。これは狙って書いて、狙って訳している。レイモンド・カーヴァーと村上春樹、神業なり。

 この、翻訳者としての村上春樹つながりで、「Carver's Dozen」にたどりつく。もちろん、本書に収められた「ささやかだけど、役に立つこと」もあらためて読んだ。夏樹選のバージョンよりも文章が膨らんでいるように見えるが、気のせいか。

 そして春樹選のレイモンド・カーヴァーを読む。選者自身が「マスターピース」と言い切るだけあって、どれもこれも素晴らしい。あんまり勉強ライクに分析するのは避けたいが、技巧の旨さに舌を巻く。小物やエピソードの一つ一つをとりあげ、必要な細部を拡大しながら、かつ、修飾を捨てて書いている。クローズアップやフラッシュバックのテクニックが控えめ(しかし)要となっている。

 紹介者としてのハルキ節も良い。いかにも彼の小説の登場人物が言いそうなもったいぶった言い回しでオススメされるとクラっとくる。修飾子のリズムが心地よく、本編読了後にまた戻って読み直してしまう。このレコメンドの風合いはわたしの薬籠にしたい。

しかし話はこの「困ったぷり」を描くいつものカーヴァレスクなトラジディコメディーにはとどまらない。ふとしたきっかけで、物語の流れは二人の「赤の他人」のあいだに生じる奇跡的な魂の融合のようなものへと突き進んでいく(「大聖堂」の紹介)
幸せな人間は一人も出てこない。だからまったくもって明るい話ではないのだけれど、どういうわけか読み終わったときにじわっと胸が温まる思いがする(「ぼくが電話をかけている場所」の紹介)
 わたしの胸をつかんだのは、以下の3つ。構成、描写、そして物語として傑作の類に入る。

 ・ささやかだけど、役にたつこと
 ・大聖堂
 ・足もとに流れる深い川

 カーヴァーを読むと、きっと胸がじわっとくる。そろそろ、この現象に名前をつけるべき。寒い夜にはカーヴァーをどうぞ。

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どうせなにもみえない

どうせなにもみえない

 写真よりもリアル。諏訪敦絵画作品集。

 図書館で一目惚れ、4回借りて取り憑かれた。だから買った。舐めるように見て飽きず、目が広がった。

 対象をリアルに写し取るのであれば、それは機械の仕事だ。だが、対象をいかにリアルに近づけるかは、人の仕事だ。諏訪敦は写実を極めるが、実は対象は存在しない。不在の写実って、それだけで矛盾してる。だが、もしそこにあるのなら、そうあるはずだという想像のいちいちを裏付けるように描く。つまり、あるように描く。

 ヌードを描くなら、ひじから肩の"しみ"の一つ一つを、乳輪の突起の凹凸を、捩れた陰毛と真っ直ぐなのを一本一本、脱いだばかりの下腹部についた下着跡まで描いてある。貌なら産毛の一本一本、潰れたにきび跡、ファンデーションの微小な輝きの欠片まで見える。死顔の、開き気味になった唇の端がくっつく様子や、薄い皮膚を透かした腱と老斑の乾いている感覚が、さわるようだ。どこまで細かくみても、あるように描いてある。大型の画集なのだが、どんなに目を近づけても、ちゃんと「見える」。貌・肢体・皮膚・体毛は、どんなに微分しても連続性を保つ。

 実際の絵は「巨大」といってもいいほどらしい。だから画集に縮めた精密度はハンパじゃなく、目を凝らした程度では解体され得ないのだ。肖像画を描いてもらった古井由吉さんは、こう言いあてる。「写実はそれ自体、いくらでも過激になりうる。そのはてには、写すべき『実』を、解体しかかるところまでいく」

 「わたしゲーム」を思い出す。「わたしゲーム」とは、わたしが名付けたもので、「どこまで切ったら『わたし』じゃなくなるか」という思考遊戯。わたしの頭髪を一本抜いても、わたしは『わたし』のままだろう。逆から考えると、わたしの頭を一個抜いたら(一個しかないがw)、生き物としても姿かたちとしても『わたし』たりえない。だから、この間を微分していくなら、頭髪一本から頭一個の間に『わたし』が存在することになる。

 諏訪は、この微分を許さない。髪一本抜くことも許さない執念のようなものが見える。写される「実」は解体可能だが、写実そのものは手のつけようのないほど「そのもの」になる。にもかかわらず、これが絵であることを主張する。描きあげた最後に、何か飛沫が散った跡や、微粒子のようなものを混ぜ込む。これが絵である証拠を執拗に残そうとするのだ。リアルよりも実物に近く、それでいて絵である側にいようとするのだ。

 「どうせなにもみえない」はいくつかの連作でver.を持つ。そのモチーフは、裸の女だ。骸骨の眼窩をまっすぐ覗き込んだり、一眼レフのファインダーを構えたりしている。女の視線の先に共通するものは、「写されているもの」だ。カメラであれマナコであれ、写されているものをどんなに見たって、「どうせなにもみえない」のかもしれない。

 見るより魅入られるべし。

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完璧な小説「モレルの発明」

モレルの発明 いまなら分かる、ボルヘスが「完璧な小説」と絶賛した理由が。

 なぜなら、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという驚くべき小説なのだから。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた、SF冒険小説として読むと、ただの面白いお話になるのだが……あらすじはこうなる。

絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……
 どうやら、彼ら来訪者たちに、《私》の姿は見えていないようだ。まるで《私》が幽霊であるかのように、来訪者たちは気づかない。これは罠なのか、油断していて捕えるつもりなのか、そう疑う語り手。

 この秘密そのものは、早い段階でピンとくるが、問題はその後だ。秘密に気づいた《私》がとった行動が、非常に示唆的なのだ。それは、「わたしは、リアルに意識を這わせて生きている」欺瞞を暴く。わたしが現実だと思っている表象へのリアクションこそが、「わたしが生きる」ことを気づかせる。

 「パーティを続ける来訪者と、それを見つめる《私》との関係は、」を見つめる《私》と、それを読み進めるわたしと鏡像関係にある。つまり、ちょうどページが鏡のように、以下の等式の間に立っている。

      来訪者 : 《私》 = 《私》 : 読み手

 この関係から、わたしが抱いている他者性に一撃を食わせる。《私》が見るのをやめれば、『彼ら』は不在となるし、読み手であるわたしが読むをやめれば、《私》は不在となる。これは、他者を他者たらしめているのは、ほかならぬ自分自身であるという事実を突きつけてくる。

 解説によると、「モレル」の発明は、「モロー」博士のオマージュなのだそうだ。人を人たらしめている根拠に一撃を食わせたのは、ウェルズの「モロー博士の島」だ。絶海の孤島で続けられる恐ろしい実験は、「人を人扱いする理由は、他ならぬ自分がそう認めているからにすぎない」という事実を突きつける。そして、自分が「人」として見えなくなったとき、文明や都市はモロー博士の島と化す。

 「モレルの発明」は、他者を他者たらしめるのは、自分自身であることを指摘する。そして、「モロー博士の実験」は、人を人たらしめるのは、自分自身であることを指摘するのだ。

 本当の他者というものは存在するのだろうか。語り手であれ読み手であれ、主体と関わりあって、初めて他者が「人」として立ち上がってくるのではないか。実存は本質に先行するサルトル云々を持ち出さなくてもよい。「プリティリズム・オーロラドリーム」や「輪るピングドラム」を観ればいい。あそこに出てくるモブキャラ(mob character)は、完璧にデフォルメされている。群集や背景として抽象化されているくせに、動いたり話しかけたりしてくるのが新鮮だ。しかし、登場人物に関わらない限り、他者にすらなれない。

 「致死量ドーリス」というコミックがある。美しい女がいて、知的で痴的で、狂気と貞淑と奔放をそれぞれ見せる。対する男は、自分が望んだ性質を彼女に投影して愛する。男に応じて性格を使い分けるのではなく、都合のいい"女"を(彼らが)彼女から汲み取るのだ。「だれも本当の彼女を知らない」って話なのだが、そこが要点ではない。

 むしろわたしたちを確かにしてくれるのは、愛なんだということ。現実を微分しても、そこには「奔放な女」や「サイケな女」が断片的に現れるだけだ。モブキャラが「板」っぽく見えるのは、微分された一つのキャラクターだけが割り当てられているから。

 しかし、そこに興味が好意が愛情が湧いて出るとき、拡張現実は現実になる。3DSになってもラブプラスは幻影かもしれないが、寧々さんへ愛は本物だ。オクタビオ・パスは、「愛は特権的な認識」と喝破する。「美しい水死人」の解説に、こうある。

肉体というものは想像上のものでしかなく、われわれはその幻影の圧政下に生きているのである。そうした中で、愛は特権的な認識であり、愛を通してわれわれは世界の現実だけでなく、自分自身の現実をも全体的、かつ明晰に把握することができるのである。つまるところわれわれは影を追い求めているにすぎないのだが、そのわれわれ自身もまたじつは影でしかないのである。
 わたしも含め、影でしかない存在が現実と関わっても、残すものは幻でしかない。それでも、関わろうとする情熱を支えているのは愛なのだ。表紙のフォスティーヌと、裏表紙の《私》の奇妙な関係が分かるとき、あっと驚くかもしれない(そしてきっと、二度じっと見るはずだ、表紙と裏表紙を)。だが、それでも関わろうとする《私》は、たしかに現実を認識しているのだ―――わたしという読者が見ている存在とは独立にね。

 そして、本を閉じても、この思いはいつまでもわたしから離れない。わたしが読んでいなくても、《私》は続く。《私》が「モレルの発明」を知ってしまったように、わたしが「モレルの発明」を読んでしまったのだから。

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料理を好きに自由にする「料理の四面体」

 読んだら覚醒した。料理が好きに自由になるスゴ本。

料理の四面体 たとえばオレンジページの「絶品ベスト20レシピ」があるとしよう。すると、その20品しか作れない。20だって凄いのだが、いかんせん替えが利かない。食材や調味料が欠けると作れない。つまり、わたしにとって料理とは、「レシピ通りに切ったり火を通すプロセス」に過ぎなかった。

 それだけでない。実は、本書に出会う前に、衝撃的な料理を食べた。

 一つは「大根のコンソメ煮」もう一つは、「白菜サラダ」だ。「大根のコンソメ煮」は、面取りした大根をコンソメスープでひたすらぐつぐつ煮込んだやつ。「白菜サラダ」は適当に切った白菜にドレッシングをかけたやつ。

 なんだぁフツーと言うなかれ。わたしがガツンとやられたのは、「大根は出汁+醤油か味噌で」「白菜は鍋物」しかなかったから。大根とは根菜だから人参や玉葱と一緒だから、コンソメ煮も美味しい。白菜とは葉物だからサラダになる←そういう発想がなかったことにガツンとやられた。クックパッドかレタスクラブあたりでこのレシピに出会ったら驚かないだろうけど、問題は、その発想に驚いているわたし自身にある。

 そして、本書のトドメの一撃になる。

 料理とは、振付け通りに踊るキッチンのダンスにすぎず、料理上手とは、いかに振付けを完璧に再現できるかだと思い込んでいたわたしは、この薄い文庫で、木っ端ミジン切りにされた。

 本書の本質はこうだ。要するに、料理ということは、道具や調味料の差異はあれ、「空気」「水」「油」という要素が「火」の介在によって素材をいろいろな方向へ変化させることだと喝破する。それぞれを頂点とした四面体を考案し、あらゆる料理はその四面体のどこかに位置するというのだ。そして、ある料理が占める一点を動かすことにより、違った形の料理へと導くことができるというのだ。

Photo

 この四面体を腹に落とすために、世界中のさまざまな料理の「本質」を換骨奪胎(文字通り!)してくれる。冒頭の「アルジェリア式羊肉シチュー」が、「コトゥレット・ド・ムトン・ボンパドゥール」に変換され、さらに「ブフ・プルギニョン」から「豚肉の生姜焼き」に一気通貫する様は鳥肌モノ。

 それぞれの皿の相違点ばかり見つめていると、それらの料理は相互に関連のない別物になる。だが、本質を射貫くと、実はひとつの料理なのだということが分かる。ひとつの本質が、時と所に応じて風土ごと様々に異なる姿を見せているだけなんだということに気づくと、次の料理が格段に広がってくる。言い換えると、料理のレパートリーが、ぱあっと広がる。料理の一般原則を「手が探し当てていく」状態になるのだ。

 そうすると、経験から類推したケースが「いま」「ここ」の目の前に当てはめて、どう「入替え」「アレンジ」していくかの話になる。もちろん唐揚げをチキン南蛮か油淋鶏にするぐらいの頭はあるが、唐揚げをフリッターや「グルテン質で肉汁を閉じ込めた料理」にまで抽象化するようになる。料理本はインスピレーションのヒント集になる(もちろんレシピ通りにつくるワケない、味強すぎるから)。そうした"年季"が要る仕事が、一冊で手に入る。オーソドックスに時間かけて試行錯誤するよりも、これ読むほうが特急電車ナリ。

 ただし、料理を職業とする人からは、かなりの酷評をもらっているらしい。料理の原理原則に迫るあまり、枝葉をバッサリ斬ってるから。確かに牽強付会じみている(でも本質)なトコもあり、干物とは太陽に炙られたグリルだといい、サラダの語源が「塩味がつけられたもの」だからあらゆる料理はサラダになるという。著者も分かっているようで、「料理の原理は簡単だ、といったのであって、料理をつくることが簡単だといっているわけではない」と弁解しているのが可愛らしい。

 また、この「料理の四面体」で全ての料理を包括できると言い切るモノの、人類が冷蔵庫を手に入れてから発明したデザート、「アイスクリーム」が入っていない点や、煮こごりといった、(室温より)マイナスの温度を応用した料理が入っていないなど、穴もある。しかし、だからといって本書の価値はいささかも減らない。

 なぜなら、料理の本質は、「おいしくする」そのものにあるのだから。そしてそのプロセスは、何億回もくり返されて「見える」状態になっているのだから。プロフェッショナルではないわたしにとって、料理とは、「組み合わせ」なのだから。

 選んで、育てて、頼りたいスゴ本。

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恐怖なしに生きる

 恐怖なしに生きる、そんなことが可能だろうか。

恐怖なしに生きる わたしが恐怖を抱いているもの───家族を亡くすことや、健康や職を失うこと、その基盤自体が災害や戦いで破壊される不安から、自由になれるのか。もっと引きよせて、仕事で失敗して降格されるとか、痴漢と間違われるとか、個人情報が悪用されたんだけど人に言えないようなサイトからだから泣き寝入りするしかないとか。肉体的、精神的な打撃への"おびえ"をなくせるのか。

 クリシュナムルティは、できるという。

 この一冊を賭けて、くりかえし述べている。手記、詳論、対談、インタビュー、手を変え品を変えて同じテーマ「恐怖なしに生きる」ための問いかけを続ける。非常に興味深いことに、アプローチは「怒り」と一緒なのだ。

 順番に言おう。クリシュナムルティによると、最初に自問すべきは「恐怖とは何か」「それはどのように起こるのか」なんだと。わたしが何を恐れているかがテーマになるのではなく、ずばり恐怖の本質とは何か、これを問うのだ。

 恐怖の本質とは、不確実なことへの心の動き。わたしたちが人生を送る際、拠りどころとなるもの、思考の型や生活様式、信条や教条、常識(と信じているもの)……これらが乱されたり揺らいだりすると、未知の状態が生ずる←これが厭なのだという。不確かな別のパターンを作り出すことを、わたしたちは拒もうとする。その心の動きを、恐怖と呼ぶというのだ。

 確かにそうだ。出発点は「わたし」に属するもの───家族や友人、同僚との関係において、あるいは過去から連続する「わたし」を変えようとするものに恐怖を感じている。それは「周囲の評判」だったり「痛みのない日常」だったりする。過去から現在に至る日常性や、信じていることへの揺さぶりが、失望や不安と呼ばれる。そして失望や不安に対する思考こそが恐怖を生み出している。つまり、恐怖というのはそうした思考を続けるわたし自身のことになる。

 だから、恐怖に「打ち勝つ」とか「克服する」というは正しくない。恐怖を、なにか別の存在として定義し、それに対してあれこれするというのはありえない。それらは、「恐怖をもたらすもの」とわたしが決めていることへのアプローチなのだから。その闘いは死ぬまで終わらないだろう。なぜなら、「恐怖をもたらすもの」の一つを除いたところで、また別の「恐怖をもたらすもの」が生じるのだから。極論言うと、「わたし」を消さない限り続くゲームになる。

 ではどうすれば、恐怖から「自由になる」のだろうか。このアプローチが、「怒り」への対処と一緒になる。すなわち、「注意深く観察しろ」になる。

 いっさいの抽象概念をもたずに、恐怖そのものを見つめる。「○○が怖い」の「○○」ではない、「怖いとは何か」「怖いと感じるとき、わたしの中で何が起きているのか」を丹念に眺める。この集中しているとき、見ている時間と、見られている空間はゼロになる。一体化する。

怒らないこと これは、怒りが生じたとき、怒りを観察せよという教えと一緒。怒りをごまかしたりカモフラージュしたりせずに、まざまざと観るのだ。そして観られた瞬間、怒りは消える(やってみると分かる、事実だ)。クリシュナムルティは、恐怖に名前を付けずに、「恐怖」という言葉もまったく使わず、ただ観察せよという。これは「怒り」について応用できる。

さらに、「怒り」がエゴイスティックな感情であるのと同様に、「恐怖」もまた然りであることに気づく。仮にわたしが子を失ったら、その悲しみの大部分は、「もう二度とわが子に会えない」ことに費やされるだろう。若くして死んでいった子どもの無念さよりも、"わたし"の感情が可哀想だから泣くのだ。今はまだ、おっかなびっくりだが、ここまで深いところに理解が至ったのは嬉しい。わたしは、この本でわたしのエゴと向き合うことができたのだから。

 クリシュナムルティは、本書で、もっと先へ行く。喜びや苦悩をひっくるめた人類の意識を共通化してみせ、その一端がわたしなのだと示す。まるでジョン・ダンの「誰がために鐘は鳴る」(≠ヘミングウェイ)を彷彿とさせる人類感覚だが、そこまではついていけなかった。

 エゴと向き合い、エゴとつきあう一冊。


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大化けした「ゴヤ」がスゴい

 上野のゴヤ展の予習として読んだらぶッ飛んだ。

 庶民出身の、サラリーマン絵師だったゴヤが、どうやって伝説へ大化けしたかをつぶさにたどると、近代革命史あり、宮廷の権謀術数あり、どん底からの這い上がりど根性物語あり、なんでもありのスゴい伝記と相成る。ゴヤの作品と生涯をタテ軸に、同時代のスペインとヨーロッパの激動をヨコ軸に読み進めると、「ゴヤ」という名の人間ではなく、これらの化学反応により生み出された怪物のごとく見えてくる。

ゴヤ1ゴヤ2
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 わたしの悪いクセなのだが、一人の天才に焦点を当てると、その最高傑作だけに眼が奪われ、そこに至る紆余曲折や失敗プロセスの一切を、無かったことにしてしまう。そして、その天才を神格化して崇め奉ってしまうのだ。同じ轍を踏んでる発言の感嘆符(!)を眺めると、連中の崇め奉りたい欲求にジワジワくる。

 その天才は、そう呼ばれる前にやっつけ仕事もたくさんこなし、身過ぎ世過ぎしてきたはず。意に沿わぬ仕事も受けなければならないし、嫌なおべんちゃらも吐かねばならぬ。時には目上のタンコブを引きずり下ろし、慣れない政治にも手を染めねばならぬ。そういう「あがき」や「もだえ」が人臭く、凄い勢いで親近感が湧いてくる。

 ゴヤは、出世欲と自己顕示欲の塊だったという。どぎつくて、濃厚で、露骨で、脂にみちみちて、どこまでもぎらついた存在だったそうな。王の注文で描いた絵の隅に、家臣として自画像を書き込んだり、40年の結婚生活で妻を20回も妊娠させたりと、著者曰く「エゴイストで恥知らずの牡馬」なのだと。

 それでいて、時の権勢に従い、仕事も生活も合わせようと努める、大勢順応主義者(コンフォルミスト)だったという。ときにロココ調、ときにリアリズム手法を発揮し、いきなり新古典派に戻ったり、ロマン派に走ったり、遠慮会釈なく画調をまるっきり変えてしまう海千山千の芸術家だったらしい。著者は、あきれたり罵ったり応援したりしながら、この怪物前のゴヤを紹介してゆく。

 いちいち鼻につくのが、著者の神視点。後付けだから、様々な視座や、時間を措いた考察も含め、玩味できる。パリが火薬庫だった急転回する状況で、しかも情報入手が極めて限定的だった時代に対し、「こうすべきだった」とか「判断が誤っていた」と、分かった風な口を利くのは独尊の極みだが、その自覚が欠片もない。

ゴヤに対する非難の大部分は、単純かつ直接の非難であって、当時の事実と事情の調査の上に立っていない、と私には思われる。研究者たちの閉口頓首もまた事実調査を欠いているものが大部分である。
ということは、「オレサマだけが知っている」事実があるのだろうか?または事実への別の解釈が展開されるのだろうかと勢い込むのだが、逆説的な問いかけや、「~のはずだ」という締め文に胸が熱くなる。論文としてのロジカルさを求めてはいけない、これは、壮大なる「感想」なのだから。

 やってる当人は楽しかろう。読んでるこっちは説明がつく。だが、当時リアルに現在進行で藻掻いてた連中に、同じ人が上から"説明"することの愚かしさも感じる。「オマエは神にでもなったつもりか」と問いたくなる。歴史書や手紙から再構成した、出来合いの仮説を読み、都合よく切り貼りし、恥ずかしげもなく、「これが事実だ」と言い切る。

 そこに謙虚さは毛ほども無く、ただただ「俺様だけが知っている」と鼻をピクつかせ高らかに宣言する。その偉そう加減が(たまらなッッく!)くだらない。研究成果から取捨選択して拝借しているくせに、「コイツは分かってない」とかバッサリ斬ってるところなんて、塩野七生そっくりで笑う。物書きの不遜が齢を経てこうなるのなら、反面教師として学ぼう。わたしも同じ傲岸の岸辺に立っているのだから。

 人間ゴヤよりも、人間・堀田善衛がクサヤの干物のごとくプンプンする(ホメ言葉だよ)。それが、イイのだ。ゴヤに辟易しながら、恐れながらも、代弁者たろうとする。そこから滑り出した「俺様が語るゴヤ」が凄まじい。

 まず、「5月の3日」で驚いた。これは蜂起したマドリードの市民を処刑すべく、銃を向けるフランス兵描いたものだ―――と思っていたが、事実とは異なり、ゴヤは「伝説」を描いたんだという。著者曰く、「戦争の惨禍」を見れば、ゴヤが描いた略奪、暴行、強姦などの戦争の惨禍が誰によってもたらされたか瞭然なんだって。そこでは、「仏軍もゲリラも英国軍でさえ遠慮会釈もなくやってのけたのである」そうな。

 代わりに、中央の白く輝くシャツの大男を見よという。シャツではない、この男が大の字に振り上げている両手の、とりわけ右手の掌をよく見ろというのだ。すると、その掌に、あたかも釘で打ち抜かれて、そのまわりの肉が盛り上がったような傷跡があることを指摘する。そして、画面左端の、判別しがたい陰のなかに赤子を抱いたマリア像を見いだす。

5月の3日

 つまり、ここはゴルゴタの丘なんだって。もちろん掌の傷は聖痕で、イエス・キリストを「民族ゲリラ」の代表として看破する。植民者、帝国主義者としてのローマに挑戦し、ユダヤ民族解放のために戦ったユダヤ人の王と、スペインの民が抗フランスのゲリラとして立ち上がったことを呼応させている。

 このように、イメージとイマージュを結びつけるのが、滅法おもしろい。ゴヤの「私がこれを見た(Yo lo vi.)」に平家物語における平知盛の「見るべきは見たりけり」を重ねたり、ヨーロッパをシメントリックに挟んだ、スペインの反対側にドストエフスキーを"発見"したり、「気まぐれ」詞書に「方丈記」を引いて、鴨長明の乱世とリエゾンさせる。その視線の跳躍っぷりと思うがままの批評に感心する。

 それがホントか否かは別として、怪物的な絵に心をつかまれ揺さぶられていくうちに、見たいように見てしまうのだろう。「このモチーフはこれこれなんだけど、言いたいことはこれなんだ」などと、絵の中に入って一つ一つの象徴先を腑分けできる。これが楽しいやら戦慄するやら忙しい。静止した絵に感情や記憶が動的になるのは、そのせいなのだ。

特にゴヤの場合、普通の美術作品を見るようには見るものではなくて、それはむしろ読むものなのであらう。古典主義時代の絵画の大部分もまた図像学上の様々の約束に従って、見るよりも読むものであった。読む美術というものもまた、今日では消えうせてしまったのである。
 ゴヤは見るより読むもの―――仮に、図像学や観相学を駆使して、込められたメッセージや比喩を読み解くものであれば、その解釈は「○○学」によって定義された範囲内で共通するはず。にもかかわらず、著者をはじめ、解説する人のフリーハンドで言いたい放題だ。人によって異なるばかりか、正反対の「解釈」が生まれてしまう。なぜか?

 強弁するなら「それがゴヤのすごいとこ」と言うかもしれないが、単に前提「見るより読む」が誤っているか、ブレが大きいからになる。その図像学による解説もどこかの孫引きで散発的なので、しがみつかない程度にアテにすればいい。むしろ、自由に見ていいんだ、と勇気づけられる。ゴヤの研究者や伝記作家があれこれ書いたのを、都合よくツマんだり、バッサリ斬ったりした後、「わしにはこう見えるのだ」と断言していい。学も何もあったもんじゃない―――おそらく、わたしのこの分析は盛大に間違っている、学術書にあたれば「共通解の部分」と「解釈が割れる部分」が見えてくるだろう。ゴヤ展に行けば少しは"見える"に違いない。

 これだけゴヤと「同化」している分、ゴヤが大化けするところが圧巻だ。病苦と死の深淵をのぞき見た視線が、これまで自らの周囲に立てまわしていた「立身出世した宮廷画家」に注がれるとき、それは文字どおり「音もなく」崩れ去ってゆく。怪物前のゴヤが描いてきたもの―――牧歌、田園風景、理想化した生活情景、王族の肖像画―――のほかに、彼が決して描かなかった「現実」にムリヤリ目を向けさせる。

 「戦争の惨禍」における、裸の首、手、足を分断され、男根を切り取られて樹木に逆吊りにされた死体や、人間のやらかす所業に吐き気をもよおして「人間を」吐き出している怪獣を指し示す。わたしは単純に、フランス兵の鬼畜っぷりを告発する画だと信じ込んでいたのだが、著者は違うらしい。スペイン人の犠牲者ではなくて、スペイン愛国者にやられたフランス兵の可能性もあるというのだ。「裸に剥がれて切り刻まれた人間の国籍を誰が知ろう」とうそぶくが、過剰解釈なのか、一つの見解なのか。

 戦争は人を狂わせる。人が人に狼になれるから、残虐非道は仏軍に限らない、という主張は、その通りだろう。だが、ゴヤが何を伝えたかったかは、絵を見れば分かる。モチーフを見分ければ、それが堀田が誘導したい結論ではないことぐらい、すぐ分かる。堀田は、この行為を全人類の罪的なものにしたいらしいが、それは当人の「願い」に過ぎぬ。堀田自身、典型的なこの軍人が何人であるか何度も言及しているではないか。そして果敢に武器をとり闘っているのがどこの人であるか、くりかえし説明しているではないか。

 自分がお世話になったゴヤ伝の作家たちを振り返って、「伝記作家を信用してはならない」と言う。なぜなら、「彼らは時に"想像力を解放"してとんでもないことを書く」からだと言い切る。巨大なブーメランが見えるが、同じブレードはわたしにも向いている。一方で、こういうときだけ歴史や人類のマスクを被ろうとする偽善的態度に、ぞくぞく・わくわくする。

 ものすごいものを生み出すのは、戦争だという真理に到達する。少なくとも文学なら知っている。戦争は文学を、しかも素晴らしい文学を産む。例を挙げると、それだけで文学史が成立してしまうぐらいだ。そしてこの真理は、文学のみならず、テクノロジーだけでなく、絵画にも適用されるのかと思うと、肌が粟立つ。"かいぶつ"ゴヤを見ていると、心底おそろしい。

 深淵を覗き込む者は、警告されるのが常なのに、「黒い絵」シリーズを語る堀田は、「黒い絵」に一体化してしまう。シリーズが描かれたリビングを脳内と紙面で展開し、順繰りに読み解いていく様は、ページ越しでも鬼気迫る。我が子を喰らうサトゥルヌスの勃起が塗りつぶされたことを嬉々として伝えながら、本人もそうなってるんじゃないかと感じるぐらい勢いよく書く。

 著者と一緒に、"かいぶつ"に呑まれるべし。

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