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食に国境なし「食の500年史」

食の500年史 世界史を「食」から斬った快著。

 目の付けどころは素晴らしい、だが喰い足りない。J.ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」レベルのすごい着眼点で、文明、階級、権力、ジェンダー、テクノロジー、文化、アイデンティティなど、掘れば掘るほど、「食」との密接な連関性が浮き彫りになる。にもかかわらず、250頁で駆け抜けるからもったいない。言い換えるなら、次のテーマで世界史に「切れ込み」を入れたようなもの。類書を探すもよし、自分で掘るのもよし。テーマは5つ、まとめると…

  1. 食物の伝播と普及:古代ローマ、中国、イスラムを主軸に料理の伝播を概観する。さらに、コロンブス以後のアメリカ産食材の普及と、人の広範囲な移住がもたらした食のグローバル化を説明する
  2. 農業と牧畜の緊張関係:ローマ帝国とゲルマン諸部族、中国とモンゴルの遊牧の交流・摩擦は、農民と牧畜民の常食で「見える」。現代でも然り。牧畜民を農民に転じさせようとする発展途上国の近代化プログラムの実行地域は、「マクドナル化」や「コカ・コーラの普及」の範囲と重なる
  3. 階級間の格差:食料配分の不均等から生じた格差は、そのまま「体格」に反映される。古代と現代が逆説的で面白い。古代エジプトの貴族は「栄養がある→巨体」だが、現代の富裕層はスリムな肉体を目指す。かつての下層階級は「骨と皮」、今は「肥満」が特徴的
  4. ジェンダーや社会的アイデンティティと食:男女の役割分担は食事の準備、家庭内の食物配分から生まれた。女性に食事の支度をさせるのは家父長社会だが、男が料理を作る場合は、身分が高い人のための料理や、神にささげる儀礼的な食物になる。19世紀の中国移民とイタリア移民が広めた「中華料理」「イタリア料理」は、クレオール化された料理。グローバルな味覚を形成するのに役立ったが、本土の味とはかなり違う
  5. 食の分配と国家の役割:食料の生産と配分に果たした族長の役割は、そのまま権力の拡大と戦争の歴史になる。支配階級は食物によって自らの権力を行使し、政府の正当性は、「国民を食わすこと」に尽きる。代表例として、国民の忠誠心を引き出すための国民料理の育成がある
 「ジェンダーと食」でピンときたのが、「男の料理」のレシピ。書店で見かける男性向けのは、一品物か一点豪華の「料理」が多いようだ。いっぽう、「男の料理」を謳わない料理本は、「こんだて」になる。「ありあわせで家族の料理を作る」のと、「いい食材や調味料を揃えて逸品を作る」の違いは、ジェンダーにある……のだろうか。

 国民料理も笑えた。これは「標準語」と一緒で、ネーションビルディングの手段に過ぎぬと言う。料理は地域性をもつはずなのに、国境内の食物を人為的に集めた「想像の共同体」を補強するものに過ぎないそうな。イタリアといえばパスタかもしれないが、山岳部では違うし、日本の寿司は、江戸や上方文化を「日本化」したものになる。

 いっぽう、偏見や排除の象徴としての「食」は昔も今も健在なことがわかる。定住民からは、「肉食=野蛮」に見えるだろうし、トウモロコシを家畜の餌としたヨーロッパの「偏見」は、(今だからこそ)分かりやすい。「カエル食い」「豆食い」「犬食い」などは立派な蔑称だ。ひょっとすると、日本人は陰で「生蛸食い」「生卵呑み」と呼ばれているかもね。

 帝国主義の欧州列強が、自らの支配を正当化するため、栄養学を持ち出して肉食のメリットを強調する件も面白い。植民地に「小麦や家畜を移植してやっているのだ」という"慈善的"態度は、可笑しいだけでなく、大きすぎた犠牲に暗澹とさせられる。それぞれの地域に合った食文化があるのに、灌漑や肥料を用いた商業主義的農業を、「文明化」と押し付ける。この背景には、自分たちの食習慣のほうが優れていると考えるヨーロッパ人の文化的偏見があるという。

 ―――こんな感じで、薄手なのに、読むほどに発想が湧いてくる。総花的・網羅的な説明を避け、テーマで時代や地域を絞り込んでいるため、密度の濃いつくりとなっている。だが、代償として、「なぜそうつながるのか?」の具体的視点が失われているところもしばしば。たとえば、第2章「コロンブスの交換」が具体的に何であるか、結局説明なかった。これは、アメリカ大陸とヨーロッパでやりとりされた動植物、人口、食物、鉄器、銃、病原体などを広範に指している。だが本書では、後半の言及から、「ジャガイモ」と「病原体」に絞られるようだ。

 食材から調理法、文化からテクノロジーまで、ミクロにもマクロにも拡大・俯瞰できたはず。絞らず網羅的に調べあげたら、書くのも読むのも大変な大著になっただろう。

 食の歴史とは、グローバリゼーションの歴史。「食は国境を越える」(NO BORDER)だね。

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「気違い部落周游紀行」はスゴ本

気違い部落周游紀行 今風に言うなら、タイトルは釣り。だがホンモノの釣り針が入ってる。

 とがった看板なのに中身は普遍、諧謔たっぷりのとぼけた会話を嘲笑(わら)っているうち、片言の匕首にグサリと刺される。そんなスゴい読書だった。

 「気違い」と「部落」という反応しやすい強烈な用語を累乗しながら、中身はありふれた『ど田舎』の村社会を描く。でもその「ありふれ」加減は、いかにもニッポン的だ。彼らを笑うものは、この国を嗤うのと一緒だというカラクリが仕込まれている。

 著者は、きだみのる。ファーブル昆虫記を全訳した業績は分かりやすいが、ひょうひょうとしながら熱い魂を抱いている。開高健風にいうなら、「胸にゴリラを飼う男」やね。紀行文に名を借りたこの痛烈な社会批判は、時代も場所もかけ離れているのに、ザクザクと胸にくる。

 たとえば何でも名前やラベルを付けたがる悪癖を、ルヌーヴィエの箴言でチクっとやる。「人は事物の名を知ると、その名に依って表される内容の全体を知ったかのように思い込む」。反射的に「ブラックスワン」が浮かぶ。今までの理屈で説明できない想定外の事象に名をつけて、分かった気になっているだけ。経済学者のトリックを、一緒になって悦に入っていたわたし自身が恥ずかしい。言葉だけで内容まで知ったかぶるのは気をつけよう。

 あるいは、「正義」の話が刺さる。人を食った筆運びだが、これは罠。心してどうぞ。

一体正義とかその他これに類する言葉は、一般に自己の利益を守るため他を攻撃する道具でないかと思われるような使用を受けている場合が多く、自らの損失に於て正義を云々する例は滅多にないように思うのは私の無学の所為であろうか。
 持論を通すため正義だ国民だと言い募る連中に見せたら、恐れ入って恥じ入るだろうなぁと想像するが、無理無駄ァ、奴らの顔の厚さを思い知るのが関の山。

 政治家の言説に用いられる「コクミン」という抽象語は、この単純素朴な村人への洞察を通じて見事に具体化する。それは、したたかさ、たくましさ、ずるさ、妬み、目先ばかりの功利主義、裏切りと足の引っ張りあい―――嫌らしくて懐かしい村民の言動に、腹を抱えて笑うだろう。そしてゾクりとするだろう。愚かしいほどの忘れっぽさや、口と腹とじゃ言うことが違う気質は、そのまんま「いま」「ここ」のことだから。

 ニッポンジンの本質は、今も昔もそのまんま。テクノロジーや表層で変わった気分になっていた背中に冷水を浴びせられる。うちひしがれた心に、とどめのように寸鉄が刺さる。曰く、「先生よ。良心って自分の中の他人だな」ってね。

 これは父が存命中に何度も首を振りながら「すごい本だぜこれは」と唸っていた一冊。もっと若かったら上滑りしてただろうが、今なら分かる、その痛々しさが。これは、相憐れむ視線に満ちているスゴ本やね。いい本ありがとう、親爺。

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この「本のオフ会」がスゴい

 ネットの外に出る試み。本と人と出会うため、ブクブク交換に行ってきた。

 「ブクブク交換」とは、BookとBookの交換のこと。物々交換を洒落ており、本のプレゼン→交換による交流を楽しむ会だそうな。あらかじめテーマを決めて本を持ち寄り、その本についてアツく語るとこなんて、「スゴ本オフ」と一緒なので嬉しい。

 違うのは、「本と名刺の交換」なところ。スゴ本オフだと「ブックシャッフル」なので、どの本がアタるかは運次第になるし、プレゼンのためだけの「見せ本(放流不可)」もアリ。また、ブクブク交換では本だけでなく名刺の交換もするため、人の出会いも加速しやすいメリットがある。

 本よりも、人に会うため、行ってみる。わたしが持って行ったのは、ジュースキント「香水」とサン=テグジュペリ「人間の土地」。で、「交換」してきたのは、ジェロームの「ボートの三人男」。英国的ウィットと諧謔的ユーモアを絵に描いたような傑作と誉れ高く、ずっと気になってきたものの、なかなか手が出せなかったのだが、よい機会ナリ。他にも、「大人になってから読み直す『赤毛のアン』は、むしろマリラに共感して、アンは電波娘に見える」とか、「本好きでこの業界に入ったのに、十年経つと本が"商材"としか見えない」など、興味深い発言に出会えた。

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 「ブクブク交換」で参考になったのは、進行役のテリーさんの"あたり"が優しいところ。発表者が詰まったり言いよどんだりすると、すかさず助け船を出すので、安心して話せる。集まってくる人は、いわゆる「本好き」という方が多いので、なごやかな雰囲気だった。最初からアルコール入りのライトニングトークのスゴ本オフとは偉い違う。また、「本の紹介をカードに書く」とか、「次の発表者を、"本で"選ぶ」ところは取り入れよう。

 さて、これで「本のオフ会」は網羅したことになる。「スゴ本オフ」、「ビブリオバトル」、「本屋オフ」、そして「ブクブク交換」……本にまつわるオフ会はさまざまだが、ここで傾向と対策を語ってみよう。

 まずスゴ本オフ、一言なら「本をダシにした宴会」やね。わたしが酒好きもあって、始まる前から呑んでいる……持ってきた本への愛を熱く語るあまり、話が跳躍したり拡散したりツッコミが激しかったりする。ほろ酔い加減だから、持ち時間の5分が5分で済まなくなる→後ろになるほど時間が足りなくなるのでマシンガントークになる。

 集まってくる本も、小説、ノンフィクション、写真集、エロス、コミック、CD、ゲームとエッジの効いたというより「カオス」なラインナップとなっている。オススメ本は「シャッフル」されて手元にくるから、欲しいのに当たらなかったら個別交渉or後で図書館か買うことになる。これまでのスゴ本オフは、スゴ本オフ@ジュブナイルからどうぞ。

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 次は「ビブリオバトル」、これは「オススメ本のコンテスト」になる。これは、発表者と視聴者と明確に割れている。発表者のプレゼンを聞いて、視聴者が読みたいと思った本を投票して、一番の「チャンプ本」を決める。いわゆる美人票に陥りがちなのを、プレゼンや選書でどう逆転していくかというのが勘所ですな。

 「われこそは!」という人が発表者になるから、それなりの本がそろってくる。「聞いたことがある教養系」か「これから話題になりそうな」といった知的好奇心より、知的自尊心を満足させる本が"売れセン"だ。紹介された本はその場で買う(書店で開催)または借りる(図書館で開催)ことができるのがメリット。わたしの参戦記はビブリオバトル夏編@紀伊國屋書店あたりをどうぞ。

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 そして「本屋オフ」、これは「危険なオフ会」だ。なぜなら、書店で実際に手にとって、「これは良いよ!」とオススメされるのだから。リアルジャパネット状態。テレビショッピングなら、購買意欲が刺激されても、電話してたりネットにつないだりしてるうちに醒めることもあろう。だが、目の前でプレゼンされ、欲しい!と思ったら容赦なくお買い上げ~なので、財布は厚くしておく必要がある。途中参加、途中離脱が可能なのも嬉しいが、最後に集まった本を積み上げるのが圧巻ナリ。

 本屋は孤独に巡回するもの…という常識をうちやぶるグループ・ブックハンティング、それが本屋オフ。みんなでブックハンティング@松丸本舗か、本屋オフ@丸善ジュンク堂をどうぞ。

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 最後は「ブクブク交換」で、これは「本のだんらん会」かなぁ。ワキアイアイを目指してて、「婚活」「合コン」のノリで自己紹介もする。時間制限もゆるやかなので、ゆっくりでも、短くてもOK。趣味の本やベストセラー系が多いので、ノリが合う人を「本で」探すような感じ。今まで紹介されてきた本を眺めていると、「いわゆる文系」な香りが。SFが少なめなので、持ってくると喜ばれる(敬遠される?)

 また、「ブクブク交換というモデル」がメディアによって拡散している。形式が単純でゆるやかなため、学校や図書館でも取り込みやすい。本のオフ会を主催したいなら、一度参加して、自分のコミュニティで広めるのが最適かも。

 スゴ本を探すのではなく、スゴ本を読んだ人を探す。参考にしてくださいまし。

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えろ乙女ちっく「女の穴」

女の穴 エロくて不思議で、だいぶ切ない。

 一緒になって十年たって、それでも嫁さんというか女が分からない。いや、分かり合えるところは、すごく分かり合える…そう、家族のように。あたりまえだ、「家族」を十年続けてきたからね。だが、分かり合えないところは、金輪際ムリ!と断言できるくらい不可能。

 男と女は同じ生物(せいぶつ)だが、ちがう生物(いきもの)だ

 なんてうそぶく人もいるが、説明や論理をつけようとすることが無理難題なのかもしれぬ。ただし、「女のわけの分からなさ」は分かる。「理解不能」と思考を止めるのではなく、「この部分は違う生き物」として扱う。そして理解のためのコミュニケーションではなく、同感のためのコトバのやりとりに集中すると上手くいく。

 もっと推し進めると、ハナから別の生き物として、女を捉えなおすことができる。その思考実験が、このマンガだといっていい。というのも、出てくる女という女が、ちがう生き物だから───宇宙人だったり、合体してたり、鬼を飼っていたりするから。

 女を男(人?)あつかいしなくなったら、突然わかりやすくなる。美人なのに無愛想な彼女が、一回だけ、一コマだけ微笑んで、「分かった気がする」という意味が…相手の男の真摯さも込みで。兄と一体化した妹が、最初に男を受け入れるとき、後背位でお尻を高く差し上げたのはナゼか(思いやりやね)。弱みを握ったセンセと豚のごとく扱う理由と、そもそもそんな自分になれたワケが、ね。

 女は、あるところまではリクツで進めて、そこから先は理屈で理解しちゃ、ダメなんだね。女だって、人を好きになる。ただ、その好きになり方は、男(人?)とだいぶ違う。もうわたしにとって、女は別の生き物だというポジションにいた方が、より近くに寄れるような気がする。

 生き物係としての男どもに。

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ハマる読書「はてしない物語」

 本を開くということは、本の中に入ること。

はてしない物語 そして夢中になるとは、夢の中に入ること。夢中読書をお約束する。ただし、ソフトカバーの上下巻はダメ。あかがね色のクロス張りの、あの一冊のハードカバーで読むべし(なぜだか読んだら分かる)。ハードウェアとしての本のチカラを思い知るだろう。

 三十年ぶりに読み返す。映画に捻じ曲げられた記憶を掘り起こし、新たな発見を得る。主人公のバスチアンは、(記憶の中では)美少年だったのに、活字は残酷にも「でぶでエックス脚、チーズのように血の気のない、美しいとはとうていいえない姿」と述べる。怒りっぽくて泣き虫で、いまいち自分に自信が持てないが、本を読むのが大好きな少年だ。

 そんな彼が、「はてしない物語」という本に出会い、ハマっていく。これは読み手の年齢にシンクロする。十代の、まさにそんな多感な時期に読んだなら、いっぺんに共感してしまうだろう。ミヒャエル・エンデもそこを狙って書いてるし、装丁もそこを狙ってる。本というモノ自体が持つ魅力が、ストーリーの引力とダイレクトにからみあう。読んでる途中に何度も表紙を確認したり、模様を撫でたりするだろう。

 もちろん、入れ子になった物語を解いていくのは気持ちがいいし、物語のもつチカラがリアルと相互に響きあうところでは、カタルシスをぞくぞくと感じる。これを超一級のファンタジーとして読んでもいいし、失われた自己を取り戻す回復物語として受け取るのもありだし、自己欺瞞の牢から脱出する成長譚として扱ってもいい。

 しかし、オッサンの再読となると、話は別。ちょうど本の真ん中のクライマックスで、重大なエラーに気づく。ひっそり隠れて本を読み始め、日が落ちたので七枝燭台のろうそくに火をつけたのが午後4時。そして、ある大きなイベントにより

膝の上にのせていた本のページから吹きだし、ばたばたとはげしくページをあおった。風はバスチアンの髪や顔に吹きつけ、息もできないほどになった。七枝燭台のろうそくの炎がおどり、水平にのびた。
これが午後12時、真夜中だ。いくらなんでも8時間も点いているのはおかしい。バスチアンはろうそくを替えなかったし、だいたい「溶けたろうが指のようにのびた」使いさしだ。バスチアンの運命に大きくかかわるこの場面は、ひょっとすると、"フィクション"なのではないだろうか。

 当然「はてしない物語」は"物語"だからフィクションであることは承知している。その上で、"物語というフィクションの中の現実"が虚構だったら? つまり、バスチアンは、真夜中になるずっと前から、眠ってしまっていたのだったら?

 地の文の、さらに外側の「語りえぬこと」について。物語の後ろ半分は、夢だったのではなかろうか……勉強も運動もコンプレックスを抱いていたから、「世界を救う物語」の主人公で自己を開放しようとしたのではないか。物語と現実との呼応は、ヒーローに自分を重ねたい願望が夢化したものであり、彼が挿入した妄想になる。妄想が現実を侵食するにつれて、うとうとし始め、あとは物語が夢を改変する(あるいは夢が物語を改変する)。

 覚えがないか? 物語の設定が丸ごと再現され、その世界を自分の思うがまま生きなおすような夢を見たことがないだろうか? わたしは、そんなバスチアンの夢を食んでいるわけだ。あかがね色のフォントや、青緑色のフォントで、現実と物語を刷り分けているつもりかもしれないが、ちょっと待て。上に記されているページ数の色は、ずっと青緑色で統一されている。それは、物語が現実へと相互作用しているからではなく、最初の1ページ目から物語だった証左なのかもしれぬ。いや、「はてしない物語」と謳っている以上、「 『 { はてしない物語 } を読むバスチアンの物語』 を読むわたし」という、"わたし"をひっくるめてフィクションなんだ。

 バスチアンは、「閉じている本の中では、物語はどうなっているのだろう? 」と問いかける。過去は思い出されるたびに更新されるように、物語は、読まれるたびに今を生きる。ひょっとすると、開いた人によって、物語は動的に変わっていくのかも。あなたが読んだ「はてしない物語」と、わたしが読んだ「はてしない物語」は、ぜんぜん別の"物語"なのかもしれないね。

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人類は、麺類「ヌードルの文化史」

ヌードルの歴史 人類史ならぬ麺類史、読むと無性にラーメンが食べたくなる。

 小麦や米、稗など穀物の栽培の歴史をはじめ、穀類を挽く道具の発明や製造手法の開発史を追い、さらには「粉」の流通路を制する覇権争いを眺める。いっぽうカメラを引いて、衛星の視点から、「麺」がシルクロードに沿ってユーラシア大陸を行き来した構図を見る。身近なのに壮大な、麺の歴史。

 いちばん面白かった視点は、蕎麦とパスタ。シルクロードを軸として、日本の蕎麦とイタリアのパスタは、驚くほど相似形だ。どちらも当初は、貴族が食べるぜいたく品だったが、時とともに階級を移動して、一般的な食べ物となったという。時代も同じで、江戸の庶民に蕎麦が広まったのは、ナポリにパスタの屋台が出回ったのと同じなんだって。

 新興都市・江戸も、国際都市・ナポリも、当時は職を求めて流入してきた労働者にあふれていた。そして、地方で作られた穀類を都市で消費する「街の食べ物」となるべく、蕎麦やパスタといった麺類の形をとる。早い・安い・旨い(保存が利く)からね。もっとも、江戸は東京になるとき、蕎麦からラーメンに代替わりしてるのはご愛嬌。

 次に面白かったのは、「パスタ・麺とフォーク・箸」の構図。地域的にも歴史的にも、麺が広まるにつれて、フォークや箸が伝播していったというのだ。著者はビザンティン帝国からヴェネチア、さらにそこからヨーロッパじゅうにフォークが広がっていく様を描いてみせ、それはパスタの伝播と軌を一にしているという。

 また、箸が伝わった地域と麺類が伝わった場所も重なっている。タイではスプーンとフォークが使われるが、麺は箸で食べる(ここが境になる)。さらに西のバングラデシュやインドではヌードル料理を食べる習慣はないし、箸も使わない。つまり、ヌードルが伝わった地域と箸が伝わった地域は重なりあっているというのだ。理由は単に「麺が熱いから」とミもフタもないが、「シルクロードは麺ロード、箸ロード」は事実だろう。

 著者は、東京に住むジャーナリスト。スイス出身で、中国人の嫁さんで、子どもは日本人として育てている。国際派を実践しており、偏りのない筆致を心がけているものの、「食品民族主義」には手厳しい。特定の料理に、国家のアイデンティティを押し付ける馬鹿らしさを説く。

 特にイタリアのパスタに対する態度はシビアだ。並々ならぬ愛着があるのは認めているものの、その起源には少なくとも5つの民族(ペルシャ、アラビア、スペイン、イタリア、ドイツ)がベースになっていることを示す。さらに、最もポピュラーなパスタソース「チーズ+トマト」はフランス起源だとか、最高のデュラム小麦はカナダ産だとか、イタリア人が聞いたら怒りそうなことをしれっと書いている。

 疑問に感じたトコもちらほら。ペンネやラザニアはパスタだから、これらを「ヌードル」だというのはいいだろう。だが、生春巻きや餃子、包子、焼売を「ハイクラスのヌードル料理」というのはヘンだ。まぁ、ラビオリはパスタだからアリかも… あと、ヨーロッパとアジアに偏った視線も気になった。築二百年の米国ガン無視は仕方ないとしても、ラテンアメリカやアフリカ(広いぞ)にも「ヌードル」相当はあるんじゃないかと。

 とはいえ、わかっていらっしゃる。イタリアンのパスタ好きを念入りに語った後、日本人の麺好きを、丸々一章使って、これまた徹底的に語りつくす。そしてラストは次のシーンで締めている。

まず、ラーメンをよく見ます。どんぶりの全容を、湯気を吸い込みながら、しみじみ鑑賞して下さい…スープの表面にキラキラ浮かぶ油の玉を、油にぬれて光るシナチク、はやくも黒々と湿りはじめたノリ、浮きつ沈みつしているネギたち…なによりも、これらの主役でありながら、ひかえめにその身を沈めている焼き豚…

では箸の先でですね、ラーメンの表面をならすというか、なでるというか、そういう動作をして下さい…ラーメンに対する愛情の表現です

箸の先で焼き豚をいとおしむようにつつき、おもむろにつまみあげ、どんぶりの右上に沈ませ加減に安置するのです。そして、これが大切なところですが、このとき、心の中で、わびるがごとくつぶやいてほしいのです

「後でね」


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「あずけて!時間銀行」はスゴ本

 キャラ、テーマ、プロットの全てが素晴らしい、ストライクのラノベ。萌えながら泣きながら読む。出し惜しみせず全2巻で完結しており、終わるのを惜しみながら読む。

あずけて時間銀行1あずけて時間銀行2

 もちろんミヒャエル・エンデの本歌取りだが、さらに拡張して、「キャッシング」「口座振替」「利子」なんて概念がある。主人公は時間を「キャッシング」して、残りわずかな人生を引き伸ばすために、時間銀行員の助手のバイトをしている。バイト料は時間で支払われるから、文字どおり「時間稼ぎ」のバイトだ。

 キャラからいこう。没個性な「灰色の男」とは対照的に、女のコがいい。無表情で敬語なので「長門さん?」と予断したら違ってた。時間銀行員という業務にマジメなのだ。だからスカートまくられたら怒るし恥ずかしがるし反応がいちいち初々しい。秘めた思いが暴されて顔真っ赤になるトコなんて、読んでるこっちがアツくなる。

 他にもロリからグラマー、熱血レズから凶女までそろえているから、好きな嫁を選んでくれたまえ。あと妹! シスコン主人公と妹の掛け合いは必見。お互いを大切に思いあってラブラブなのは、微笑ましいのを通り越してなんかあるのか? と勘ぐりたくなる。

 それが、あるのだ。

 過去が今を縛り、その記憶に囚われるさまは、Kanon 初プレイの胸の痛みそのもの。1巻目の中頃で、なぜ彼は時間稼ぎのバイトをしているのか、なぜ兄妹は異常なほど仲良しなのかが早々と明かされる。会社に行く電車で読んでたけれど、涙が止まらなくて困った。

 テーマとなる「時間」のとらえかたが良い。人は「時間」を消費して生きる。そして記憶とは、消費された過去の時間を指す。昔のトラウマを思い出すことは、すなわち過去の時間をくり返し消費して記憶を重ねることになる。仏道ライフハック「考えない練習」のように、過去に囚われる。今を生きるのではなく、過去を生きることになる。

 「あのとき、あと5分早かったら…」「あんな返事をしなければ…」―――誰にも触れられたくない、ひっそり後悔を重ねる記憶―――これを解放するのが、主人公の役目。何度も思い出され(=消費され)た分だけ、結晶のように時間が詰まっている。過去と折り合いをつけることで、結晶体を手放すことができる。思い出をどう解釈するかは、現在の心の持ち方に委ねられる。過去は変えられないが、過去に向き合う今の姿勢は、変えられるのだから。

 「ゆるす言葉」で考えたとおり、「赦す」とは、過去をなかったことにすることではなく、過去にまとわりついている、自分自身の感情を手放すこと。自分を自由にする手段なのだ。「過去は変えられない、未来はまだない、だから今に集中しろ」というブッダの言葉(ちと改変した)を思い出す。主人公と女の子(シーヌ・ポックルという)は対象者の記憶に入り込み、ときに闘い、ときに説得しながら、結晶体を手に入れる。そうそう、バトルがアツいぞ。「時間」を操れるのだから、止めることもできる。正しくは、相対的に自分の時間だけ「消費」できる(ex.みんなの1秒間に自分だけ10秒ぶん動ける)。ほらほら、ディオ vs 承太郎 の名勝負を思い出せッ

 伏線回収の絶妙なプロットも素晴らしい。ラノベのお約束を踏む以上、予想された展開とオチに行き着くことは分かってるのだが、その観せかたに魅せられる。彼がバイトする「本当のわけ」が明かされるタイミングとか、そこに行き着く成長ぶりとか、ラストのキャッチボールのシーンとか、二度も三度も泣く(帰りの電車なので困った)。

 ラブとバトルとメッセージ「今を生きろ」はきっちり伝わった。ライトなのにズシンとくる傑作、読むべし。

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趣味の料理と主婦の料理「やっぱり肉が好き」と「家族のこんだて」

 料理と献立の違いが分かる二冊。

 嫁さんと本屋めぐりする。出会った頃の「本屋デート」は二人一緒に棚めぐりだが、つきあいも十年たつと、別行動がデフォルトになる。それでも自然に落ち合うのは、レシピ本コーナーになる。そこで手にした本が対照的で面白い。互いの料理観が透けて見えるから。

やっぱり肉が好き わたしが選んだ一冊は、小林ケンタロウの「やっぱり肉が好き」。タイトルが全てを物語る、よだれの垂れる肉料理ばかり。写真のページとレシピのページを分けることで、料理のプレゼンが効いている。「食べたい→作ろう!」という食欲と創作欲の両方が刺激されるのだ。肉好きな我が子と写真見ながら一緒に選べるのも、マル。

 いつものレパートリーに、ちょっとしたコツをが加わるのが嬉しい。肉じゃがに味噌を合わせろとか、スペアリブのオーブン焼きにハチミツを塗るといいとか、とんかつ用ロースをひたすら包丁で叩いて、肉だけ酢豚にするアイディアは貰った!

 笑ったのが「理想的ハンバーグ」。厚みがあるので火が通りにくい、強火にするとコゲてしまうデメリットを回避するため、「焼き目をつけたら、お湯を入れてフタして蒸し焼きにする」というアイディア。これ、カツ代レシピでお世話になっている技だよ、さすが親子だなぁ。ケンタロウと勝代でハンバーグ対決する姿を想像すると愉しい(予想図↓上は「小林カツ代のクッキングベストヘルプ」、下がケンタロウ)

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やっぱり肉が好き 嫁さんが選んだのは、ベターホームの「家族の献立」。チキントマト煮とか、蒸し野菜と肉だんごといった、メニュー的にスタンダード。だが、ポイントが違う。気合い入れてメインの「一皿を作る」だけではなく、一汁三菜を「組み立てる」のだ。具体的には、その献立全体の段取りがまとめてあり、非常に使いやすい。

 たとえば、「タンドリーチキン+キノコのマリネ+じゃがいものスープ」という献立て。普通ならそれぞれのレシピを羅列して終わりだが、これは、そのメニューに向かって、どの順にどんな作業をすれば良いかが分かる。段取り的にはこうだ。

  1. とり肉にたれをつける
  2. 主副菜、汁の野菜を切る
  3. 副菜を作る、汁を煮始める
  4. とり肉を焼く、スープを仕上げる
 調理スペースには限りがある。下ごしらえのとき、包丁を使うとき、火を使うとき、盛り合わせのとき、それぞれの手順をまとめることで、効率的に進めることができるのだ。ベネッセの食材宅配のレシピ本といえば、やってる人に伝わるだろうか。

 さらに、家族それぞれの「食」に対する要望をすくいあげている。食べ盛り中学生にはボリュームのある一皿、残業父さんには、すぐに軽く食べられるもの、好き嫌いッ子には野菜をおいしく食べさせる工夫が随所にまとめられている。

 また、余った食材でもう一品つくる小技や、残りものを翌日に「くり回す」方法がありがたい。台所をあずかる主婦/主夫は、料理を作るというよりも、「食材をやりくりする」というほうが適切だ。冷蔵庫と相談しつつ、安くて旬の食材を使い、マンネリを避けつつ、家族の好評を目指す。

 「おいしい!」と言ってくれる一皿を作るため、食材をわざわざ探してくるわたしの料理と違うなぁ…とつぶやいていると、嫁さんにトドメを刺される。

 「それは、趣味の料理と主婦の料理の違いなの」

 休日料理人には耳が痛いが、精進しよう。

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驚異の数、魅惑の図形「偏愛的数学」

 ひたすら驚き、戸惑い、不思議がる数学書。

偏愛的数学1偏愛的数学2

 簡単な四則演算なのに、単純な円や三角形なのに、驚くべき性質やふるまいを次々と紹介される。特徴は、タネやしかけを言わないところだな。普通の数学書だと、興味深い数や図形の性質を示した後、「なぜそうなのか」という証明を延々と述べる。ところが本書は、論証抜きで鑑賞しようというのが狙いになる。

 これは諸刃の剣で、数式や証明を追いかけるのが大好きな方には、フラストレーションが溜まるかもしれない。「驚異の数」で畏怖の念を味わい、「魅惑の図形」で視覚的美しさを堪能する、一風変わった数学書なのだから。その代わり、手助けとなる推奨文献の注釈が充実しているのでご安心を。

 著者曰く、「不思議だが本当だ!」でビックリさせられたのは、次の式「和ゼロの驚異」。これはなんて事のない偶然0になっただけの式に見える。

123789^2 + 561945^2 + 642864^2 - 242868^2 - 761943^2 - 323787^2 = 0

ところが、次の操作を行っても、和はゼロのままになる。

【操作1】 各数値の10万の位(左端の数字)を消してみると…

23789^2 + 61945^2 + 42864^2 - 42868^2 - 61943^2 - 23787^2 = 0

 なんと!結果はゼロのまま。さらに各数値の左端の数を消すというプロセスをつぎつぎにくり返してみると…やはりゼロのまま。信じられないが、本当だ。だんだん怖くなってくる。

3789^2 + 1945^2 + 2864^2 - 2868^2 - 1943^2 - 3787^2 = 0
789^2 + 945^2 + 864^2 - 868^2 - 943^2 - 787^2 = 0
89^2 + 45^2 + 64^2 - 68^2 - 43^2 - 87^2 = 0
9^2 + 5^2 + 4^2 - 8^2 - 3^2 - 7^2 = 0

【操作2】 各数値の1の位(右端の数字)を消してみると…

12378^2 + 56194^2 + 64286^2 - 24286^2 - 76194^2 - 32378^2 = 0
1237^2 + 5619^2 + 6428^2 - 2428^2 - 7619^2 - 3237^2 = 0
123^2 + 561^2 + 642^2 - 242^2 - 761^2 - 323^2 = 0
12^2 + 56^2 + 64^2 - 24^2 - 76^2 - 32^2 = 0
1^2 + 5^2 + 6^2 - 2^2 - 7^2 - 3^2 = 0

【操作3】 さらに、右端と左端の数字を同時に消してみると… 

2378^2 + 6194^2 + 4286^2 - 4286^2 - 6194^2 - 2378^2 = 0
37^2 + 19^2 + 28^2 - 28^2 - 19^2 - 37^2 = 0

 なんでこんなことができるんだ!と目を疑う。この規則性が一般的でありえないのは明らかだが、そもそも誰がどんなきっかけで思いついたんだと想像すると、正気と狂気の境目に目を剥く。

 もっと単純に、美しさに気づかされることがある。実際に足すことなくたくさんの数値の和を求める話で、次のS1、S2の式がある。これらは等しいだろうか?

S1 = 100000000 + 120000000 + 123000000 + 123400000 + 123450000 + 123456000 + 123456700 + 123456780 + 123456789
S2 = 987654321 + 87654321 + 7654321 + 654321 + 54321 + 4321 + 321 + 21 + 1

規則性は瞭然だが、足さずに表に示すことで、直感的に結果が明らかになる。
Calc
 こんな感じで、おなじみ友愛数や回文数から、ネーピアの算木、ロシア農夫式乗算法といった数の不思議さを満喫する。

 さらに下巻では幾何を中心に扱い、円、三角形、長方形といった一見単純に見える図形から引き出された驚くべき(でも正しい)事実を述べている。ナポレオン三角形なんて、ここで初めて知った。おもわず「あっ」と叫んだのは、「円に内接するどんな四角形からでも長方形を導き出す方法」だ。円に内接する四角形の各角の二等分線を引き、それらが円と交わる4つの点は、いつでも長方形をなすという。これはスゴい!

 おそらく中学レベルの問題なのだろうが、とっかかりがつかめぬ。「円に内接する」という本質が分かっていないのだろう。けれど、「証明」してしまったらこの魅力がタネ明かしされてしまう。完全に負け惜しみだが、ここは不思議なままにしておこう。今の頭だとエレガントな解法が思い浮かばない…半径1、原点(0,0)の円と円周上の4つの点を適当にとってゴリゴリ力技でやっちゃいそうだなぁ…


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夫必読「しんきらり」

しんきらり 妻の気持ちを思いやる助けとなる。未婚の男性なら、「部屋とワイシャツと私」が十年たつとどうなるか? を想像するのに役立つ。読者は女が多いらしいが、むしろ男が読むべき。

 結婚して十数年、わたしと嫁さんの距離はどんどん変わってきた。カイシャやネットのそれぞれの「場」で人格を使い分けるように、二人の関係は切り替わるように変わっている。子育てなら戦友、目が離せない年齢の現場は戦場そのもの。生活面ならパートナー、分担した家事を見直すときは、ルームシェアしているようにドライだ。趣味なら親友、読んだ本のオススメ合いや、深夜アニメで夜を徹したり。

 キレイごとばかりではない。「これ以上言ってもムダ」と飲み込んだ、まさにその言葉をぶつけてくる。相手の感情をかき乱すゲームなら、世界一優秀なプレイヤーを前にして、怒らないよう自制するのは難しい。あきらめと口惜しさを感じながら、全く同じ感情を相手も味わっていることに気づく。「喧嘩しても寝る前までに仲直りしましょう」なんてアドバイスがあるが、無理だよ。

 寄り添ったりすれ違ったり、拒絶されたり頼られたり、生活を伴にすることはかくも難しい。子どもが小さいうちなら、「子ども」メインで語ればいい。だが、子は成長する。家の外で過ごす時間が長引くにつれ、「ふたり」の時間が相対的に長くなる。夫婦という間柄は変わらないのに、その中身がどんどん変わっていく矛盾。

 そういう日常風景を描いているのが、本作品。夫婦の亀裂が広がる瞬間を、ヒヤリと鋭く描く。そのとき妻が何を思い、どう堪えている(あるいは吐き出している)かが、見える。会社という避難所に逃げ込む夫を卑怯だと思い、家庭という入れ物に取り残されているように感じる。日常をつくろいながら、夫への不信と忌々しさをあぶりだす。

 子どもが成長し、手がかからなくなる。それは嬉しい反面、母という役が薄らいでいることに気づいて不安になる。夢とかロマンとか許されるのは男であって、現実をつきつけられて夢を見れなくなっているのは女だと怒る。「ツマやコみたいな"あてがいぶち"もらうと、もう恋愛なんかしちゃいけないっていうのが、常識になるのよね」とうそぶく。その独白は隣で聞いているように生々しい。

    結婚生活に
    過大な期待をもたず

    ただ平和な日々が
    おくれたらと
    ささやかな…

    夫婦が長く平和に…
    という望みは

    「ささやか」な望みなんかじゃ
    なかった

    こんなに激しい夢って
    なかったんだ

 「こんな夫じゃないよな、オレ」と弁解しながら、読む。どうやらこの夫、「夫は会社、妻は家庭」という昔の考えだったようだ。家事は一切やらず、休日はゴロゴロ。あたりまえだ、本作が描かれたのは30年前だから。それでも、彼が押し殺している不安も明らかになる。妻が「妻という役」をしなくなったらという懸念、自分が不要になるのではないかという動揺が、「夫という役」に固執させるのか。

 「関係は変わっていくもの」、これを知っている分、わたしは、この「夫」より不安を感じずに済む。すいすい水面を滑る水鳥は、水面下では必死に足をかいている。「夫婦」という間柄はそのままだが、その関係は変わっていくのだから。夫婦関係とは、ささやかで、激しい関係なのかもしれない。

 本書は、松丸本舗で「呼ばれた」一冊。いい選書、ありがとうございます。


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「香水」はスゴ本

 これは、面白い。18世紀フランスの、「匂い」の達人の物語。

香水 匂いは言葉より強い。どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。目を閉じることはできる。耳をふさぐこともできる。だが、呼吸と兄弟である「匂い」は、拒むことができない。匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まっている。

 だから、匂いを支配する者は、人を支配する。

 主人公はグロテスクかつ魅力的。恐ろしく鋭敏な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、匂いによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着心をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。嗅覚という、言語よりも精緻で的確で膨大な「語彙」をもつがゆえ、人とコミュニケートする「言葉」の貧弱さを低く見る(というか興味がない)。さらに、頭で匂いを組み合わせ、まったく新しい匂いを創造することができる。彼によると、世界はただ匂いで成り立っている

 そんな男が、究極の香りを持つ少女を、嗅ぎつけてしまったら?

 主役が主役なら、脇役も鼻持ちならない。銭金、名誉、欲情のために、平気で道義を踏みにじる。悪臭ふんぷんの魑魅魍魎の行く末が、これまた痛快だ(なんでかは読んでくれ)。無臭、異臭、体臭、乳臭さから、酒臭さ、きな臭さから、血腥さまで、ぜんぶの「臭い」がそろっている。そして、強烈であればあるほど儚い。著者・ジュースキントは、文字どおり雲散霧消する運命も重ねている。

 化物たちの舞台となるパリが、これまた鼻にクる。通りは汚濁まみれ、垂れ流しの下水がツンと鼻を刺す。魚や屠畜の腐臭から、鼻を背けたくなる疫病の膿んだ臭い、死体の山から漂う、目を開けてられないほどの激臭が、小便とカビと灰汁と経血の汚臭と入り混じって、何層も街を覆う。18世紀のパリは、さぞかし臭かったんだろう。

 そんな中、馥郁たる香気が、救いのように漂ってくる。「臭い」に限らず「匂い」の描写がまたスゴい。悪臭も芳香も、じつに絶妙に立ち上がってくるので、ページを繰る手をちょっと止めて、思わずくんくんしたくなる。食欲ならぬ嗅欲がわいてくるから不思議だ。

 かくいうわたしも、匂い/臭いは大好き。タバコをやめて10年来、最大の変化は嗅覚になる。近しい人の機嫌や体調を、顔色よりもにおいによって推し量る。生理中の「あの臭い」は瞭然だが、生理直前の「あの匂い」が分かるようになった。デオドラントでつけた人工的な「香り」はすぐ分かる、「香る」のではなく「匂う」のだ。それは匂いというより、「むっとした感じ」に近い。ナッツ系の微かな脂質を伴う粉っぽい「感じ」で、花の匂いからそれぞれの特徴をことごとく取り去って、残った共通項に近い(「ヴァギナ」の著者の説明が分かりよい)。

 作中のノワール感はジム・トンプソン臭、寝食忘れてイッキに読んで、めくるめくにおいの(匂いの/臭いの)饗宴に陶然となれ。


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