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愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ること「人間の土地」

 傲慢で独善、だが羨ましくてたまらない。

人間の土地 読んでいて、何度も妬ましい炎に焼かれる。サン=テグジュペリはあらゆる乗り物が果たせなかった、速度と高度を得ただけでなく、その高みから観察する目と、見たものを伝える言葉を持っていたのだから。

 たとえるなら、究極に達したアスリートかアストロノーツが還ってきて、自分のセリフで批判を始めたとき、わきあがる嫉妬の痛み。一つ一つわたしの胸に刺さる言葉は、究極からの帰還者だから吐けるのか、究極への到達者だから見いだせるのか、分からない。分かるのは、わたしには絶対たどり着けないことだけ。

 サン=テグジュペリはこんなセリフを吐く、「愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ」。名言として知ってはいたが、まさかサン=テグジュペリが、しかも「人間の土地」で述べていたとは。しかもこれ、両想いの男女のことではないのだ。

 このセリフは、路を失い、砂漠に墜落して、それでも奇跡的に助かった彼と僚友のエピソードから酌みだされる。航路から外れており救出隊は絶望的だ、食糧は燃え尽き、水は砂漠が吸ってしまった。2人は生きるためにあらゆる手立てを尽くそうとするが、ことごとく失敗する。渇きに声を失い、幻覚が見はじめ、死まであとわずか。2人のあいだに、一種の"希望"のように横たわるピストルが不気味だ。

 そこで、残骸の中から一果のオレンジを見つけるのだ。すぐさま2人で分かちあう。そして、死刑囚の最期のタバコのように味わう。そして、進むために、もう一度立ち上がる。同じ運命に投げ込まれ、ピストルやオレンジを前に顔を見合わせることも可能だ。だが、彼らはそうしなかった。東北東に進路をとって、歩き続ける。この名言は、生死ギリギリのところから酌みだされた美酒なのだ。

 サン=テグジュペリはこんな言葉もいう。「完成は、付加すべき何ものもなくなったときではなく、除去すべき何ものもなくなったとき、達せられる」。これも彼の言葉とは、本書で出会うとは思わなかった。速度と高度にしのぎを削る時代、まだまだ飛行機は洗練から遠かったはずだ。そんな中、彼は、発達の極地に達したら、機械は目立たなくなるというのだ。発明の完成とは、発明の忘却と踵を接しているのだと。なめらかな光沢をもつiPodを見ていると、しみじみと迫ってくる。目的=デザインが完全一致したとき、それは完成に至る。

 いっぽう彼は空を見上げ、この新しい"玩具"が野蛮人の子どものためのものに堕しているという。高さと速さを目指す、飛行機競争なのだ。そして競争のほうが、さしあたり、競争の目的より重要視されているのだ。宮崎駿の描く、多くの"空を飛ぶもの"がそれだ。飛距離、貨物量、攻撃性能が次々と付加された飛行機械たち。唯一、目的=デザインが一致しているものは、わたしの知る限り、メーヴェになる。

 こんな風に、サン=テグジュペリは、砂漠に隠してある井戸をつぎつぎと指差す。「他人の心を発見することによって、人は自らを豊富にする」や、「他人にはわからないのだ。彼が遠近法を変えて、その最後の時間を人間の生活となしえたことが」など、世界の、人の美をつぎつぎと再発見する。まさに、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ」というキツネとして、彼が見たものを伝えてくれる。

たとえ、どんないそれが小さかろうと、ぼくらば、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる。なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから
 その、"かんじんなこと"は人により、年代により、違う。わたしが20代なら、大儀に尽くすヒロイズムさに撃たれたかもしれないが、オッサンになった今は違う。生あらばこそ、なくば犬死(そしてその数のなんと多いことか)と、むしろ哀れむ。そして、還ってこれたことを一緒に乾杯してやりたい、肩をたたいてやりたい。

 そして言ってやる、「生きることに意味はない」ってね。意味を与える行為は崇高だし否定するつもりはない。だが、わたしたちは、ただ生きることしかできないってね。生きることを、他のこと―――記録だとか理念だとか英雄的行為といった「生きる」以外のことで意味づけしても、生きる意味は「ただ生きる」しかない。意味づけが活かされるのは、その人が死んだときだ。死後の名声が気になるなら殉ずるがいい、だがそれは「あなたが生きる」ことではないんだよ、「あなたが生きたこと」なのだ、って言ってやる。

 これは、再読のたびに味わいが変わってくる美酒。「星の王子さま」だけじゃもったいない、実践となる一冊。

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考えない練習

 Don't think, Feel!  考えるな、感じろ!

考えない練習  本書の肝は、ブルース・リーが断定している。しかし、これは格闘の書ではない。イライラや不安から逃れ、いかにラクに生きるか、「脳より五感」を高めることで提案する実践書だ。

 そのポイントは、「考えること」より「感じること」、しかも能動的に感じとるよう意識を集中させる。目・耳・鼻・舌・身の五感に集中しながら暮らすことで、無駄な不安や空回りする思考を排除し、さらには思考そのもののコントロールを目的とする。なにやら難しげに聞こえるが、心配ない。例は今風だし、方法は今日からできる。

 たとえば、煩悩の話はMatrixみたいで面白い。人は常に現在に集中できるワケではなく、過去の後悔や、未来の心配事を、行ったり来たりしている。過去や未来のノイズに囚われていくうち、心のメモリが食い尽くされ、今を生きる実感を処理する余地がなくなってしまう。ノイズのほうが現実感覚に完全に勝利したとき、人は呆けるという。つまり、過去のデータにのみ支配され、新しい現実がまったく認識できなくなるというのだ。

 tumblr 経由のブッダの言葉とシンクロする。

     過去にとらわれるな
     未来を夢見るな
     現在の、この瞬間に集中しろ

     Do not dwell in the past,
     Do not dream of the future,
     Concentrate the mind on the present moment.

 ではどうしろと?「考える葦」たる人間が考えないようにするのは、困難というより不可能ではないか―――そんな問いに、シンプルに応える、「ひとつひとつの動作に鋭敏に意識を置きなさい」と。つまり、それぞれの動作に対し、触覚・視覚・聴覚・嗅覚・味覚をそば立てるのだ。

 さらに、いま自分の心が何をしているのか普段から見張れという。防犯チェックのように、常にセンサーを張り巡らせておき、思い出してチェックするのだ。勝手なことを考え始めていると気づいたら、「考えている」ことより「感じる」ほうに意識を集中させよという。

 たとえば、「食べる」ひとつを取ってみてもこんな感じ。まず、食器を持つ際、触った感覚を意識する。食物を口に入れたら、いったん箸をおき、目を閉じて、味覚に集中する。さらに舌の動きに留意する。いま舌がどのような姿勢でいるのか、触覚を感じながら「食べる」というのだ。これが、「考えない食べ方」のレッスンになる。

 他にも、「聞く」「見る」「話す」など、一言で示せる動作ほど、多くの感覚の束で成り立っている。それを、一つ一つ感覚をスライドさせながら集中するのだ。その場合、「感覚に能動的になれ」とアドバイスする。つまり、「見えている」ではなく「見る」、「聞こえている」ではなく「聞く」といったように、自分から感覚を対象に向けるよう心がける。

スローセックス実践入門 お坊さんだから「食」の例えがせいぜいだが、わたしは「色」で拡張しよう。感覚が鋭敏になり、意識的な動作を心がけるのは、セックスだ。パートナーの高ぶりや興奮状態にあわせて、カラダの動きに自覚的になるから。スローセックス入門で知った、触るか触らないか寸前のパームタッチで、ゆっくり期待させ、じっくりじらして、たっぷり満足させる。キスひとつとってもそう。互いの唾液を味わいながら、蠢く舌や息の通る音、むむむといった蠕動が直に頭ン中に響く。顔の火照りと吸われる痛み、ナッツ系に脂の混ざった香りが直接、脳にクる。

 こんなとき、「考える」のは不可能だね。

怒らないこと わたしの煩悩はさておき、「怒りの扱い方」については良い復習になった。怒りがわきあがったとき、それをカッコにくくって見つめろというのだ。つまり、「今わたしは怒っている」ことに自覚的になり、肯定も否定もせずにただ認識しろという。これは、「怒らないこと」で知った怒りのコントロール手法。完全にモノにしていないが、役にたっているぞ。

 また、「ありがとう」を強要する宗教本、自己啓発本に釘を刺す。現代日本に蔓延する、「ありがとう病」は心を歪ませるというのだ。思ってもいないのに「ありがとう」を無理に言う
とか、「ありがとう」を唱えていれば幸せになれるとか、やめてしまえと。代わりに、「ありがとう」という言葉を使わずに感謝の意を伝える工夫をせよという。ともすると「ありがとう」を連発しがちなわたしの耳に痛いけど、やってみよう。

 仏道はライフハック、良く生きるための原則と事例が詰まっている。苦悩から脱し、(肉霊含めた)自分自身から自由になるために―――考えない練習をしよう。

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音楽と快楽のあいだ「響きの科楽」

 ずっと不思議だった疑問、「なぜこの曲に心が震えるのか」。

響きの科楽 その謎が、ようやく解けて感動してる。しかも、分かったからといって、その曲への愛着が薄れるどころか、いっそう(狂おしいほど)増している。音楽について新しい耳をもたらしてくれる、嬉しいスゴ本。

 音楽は音から成り、音とは振動のこと。振動が音になるしくみは糸電話で子どもに説明できる。だが、音楽の音と、雑音の音の違いは何か、いつ音は音楽になるのか、そして、なぜ音楽を聴くと心が揺さぶられるのか……音楽家でもあり物理学者でもある著者は、科学的に解き明かす。同時に、音楽を「芸術」という枠に押し込めていた思い込みを砕いてくれる。音楽は物理学を基盤とした工学であり、論理学に則った芸術なのだ。

 まず、本書でいちばん嬉しかった部分―――「なぜこの曲に震えるのか」を振り返る。音楽が感情を揺さぶるのは、転調に秘密があるという。音階が上がっていくにつれ、その調の最後の部分に「もうすぐ到達」するような感覚が与えられる。「もうすぐ到達」の音がメロディやハーモニーに現れると、到達したいという欲求が生じるため、聴き手は、次の音が主音になるはずだと感じる。

 そう期待させておいて、最後を主音に帰着させると、聴衆を満足させることができる。いっぽう、欲求を喚起させておいて、転調することでいったん裏切り、じらして、満たすことで、より一層気持ちよくなる。フレーズの連なりで期待と満足をゆききするのが、音楽の快楽の源泉なんだと。

 試みに、「サンボマスターは君に語りかける」を、フレーズ最終音だけに集中して聴く。すると、期待を裏切る音に入るとき、必ず転調していることに気づく。同時にそのとき、スウィングしてる感覚がある。swingは色々な意味があるが、わたしの解釈だと、"フェイント"に近い。ドリブルで右へ行くと見せかけて左とか、スプラッシュマウンテンで落下が始まって、気持ちが0.1秒くらい上に残っているような感覚。意識が肉離れしたような感じ。

 いったん仕掛けが分かると、あとはサルのオナニー。最終音が主音になるか、期待と裏切りを意識するだけで、ものすごく気持ち良い。ただ、転調しまくると曲についてゆけず、気持ち酔い状態になることも分かった。同時に、ずーっと不思議だったベートーベンの交響曲第5番の謎が解けた。有名な冒頭の「ダダダダーン」よりも、第3楽章が大好きなのは、ハ長調への転調にゾクゾクしてたんやね。

 次に、ハーモニーの気持ちよさも「カラダで」だけでなく「リクツで」分かって嬉しい。同じ周波数の倍数が増幅して響いていたんだね。また、どの周波数を弦に割り当てるかといった考察は、平均律を探る歴史をひも解くことになる。わたしの知識はピタゴラスどまりだったが、本書のおかげでようやく乗り越えられた。周波数の比が単純な数であることと、そのハーモニーが"美しく響く"ことは別物なんやね。

 その延長で、驚くべき事実を知った。わたしがモーツアルトの音楽を聴くとき、彼が意図していたよりも、半音高い音で聴いているのだ。なぜなら、モーツァルトが使用していた音叉は、1939年に決定された標準的なピッチと異なっているから。現代の「A」(ラ)は、モーツアルトなら「少し外れたBフラット」(シ♭)と呼ぶはずだという。モーツァルトの譜面どおりに演奏するべきか、それを書いたとき、彼の頭で聞こえていた通りにするべきか……悩ましい問題であるいっぽう、「モーツアルトの意図した通りに再現してみました」という企画は人気を呼びそう。

 ひょっとすると、わたしが無知なだけかもしれない。このモーツァルトの話は常識レベルで、主音と調、ピッチと和音の関係のように、音楽好きには「あたりまえ」かも。そんな方の意見をぜひ聞いてみたいのが、「転調を検索できるか?」―――こんな仕掛けだ。

  1. 曲名を入れると、その曲の転調のパターンを調べる
  2. 得られた転調のパターンに似た、別の曲を探してくる

 同じジャンルなら、おそらく「聴いたことがある」曲調になるだろうが、ポップからクラッシック、ロックからジャズと跨ると、懐かしいのに新しい曲に出会えるのではないだろうか?「わたしが知らないスゴ曲は、きっとあなたが聴いている」を実現できないだろうか?

 音楽と快楽の間には、転調のパターンが存在する。曲と転調パターンのマッチングサービスがあるならば、銭金出しても問うてみたい。だって、聴いていないマイベストが得られるんだぜ!?

 鼻息の荒いわたしに嫁さん曰く、「それは無理」。そしてエレクトーンでドラクエのテーマを弾いてみせる。なにゆえドラクエ?いぶかしむわたしをヨソに、主音を変えて、やっぱりドラクエを弾く。音が上がっても、やっぱりドラクエに聴こえる。「調とは音の組み合わせだから、どの調にするかは、演奏者に委ねられている。結果、"どのドラクエ"も弾けてしまう」と。なるほど……でも、"マイケルが歌ったBAD"は既にあるから、後は解析するだけじゃね?と返すと、「その労力はとーーっても大変、Googleじゃあるまいし…」とのこと。

 Googleセンセが「本」を解析してレコメンドするサービスを画策しているらしいが、絞込みの精度のチューニングがかなり必要だろう。でも「音」なら、転調パターンという単純だが大量の情報を漉しさえすれば、あとは独壇場となる……さてこのアイディア、コロンブスの卵か、車輪の再発明か。

 ほかにも、「ハ長調は純粋」「変ホ長調はロマンティック」といった調と情緒の神話を暴いたり、楽器を2倍にしても音が2倍に聞こえない脳の仕組みを紹介したり、目からウロコ、いや耳から栓を吹き飛ばすようなネタが、ユーモアたっぷりに紹介されている。

 クラッシックからヘビメタまで、根本的なところで音楽を理解する一冊。

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ビブリオバトル夏編@紀伊國屋書店

 オススメ本を紹介しあい、一番読みたい一冊を決めるビブリオバトル。今回は小飼弾さんに挑戦し、アツいトークになったのだが……結果は驚くべきもので、ちとしょんぼり。とはいえ、この反省を糧に自分のやり方を模索していこうかと。

20110821

 まず、小飼弾さん、わたしの挑戦を受けていただき、ありがとうございます。そして、「弾さん目当てに観覧者が詰めかけて混乱するかも」という主催者の心配を汲んで、「お忍び」モードで参戦されたことに感謝……ところが、本の紹介そっちのけで「本とは何か」のトークバトルになり、当然5分じゃ足りなくなり、凄くもったいないことに。

醜の歴史 かくいうわたしは、ウンベルト・エーコ「醜の歴史」をプッシュする。これは、対となる「美の歴史」と併せて読むと、興味深い事実が浮かんでくる。それは、「美は相対的なものだが、醜は必ずしもそうではない」こと。「美の歴史」は即ち美術史になる。つまり、美しいを決める文化的・歴史的なバックボーンを持つ。いっぽう「醜」は、(美と対応するような)相対性だけでなく、絶対的な醜さ―――「絶対醜」がある。

 それは、本能的に嫌悪感をもよおさせるようなもので、生命を守るための巧妙な仕組みなのかも……なんて主張を、「世界一醜い犬のコンテスト」でダントツ一位のサムとか(googleり注意!危険画像)、ゲーテ「ファウスト」のワルプルギスの夜の一幕を紹介した。

 他の参戦者のオススメ本は、池上永一「風車祭」(カジマヤー、と読むらしい)になる。ジェットコースターに乗っているような、めくるめくエンタメだという。紹介者のアツい想いがビシバシ伝わってくるプレゼンで、思わず読みたくなる。ただ、池上作品は「テンペスト」を読めーとオススメされているので、どちらを先にすべきか悩ましいところ。

 小飼さんオススメは、技術評論社の雑誌「Software Design 2011年9月号」。雑誌そのものの紹介ではなく、特集「トップエンジニアのお勧め本55」で紹介した記事を元にプレゼンするという、メタ構成となっている。iPad片手に「本は紙である必要はあるのか!?」と、挑発的な迫り方に、ヒヤヒヤ・タジタジさせられたけど、最もスリリングな「本語り」だった。

 また、「小僧の神様」をプッシュする方も。何ゆえ今さら志賀直哉?疑問を見透かすように、丁寧に説明する。教科書にも載るような有名文だが、現代は名文が書かれなくなっている時代だという。昔(教科書で読んでいた頃)は、志賀直哉と一体化して読む必要があったが、今はそうではなく、著者から自由に離れて読めるようになったという。ところどころ「引っかかり」「落差」を仕掛け、つるつるっと読ませない「名文」の好例なんだって。

 さらに、夏ぴったりの「みちのく怪談傑作選」が紹介される。これは前回のビブリオバトルで「人生で一番コワい本」として教えてもらったもの。怖いの大好物なので読んでしまったのだが、プレゼンが上手くて勉強になる。コワさをソソる、ゆっくり目のしゃべり+ビジュアルの相乗効果はマネしよう。あと、豆知識も得られて嬉しい→「怪談といえば夏なのは日本で、欧州では冬が怪談シーズン。なぜなら、11/2が死者の日だから(日本の盆にあたる)」

 この中で、ダントツだったのが……「小僧の神様」!なぜだー分からんーと頭抱えるわたしをヨソに、嫁さんが冷静に分析する。曰く―――

  1. 投票する人は、消去法で選んでいることに、いいかげん気づけ
  2. ジャンル分けもインタレストマッチもしてないから、ただ漫然とお勧めを並べても、読書欲を喚起させることは難しい
  3. 「それ良い」と積極的に手を上げる人よりも、「それ良い」と妥協している人のほうが、圧倒的に多い
  4. アンタのシュミは非常に偏っているから、アンタのプライドを満足させる本を紹介する限り、ウケることは、ぶっちゃけありえない
  5. 万人ウケするような本を選びなさい、一般ウケなら「お金」「健康」「成功」「異性」、でなきゃ映画やドラマとタイアップした流行りモノ
  6. わざわざ本屋にやってきてビブリオバトルの観客になる人なら、知的好奇心よりも、知的自尊心を満足させるような本を選べ
  7. 知的自尊心を満足させるような本とは、それ持ってる(読んでる)アタシってステキ!と思わせるようなもの
 よし分かった!プライド捨てて観客の知的自尊心をくすぐるような本を選ぶぞ―――といったん決心するのだが、それはそれで、ちと哀れだ(自分が)。どういう本が「ウケ」るかは知っているが、それはわたしの価値観とかなり異なっている。勝ちを狙うあまり、「わたしのオススメ」を捻るのは転倒しているからね。両者の折り合いのつくところを、(ブックトークの精進も含めて)模索していこう。

 主催の瀬部さん、ありがとうございます。飲み会もたいへん楽しく、タメになりました。アニメ「化物語」の副音声は必聴だとか、筒井康隆本人が朗読する「蟹甲癬」を聴いて震えろとか、物語を語るなら「ギャグマンガ日和」は外せないとか、文字どおり「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」状態。楽しさのあまり気づいたら家と逆方向の桜上水で終電を迎えることに。このトシになって記憶と時間を跳ばすほど飲むなんて……

 次は、独善避けつつバトルよりトークに力点を置いて、飲みすぎに注意しよう。


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安くて野蛮でやたら旨い「檀流クッキング」

 「安くて旨い料理教えろ」というトピックに最適な一冊。

檀流クッキング レシピ本は親切だけど、信頼するのはクチコミになる。掲示板やコミュニティでかじったレシピを頼りに、すばらしくうまい一皿を作ったことが何度もある(ピェンロー鍋とかアンチョビソースのパスタとか)。嬉しいのは、ただ簡便なだけでなく、「ここだけ肝心」「これはこだわる」といった、ポイントを突いているところ。

 本書はそんなキモが並んでいる。しかも、完全分量度外視の原則を貫き、アミノ酸至上主義をせせら笑うレパートリーが並んでいる。「塩小さじ1/2」みたいな科学調味料的態度を突き抜けて、塩の量がいかほどと訊かれたって、答えようがない、君の好きなように投げ込みたまえ、と言い切る。

 それでも、「ゴマ油だけは、上質のものを使いたい」とか、「暑いときは、暑い国の料理がよろしい」のように、妙な(だがスジの通った)こだわりが出てくる。おそらく、ない材料はなくて済ませはするものの、ここを外しちゃダメだ、という最低限の勘所だけは伝えようとしたからだろう。ヘタの横好きのわたしでも分かる、料理で大切なのは「下ごしらえ」なことを。檀センセは説明を厚くすることで、その勘所を伝授する。

 たとえばこうだ、「イカのスペイン風」。文を箇条書きにしてみた。

  1. どんな種類のイカでも結構……ヤリイカ、スルメイカ、モンゴウ、ホタルイカ、手当たり次第実験してみるのがよろしいだろう
  2. まず、魚屋からイカの全貌を貰ってくる。キモとか墨とか抜かれてしまったら、私の「プルピードス」はできないから、「そのまま」と念を押して買って帰るがよい
  3. 棄てるのは、イカの船(軟骨)とか、イカのトンビだけで、あとは肝も墨も一緒にブツブツとブッタ切ればよいのである
  4. モツも、キモも、墨もゴタまぜにして、よくまぜ合わせ、いわば、イカの塩辛のモトみたいなものをつくるのである
  5. 薄塩をする。少し、生ブドウ酒や酒などを加えれば、もっとおいしいにきまっている。ほんの一つまみ、サフランを入れても良いが、なに、塩コショウとお酒だけで結構だろう
  6. この下味をつけたイカを十五分くらい放置した方がよろしいようだ
  7. フライパンにオリーブ油を敷く。サラダ油でもよろしいが、ニンニク一かけらを押しつぶして落とし、トウガラシを丸のまま一本入れるのを、私はバルセロナで確認したから、その通りやって貰いたい
  8. さて、猛烈な強火にし、煙が上がる頃一挙にイカを放り込んで、バターを加え、かきまぜれば終わりである
 どうだい、この豪快さ。「指でかきまぜる」「猛烈な火勢で瞬間いためる」「一挙に放り込む」―――全篇こんな感覚で、ついでにヨダレも垂れてくる。上の通りに作ったのがこれ。キモがやたら美味で、子どもに大好評だったナリ。赤ワインのつまみになったけれど、確かにこれ、パンに浸しながら食べたら絶品だろうなぁ…

Photo

 レシピ本でも掲示板でも、読み手に一番重要なのは、「作れるかも…」ではなく、「作りたい!」というモチベーション。写真もイラストもないのに、文字だけでソソる上手さ(美味さ?)、読むと作りたくなる料理本なのだ。イカのスペイン風「プルピードス」は絶対作るぞ。煮る、焼く、蒸すを全行程するトンボーロ(豚の角煮)は食べたい。いつもは圧力鍋に頼っているが、1日使って挑戦しよう。麻婆豆腐の隠し味にアンチョビが有効なのは初めて知った、やってみよう。

 ただ、これが出たのが40年前。物価高のおかげで、お世辞にも「安い」といえなくなってたり、手に入れることが難しくなってるものもある。皮付きのカツオが手に入っても、藁を探すのに一苦労するだろうなぁ…だがここに、全メニューを作った猛者がいる。ぜひご覧あれ→檀流クッキング完全再現

 本書は、幅書店の88冊のうちの一冊として知った(幅さんに感謝)。「本書の一品一品を、わが腕に叩き込むように覚えてゆけ」を文字どおり実践して、愉快痛快クッキングパパを目指す。


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食べることは、色っぽい「飲食男女」

 みだらで、せつなくて、うまそうな掌編たち。

飲食男女 食べること、味わうことは、なにも「食」に限らない。「食べる」「味わう」には、男と女の味がする。「食」も「色」も同じショク、食事も色事も同じ事か。男と女の艶話に、食にまつわる伏線が、張られ絡まれ回収される。

 少年時代の甘酸っぱさは「ジャム」に注がれるレモン汁に象徴され、性春のひたむきな欲情は、「腐った桃」の、ゾッとするくらい甘い匂いに代替され、酸いも甘いもかぎわけた行く末は、「おでん」の旨みに引き寄せられる。同時に、イチゴジャムに喩えられた血潮の鮮烈なイメージや、山茱萸にべっとり濡れた唇が「あたし、いまオシッコしてるんだ」とつぶやく様は、いつまでも読み手につきまとって離れないだろう。

 ありそでなさげな、でもひょっとしたら…というポリウレタン的寸止め感覚にぞくぞくする。ファイト一発的な青い性よりも、(書き手の年齢からくるのか)ちょっと疲れた年齢の、それでもやめることができない色話が多め。ハルキのように寝たがる女たちと、チェホフのように深刻な関係に陥る、困った男たち。

 一頁目でガツンと犯られろ。信じるか、信じないか。

ぼくは、女の人のもう一つの唇が物を言うのを聞いたことがある。ずいぶん昔のことだが、ほんとうの話である―――
 虚実の境目を探すのが面白いし、さらに、虚を自分の体験や妄想で上書き保存すると、さらに愉しい。

 「桃狂い」と「とろろ芋」が秀逸だ。食べるものが、ストーリーにも、行為にも、ダイレクトに絡んでくる。危ないのは、「桃の匂い」「とろろの痒み」を自分の記憶として上書きしてしまうこと。次に実際に桃やとろろが出てきたときに平静でいられるか。メタファーが経験に影響してくる。

 「色」のアイテムとしての「食」は、メタファーとしても使える。古くて申し訳ないが、映画「ナインハーフ」の目隠し冷蔵庫プレイを思い出す。フルーツの fresh と 果肉と肉欲の flesh と、あまり知らない相手との新鮮なセックスを、"掛けて"いたのだろう―――いまさらながら、思い当たる。

 さらに、開高健の作品を思い出す(夏の闇か?)。行為の前に、よく熟したオレンジを一果、半分に切って、そこに振り掛けるとよろしいそうな。体液と混ざると、たまらなく良い芳香を放ち、むしゃぶりつきたくなるらしい。ただ、間違ってもレモンはダメで、すえたような臭いになるそうな。

 料理と一緒、思わずやってみたくなる。危うくて美味しくて、涙の味がする読書。

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ゲームで子育て「ダンボール戦機」

 これはヤバいぞ楽しいぞ、息子と対戦カスタマイズそして対戦の日々。

ダンボール戦機

 本質は、「プラレス3四郎+ガンプラ+バーチャロン」。カスタマイズしたロボットを戦わせる、戦略を練る、戦術を選ぶ、動きを読み、裏をかき、一撃必殺―――これにアツくならねぇ漢はいねぇ!

 ペットを対戦させるのがポケモンなら、プラモを対戦させるのがダン戦。ポケモンで育ち、イナズマイレブンにハマった息子のハートを、LEVEL5はがっちりキャッチしている。ガンプラにハマり、Dreamcastがバーチャロン専用機だった親父にとって、中毒ゲームになっている。

 そしてこれ、カスタマイズで変化(へんげ)する。

 今までやってきた格ゲー、ロボゲーを思い出す。ミドルレンジなら、剣や棍の間合いを見切るソウルキャリバーやゼルダ。至近距離ならフトコロへ飛び込んで、ラッシュをかけるストII、バーチャ。中~遠距離になると、マシンガンからライフルまで、牽制かけつつ間合いを詰めるガングリフォンのノウハウを彷彿とさせる。地形やミッションで戦術を組み、瞬時にバトルスタイルを決めるなんて、アヌビスを思い出して嬉し泣き。わが人生におけるロボットバトルの神ゲーは、ガングリフォン(SS)、バーチャロン(DC)、アヌビス(PS2)、これにダンボール戦機(PSP)を入れよう

 しかもこれ、バーチャルゲームとリアルプラモの幸福な合体がある。

 ソフトを買うとプラモデルが同梱されている。さすがバンダイ、よくできてる。ニッパ不要の初心者仕様で、塗装済みパーツをランナーから折り取ってもバリが出ない仕掛けになっている。思わず「オレがオマエくらいの頃はな…」とガンプラの思い出を語りだす。ジム+赤ズゴックのためにライターでボディ溶かしたとか、ニッパがないので爪切りを使ってたとか、大人になったらエアブラシを買おうと決心してたとか。

 そんな親父の「いつもと違う顔」を見て、息子大いに驚く・喜ぶ。数年もすると「ウザイ」を連発するようになり、十年もしないうちに独りで暮らしたがるに違いない(わたしがそうだったから)。それまでの、束の間の、父と子の熱い時間に、どっぷりと浸る。わが家の「モノより思い出」は、デカい車を買うのでなく、PSPで通信対戦だ

 さらにこれ、組み立てて、動かして、フィードバックする"試行錯誤"が面白い。

 戦略を錬って、戦闘スタイルを自覚する。そのスタイルが、武器や腕や脚を替えたり、CPUやメモリを強化する方向を決める。息子は防御を厚くして、一発の大きい銃や剣を選んでいる。代わりに機動力が犠牲になっていることに気づかない。一方わたしは、弾避けの快感を味わいたいので、スピード優先・装甲薄め。遠間からチクチク撃ってアウェイの嫌らしいスタイルだ。

 いまの息子は、手数で圧倒的に負けていることは分かってる。にもかかわらず、「なぜ」なのかに至っていない。だが、PDCAをくり返すうち、気づくだろう。その「気づき」がこそが大切なのだ。そして、装甲と機動性のトレードオフに悩みだすだろうなぁ。ゲームの世界での因果律に気づくことで、より効率的に"強く"なれる。ゲームはリアルの抽象化、いかにルールを見つけモノにするか―――それがゲームの喜びなのだ。そして、その「ルールを探すゲーム」は、リアルに通じる。ゲームとは、因果律のシミュレーターなのだから

 また、経験値がパーツに蓄積されるに従い、自分好みのマシンだったものが「強いマシン」にチューンナップされる。つまり、「作る」楽しみと、「育てる」喜びがある。思い入れの強い、愛着まみれの、「オレだけの機体」なのだ。ちと残念なのは、名前がつけられないことと、塗装が選べないこと。できるなら、「テムジン」か「RX-78」にしたい、もちろん白い機体で。

PSP紅 エエトシこいた大人が、子どもとハマるダンボール戦機。能書きさておき、強くオススメ。この逸品のためにPSP買う価値あり(わたしは、情熱の紅いルージュ)。


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一粒の砂に世界を見、地球という系を無数の砂粒で理解する「砂───文明と自然」

砂 砂粒から地球を見る試みは、時空スケールの縮小拡大が急激すぎて、目眩するほど。

 潮流、ハリケーン、窓、堆積岩、古代の埋葬砂、風船爆弾のバラスト、ナノテクノロジー、医療品、三角州、化粧品、集積回路、小惑星イトカワ───これらに共通するのは、「砂」だ。砂がとるさまざまな形態を科学的知見で分析するだけでなく、砂を利用する人の文化的な側面にも光を当て、民話、数学、芸術から本質に迫る。ありふれた砂が、特別なものに見えてくる。そして、砂の惑星とは、DUNEではなく地球のことなんだと思えてくる。

 最も興味深かったのは、「個としての砂」の様相が、「集団としての砂」になると変わってしまうこと。そして空中と水中では、砂の振る舞いがまるで逆になること。砂粒の一つ一つは、分析の対象であり、石とシルトの間の、ちょうど風で飛ばされるだけの(そしてずっと空中に滞在しないだけの)大きさをもつ粒子になる。

 ところが、砂丘を作るほどの集団になると、風で飛ばされた砂が落下してぶつかった砂が曲線的な跳躍をし始める。個々の粒は跳ねているのに、粒子というよりも、なめらかな布や流体のような振る舞いをする。さらに、水の中に入ると、微細なシルトの粒子は互いにくっつき合って流れに抵抗し、反対に砂は泥土の上を流れ下っていく。

 個々の砂は流体のように振る舞うのに、水混じりの締まった砂は固体のようになる。流砂に飲み込まれた人を無理に引抜こうとすると、体が真っ二つになるそうな。その場にコンクリートで固められたのと同じ状態になるという。

 解決策は、「体をくねらせる」。体の周りにできた空間に水が入りこめばよく、後はゆっくり泳ぐように動くことで脱出できる。砂地獄が命に関わるのは、「吸い込まれる」からではなく、日射にさらされたり、潮が満ちてきておぼれ死ぬから。流砂に捕まることはまずないだろうが、覚えておこう。

 Wikipediaのような砂にまつわるエピソードも面白い。1944年に米国へ飛ばされた風船爆弾は、バラスト用の砂を解析されることで、日本東部の沿岸にある二カ所の砂の組成と同定される。さらに近隣の水素製造工場を空爆するあたりなどは、スパイ小説よりも奇なり。また、砂の科学捜査による古代遺跡の(当時の)位置の割り出しや、殺人犯行現場の特定は、ミステリ丸出しの描写だ。

 砂に触発された著者の発想がとてもユニークだ。砂山斜面でのなだれのダイナミクスを、「自己制御された臨界状態」と評したり、地層の年代の不整合を「地球の台帳」と呼んだり、堆積された砂の粒子が熱や圧力で化学反応を起こし、岩化する様を「地球の堆積岩というケーキ」と表現する。

 莫大な数を示す比喩として、「砂を数える」という言い回しが、どの文化圏にも存在する。著者はそこから想を得て、一粒の砂を「一年」として地球の歴史を砂山で表現する。コップ一杯の砂は300万粒だから、山盛りコップ三杯で初めて原始的な単細胞生物が出た頃だという。ちなみに、人類が出現するには、コップ12杯と1/3を加えて"現在"にしたのち、ひとつまみ取り除けばよいそうな。つまり、人類の歴史は砂ひとつまみ分なのだ。

 芸術から見た砂のウンチクもたっぷりある。ウィリアム・ブレイク「一粒の砂に世界を見る」から始まり、安部公房の「砂の女」が出てくる。鳥取砂丘に浸食される村を守るため、砂を片付けるために生きている女と、それに取り込まれた男の話なのだが、なんとリアル「砂の女」が出てくる(ただし日本ではなく、マリ共和国)。押し寄せる砂丘から村を守る、プロの砂掻き屋なのだ。また、砂丘のくっきりした陰影を官能的に描いた映画「イングリッシュ・ペイシェント」は、別名「砂とともに去りぬ」だそうな(観た人は納得できるエイリアス)。

 本書から得たのは知見よりも視野の深浅。たとえば、ダムが遮るのは水だとばかり思っていたわたしには、衝撃的な事実がつきつけられる。もちろんアスワン・ハイダムが引き起こした環境破壊は有名だが、長江の三峡プロジェクトはそれを上回る。上海の北に注ぐ長江のダム湖は、満水時に300kmになり、流下する土砂量は半減することが予想される。もともと上海は13世紀に形成された河口の砂州の上に建設されたので、海からの防護には砂の堆積と移動のバランスが欠かせない。これが崩れると、上海が「物理的に」流出するかもしれないのだ。

 また、ドバイの砂上に建てられた高層ビル、高層ホテル、レクリエーション施設は、マタイ伝7章26節「砂の上に家を建てることは、なんと愚かなことだ」に対する挑戦になる。ただ著者にいわせると、どんなに堅固な大地でも、砂は必ず含まれているため、すべての楼閣は砂上に建てられていることになる(それを実際に知るのは液状化後になる)。

 「砂」をめぐる旅は地球を越える。著者は、タイタンの細長い砂丘を見て、大気の潮汐から引き起こされる風が、(地球と同じように)複数の方向から吹いているという。また、火星の地表にある砂から、かつて火星には多量の水があり、海があったことを指摘する。谷や蛇行する水路や州があり、典型的な浸食の跡が残っているというのだ。

 つまり、砂があるということは、そこに大気や海洋、岩、生命体の相互作用が及ぼし合うエンジンとなる「駆動力」が存在するというのだ。砂だけが存在する惑星というものはなく、砂を砂たらしめるものが、惑星に系として影響を与え続けているのだ。粒としての砂から、水中、海中、空中を圏のように巡る砂のうごめきを想像すると、この星は砂に包まれて生きているように見えてくる。

 文明と自然を見る、新しくて馴染み深い視点としての「砂」を得る一冊。

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完璧な短篇、完璧な短篇を書くための十戒「美しい水死人」

Photo 「これを読まずしてラテンアメリカ文学を語るなかれ」と強力にプッシュされる。なるほど、「全部アタリ」「珠玉の」という形容がピッタリの傑作選(Motoさんありがとうございます)。

 短篇の名手といえばポーやチェホフを思い出すが、コルタサルやオクタビオ・パスは、そうした名人をベースに、まるで違う世界を紡ぎだす。"マジック・リアリズム"なんてレッテルがあるが、むしろ「奇想」というほうがしっくりくる。完全に正常に、誰も思いつかないような異常を描く、奇妙な想像力を持っている。

 瞠目したのが、「遊園地」を書いたホセ・エミリオ・パチェーコの奇想力。読むという行為で脳裏に形作られる世界が一巡したら、その世界に閉じ込められている自分に気づかされる。「読む」ことは、物語世界を取り込むことなのに、取り込まれてしまう。見ている自分が見られてましたという、人を喰ったというよりもわたしが食い尽くされるよう。

 さらに、奇想を奇想のまま放置する。つまり、因果関係や原因の解決までたどりつかないのだ(たどりつけないのかも)。異常現象が起きたなら、「なぜ?」という疑問を追いかける主人公に慣れ親しんでいると、連れまわされた後、とり残されてしまうだろう。狐につままれて、そのまま逃げられたような気分だ。「なんだ、あれは」と自問するが、けっして不快ではない。むしろ、その「つままれた」感触がザワつかせ、あれこれ想像の羽を広げる愉しみが待っている(そしてきっと、夢に出る)。

 たとえば、マヌエル・ローハスの「薔薇の男」なんて、要するに鶴の恩返し的シチュエーションだ。「わたしが合図するまで、けっして、この扉を開けないでください」という状況で、主人公は果たして扉を開けるのか、開けないのか…が一つ目盛り上がりになる。扉をどうするかは、読み手の予想どおりかもしれない。だが、二つ目のオチのほうに仰天するだろう。どうしてそうなったのかは説明がない、だから、自分であれこれ勘ぐるのだ。

 異常に『喰われる』感覚が見事なのが、コルタサルの「山椒魚」。写実に徹した描写で、ありふれた日常を描きつつ、細部に予兆のように狂気をしのばせる。最初は何でもなかった個々の亀裂やゆらぎが、進むにつれ世界を覆っていく過程に、読み手は同じ胸騒ぎ・同じ悪夢を共有するだろう。描写の分量が計算され、最適化されているため、正気と狂気の境目が見えない。気づいたら喰われてた、という読書。もし完璧な短篇というものを挙げるなら、この「山椒魚」か、「遊園地」を入れたい。

 解説がまたふるってる。ウルグアイのオラシオ・キローガの「完璧な短編を書くための十戒」が載っている。ケツの青い情熱も感じつつ、小説に打ち込むには、まさにそのケツの青い向こう見ずさ加減が必要なんだなぁと感じ入る。

  1. ポー、モーパッサン、キプリング、チェホフといった師を神のごとく信じよ
  2. 彼らの芸術近寄りがたい高峰と見なせ。夢にもその高峰に登ろうなどと考えてはならない。それができる時は、気づかないうちに登りつめているはずである
  3. できる限り模倣は避けよ。しかし、あまりにも影響がつよい時は、模倣してもよい。作家としての個性を伸ばすことはなによりも大切なことだが、それには長い忍耐を必要とする
  4. 勝利を得る能力ではなく、それを求める熱情に盲目的な信頼を置け。恋人を愛するように、芸術を心から愛するのだ
  5. 最初の一語から自分がどこに向かって進んでいるのかをちゃんとわきまえて書きはじめよ。成功した短編では、最初の三行と末尾の三行がほぼ同じ重要性を備えているものである
  6. 「川から冷たい風が吹いてきた」このような状況を表現するには、ここに記した文章以上の表現は人間の言葉には存在しない。ひとたび言葉を自分のものにしたら、それらが協和音なのか類音なのかを気にする必要はない
  7. 余計な形容詞を用いてはならない。力のない名詞にいくらきらびやかな形容詞をくっつけても意味はない。まず正確な名詞を見出すこと。そうすればその名詞はひとりでに類まれな煌きをもつだろう。なにをおいてもまず名詞を見つけ出すことである
  8. 登場人物の手をとって、きみが描いた道筋にのみ目をむけ、自信をもって結末まで彼らを導いてやらなければならない。彼らにできそうもないこと、あるいは彼らにとって目をむける必要もないことに気を取られて、心を乱してはいけない。読者を裏切るな。短編とは一切の挟雑物をのぞいた小説である。この言葉が真実でなくても、絶対普遍の真理と心得なければならない
  9. 感情に支配されて筆をとってはいけない。いったんその感情を冷やしたのちに、もう一度呼び覚ましてやらなくてはならない。それを最初の状態のままで蘇らせることができれば、短編は技術的な意味で半ば出来上がったと言ってもよい
  10. 書く時は、友人のこと、またきみの物語が人に与えるであろう印象のことを考えてはいけない。短編を書く時は、きみの登場人物(きみもその中のひとりでありうるわけだが)の作り上げる小世界にしか興味がないという態度で物語ることだ。それ以外の方法では、短編が生命を得ることはない

 「完璧な短篇」への入口は、短篇コレクションI。カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」も、マクラウド「冬の犬」も、コルタサル「南部高速道路」もこれで知った(どれも殿堂入りやね)。河出世界文学全集で、これはピカイチになりそう。

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庶民がブランドにハマるとこうなる「着倒れ方丈記」

着倒れ方丈記

 服オタたちの、シャレにならない微笑ましさ。

 アイドルオタク、二次オタク、オタクにいろいろあるけれど、この世で一冊、ファッションオタクの服オタさんの生態を活写した写真集。グッチ、エルメス、ガッバーナ、超のつくブランドにハマった「普通の人々」。生活費を切り詰め、食費を削って集めた服、カバン、靴たちが、ワンルームとか、築ン十年のアパートとか、隠しようも無い生活空間に満ち溢れるさまは圧巻だ。

 ブランド名が見出しとなっており、見開き1ページ構成で、右側が部屋いっぱいに広げられた戦果たち。左側がそのブランドにハマったきっかけや想いがアツく語られる。その熱気にアてられたり、ハッとするほど裸の言葉に触れているうちにニヤニヤしてくる。部屋の散らかり具合とかブランド以外の生活雑貨を凝視して、iMac率の高さや"Santa Fe"(宮沢りえ・篠山紀信)に気づく。洗練されているのは服だけで、欲望とカオスにまみれた部屋との"ミスマッチ"具合が、奇妙かつ懐かしい。

  • 家一軒ぶんのジャン・ポール・ゴルチエ
  • 16年ひとすじ親子で着倒れ共倒れのジャンフランコ・フェレ
  • 無職生活4ヶ月目とアレキサンダー・マックィーン
  • 風呂なしアパート清貧生活に50万円のエルメスの鞄
  • 洗濯もクリーニングにも出さないクリストファー・ネメス
  • ちゃんと収納しないと布団が敷けないほど圧倒的なヴェルサーチ
  • 日常生活・社会生活、全面的に、徹底的にゴスロリするためのベイビー・ザ・スターズ・シャイン・ブライト(サンデーロリータファッションは邪道)
 しかし、写りこんでいる皆さん、ホント幸せそうな顔をしていらっしゃる。「消費社会の犠牲者」とレッテルを貼るのは簡単だが、これほどハッピーな犠牲者もなかろう。借金してでも服が欲しいとか、服の収納のために家を買おうとか、突き抜けた次元にいらっしゃる。露出的・覗見趣味が動機でページをめくっていたはずなのに、なにこの開放感、いっそ清清しささえ覚える。まさに、「好きなものは好きだからしょうがない」状態で、かつてわたしもそんな顔をしていた。

 そう、一生かけても読めない量の本を買いこんで並べて広げて悦に入っていた頃を思い出す。本を得ることは知を得ることだと間違えて、稼いだ金をせっせとつぎ込んだなぁ。「背表紙だけでも読書だ」などと背伸びして買った(狩った)記憶が蘇る。

 服の場合、「自分を上げ底してくれる感覚が、すごく嬉しい」とか、「これだけの服だと、着るのにかなりの気合が必要なんですっ」と、直接パワーをもらっているようだ。声優オタ、ガレキオタ、ゲーオタ…つぎこむ先は違えども、"好き"のパワーはみな一緒。

 ファッションエンゲル係数が高めの、ファッションマニアの生き様を、とくご覧あれ。

 これはビブリオバトル@紀伊國屋で出合った一冊。紹介者の花岡猫子さん、感謝しています。

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みんなでブックハンティング@松丸本舗

 ありのまま起こったことを話すと、「あっという間の8時間」だった。

 まずは、みんなの獲物をご紹介。

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飲食男女久世光彦「飲食男女」。食べることは色っぽい。「味わう」や「口に合わない」という言い方は、男と女にも通用する…湯豆腐、苺ジャム、蕎麦、桃、ビスケット、無花果、おでん…食べ物をきっかけに振り返るみだらで切ない記憶の話―――らしい。食べることはエロティック、そりゃきれいな女性におすすめされたら手にする罠。読んでも楽しいし、それぞれのテーマで自分ならどう書くかを考えると、もっと愉しいかも。

死者の書・身毒丸折口信夫「死者の書・身毒丸」。恐ろしい+美しい物語だそうな。物理的に会えないこと=見えない、でもtwitterや電話のやりとりでは実在していると考えている。この「いないのにいる」ことを突き詰めると、死者との交感になる。本の存在は知ってはいたが、未読。これを機に読むべし。

銀河鉄道の夜最終形・初期形の宮沢賢治「銀河鉄道の夜」。カムパネルラが川に入ったことを、ジョバンニがどのタイミングで知るか、初期と最終版では違うそうな。ミステリちっくにオススメしてくれたのはRokiさん。ますむらひろし版があったので確認するつもりで読む。

 あそこは魔窟だから、時間を飛ばされること必至。承知の上で臨んだ松丸本舗なのだが、10時から18時まで、みっちりたっぷり巡ったにもかかわらず、まだ足りない。アクセルベタ踏み、アドレナリン昇りっぱなしになる。

香水 そしてグループハンティング、集団で狩りをすると、スゴ本に当たりやすい。ぜんぜん知らない(でも)当たりの予感がびゅんびゅんしてくる久世光彦「飲食男女」をそっと出すRokiさん、ずっと読まず嫌いしてたマクニール「疫病と世界史」に向けて背中を押してくれるゲンさん、ジュースキント「香水」に太鼓判を押してくれたMotoさんに感謝。知ってる本を検索するアプローチではない、知らない(けどスゴ本)を捜す狩りなのだ。加えて松丸本舗の錬りに錬られた「本の並び」に、何が飛び出してくるか分からない緊張感覚ハンパねぇ。

 わたしの好みは偏っている。もちろん偏ってて良くて、それでも尽きぬ真砂ほどあるのだが、その「好み」をいったんワキに置く。その上で、ブックトークの流れや、メンバーの記憶から掘り起こされる「その一冊」に集中する。とっくにメモを取ることは諦めて、「それが良いならコレは?」の無限連鎖に身を任せる。ミステリ、SF、世界文学と、その時その時の主旋律みたいな軸はあるけれど、基本自由にアレンジしたり加えたり、会話のやりとりから渦がどんどん広がってゆく―――この感覚は、即興に近い。ジャムセッションのような自由と想像と奔放にあふれている。

 会議室でやる Book Talk Cafe 形式のオフは、準備の本の縛りと、しゃべりの自由さのバランスが絶妙だ。しかし、本屋でやるオフは、どう転がっていくか分からないヒヤヒヤ感を孕んでいる。素敵な女性がいるのに劇薬・猥本を持ってきたり、興が乗りすぎてネタバレスレスレ崖っぷちに立っていたりする。「それを読むならコレで!」なんて本を探してウロウロするのもまた楽し。

はてしない物語 たとえばエンデ「はてしない物語」。あれは、あかがね色の表紙で、中を開くと二色刷りになっている、あのハードカバーで読むしかない。欲にボケたのか分冊・文庫版が出ているが、ぶっちゃけありえない。「文庫じゃダメ? 安いし」とAirさんが探し出すのを全力で阻止する。なぜそうなのかは……読めばきっと、膝を打つからってね。Airさんのレポートはスゴ本オフ ハンティングをどうぞ、視点とコメントが秀逸ですぞ。

 次回の課題もある。オギジュンさんが推していた「世界史読書案内」は図書館かAmazonになるだろうし、フラバル「あまりにも騒がしい孤独」は次回買う。思い切れなかった谷崎源氏とベイトソン「精神の生態学」は、買うなら松丸で、と決めている。

 松丸スタッフの方にもお世話になって感謝。ずっと一対一で応対してもらい、わたしの知らないスゴい奴をじゃんじゃん紹介してくれた森山さん、ありがとうございます。正剛センセ直々にオススメいただいた「リリス」を探し出していただいた立岩さん、感謝してます。そして、ハンティングに参加いただいた皆さま、ありがとうございます。次もやりますぞ。

次回の本屋オフの課題というか、メモ

  • twitterでつぶやきながら巡るべし。ハンターは「やってるのかしらん?」と不安にさせないためと、タイムライン上のハンターの協力を仰ぐため。今回は周るのとおしゃべりに夢中になってしまったが、タイムラインのレスポンスも侮りがたし(スゴ本オフ@ジュンク堂)
  • 先達がいると心強い。いわゆる本の案内役。松丸本舗はBook Shop Editorという水先案内がいて、とてもゼータクに周遊できる。他の書店で望むのはキツいので、ハンターが「買って出る」ことになりそう
  • 写真やメモは、普通の書店ではご法度。いわゆるデジタル万引きやね。これは松丸本舗が特殊だからと思ったほうがいい。「黙認」してくれる大型書店は知っているけれど、大勢でガヤガヤ写真撮ったりはダメだな(他のお客の手前もある)
  • ブログやtwitterを通じて、ネットに飛び散ったハンターたちを、リアル書店に連れ戻しているのが本屋オフやビブリオバトル。書店公認のグループハンティング(の時間)や、展示即売会的な出張書店、はたまた「本店の売れ筋ランキング vs Amazonのトップ10」といったコーナーなど、ネットとリアルを撹拌しよう

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