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読まずに死ねるか「ゲド戦記」

 人生は短いのに、読みたい本は多すぎる。

ゲド戦記 せめて「入」を絞ろうとしても、欲望は際限なく湧きあがる。興味と関心の赴くまま濫食しているうちに、逃している本があることに気づく。しかも、だいぶ遅くになって。かろうじての救いは、死にぎわでないこと。死期が不可逆に迫ったなら、読書どころじゃなかろう。何を読んでも後悔するのは目に見えている。しかし、それでも、「コレ読んでおけばよかった」の「コレ」を読む。そして、「ゲド戦記」は「コレ」だ。

 重厚な世界設定に心奪われ、緻密な内面描写に感情移入し、謎が明かされるカタルシスに酔う。ただひたすら夢中になれるのだが、哀しいかなハマる自分を醒めて見ると、著者の意図が映りこんでくる。キャラやイベントの出し入れについて、ル=グゥインはかなり計算しており、読み手の年齢まで考慮した上で、時間軸を決めている。

 たとえば、第1巻「影との戦い」は、ゲド自身の成長譚になる。生い立ちから青年になる過程を、その葛藤とともに描くことによって、最初の読者―――「少年」を獲得する。思春期にありがちな高慢が招いた災厄「影」は、姿こそ異なれど、読者の現実にシンクロしてくる。それは、虚栄心によるコミュニティ内の「不和」だったり、自信過剰がもたらした「失敗」、あるいは自身の「欠点」になる。自覚の有無はともかく、少年はゲドが戦うように「影」と向き合うことを覚悟するはずだ(こじれると厨二病になる)。

 そして、第2巻「こわれた腕環」では、自己を剥奪された少女の視点で展開することにより、次の読者―――「少女」を得る。大迷宮の探索や闇の儀式といった演出を振り払うと、これは少女を救出する物語になる。ただし、囚われた少女と白馬に跨ったゲドという話ではない(むしろ逆だ)。これは、「日常」に埋め込まれて見失っていた「自分」を手に入れる苦悩とあがきの軌跡になる。「選ぶ」という自由を手にしたならば、選ばなければならないという恐怖に向き合うことになる。「少女」や「女子○学生」といったラベルをきゅうくつに思い、「妻」や「母」に底知れなさを感じている女の子こそ、少女テナーに共感するに違いない。

彼女が今知り始めていたのは、自由の重さだった。自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手の分からない大きな荷物である。それは、決して気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ―――「こわれた腕環」より
 さらに、第3巻「さいはての島へ」は、少年と少女が見まいとして目を背けていた最大のテーマ、「死」になる。青春の蹉跌を克服し、自分を自分にすることが(物語のなかで)できた読者に対する挑戦だ。これは、ゲドへの挑戦だけに限らず、読み手に「死を直視する」ことを強要する。思い上がった「わたし」を「影」というメタファーで引きずり出し、日常に埋没していた「わたし」を明るみに出し、若者にとってのタブー「死」と対決させるのだ。ゲドの活躍からよりも、むしろ読み手に内在する「死」の克服から得られるカタルシスが大きい。ドーパミンあふれるラストとなるだろう。
大賢人は大きくうなずいた。「それだよ、わしの言いたかったのは。過去を否定することは、未来も否定することだ。人は自分で自分の運命を決めるわけにはいかない。受け入れるか、拒否するかのどちらかだ」―――「さいはての島へ」より
 きたないほど上手いぞ ! と唸ったのは、4巻以降。書かれたのは1~3巻から20年ほど経過しているのだが、同じだけの時間が物語にも流れている。明らかに、もう少年少女でなくなった、(かつてゲドと同じ時間を共有したことがある)大人に対するメッセージが込められている。注意深く避けられてきた微妙な話題や、20年で染まった主義がテーマとして織り込まれている。それはずばり性と力の関係や、剥き出しのフェミニズムだったりする。訳者は「揺らぎ」「ぶれ」というオブラートに包んでやるが、主張のあまりのどぎつさに読み手は辟易するかもしれない。

 しかし、あれほど多様な物語を紡いだ同じ手が、「男vs女」で割ろうとしたり、「知の独占と排斥」という一本線で歴史を解こうとする。光と闇、正と邪だけで割り切れない、現実的な歴史をアースシーに再現させることに成功させたにもかかわらず、後半になると「支配する男」と「育む女」に押し込めようとするのは、かなり不思議だ。結果、つじつま合わせが難しくなり、ほころびというよりもつなぎ目にまで拡大している。そんなに「オンナを排するオトコ」を映したいのか、それとも「そういう読者」を念頭においたのか、さもなくば「歴史とはおしなべてそういうもの」と嘯くのか……読み手や物語の上だけでなく、作家にも同じだけの時が流れたんだね。

 作品の"つながり"について。「ゲド戦記」は、「指輪物語」「ナルニア国物語」と並び世界三大ファンタジーとして名高い。だからこれがオリジン、根っこになるのだが、その豊かな果実のほうを先に味わっているので、要所要所で懐かしい驚きに出会う。たとえば、「真の名を知ることで、相手を支配する」なんてくだりは、「ベルガリアード物語」「闇の戦い」シリーズで幾度もお目にかかっている。未知の存在への恐怖は、分類できない(=分からない)恐れからなる。分類され・名づけがなされた瞬間、警戒する必要はあるが恐れや不安から離脱する。

「名まえを知るのがわたしの仕事、わたしの術だからさ。何かに魔法をかけようと思ったら、人はまず、その真の名を知らなくてはならない。わたしの故郷では、誰も、絶対に信用できる人以外には、生涯、本名はあかさずにおく。なぜって、名まえは大きな力と同時に、たいへんな危険をもはらんでいるからね」―――「こわれた腕環」より
 人は名づけにより世界を分類し、支配してきた。大きなもの、複雑なものは、順番に分けていって、それ以上分けえないほど細分化し、それぞれの属性と性質と関係を調べ、名前をつける。直接的な喩えは一切ないが、この行為はアースシーでは「魔法」と呼ばれ、読者の世界では「科学」と呼ぶ。そして、エドワード・エルリックの世界では、「錬金術」と呼ぶのだ。バタフライ効果を「均衡」と呼んだり、科学の普遍性は、人の観測世界に基づく人間原理で測ろうとする態度は、「鋼の錬金術師」を彷彿とさせる(いや、逆だ逆! 「鋼」が影響を受けているだよね)。第1巻の「影」や第3巻の「門」なんて、ビジュアル的には「鋼の錬金術師」まんまを脳内展開させたぞ。

 作品には出会う旬がある。だが、死ぬ前に読めてよかった。「読まずに死ねるか」というよりも、むしろ「読んでから死ね」ともいうべき作品。

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