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「奇想の美術館」はスゴ本

 博覧狂気マングェルの絵の読み方。

奇想の美術館 完全にタブラ・ラサの状態で芸術に触れることは、不可能だ。プラトンによれば、あらゆる知識は記憶にすぎないし、ソロモンにいわせると、新しく見えるものは、すべて忘れられたものでしかない。わたしがある形状や色彩を知覚する際、それらは既に知覚済みの領域に反応しているにすぎない。

 われらがマングェル、当然そんなことは百も承知。第一に、「描かれたもの」、自分が目にした図像、イメージから記憶を呼び覚まそうとする。たいていは幼い頃の思い出だったり、ハマった小説にまつわる風景だったりする(マングェルは<たぶん>世界一の読書家だ……生きてる人の中で)。

 だから読者は、マングェルの記憶から堀りだされる数多の小説・論文・エッセイに面食らうかもしれない。絵の話が文学になり歴史に転がってゆくから。描かれたオブジェクトの一つ一つが何を象徴しているかを汲み取るためには、美術史と図像学の知識が必要だ。だが、マングェルは臆することなく踏み入ってゆく。

 あるときは探偵のように、自ら発見した手がかりを元に、画面に隠された意味を一つずつ解き明かしてゆく。そしてあるときは物語作家のように、手がかりを踏み台にし、イマジネーションの両翼を存分に広げる。ミステリーを解くようなスリルと、ファンタジーを読むような幻惑を覚える。物語は時間のなかに存在し、絵画は空間のなかに存在する。「描かれたもの」を元にして、マングェルは時間と空間の両方に分け入ってゆく。

 第二に著者は、「描かれていないもの」に着目する。描かれていないオブジェクトに、どうやって目を着けることができるのか。マングェルのアプローチが面白い。まず、画面の空白部分に目を向ける。ポール・セザンヌの「青い壷とワインの瓶」を例にとり、配されたオブジェクトよりも、そこにあたった光のように処理されている───いや、描かれていない紙の地の部分───に注目する。そして、セザンヌのその絵に対するリルケの指摘を引いてくる。「セザンヌはそのりんごの自分が知っている部分だけを描き、まだよくわからない部分は空白のまま残したのだった」という。認識を超えたものは表現を保留するという考えに痺れる。

ここでウィトゲンシュタインの「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」を持ってくるのは安直だろう。わたしの拙速を揶揄るかのように、ジョーン・ミッチェルやポロックのような抽象画をもってくる。画面に何が描かれているのか、何を画家が伝えようとしているのか、さっぱり分からない。「そこに意味を求めようとする姿勢」に着目する。モチーフとして選ばれたことの理由や動機、作品にこめられた物語を読み解こうとする無意味さを指摘するのだ。

 そして、絵を見る楽しみは、何が描かれているかを理解するだけでなく、どのように描かれているか、つまり純粋な色彩やリズムやマチエールを感じ取るところにもあると主張する。さらに、不在そのもの(描かれていないもの)を感じ取ることにも意味があるとまで踏み込んでくる。what じゃなく how を楽しむこれは音楽を聴くのに似ている。主旋律から感情や動きを解釈するよりも、むしろメロディーそのものに身をゆだねるのだ。

 描写不能のものは、最初から描くことは不可能だ。しかし、それでもあえて人に伝えようとするならば、絵筆や楽器といった表現の手段から超越し、言語という認識の方法の外側で製作しなければならない。言語化可能ということは、その言語によって認識が歪められるか、あるいは束縛されているのだから。見るものが「解釈したい」という強い欲求によって、作品がムリヤリ解釈可能なものへ変形されてしまうことを、本能的に恐れていたのかもしれぬ。

 著者はウィトゲンシュタインではなく、ブッダのエピソードで喩える。下位の神々の一人が、ブッダをまねて、競走馬を作ろうとしたが、できたのはラクダだったという。

自分たちの理解や方法論が正しいと信じ込んで、自己欺瞞に目をつぶったまま、あくまで芸術の本質を解読しようとすれば、私たちにできるのは、せいぜい自分たちのお粗末な知識と経験を通じて、自分が受けた印象を貧弱に再現することだけである。それは私たちがでっちあげた卑小な物語であり、その絵が伝える本当の「物語」ではない。じつに似て非なるものである。

 理解不能のものを表現すれば、それは理解不能のものとなるのだ。

 第三に著者は、写真をもちだしてくる。炎上するヒンデンブルク号の有名な写真や、カリフォルニア移民の悲しみに沈んだ肖像写真を例に、レンズという目を通して、過去が同時代のものになり、写真は現実を大衆化したのだと述べる。同時に、写真と現実の決定的な違いを指摘する───写真と違って、現実にはフレームがないのだ。視線はあちこちにさまよい、(写真にしたら余白となる)外にあるものまでが見える。ところが、いったん写真にするということは、目に見えている「現実」を記録する一方で、カメラの本質として、目に見えないものをつねに示唆し続けることになる。

 カメラマンが切り取るべきフレームを選んでいること、その光と影のコントラストはカメラマンの意図したものである延長上に、写真へのなんらかの操作(から明らかに改竄と呼ばれるものまで)が許されてしまっているというのだ。笑顔のタイミングを狙った一枚であれ、photoshop のチカラで別物に仕立てた画像であれ、「写真」と呼ばれる。どこからが「写真」でなくなるかなんて境目なんて、無い。

 あらゆる写真の基盤には避けがたい欺瞞がある。写ったものを「現実」とみなしてしまう思い込みに、この欺瞞は依拠している。意図的に検閲されたものであれ、無意識のうちに操作された構図であれ、さらに人為的に合成されたものであっても、カッコつきの「現実」だと信じ込んでしまうというのだ。これは、わたしたちが鑑賞する対象に物語(や説明)を求めたがる欲望に支えられている。「理解したい」欲求は、たやすく餌に飛びつく。

 ここ連日、TIME の photoessays を眺めている。エジプトのカイロに集う人々を撮影した何百枚という画像だ。最初は、撮影者の意図に沿ってproとantiと軍を見ていたが、そのうち、フレームの外にあるはずのモノを探すようになった。たとえばトイレ。あれだけの人が一箇所で抗議行動をしているわけだから、当然トイレに行きたい人も出てくる。タレ流しだろうが、その画は見えない。先日みつけた一枚に、"Civic Duty : cleaning up the mess that was left behind" とあるが、ンコのことかなぁと推察する。

 同時に、あれだけの人が集まっているということは、その人の普段の場所は、「不在」のままだろう。職場であれ、コミュニティであれ、フレームの外の人は、その不在性を強く意識するはずだ。テレビやラジオや新聞や、ネットやメールやケータイでつながろとするだろう。写真の欺瞞性は承知していたが、マングェルのこの文章を通じて、フレームの外の写っていない部分まで想像(創造?)するようになった。分かりやすいからこそ、(撮影者の意図を)受け取りやすいからこそ、用心して想像しなければならない。なんというパラドクス。

 マングェルは、さまざまな種類にはっきり示された、あるいはこっそり隠された物語を見つけては楽しむ。さらに、表現不可能・認識不能の対象まで想像・創造をめぐらせる。イメージを言葉に翻訳し、言葉をイメージに翻訳することで、一種の文体をつくりだし、世界と自分を把握する。イメージによって私たちは作られているとまでいうのだ。この世界をかたちづくるイメージの実体は、ひょっとすると空虚で、そこにわたしたちが自分の欲望、経験、疑問、後悔を充満させているだけかもしれない。それでもわたしは、目をむけ、耳をかたむけることをやめない。なぜなら、知覚することで自分を理解するために、やめるわけにはいかないのだから。


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