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ちょいエロからキッツいのまで「独身者の科学」

独身者の科学 独身者の「科学」と書いて「セックス」と読ませる。独身者のたしなみ、あるいは独身者の超常識が展開される。ていねいで穏やかに、刺激つよめの論と画が並ぶ(モノクロなのが残念無念)。語り口と内容のギャップがでかいので、人を喰ったような印象を受けるかもしれぬ。

 まず、独身者の定義がユニークだ。著者によると「独身者」はかなり拡大される。つまり、以下の一つでも思い当たるならば、未婚だろうと非婚だろうと離婚だろうと死に別れていようと、「独身者」になるそうな。

  • おちゃめである
  • お調子者である
  • 研鑽家である
  • 倹約上手である
  • 指先上手である
  • いじめられたい
  • いじめたい
  • 機転がききすぎる
  • 発明家である
 ひとり上手を想定しているんだろうね。「愛はレッスンだ」という主張に激しく同意。キモチよくなり方は、自分で開拓するものだし、いくらでも深堀りできる。快楽の追求に貪欲であれと激励するいっぽう、他人の指技にとりつかれて、自分の技術の研鑽に怠るなかれと叱咤する。自慰であれ他慰であれ、練習もせずに上手くなろうなんて、ムシが良すぎる。精進あるのみ。

 真偽のほどは別として、エロス・トリビアなるものが満載されている。たとえば、世界初のダッチワイフは、古代エジプトの神官エレクチオンが作ったそうな。たまたま部屋にあった板切れを人型にくり抜き、その部分に直径3センチの穴をあけて性器を挿入したんだと。さらに、「この板のダッチワイフは今もエジプトの学者が大切に所持し、時々使っていることです」と続き、歌舞伎町の板越しプレイまで言及する。どこで眉唾すればよいやら。

 いわゆる「痛い」やつもある。ファスナーを縫いこまれたり、針と糸で縫い合わされた女性器が紹介されている。リアルかつショッキングな画になっている。また、首吊りプレイを一人でやっていて、誤って本当に首を吊ってしまったドイツ人の写真は「痛い」。以前にご紹介した「デス・パフォーマンス」まんまやね(わたしのレビューは、命がけのオナニー「デス・パフォーマンス」は劇薬 【成人・紳士限定】をどうぞ。首吊りプレイはいいのだろうか?とぁゃιぃ好奇心が湧き上がってしまうが、くわばらくわばら。

 最後に、本書で知ったマーク・トウェインの言葉を引く。これも真偽のほどは後の楽しみにしておこう。

    見よ!ペニスは剣より強し
    熱き言葉に鞘より飛び出す
    ――――マーク・トウェイン

 ちょいエロからキツいのまで、お楽しみあれ。

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ゲームで子育て「レッド・デッド・リデンプション」

 Z指定のゲームで子育て。

RedDeadRedemption 「ゲーム脳」を信じる人がいる。ならばゲーム暦ン十年のわたしなんざ、汚染されまくっとるわい。ゲームを目の仇にして、親の不甲斐なさを棚上げするのは止めにしよう。むしろ、ゲームは現実のシミュレーターだ。現実の人生は一回こっきりだが、ゲームはやり直せる、くり返せる。

 これまで子どもに、「ロードランナー」や「イナズマイレブン」をやらせてきた。時間を決めて、時にはエンドレスで「クリアするまで試行錯誤する」に挑戦させてきた。失敗したり負けたりするたび、本気で泣いたり怒ったりしながら、それでも工夫を重ねてきた。リアルが失敗・即・終了を強要するなら、ゲームで「失敗の練習」を積んでほしいんだ。本当の失敗とは、転ぶことではなく、起き上がらなくなることなのだから。

 いっぽう、ゲームを通じ、子どもに「現実」を与えてきた。わたしの子供時代と異なり、いまの新聞テレビから巧妙に「死」が隠されている。高速で大破した軽は映すが、ボンネットべったりの血はカメラに入れないようにする。いいや、時速100キロでぶつかったら死ぬ。人を斬ったら血が出るし、死ぬこともある。そうした想像を喚起させるためのゲーム。「オブリビオン」や「バーンアウト・パラダイス」は、プレイするにはちと早いが、「暴走」や「殺人」がどういう結果を招くか、見ることができる。カッコつきの「現実」だが、シミュレートは可能だ。

 今回は「レッド・デッド・リデンプション」。アメリカ西部開拓時代を丸ごと、なんでも、どこまででもできるゲームだ。正義を貫くも、極悪人になりきるもよし、西部劇版GTA(グランド・セフト・オート)がピッタリの極ゲーだ。Z指定(18歳以上)なので、プレイするのはわたし、ギャラリーとして入ってもらう。わたしがなりきるのは、元無法者のジョン・マーストン。スカーフェイスのガンマンなり。銃にモノを言わすプレイスタイルで行く。ストーリーはこんな感じ(wikipedia「レッド・デッド・リデンプション」より)

連邦捜査官に家族の幸せを脅かされた元無法者のジョン・マーストン。 ジョンは幸せを取り戻すために再び拳銃を手にし、かつて友と呼んだギャング達を追う。 彼は己の体に染み付いた血染めの過去と決別するため、過酷な闘いの中、一人、また一人と葬っていく。
 解体するときに飛び散る血潮、街中での撃ちあい、ナイフで刺し殺すなどといった、子ども向けとは言いがたいシーンが続出する。そのいちいちを「解説」しながら、画面のジョン・マーストンは「正義の味方」として活躍してもらう。子どもらは喝采を送るが、悪い奴は撃ち殺してもいいんだなんて思ってるんじゃ……

 次に、「悪いこと」をやってもらう。このゲームは、簡単に「悪いこと」ができる。死体漁りは序の口で、銃を向けて脅し取る、金庫破り、馬どろぼうまで(もっと酷いやつは自粛)。子どもがいちばん衝撃を受けたのは、血や暴力そのものではなく、「悪いこと」が罰せられないことだった。罰は逃れられるのだ。「この国は、『自分の身は自分で守る』のが正しいとされている。だから、銃を持つのは警察だけじゃない。もちろん『話し合い』も大切だが、最終的には銃が解決する。そういう場所なんだ」と説明する。銃は確かに暴力だが、善悪どちらにも使える。

 しかし、そういう「悪いこと」を最後まで見ている人がいる。それはわたしだ、キミだ。どんなに隠そうとも、目撃者を皆殺しにしようとも、やってる本人は「それ」を知っている。そして、その「悪いこと」を「悪い」と意識するのが、「良心」と呼んでいるもの。「罪と罰はセット」という欺瞞は、人生のどこかで、遅かれ早かれ暴かれる。そのとき、良心の重さが分かる。「バレなきゃいいんだ」ではなく、それを知っている自分の価値観で測れ。

 メキシコにて反乱を鎮圧するミッションがある。政府軍の助っ人として、砦に立てこもった暴徒をバタバタと打ち倒していく。鎮圧後、命乞いをする生き残りを、政府軍は処刑してゆく。銃殺シーンを背景に、マースティンは吐き捨てる。

      There're too many justice.

 銃の数だけ正義がある。

ブラッドメリディアン 荒涼とした西部を舞台にした作品なら、「ブラッド・メリディアン」をオススメ。 アメリカ開拓時代、暴力と堕落に支配された荒野を逝く男たちの話。

 感情という装飾が剥ぎとられた描写がつづく。形容詞副詞直喩が並んでいるが、人間的な感覚を入り込ませないよう紛れ込ませないよう、最大限の努力を払っている。そこに死が訪れるのならすみやかに、暴力が通り抜けるのであれば執拗に描かれる。ふつうの小説のどのページにも塗れている、苦悩や憐憫や情愛といった人間らしさと呼ばれる心理描写がない。表紙の映像のように、ウェットな情緒が徹底的に削ぎ落とされた地獄絵図がつづく……この続きは、「ブラッド・メリディアン」はスゴ本をどうぞ。読む「Red Dead Redemption」なり。


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怒らずに生きる「怒らないこと2」

 怒らずに生きるための手引き。

 tumblr で拾ったブッダの言葉が好きだ。


     過去にとらわれるな
     未来を夢見るな
     いまの、この瞬間に集中しろ

     Do not dwell in the past,
     Do not dream of the future,
     Concentrate the mind on the present moment.


怒らないこと2 文字どおり「刹那的になれ」という意味ではない。過去や未来に拘泥して「いま」を見失うなよという戒めだと受け取っている。本書を読むと、過去や未来に囚われている状態こそが「怒り」や「欲」であることが分かる。

 著者はアルボムッレ・スマナサーラ。スリランカ仏教の長老で、かみ砕いた言い回しと具体的な例を用い、「怒らない」ための方法を説く。本作は、「怒らないこと」の続編に位置する。前作がブッダのエピソードを多用しているのに比べると、本作は、より現代的な事例(秋葉原連続殺傷事件など)に触れている。その分、自分に引き寄せて読むことが可能になっている。前作のレビューはこちら→[「怒らないこと」はスゴ本]

 ときに仏教からスピンアウトして、キリスト教批判してるところが面白い。もし神が完璧なら、「怒る」ことなんてしないだろうと言い切る。不完全な人ではなく、その不完全な人を創った自身に腹を立てるのが筋という件は、ヒヤヒヤしながらも笑ってしまった。「怒り」と対決したり、コントロールしようとする姿勢に対し、著者は完全否定する。曰く、「怒りに燃料を与えるようなもの」だという。怒りに怒りで対処するならば、自身が燃料となる。結果、燃え尽きて無くなる。怒りで真っ白になり、その怒りに怒って爆発し、抜け殻のようになった経験はあるだろうか(わたしはある)。

 生きることは苦しみであり、感覚は苦であるという。そして、人は怒らずにはいられない存在だという。なぜなら、「自分というなにかが実在する」という考えに縛られている限り、次から次へと怒りが湧いてくるから。というのも、見るもの/聞く音、あらゆることが自分の思い通りにならないから。思い通りにならないことに嫌気がさしている状態が「怒り」で、そうした状態をなんとかしようとするのが「欲」なんだと。

 だから、怒りをこらえようとしたり、ねじ伏せようとすることは不可能なんだ。自己啓発書よくある「むりやり笑顔をつくる」も凶手、それは怒りをごまかしているだけであり、取りつくろった自分へ嫌悪感をつのらせることになる。

 では、どうすればよいか?

 「いったん停止」が"正解"になる。わたしが以前のエントリで考察した[脱怒ハック「怒りについて」]とものの見事に一致している。つまりこうだ。

もし怒ってしまったら、なにもしないで、なにも言わないで、そのとき生まれた怒りを放っておきます。怒りに「考える」という燃料をあげないで、心まで止めてください。頭の思考も、言葉を発することも、からだを動かすことも突然止めて、フリーズ状態になってみてください。ただ止まって黙っていればいいだけです。
 怒りの原因や対処について考えるとき、その手や頭は怒りに染まっている。怒りについて考えている時点で、怒りの罠に囚われているのだ。この「考えることをやめる」のはかなり難しい。しかし、「怒りの原因や対処」から目を剥がし、「いま怒っているという感覚」に注目することはできる。呼吸や心音、視野や聴覚を意識して、体感覚を研ぎ澄ますのだ。そして、考えることはただ一つ、「ああ、自分はいま、怒っているのだ」だけ。その苦しさだけを意識する。マゾかよ!と自分ツッコミ入れたくなるが、これは有効ナリ。

 カイシャでもフーフでも実証済みなので、お試しあれ。

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