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名文どろぼう

名文どろぼう 「エレベーター読書」と名づけた時間がある。

 カイシャのエレベーターに乗っているわずかなあいだだけに読む本を持ち歩き、その十数秒集中する。短いブツ切り時間なので、詩集や箴言集になる。琴線を弾くフレーズは手帳に留め、ネタとして使わせてもらう。

 そんなエレベーター読書に最適なのが、「名文どろぼう」。著者は読売新聞の名コラムニスト。わたしのように、ハート抉る寸鉄を書き留めておいたものの蔵出しだそうな。小林秀雄からスティーヴン・キング、落語や辞典、六法全書まで巻き込んで蒸留された名文たちが紹介されている。

 たとえば、こんなん。


     いい人と歩けば祭り
     悪い人と歩けば修行

     ───小林ハル


 自動的にソクラテスを思い出す。これだ→「結婚はいいことだ。良い女と一緒になれば幸せになれるし、悪い女と一緒になれば哲学者になれる」。名言をきっかけに自分の記憶を掘り起こす愉しみがある。

 胸に刺さるやつもある。


     夢は砕けて夢と知り
     愛は破れて愛と知り
     時は流れて時と知り
     友は別れて友と知り

     ───阿久悠


 「阿久悠を送る会」の会場の壁に飾られていた彼の言葉だそうな。井伏鱒二が訳した于武陵「勧酒」の「さよならだけが人生だ」に触れてくる。

 クスっと笑えるやつも。


     「お金がすべてじゃないわ」
     「持ってる人はそう言うんです」

     ───「ジャイアンツ」


     【ばかばか】女性が、相手を甘えた態度で非難して言う言葉

     ───新明解国語辞典(第六版)


 いわゆる「使える!」やつをご紹介。誰かを批評したあと、反撃されて、「偉そうなこと言うなら、お前が自分でやってみろ」と言われたら、どう返すか。チャーチルの小話でこうある。絵なんて画いたことのないのに、ただ名士だというだけで、美術展の審査員をやっている人がいる。そんなことが許されるのか、という問いに対して、


     「私はタマゴを生んだことはありませんが、それでも、
     タマゴが腐っているかどうかは、ちゃんと分かります」

     ───外山滋比古「ユーモアのレッスン」


 ウロ覚えだった記憶の彼方から呼び戻されてものがある。確かに読んだはずなのに、覚えてないもの。でも言われると思い出すもの。


     誰でも、生まれたときから五つの年齢までの、あの可愛らしさで、
     たっぷり一生分の親孝行はすんでいるのさ、五つまでの可愛さでな。

     ───安部譲二「塀の中の懲りない面々」


 わたしの手帳と被っているやつもある。いわゆる有名どこだ。


     天才とは、蝶を追っていつのまにか山頂に登っている少年である

     ───スタインベック


     世の中に醜女(ブス)はいない。
     ウォトカが足りないだけだ。

     ───米原万里「ロシアは今日も荒れ模様」


 わたしの手帳だと、これにtumblrやtwitterのが加わる。「名文どろぼう」にはないけれど、いくつかついでにご紹介。もしわたしが「名文どろぼう」を編むなら、これらは是非いれたい。


     生きることに意味はないけれど甲斐はある

     ───tumblrより


     「あなたが一番影響を受けた本は?」
     「預金通帳だよ!」

     ───tumblrより(もとはバーナード・ショーらしい)


 最後に、わたしの手帳より。今年いちばん、きゅんとなった。


     丸見えのぱんつは只のぱんつだが
     見えないぱんつには無限の可能性があるんだよ

     ぱんつが実際に観測されるまでは
     ぱんつはいてない可能性だって存在するんだよ

     ───tumblrより「シュレディンガーのぱんつ」

 名文を書くには名文を盗むところから。「名文どろぼう」、このタイトルも粋だね。

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業のおぞましさ、ひたむきさ「赤目四十八瀧心中未遂」

赤目四十八瀧心中未遂 松岡正剛氏じきじきにオススメいただいた劇薬小説。業のおそろしさを強調されていたが、わたしはむしろ、業のおぞましさ・ひたむきさに呑まれた。

 一度に読んだ、そして激しい、ほとんど飢えたような欲望が一度にわたしを襲った。自分自身を突き落とすような「私」には、どうしても慣れ得ない。職も住もうっちゃって、転々と堕ちてゆく主人公は、納得ずく&身を任せで浮遊する。考えた上でやってることは、わかる。なぜなら、一度はわたしも考えたから。わたしに限らず、この主人公「私」が垂れ流す自壊思考は、誰しも「思った」ことはあるだろう。

その日その日、尻の穴から油が流れていた。私が私であることが不快であった。私を私たらしめているものへの憎悪、これはまるで他人との確執に似ていた
 ただ、本気で実行することはないはずである奈落への跳落を果たしてしまう。今風なら大二病だ。勤め人になってから自分探しすると大ヤケドする例ともいえる。「私とは何か」、それは他者との関係性の中ででっちあげられたものだと分かっていても、その中でしか生きてゆくことしかできない。人を絶ち、表情を消し、そのまま朽ち果てようとしても、感情の底が叩かれたとき、やっぱり「あッ、あッ」と声が漏れてしまう。ことばが生まれるところに感情が潜む。どんなにぎりぎり・ドロドロのところにも、我が潜んでいる。その臓物のような「我」が「私」の内省を借りてつきつけられると、つきあうこちとら辟易すらぁ。

 だから早々に主人公によりそうことはやめて、ヒロインに注目する。タイトルに「心中」とあるから、相方が要る。アヤちゃんといい、第一印象は「見るのが怖いような美人である。目がきらきらと輝き、光が猛禽のようである」。以降、主人公の目を通したアヤちゃんの描写が憎い。先に述べたとおり世捨てを騙っているくらいだから、まともに人を見ない/見れない。対峙しているときは目の端で盗むように、後ろからつけるときは舐めるように、視るのだ。そして、見えない部分を補い匂いを音を貪る。

 なんのことはない、捨てたはずの世にある女に、「我」が囚われているのだ。「私」の後ろから見ているわたしにとって、「見ている」ことを隠そうともしない「私」の矛盾がよく見える。見た瞬間、穢れ、萎れ、垢にまみれる。分かっていながら見てしまう。そして、見た瞬間、関わってしまうのに。ここに葛藤を抱かないインテリを謳う「私」は、ちゃんちゃらおかしいぞ。それとも、読み手にこの矛盾を気づかせるための演出なのか?だとしたら超絶に上手いぞ。

 ストーリー運びの絶妙さも随所に練りこまれている。この小説は、死と血とセックスに満ちている。「私」は臓物を解体し、串刺しにすることを生業とし、腐臭漂う一室で、汗だくになっている。死と血のメタファーだ。そして、その酷い臭いは、ラストの瀧めぐりの爽快な風に吹き飛ばされる対比になる。女からもらったサクランボを「ぜんぶ食べてしまう」のは、その女を喰らう前フリだろうし、過去が人の姿をとって追いかけてくるところは物語が転調するポイント。技巧が見えないくらい溶け込んでいるので、目を凝らさないと気づかないくらい(←これも心憎い。でもそんなの気にせず夢中に読む)。

 同調できない「私」とともに墜ち、這い回る。読み終わったとき、悪夢から覚めたよう。強い性欲は強い渇きに似ている。わたしのまぐわいも、激しかった。「私」とアヤちゃんのような、互いにしがみつくようなセックスだった。夜の底にいると、自分を見失うときがある(あった)。モノに拘泥したり、コトに熱中するフリをすればやりすごせる。でも、そういうごまかしができないとき、わが身が後ろから噛まれるように辛い。そんな夜は、ヒトにしがみつくのがいちばんだな。行為の後の眠りは、小さな死そのもの。完璧の眠り。

 そんな夜をもたらす一冊。

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