「読書とはなにか」まとめ+スゴ本オフ@赤坂
国民読書年記念シンポジウムとやらで、国会図書館まで行ってきた。その後、スゴ本オフという名の飲み会をしてきた。嬉しい課題を沢山もらえたので、ここにまとめる。以前のエントリ、聴講(と飲み会)のおさそい「読書とはなにか」の結果レポートだね。
まずシンポジウム。「発表」というよりも、「物語る」スタイルの松岡正剛さんのしゃべりは、1時間ほど。ネタのほとんどは近著やネットで知ってたが、どこに力点を置いているかが、直接伝わった。結論に近づけば近づくほど、優しい話し方から離れ、ほとんど激しているといってもいいくらい強い口調になってゆく→結論:「読書とは、世界の裂け目にわが身を置くこと」。
「読書」とは、分かるようで分からないものだという。これがスポーツや言語なら、それなりの規則や道具が揃っている(rule,role,toolと韻ふんでた)。ところが「読書」となると、それらを吸収しているようでいるにもかかわらず、あらためてそのメソドロジーをとりあげて研究することは少なかったというのだ。読書の王道となるオーデン「わが読書」ですら、読書の"しくみ"にまで届いていないと―――そこでGoogleると、まさに千夜千冊にヒットする。オーデンが正統派だとすると、セイゴォは逸脱派とキレイに対照的になるようだ。未読というか、存在すら知らなかったのでチェックしよう【課題図書1】。
- 書き手と読み手の間に"読書"があり、それは editorship が関わっている
- 読書とは自己と他者の出会うインタフェースである
- 自己の内側に、沢山の自分が出会う先(創発先)を見つける行為が読書
- 読書とは、ただ本を読むことだけではない。五感をフル動員し、触覚知覚感覚…を準備し、あらゆる知覚快楽経験に基づく行為なのだ

面白いなーと気づいたのが2つ。ひとつはボタンだ。真っ白のシャツに真っ黒のジャケットを合わせるのが、いつものスタイルなのだ。が、問題は白シャツのボタン。いつもは第三ボタンまで外して胸元をくつろげているちょいエロにもかかわらず、今回は一番上のボタンしか外していない。やっぱり国会図書館だからかと思って微笑む。
もうひとつは、「本のめくり方を撮れ」という主張。テレビや雑誌の撮影で、ラーメンとかフレンチをいかにも美味そうに写しているにもかかわらず、本はそうでない。カメラマンは、本の姿を撮るのが本当にヘタだと顔をしかめる。そんなものかと思い返してあっと気づく。松丸本舗のスクリーンで、セイゴォ氏のインタビューが流れている。彼の手元で本が触られているのだが、その触り方がいやらしいのだ。手のひらで撫で、背表紙をちょっと支え、ページをめ・く・り、つつっと指を走らせる仕草は、愛でるというより弄る。ほらアレだ、気をヤっている彼女の秘処を指その他で可愛がるあのまんま。「阿刀田高や藤沢周平の本のめくり方・触り方を、だれも知らない。これは損失だ」と断ずる。本を撮るのは難しい。本を、いかにも面白そうに読む(捲る・触る・置く・持つ・触れる)演出家というかカメラマンがいたら、出版社に引っ張りだこやね。「箸上げ女優」ならぬ「本読み女優」かもありかと。
正剛氏の講演が終わり、後を継いだディスカッションはちと残念。読書のプロを3人呼んで、それぞれ20分のプレゼン→パネルディスカッションという流れだったのだが、時間足りなさすぎ。3人ともメイン張れるくらいのボリュームなのに、20分だとどうしてもマシンガントークになってしまう……さらに、テーマが巨大すぎるので、まとめが大変(というか無理)。司会さんえらく苦労してたにもかかわらず、報われてなかった。
唯一耳が立ったトークは、橋本大也氏のやつ。デジタル化により本の未来を憂えるのは間違いだという。事実は逆で、「本はモテ期に入った」とぶち上げる。つまりこうだ、昔は同じ本を読んだ人どうしで盛り上がるのは、とても難しかった。せいぜい2人か、数人の仲間うちだった。ところが今や、本はブログやamazonレビューで取り上げられたり、リンクされることで、数人から数十人、数百人の単位で「読んだことがある」「興味がある」が可視化されるようになったというのだ。出版社や書店の仕掛けられた方法ではなく、「実際に読まれている人」どうしのつながりが広がっている。「読書のデジタル化によって、内面に隠されていた読書体験が外ににじみ出てくる(見える化)」という主張は至言だと思う。まさにわたしのブログがそうだ。
そして、ネット伝聞を通じて読み替えられ、新しい解釈が読者の時代・能力・願望によって生まれていく。マングェルが「読書の歴史」で語った、読み替えによる豊饒化を、デジタル化は加速していくというのだ。この本、何度も借りては読みきれてないので、この際きちんと付き合おう【課題図書2】。
歴史は分かった、未来はどうなる?という問いに、橋本氏は答える。本という一定のボリュームのあるまとまりから、断片化され、分断化されたカタマリ(章単位)に流通するのではないかと予見する。いままでの1冊が1章単位で書かれ、編まれ、流通され、読まれるというのだ。この発想は新しい(というか、わたしが古いのですな)。確かにモノとしての「一冊」の分量は、画面のインタフェースだと大きいような気がする。わたしの経験だと、DS日本文学全集。「山月記」の再読は普通だったが、「吾輩は猫である」は苦痛だった。一気に読み通せる量が、「1」とカウントされるんだね。
お次は、スゴ本オフ@赤坂の話。アイリッシュパブの雰囲気なのに、店員さんは可愛らしい娘さんというミスマッチ。毛がもじゃもじゃの太い腕でビアサーブされるのかなー、と期待してたので、嬉しい裏切りであった。予約なしのゲリラ的オフに集まったのは5名。ほとんどが先のシンポジウムを聴講していたので嬉しいかぎり。でもって、(あたりまえだが)話すネタは本ばかり。「正剛さんってスゴい読み手だけど、書くほうはイマイチじゃない?」と暴論ぶちかますわたしに、半ば呆れ顔で「ちゃんと読んでます?『フラジャイル』か『白川静』あたりを読んでみて」とオススメいただき、ありがとうございます。まず「フラジャイル」をチェックします【課題図書3】。
そして皆さん、いい本読んでますな。「最近、いい本あります?」(いい子います?のノリで)という問いに、「ベッドルームで群論を」が出てきて嬉しくなる。最高レベルの科学エッセイで、紹介を見ると、ストラスブールの万年時計、ランダムさ、貧困、戦争、地理学、遺伝学、歯車比、分割問題、命名法、群論と、ひじょうに沢山のテーマを楽しめそう。自分が惹かれている本を、「読んでる、面白いですよ」と言われると、ヤキモチのような、トモダチのような気持ちになるね。「退屈なページなど、一ページもない」という帯文句は偽りなしという。
さらに、「これはスゴい!」という本として、アイン・ランド「水源」が出てきたのにはのけぞった。電話帳ぐらいあるやつで、何度も挫折したものだ。それを、「自分が生きたい/行きたいように思いっきりやることが、結果的に社会への貢献になる、なれるんだと確信をもてます」と断言されると、うむ、今度こそと気負ってくる【課題図書4】。
族長に、「あなたはマツオタカシに似ているね、そっくりだ」と指摘される。誰だろう?タレントさんならさぞかし色男だろうとウキウキしながら帰ってGoogleってこうべを垂れる。
講演+オフ会で気づいたら8時間。すばらしい夕べと、スゴい本、そして教えていただいた皆さまに感謝・感謝。
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