« 2010年9月19日 - 2010年9月25日 | トップページ | 2010年10月3日 - 2010年10月9日 »

大人の女の、いやな恋「パーマネント野ばら」

 ……という触れ込みでワクドキしながら読了、ためいき。

パーマネント野ばら スゴ本オフ(恋愛編)で出会ったのだが……これは……これは…これは詩だな。どうしようもない男に人生を振り回されながら、それでもオンナをやめるわけにはいかない。そんな彼女たちの負の情(なさけ)が、パステルカラーでほのぼの&セキララに描かれる。セリフのいちいちがグッと胸に迫り、感情の喫水線は上がりっぱなしだった。心が弱ってたら泣き崩れていただろな。

    けどなけどな
    私のことなんか誰も
    みてくれないしほめてもくれへん

    生きていくのを
    ほめてもらうのは
    あかん事なんやろか

 もっと大声で叫ぶような気持ちを、そっとつぶやくように告げる。作者が「わたし」に託しているのは一目瞭然だが、あまりにも"痛い"。自分の痛みを物語化して泣き笑い飛ばしてしまうつもりなのか。これ描いてるとき、サイバラさんどんな顔してたんやろな、想像すると胸がいっぱいになる。

 そして、子どもの存在。娘が一人いるということは、(そして二人で暮らしているということは)、かつてパートナーがいて、いまはいないということ。夜、娘を抱きしめながら、こんなこと考えるなんて。そして、とりとめもない日常を語り合う想い人の存在が、「わたし」に伝えるあたたかみ、その温もりが、"痛く"なる、ラストで。

    好きやずっとはどこにもないから
    わたしはまいにちうそをつく

うわー、と思ったね。"そういう話"だったんかと。誰もほめてくれないから、自分で自分をほめてみる、好きやずっとはどこにもないから、自分で自分にうそをつく。このホントの意味が明かされるとき、わたしは思わず頭を抱えてしまった。この狂おしさ、せつなさ、空虚(ウツロ)感、男のわたしにゃ重すぎる。でも嫁さんには読んで欲しくない。うっかり読んで「わたし、これ分かる」なんて言われたら、どうすればいいんだ……そういう意味で、女性向けやね。

 だが、男性陣が読んでおくべき箇所もある。セリフほのぼの、画は壮絶。

    20年で満タンになったんや
    女の心は、定期預金やからなあ
    あはは
    ひとつガマンのみ込むたびに
    金振り込んで

    そーですねん
    ある日急に
    満期になって自分でも
    びっくりしましたわー

    毎日ガマン飲み込んで
    こら永遠にいけるんかな
    思てたらー

    あはは
    急に帰ってくるもん
    金利もバッチリついて
    女の定期預金

 「女の定期預金」、これはケータイにでも刻んで、毎日復唱すべきやね。読むきっかけを作ってくれたともこさん、ありがとうございます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

聴講(と飲み会)のおさそい「読書とはなにか」

 いっしょに聞きに行きませんか?国民読書年記念シンポジウム(無料です)。

 国民読書年を記念したシンポジウムが、国会図書館で行われる。ロジェ・シャルチエ教授の講演「本と読書、その歴史と未来」もスゴかった[感想]けれど、今回のは真打だ。メニューはこんな感じ……

 ■日時 平成22年 10月20日(水) 13:30 ~ 17:00

 ■場所 国立国会図書館 東京本館

 ■基調講演「人間にとって読書とは何か」

   松岡正剛氏(編集工学研究所所長、イシス編集学校校長)

 ■パネルディスカッション
  「読書の過去・現在・未来―デジタル時代における言葉・テクスト・リテラシーをめぐる諸問題」

   和田敦彦氏(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
   橋本大也氏(書評家、デジタルハリウッド大学教授)
   杉本卓氏(千葉工業大学工学部教育センター教授)

 ■ディスカッション「『新しい読書』のすすめ―研究と実践への展望―」

 もぉこの人選だけでハァハァものですな!「人間にとって読書とはいかなる意味をもつのか」とか大きく振りかぶった演題になっている。そんなに構えなくても、「昨今のデバイス・風潮の変化で、読書スタイルがこう変わったよ」といったお話が伺えたらと期待する。申し込みは[ここから]

 で、聞いたらきっとしゃべりたくなるので、勝手にオフ会します。場所は「82 ALE HOUSE エイティトゥ エールハウス 赤坂店」で、同日の18時から2時間ぐらいねばるつもり。赤いウェストバックをナナメ掛けにしているオッサンを見かけたら、わたしです。講演について熱く語ってもよし、最近のスゴ本を紹介しあってもよし、好きにからんでください。キャッシュオンスタイルなので、席とか時間とか気にせずに、ふらりと寄れますぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「メイスン&ディクスン」はスゴ本

 「いつか」「そのうち」と言ってるうちに人生は終わる。だから読むんだピンチョンを。

メイスンディクスン1メイスンディクスン2

 もちろん「V.」も「重力の虹」も持ってる。けど「持ってる」だけで、読み終えたためしがない。イメージの濁流に呑み込まれて読書どころでなくなる。注釈と二重解釈と地文と話者の逆転とクローズアップとフラッシュバックと主客の跳躍に翻弄され、読書不能。まれに、「読んだ」「面白かった」という方がいらっしゃるが、どうやって【読んだ】のだろうあやかりたい頭借りたい。過日、ようやく河出書房の世界文学全集の「ヴァインランド」をくぐりぬけたのだが、読書というより酔書でフラフラとなった。

 で今回、辞書並み(しかも2冊)の「メイスン&ディクスン」は、ドーパミンあふれまくる読書と相成った。小説的瞬間とでも名付たくなる、小説内時空間のどこにでも言及され・見渡され・語られている、代えるものがない強烈な感覚に浸る。酒みたいなものだ、酔いたいから呑むのであって、結果、酔うから楽しいとは限らない。もちろん微酔の楽しみもある一方、悪酔いの苦杯を舐めることもある。ピンチョンを読むのは、酔うことに似ている。バッドトリップ承知の上で、杯をあおる、ハイになるため。

 天文学者と測量士の珍道中から、その語り部の周囲、劇中劇さらに現代アメリカと、行単位に時を跳躍する超絶技巧もさることながら、メイスンにしか見えない幽霊女房や不可視のサイボーグ鴨や全員同じ夢を見ているとしか思えないしゃべる犬や礼儀正しい土人形を次々と登場させては煙に巻く人を喰ったピンチョン節をたっぷりと堪能する。複雑に折れ曲がる物語構造をもつ「ヴァインランド」とは異なり、焦点はメイスンとディクスンの二人なのでよもや見失うことはなかろうとタカくくってたら、ストーリーに「乗って」いるのに違う場所に連れて行かれる。高速で曲がるとき逆ハンあてて半ケツずつ横すべりしてゆくアドレナリン・ドライブ。

 ふくらみ過ぎたストーリーにガードレールが無い(!)のでワッと思ったらクルリと高架の裏側へ入り込み、そのまま上下反転して爆走する。物語中に挿入された逸話から本流に戻る際、本編から逸脱した話としていったん"ねじって"接続してくる。下巻54章あたりの、小説技巧としてのメビウスの輪は初体験だ(しかもヒントのようにメビウスの輪のイメージが前巻に出てくる、現実よりも一世紀早い発見として)。

 そう、史実に偽実をコッソリ/堂堂と仕込む技が冴える・笑える。ジョークの掛詞が時をまたがっており、"今"から見るから成り立つのだ。ヒコーキなんて絶対存在していないのに、「一種飛行のような航海」という表現に引っかかる。メイスンの妻レベッカは既に死んでおり幽霊として登場するのだが、どうしてもデュ・モーリアの"あれ"を思い出す。もちろんわたしの反応などお見通しなのだろう。さらに、「そうだろ?アルジャーノン」とダニエル・キイスばりに呼びかけるのは奇異っス(鼠ならぬ、前出のしゃべる犬の台詞なのだ)。また、メイスンが暦の狭間に失われた11日間を彷徨するシーンがある。その最後の瞬間、現時間に追いつくところなんて、S.キングの「ランゴリアーズ」の某場面とそっくりなのはホラを通り越して悪い冗談としか見えない。

 まだある。何気ない会話の中に偉人エマスンがさらりと出てくるが、彼が生まれたのはさらに歴史を20年ほど下った19世紀に入ってから。さりげなく嘘(というより法螺)を吹く。ミュンヒハウゼン男爵を引き合いに出しながら、その上前をはねる大法螺。罠のように仕掛けられる多重奏の法螺に、もちろんこっちは噴かされる。さすがに二世紀も先取りしたフラクタル理論やカオス理論が飛び出してくれば「嘘を嘘と見抜く」ことは簡単だが、「新(ニュー)ヨークだったら酒場に禁煙室があるのに」などと現代ニューヨークの嫌煙運動を彷彿させるエピソードを大真面目に書くのは悪戯もやりすぎ。

 ジョークのジャンプもさることながら、物語の時間軸が入り混じり、当時にいるのか現代にいるのか分からなくなる。「メイスン・ディクスンの冒険譚」と、「その冒険譚の語り手」、さらにさらに「語り手の過去話」「聞き手の"いま"の話」が入り混じる。しかもパラグラフどころか行単位に飛躍するので、めまいが激しい。先に述べた「横すべり感覚」に加え浮遊感が積み重なり酩酊に至る。歴史小説の「ふり」をした中に、奇想・妄想・夢想・幻想あることないことみっちり詰め込んでおり、小説にあらすじやダイジェストを求める愚が相対的に暴かれる。メインストーリー(そんなのあるのか?)をさらって「読んだ」とすることを拒絶している。テーマらしいものといえば、ディクスンが下巻の終わりかけにぶちまける。

「そして今また此処、もう一つの植民地でも、今回は奴隷を所有する連中と奴隷に給料を払う連中の間に線を引く仕事をやった訳で、何だかわし等まるで、世界中で、この公然の秘密に、この恥ずべき核(コア)に繰り返し出会う運命になってるみたいな…(中略)…何処まで行けば終わるんです?わし等何処へ行っても、世界中、暴君と奴隷と出会うのか?亜米利加だけは、そういうのがいない筈だったじゃありませんか」

 そんなの見返しとか書評とか見りゃ瞭然でしょうに。でもこのテーマのためだけにピンチョンは1000ページを超える小説を書いたわけじゃないし、わたしも読むつもりじゃない。書きたい欲望、読みたい欲望に衝かれてそうするんだ。何かを得るためといった「目的」なんぞ糞喰らえ、読みたいから読むのだ。これは、酔うために読む小説なのだ。読むことに目的はないけれど、甲斐はある。人生がそうであるように。手段と取り違えていいのは文学者と翻訳者だけだね。

 その翻訳なのだが、擬古文のせいなのか、メイスンとディクスンの「掛け合い」がシェイクスピアじみている。相手へのからみ具合や、馴れ合い・しなだれ方といった、両者の間合いがそうなのだ。さらに、訳があまりにも逐語的すぎてて、意味不明な文の羅列が続くところがところどころある。わたしの読解が稚拙なのだろうとムリヤリ納得させて進めるのだが、ピンチョン一流の韜晦なのか、訳者の"演出"なのか、はたまた翻訳ソフトによる"手抜き"なのか、分からなくなる。まァ莫大な教養を強要するピンチョンのことだし、版を重ねるごとに充実してくるんじゃァないかと。これ、インターネットの膨大な集積が無かったら読むことも訳すことも不可能じゃないかしらん。

 酔うために読むスゴ本、M&D。

 備忘メモ : ヴィジュアルが充実しているM&DのWiki [Pynchon Wiki: Mason & Dixon]……これから読むためのよすがとして、読んだ人の"おたのしみ"として。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2010年9月19日 - 2010年9月25日 | トップページ | 2010年10月3日 - 2010年10月9日 »