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数秘術から量子論まで「数の魔力」

数の魔力 いっぷう変わった数の歴史。

 古代の数秘術から現代の量子論にいたるまで、人と数のかかわりをひも解いているが、類書と異なるポイントは、「数とは何か」ではなく、「数とは何を意味しているか」を語るところ。

 実際、宇宙のどこを見渡しても、「数」など存在しない。否、花弁の一枚一枚、星ぼしの一つ一つは数えられるではないか、と言える。だが、花弁の「一枚」と「一枚」は異なるし、星も然り。それらを「同じもの」と人が認識したところから「数える」が始まる。数は、人が世界を認識して初めて誕生したのだ。人が世界を知ろうとしてきた軌跡には、必ず、数による抽象化という財産が残されていると言ってもいい。

 本書は、この「数そのもの」ではなく、「数が意味するもの」に焦点を合わせ、歴史を語りなおす。だから、ピタゴラスなら「数が象徴するもの」即ち数秘術の話になるし、バッハの平均律は周波数と整数比の考察になる。デカルトだと空間認識に数を用いた話になり、ボーアなら原子モデルと整数の関係を追及する。これらは、数の性質を紹介する話ではなく、対象の性質を「数」で把握しようとしたアプローチになる。

 なかでも面白かったのが、バッハの平均律について。ピタゴラス音律からオクターヴまで、音を数で表す試みと、そこから生まれる矛盾。告白すると、難しすぎて理解できなかった―――が、恐ろしく複雑でとんでもなく面白い世界があることは感じられる。音は振動であり、振動数を簡単な整数比にしようとするのだが、そこからズレる音が出てくる。振動数をn倍の比する試行錯誤と、それでも「完全」になれない音階の話。だが、われわれの耳は、自分が慣れている音階にあてはめて聴こうとするため、純正からの乖離に対して寛容になるというのだ。同じテーマを深堀りした「やわらかなバッハ」(橋本絹代著)がある。実はこれ、献本でいただいたのだが、積読山に刺さったままだ。これを機に挑戦しよう、バッハ聴きながら。

 また、πの文字列に、ボルヘス「バベルの図書館」をイメージする試みがスゴい。πの小数展開の中に出現する数字列を文字に置き換えるのだ。例えば、00を空白に置き換え、01をaに、02をbに置き換えるように進めていく。アルファベットが尽きたらまた空白から始め、最後は99もひとつのアルファベットに置き換える。この置換をくり返すことにより、πの小数展開を収めた図書館は、ボルヘスの描いた、あらゆる書を収めたバベルの図書館に変貌する。小数展開は尽きないし、その組み合わせは無限といっていいのだから、そこには、あらゆる表現がくり返されてゆく。円周率を見つけてしまったが故に見いだした永劫回帰やね。

 「数学」とはそれ自体で完結した学問のようにとらえていたが、実は逆。人間が世界を捉えようと抽象化した影こそが数学なのだ。したがって数学の拡張は、世界を認識する手立ての延伸になる。

 そんな確信を抱かせる、数奇な歴史探索の一冊。

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子離れのすすめ「13歳からの心を強くする子育て」

13歳からの心を強くする子育て 親の目的は、「わが子を大人にする」に尽きる。

 そして、あらゆる子育て本は、「そのためにどうする?」を語ったもの。それ以上でも以下でもない。

 もし、プラスアルファとか別の「目的」をわが子に見出した場合、無理強いや歪みを引き起こす。どんな時代にも、おかしな親がいる。自分が果たせなかった夢を子どもに押し付けたり、自分の思い通りにわが子を操ろうとしたり(わたしの子ども時代には、『母原病』なる言葉が流行った)。わが子は小学校の高学年。そろそろ難しい年頃にさしかかる前に、予習のつもりで読んでみる。予想通り、厳しい(でも王道の)言葉が並んでいる。

 本書の真髄はここになる。

   赤ちゃんは、肌を離すな
   幼児からは、肌を離しても手を離すな
   小児からは、手を離しても目を離すな
   少年からは、目を離しても心を離すな ← ここ

 もちろん「少年」に限らず「少女」も同じ。肌をくっつけ存在を知らせ、手を引いて歩き、迷わないよう目で追い、いつでもここにいるよと声をかけてきた。いわば、安心するため・させるための親の役割を果たしてきた。その甲斐あってか、不安なこと、心配なことは何でも相談してくれる。

 しかし、それじゃぁダメなんだ。分かってる、わかってる、手を差し伸べて、大人の目線で処方箋を与えようとすると、子どもが自身の「理想と現実」に向き合えなくなる―――よく、分かってるんだが、これは厳しい。いまじゃないが、わたしが「子離れ」しなければならない時期がくる。子どもの自立をハラハラしながら「見守る」。「見張る」のではなく、見守るのだ。

 「子どものため」という理由をつけて、子どもを過度に監視するのを、本書では「拘束の杖」と呼んでいる。あれもダメ、これもダメ、と厳しく見張るパターンだ。これは、子どもによかれという(親の)イメージがあって、それに合わせて子どもを育てたいという思いが根っこにある。そのイメージに合った子が可愛いとなってしまう。本来、無条件の愛となるべき親の愛情が、「条件付」になってしまうというのだ。「勉強ができる子」が可愛い、「運動ができる子」が可愛い、「皆に好かれる子」が可愛い、なによりも「親の言うことをよく聞く子」が可愛い―――前提条件つきの愛は、かなり思い当たる。

 この「前提条件つきの愛」を確かめる方法がある。子どもが抱く「理想」とは何か、問い直してみるのだ。その「理想」が親として子どもの前で言い続けていたものだとしてら、親の押し付けである可能性がでてくる。子どもが自ら思い描いた理想ではないかもしれないというのだ。仮に親の押し付けだったとしたら、わが子のこころにある「理想」をもう一度リセットする必要がある。当然理想と現実のFIT/GAPで揺れ動くのなら、その揺れ動きこそ成長のために必要なんだと。先回りして転ばないように差し伸べていたこの手は、これから「拘束の杖」になりそうやね。

 王道ながら、きちんと言葉にされにくい原理原則が並んでいる。たとえば「疑いの教育」。教育の目的は、「信じるに足るものは信じ、疑いがあるときは徹底して疑う。その方法と能力の発達を導くこと」になる。著者は、「子どもを『愚か者』にしないために、勉強をさせる」という。ここでいう、「愚か者」とは、「学力の低い人間」のことではない。「正しいジャッジメント」ができない人間、あるいは「偏った価値観の持ち主」のこと。

 テレビや新聞でタレ流される安易なレッテル貼りや歪曲化を見るにつけ、「善の敵は悪ではなく、愚かさだ」というボンヘッファーの至言を思い出す。この「疑う」教育はガッコ任せにできないよな、と痛感する。テレビや新聞を批判するための手段として、ネットや海外ソースが利用できるようになるまで教えるか―――をっとこれは「拘束の杖」?

 きっと、子どものほうから、だんだん距離をおくようになるだろう。あと数年でやってくる、わが子の第2反抗期が楽しめるよう、心を構え覚悟する。そういや、わたしが子ども時代は「積み木くずし」が流行ったなぁ……

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美しい科学「コズミック・イメージ」「サイエンス・イメージ」

 「科学には視覚化の文化がある」これが本書の結論だ。

美しい科学1 言い換えると、科学に対し、新しい画像の使い方を提供したテクノロジーの躍進が語られる。科学の発展は、見えないものを「見る」動機によって駆動されるのだ。科学史において重要な意味をもち、その進歩を促してきた絵、図、画像の一つ一つを、その背景の物語と伴に魅入っているうち、知ることは見ることだと思い知らされる。そして、視覚化の過程には、「こう見せたい」という人の意志が介在する。

 たとえば、わし星雲M16の巨大な柱の画像がある。水素分子ガスと塵でできた高密度の柱は、まるで鍾乳洞の石筍のように宇宙にそびえている。著者は、その画像の「向き」や「彩色」に人の恣意性が介在していることを指摘する。宇宙には向きなんてないから、上下を逆転してもいいわけだし、「柱」をおどろおどろしく演出する必要もない。そもそも、人の目に「見える」ようなものではない波長なのだ。だが、その画像を見るのは人間であるが故、「ニョキニョキ伸びる柱」や「星が生まれる濃密さ」を暗示する向きや色になる。同様に、第1巻「コズミック・イメージ」の表紙の、かに星雲の画像は、いかにも超新星が爆発した跡のように「見せる」意志がある。

 あるいは、超細密画のノミの絵がスゴい。脚や体腔、毛のいっぽんいっぽんが、ものすごく緻密で、なおかつ、巨大な一枚絵となっている。これは、1665年に複式顕微鏡で拡大して描かれたものなのだ。グロテスクで、機能的で、合理的で、そして、「美しい」。最近なら電子顕微鏡で撮影した昆虫の巨大画像があるが、(グロっぽいところもありながら)非常に洗練された構造をしている。最新のコンビナート工場にも通ずる、機能美をそこに見出すことができる。

美しい科学2 自然科学のみならず、数学も出てくる。著者にいわせると、数学における紙とエンピツの限界を破ったのが、コンピュータの普及だという。複雑で予測不能な解がどのようにふるまうかをコンピューターで「実験的に」調べた成果が「見える化」されている。第2巻「サイエンス・イメージ」の表紙を飾るマンデルブロー集合が代表例だろう。フラクタルな自然美の代表例として雪の結晶の画像からコッホ曲線まで語れる。しかし、わたしには、人工的に作られたジュリア集合のほうに惹かれる。作り手の意志を超えて無限へ逃げていく出発点の値と、有限の領域に残される出発点の値の境界が織り成す構造は、めまいがするほど美しい。

 極大から極小まで、見える波から見えない波まで、ひいては見ることすらできない存在までを視覚化してきた科学が、たっぷりと語られている。

 そうそう、茶目っ気たっぷりの著者は、各章をさまざまなタイトル、セリフから引用している。いくつか紹介しよう。

  • AはアンドロメダのA――隣の銀河
  • 重力の虹――インフレーション宇宙のスペクトル
  • ワールド・イズ・ノット・イナフ――永久インフレーション
  • ET、オウチニデンワ、シタイ――空飛ぶ円盤 ("E.T. Phone Home."と思われ)
  • 偶然と必然――サイコロの目
  • 嘘、大嘘、統計学――正規であることの重要性
  • 虹の解体――ニュートンのプリズム
  • ロード・オブ・ザ・リング――ベンゼン鎖
 ピンチョンやモノーといった大御所からスピルバーグや007といった映画まで。章のタイトルから中身を想像するのもまた楽し。眼福・満腹・至福の二冊。

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