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究極の本棚「松岡正剛の書棚」

松岡正剛の書棚 まさにわたしのために作られたMOOK。嬉しすぎる。

 東京駅で時間がつくれそうなとき、欠かさず必ず通っていたのが八重洲ブックセンター。だが、昨年から180度方向転換し、出口は八重洲口ではなく丸の内北口になった。目指すは丸善4階、松丸本舗である。

 ここが危険なのは、放し飼い状態になること。いつもは複数の図書館をやりくりしたり、勇気の人差し指でamazonポチっとしていたのが、完全開放される。新刊本に餌付けされている飼い犬から、リミッターカットされたハンターになる。財布におカネ入れてなければ買えなかろうと思いきや、カードOKというデンジャー・ゾーンだ。しかも週末の家族サービスの合間を縫って訪れるので、真昼のゲームのよう(もちろん、夜ならホット・サマー・ナイトになる)。

 ここでは、書物への偏愛は吐息のように漏れでる。書有欲(≠読書欲)の炎をぬけて、行き先のない旅に身を投ずるのだ。ありのまま起こったことを話すと、30分だけのつもりが、ハッと気づくと2時間近く経っている。時が飛ばされたに違いない。放置された子どもは怒りMaxになっている。

 これではイカンと、デジカメとハンディカムで店内を撮影する。動画と静止画の両方、2時間かけて全部の棚を撮りつくす―――のだが、いかんせん薄暗い店内では、肝心の背表紙が見えない。かろうじて良く撮れたのが、「松丸本舗のさまよいかた」で紹介した数枚になる。本の撮影は難しいナリ。

 そんなタメ息に応えたかのように、「松岡正剛の本棚」が出た。これは、松丸本舗の写真集ともいうべきMOOKで、可能なかぎり書影が識別できるようになっている。「ただ本が並んでいる」ような画像ではダメなのだ。書棚の「並び」が命の写真集なのだから、書名ができるだけ鮮明に見えるように、仕掛けが施されている。

 すなわち、棚2~3段ごとに撮影した写真を「貼り合せて」構成している。棚の全景を一枚の画像として撮ったものではないのだ。そのため、よーく見ると画像がズレている部分がある。あたりまえだ。松丸の本棚は「平面」ではなく、でっぱっていたりへこんでいたりしている。さらに曲面構造の本棚もある。そんな凸凹を、一枚の平面に写し取れるわけがない。おかげで、一冊一冊の並びがクッキリと見える。どういう"意図"でこれらの本を並べたのか、想像するだに愉しくなる。一見して不明なのは、ちゃんとト書きが記されている。

 松岡正剛は言う、「たった一冊で人の人生は変えられる。世界も入る。そういう本のあり方を一人でも多くの人に伝えたい」。この思いは、棚の前に立つと分かる。大きいか小さいかは分からないが、わたしの人生を一変させてしまうようなスゴ本は、この棚のなかにある。そう確信させる本力があるんだ。

 究極の本棚を、ご覧あれ。

 【お知らせ】 スゴ本オフ@松丸本舗をやります

 いつもの「Book Talk Cafe」でやってる発表会形式ではなく、松丸本舗の本棚をいっしょに眺め、「これはスゴい」とヒソヒソ声でオススメしあいます。ふつう、本屋は一人で黙々とハンティングするもの―――この常識をくつがえし、一緒に棚を観察しましょう。その棚のどこに着眼し、どう目線をすべらせていくかを、お互いにコメントしあいましょう。もちろん、他のお客さまの迷惑にならないよう、極力気ィ使います。「コレハ!」というのを見つけたら、買いでしょう。来た!見た!買った!でいきましょう。

 日時 8/7 10時ごろ~夕方までの、お好きな時にどうぞ
 場所 松丸本舗([URL] (丸善丸の内本店4F)

 特に受付とかありません。店内を終日ウロウロしているわたしを見つけて、声をかけてください。一緒にウロウロしましょう。このオフ会は開始も終了もありません。あなたが「こんにちは」と言うときがスタートで、「さようなら」と言うときがエンドです。好きなときにきて、飽いたらお帰りは自由です(本屋ですもの)。U-Stream も Twitter もなしで、ユル~くやっています。ビールが恋しくなる時刻まで居座っているので、赤いウェストバックをしているオッサンを探してください。

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読書の夏で20冊、夏をテーマに選んでみた

 爽やかな田舎の風景だとか、ひと夏の恋や冒険、心胆凍る恐怖夜話など、夏を感じる、夏を味わう作品を選んだ。読むとアツくなるやつも混ざっているのでご注意を。

よつばと まず、夏といえば夏休み。だから「よつばと!」(あずまきよひこ)。学生じゃない身分になって幾年月。子どもが、「もうすぐ夏休みだー」などと指折り数えていると、「チッ」と舌打ちのひとつもしたくなるもの。あれだけ沢山の入道雲を眺め、あれだけ沢山のセミとりをしたにもかかわらず、キラキラとした思い出は欠片ぐらいしか残っていない。それを1000倍ぐらい拡大したのがこれ。天真爛漫の「よつば」が、周りを巻き込む無茶ぶりに、文字どおりハラ抱えて笑う。と同時に、帯のキャッチコピー「いつでも今日が、いちばん楽しい日」が胸をアツくする。夏休みを生きなおすような気分になる傑作。

Air 次に、夏といえば観鈴ちん(異論却下)。だから「Air」(桂遊生丸)。ゲームのみならず、TVアニメ、映画と、何度も彼女の死に立ち会ってきた。「ふつう」にあこがれる女子高生と、偶然出会った旅人がくり返す、田舎の夏の物語。微妙に違えども、ラストで彼女は必ず、「もうゴールしてもいいよね?」と訊いてくる。その度にひるんだり涙にむせたりさせられる。くり返される「ゴール」の果てに、異なるラストに出会う。それが、このコミック版「Air」。空の少女にとらわれていたのは、実はわたしだったのかもしれない。ゲームをプレイしたとき、彼女が助かるエンディングがあるに違いないと、必死になって探したのだから。

涼宮ハルヒの暴走 ループする夏といえば、定番テーマかもしれない。だれだって「この夏休みがずっと終わらなければいいのに」と願っただろうから。「CROSS†CHANNEL」とか「うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー」あたりが有名どころ。極端なのは、「涼宮ハルヒの暴走」(谷川流)だろう。無意識に実現してしまうのが涼宮ハルカならぬハルヒなのだから。夏休みの最後の数日間を、何万回とくり返す。もちろん読み手は物語の外側なのだから、ずっと志村後ろ状態にさせられる。プールだ映画だセミとりだとかいった、「夏の日常」の中にデジャヴ感が混ざっていく。この感覚はアニメの「エンドレス・エイト」でうんざりするほど疑似体験できるぞ。

ハローサマー、グッドバイ 「ハローサマー、グッドバイ」(マイクル・コーニイ)は、少年のひと夏の恋物語―――だと思っていたら、きっとのけぞる。SFなんて科学調味料で味付けしたファンタジーにすぎないなんて思ってると、間違いなく驚く。これはSFでないと書けないし、その強烈な証拠をラストで明かすのは上手い/美味い。後半の急転直下は驚きの連続だし、最後の最後のドンデンは、一本背負いのように決まる。全て少年の独白で進められるため、読み手も同じ情報の制限を受けることになる。このもどかしさと息苦しさは彼の青春そのもの。最初は、少年と少女の夏の冒険だったのに。そして、あばかれる人性の残酷さと、一変した風景とのコントラストが、まぶしい。

夏への扉 そろそろ定番、「夏への扉」(ハインライン)を推したいのだが、読中感は、むしろ冬。「夏」っぽかったのは、ヌーディストビーチのワンシーンかな。騙され、虐げられた主人公の印象が強かったからだろうか。タイムマシンで行き来する、いわゆる「バック・トゥ・ザ・フューチャー」もので、いまでも色あせない。描かれた時代は1970年で、30年先の2000年に「跳ぶ」のだが、もうミレニアムから10年経っているんだね……そっちのほうが感慨深い。お掃除ロボットは「ルンバ」、外部記憶デバイスは「SDカード」と、実現された「未来」もある一方で、タイムマシンはまだだろうか。新訳が出ているようなので、この機会に再読してみようか(でも表紙は、あの猫のやつが好き)。

夏のロケット 「夏といえばロケット」だと言ったのは、レイ・ブラッドベリ(ホントはロケットの噴射が引き起こす「つかの間の夏」なんだけど)。でもこのおかげで、むくむくと立ち上る入道雲を見るたびに、あれはロケットが噴出したやつだと妄想するようになった。「夏のロケット」(川端裕人)は、高校の同級生が集まって、ロケットを作って宇宙まで飛ばしてしまおうとする「青春小説」なのだが、そこへ至るまでのウヨキョクセツとトラブルの数々がすごく良い。壁に乗り上げ乗り越えてゆく彼らを見ているうち、いつのまにやら登場人物の誰かに感情移入している自分に気が付くだろう。ラストの打ち上げは、ジンとくるに違いない。読者をここまで連れてくる筆力はスゴいと思う。

なつのロケット これに触発されたのが、マンガ「なつのロケット」(あさりよしとお)。「夏の…」はリーマンだが、ここでは、なんと小学生がロケットを作る話。ロケットを飛ばす動機は違えども、その情熱は一緒。危いと言って子どもから夢を取り上げるのは、いつだって親なんだな。でもわたしはもう、その「親」をやる方になっているので、正直微妙な気持ちで読まされる。それでも、ラストの日暮れ時、「成功していたら衛星は今どこを飛んでる!?」「この辺を飛んでたら見えるかも……」の次の一コマは、鮮やかな感動を呼ぶ。そう、宇宙はいつだって「今、真上」にあるもの。ロケットを見るとき、視線はいつも空に向いている。夏になると空を見たくなるのは、そのせいかも。

潮騒 王道なのが「潮騒」(三島由紀夫)だ。夏と言えば海、海と言えば恋を徹底的に正面から描いた純愛小説。情景の美しさや、初々しい(でも秘めたる)恋愛感情が、いまとなってはまぶしい。これは読んだときの年齢も重要かも。ちょうど主人公と同じ年頃(ティーン?)に読んだなら、一生こころに残るだろう。ギリシアの散文詩「ダフニスとクロエ」から想を得たとか、ミシマ文学ぽくないとか薀蓄述べたり考え込む「前」に読めたわたしは幸せ者。若いときに読んでおくと、読んだことが思い出になる小説といってもいい。オトナになって汚れてしまったわたしにはどう映えるだろうか?も一度読んでみる。

蝉しぐれ 強烈な夏の情景を思い起こさせるのが、「蝉しぐれ」(藤沢周平)。これは、時代小説であり、恋愛小説であり、ビルドゥングスロマンであり、ミステリの要素も持っている。少年の成長をタテ軸に、幼なじみとの淡い恋、お家騒動の陰謀と悲運が絡みついている。詰め腹を切らされた父親の死骸を、大八車に乗せてもって帰ってくるシーンが強烈だ。真夏の炎天下、ただ一人、大汗をかきながら、大八車を引いていく姿は、ぐっとなる。父と子、男と女の「伝えられなかった想い」に身もだえするようなせつなさを感じる。そう、これは泣ける小説でもあるんだ。

異人たちとの夏 読むと夏を思い出すのに、「異人たちとの夏」(山田太一)を推したい。タイトルにずばり「夏」が入っているだけでなく、まさに真夏の夜の夢のようなお話だから。とうの昔に他界した両親と、ふたたび出会った男の話なのだが、もう一つ奇妙な"ひねり"が入っている。その両親は、死んだ頃そのままなのだ。だから、その夫婦の中では時間が経過していないにもかかわらず、主人公(その両親の息子だ)の経験を共有している。異界との交流といった魍魎譚にしてもいいが、これが丸ごと主人公の記憶の改変話にとると、一層こわくなる。こわくて、切ないお話。

夏の庭 泣ける夏本といえば、「夏の庭」(湯本香樹実)だろう。好奇心旺盛な少年たちが、「人が死ぬところを見てみたい」がために、近所の"おじいさん"を観察しはじめる。"おじいさん"との交流を通じ、すこし大人に近づく少年たちを描いた児童文学。つかみはS.キングの「スタンド・バイ・ミー」なのでオマージュかと思いきや、やっぱりオマージュですな(展開は全く違うけれど)。夏は死の季節だ、ばらばらになったセミの死骸を見たり、なにかが腐っていく臭いを感じると、死を思わずにはいられない。だが、「死」はそこらじゅうにあるかもしれないが、「別れ」は親しいものとしか起きえない。人は出会うから別れるのだということを、あらためて思い起こさせる。

スタンド・バイ・ミー オマージュが出たので本家の「スタンド・バイ・ミー」(S.キング)を。やはり少年たちが「死体を見に行く」プロットなのだが、さわやかな青春物語をキング特有の生々しさが覆っている。たった数日の冒険が、少年たちを「一皮むける」存在にする。ふりかえってみると、そんなにとんでもない出来事ではない。そりゃ、ちょっとした困難や、死ぬかもしれないと思うほどおびえることがあったかもしれない。それでも、自分の殻を破るきっかけになるし、確かな友情とそうでないものを見分けるにも充分だ。本作は映画も良くできており、「人生に二度観るべき映画」なのだそうな。一度目は少年時代、次は大人になってから。

隣の家の少女 さわやかな気分をドン底に突き落とすような「隣の家の少女」(ジャック・ケッチャム)をどうぞ。虐待・監禁・陵辱を扱った劇薬小説で、ふつうの人は読んではいけない。しかし、これも「ひと夏の恋物語」と読めてしまうのが憎い。淡い恋で済めばよいのだが、少女の様子が変だ。どうやら虐待されているらしい……現代のように家庭内暴力が認知されている時代ではない。なんとか彼女を救おうとするのだが―――ははッ、ケッチャムがヒーロー物語を書くわけないじゃない、彼は"目撃者"になるのだ。そして、観たことを一生後悔するのだから。これは、「読むレイプ」、ふつうの人がうっかり読むと、一生後悔するかもしれない。

夏の葬列 読んだことを後悔する小説つながりとして、「夏の葬列」(山川方夫)を挙げたい。これは、恐ろしいことに、中学の国語の教科書に収録されていたやつで、一言であらわすなら「鬱小説」。戦争で子どもが殺されてしまうお話で、「戦争の悲惨さ」を訴えるのに重要なのだという主張が聞こえてきそうだが、ポイントは「戦争の悲惨さ」ではないところ。なんでもない短編なのに、ファイナルストライクが非道い。主人公と読み手を打ち倒すような運命が、ちょうど最悪なタイミングでのしかかってくる。身勝手な行動の代償は、あまりにも大きすぎたのかも。

夏の滴 劇薬つながりでもう一つ、「夏の滴」(桐生祐狩)はエグい。インモラルな小説は沢山読んできたが、ふつうの、少年のひと夏の冒険譚なのかと思いきや、予想外どころか場外を越えてトンでもないところまで連れて行かされる。ジュヴナイルのつもりで手にした人は―――間違いなく気分が悪くなるだろう。リアルな「障がい者いじめ」とその結末が恐ろしいし、母子相姦をくり返した挙句、「死んでもだいじょうぶ、またお母さんがあなたを産んであげるから」と言わしめる設定におののく。瑞々しさと生々しさとグロテスクな描写が混在しており、どこか狂っているとしかおもえない。そしてその狂気は強烈な暑気がなせる業なのかもしれない……そう思わせるホラー。

殺人鬼 ではホラー(というかスプラッタ)の傑作「殺人鬼」(綾辻行人)の出番だ。夏といえばサマーキャンプ、サマーキャンプといえばブギーマンという「13日の金曜日」設定は、いまじゃ流行らないか。楽しいはずのキャンプが、突然現れた殺人鬼によって、阿鼻叫喚の地獄と化す。手足切断、眼球えぐり出し、首チョンパ、これでもかこれでもかと残虐シーンてんこ盛り。あまりの悲惨さに、おもわずページから顔を背ける。でも読んでしまった光景は、いつまでも脳内再生されてしまう。そして、本作がただの「読むスプラッタ」に留まらないのは、でかい罠が一つ隠されているところ。ラストで明かされる殺人鬼の正体に、読み手はのけぞること請け合い。

ひぐらしのなく頃に 準備が揃ったところで「ひぐらしのなく頃に」(竜騎士07)を出すのが定番だな。これはアニメで体験したのだが、和製ホラー+猟奇のオンパレード、血と暴力に満ち満ちている。陰惨!凄惨!阿鼻叫喚で、残酷!桎梏!嘘八百、救いのない袋小路をずーーーっとグルグルさせられる。こわさのあまり狂ってしまったほうが楽になるかもしれん、初めて途中で観るのをやめようと思わしめる作品だった。幸か不幸か、一緒につきあってくれたのは嫁さんで、こわいもの見たさで次へ、次へと進めていく。物語の全貌が見えても救われたことにならず、そこから解決のための行動にもどかしい思いをすること二度三度。分かった後でも、思わず「嘘だッ!!」と叫びたくなる。

屍鬼 夏で田舎でホラーといえば、「屍鬼」(小野不由美)を忘れるなかれ。これも、S.キング「呪われた町」のオマージュなのだが、輪をかけてこわい。田舎の共同体の息苦しさと閉塞感が見事にあらわされており、帯のコピー「完全無欠、逃げ場なし」はホンモノ。村総出で人狩りをし、死骸を積み上げるワンシーンは、のどかな刈り入れの場面とオーバーラップして、読んでるこっちにまで狂気が感染する。ただし、ボリュームありすぎなので、いまやってるアニメから入っても良いかも。あの「厚さ」にはちゃんと理由があるのだろう。単に吸血鬼の話といえば、それこそ短編でだって書ける。そうではなく、あの村全体に広がった狂気を書き尽くすために、それぞれの立場でかかわる登場人物たちを丹念に描写していたんだと思う。

百物語 魍魎の類を描いた漫画では、「百物語」(杉浦日向子)がいい。これは、スゴ本オフ(夏)でオススメされたやつで、心をざわめかせる、夜中に独りのときに思い出しそうな話ばかり。江戸時代を舞台に、首がころりと落ちた話だとか、自分じゃない自分に悩まされる男の話、背中に毛の生えた赤子の化け物といった奇譚が、九十九話おさめられている。「百物語」と銘打っておきながら、九十九話で寸止めしているのには意味がある。百話語ると、怪異がホンモノになるからね。だから、最終話は自分で語り出してみよう。「地獄に呑まれた話」「魂呼びの話」「嫌うもの」あたりが、恐ろしく、イヤ~な話だった。

夏の花 ラストは、「夏の花」(原民喜)を。夏の花とは、原子爆弾の比喩。文字どおり、八月の広島上空に咲いた大型爆弾がもたらす運命を、一人称、三人称の視点を重ねながら描いている。カメラでいう「引いた」状況は三人称、クローズアップは一人称の章で綿密に書いている。女の、「灌木の側にだらりと投げ出した豊かな肢体」だとか、「男であるのか、女であるのか、殆ど区別も付かないほど、顔がくちゃくちゃに腫れ上がって、したがって眼は糸のように細まり、唇は思いきり爛れ…」など、見てきたような生々しさは、実際に作者が体験した状況だから。スゴ本オフ(夏)でもらった一冊なのだが、かつて幾度となく読んでいたことに気づかされる。にもかかわらず、毎年夏になると、本書を読み返すことになるだろう。

 一気に紹介したが、まだまだ沢山ありますな。夏のイメージは「死」。強烈な光線にさらされた生の(性の、晴の、盛の)躍動が、死のイメージをネガポジのようにあぶりだしている。お盆や飛行機事故、原爆といった死のイメージが、わたしのどこかに植え付けられているのかもしれない。バタバタ死人が出たり、大きな事故があるのは、夏になると、草葉の陰から手まねきされているからかしら。

 抜けているテーマもいくつか。例えば、「夏といえば甲子園」あたりが抜けていたね。コメント欄で熱すぎるスポ魂「逆境ナイン」(島本和彦)をオススメいただいているが、これは傑作ナリ。わたしなら、「夏=死の季節」と重ねて、やっぱり「タッチ」(あだち充)を挙げておきたい。あと、「八日目の蝉」(角田光代)が良いという噂を聞くが、未読なので今回は紹介を見送った。おいおい充実させていこう。最近出たやつだと、ホラーアンソロジー「八月の暑さのなかで」が楽しみ。なんたって読み巧者の金原瑞人が集めたやつだから。

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「生活目線でがんを語る会」に参加しました

 本を読む目的が、他人の知識・経験を共有することであれば、会って話すのが一番いい。ダイレクトに反応を確かめつつ、つながるから。会って話せないから、手紙になり、本になる。今回は、どんな本を読むよりも、実際の体験を直接聞けるという、非常に貴重な会に参加できた。そして、アタマガツンとやられた。

 がんと生きている人、がんと生きていた人の話をうかがった、「生活目線でがんを語る会」だ。

 最新医療の勉強会ではない。がんになることは、生活を人生をどのように変えてしまうのか、百人百様の生きざまを教えてもらった。U-StreamとTwitterで実況され、アーカイブされた先は、ここにある。わたしのように、「ピンとこない奴」には衝撃的かもしれない。

 まとめると、ここで受け取った最重要のメッセージは一つ、ここで決めた次の行動は一つある。一つのメッセージとは、「患者になったらできることは限られているが、患者になる前は、なんでもできる」こと。そして、ここで即決した一つのアクションは嫁さんに定期健診を受けてもらうこと

 いままで、素朴にも、がんになるということは、イコール「余命はもって3ヶ月です」と思っていた。がんは治らない病、告知されることで、そのまま100パーセント助からないのもだと、無邪気にも信じ込んでいた。映画や小説をドラマティックにするためのステレオタイプに染まっていたのね。

 しかし、がんを「なおす」ことができることが分かった。「なおす」は微妙な言い方なので、早期発見と適切な治療により、「おさえこむ」ことができる。がんになるイコール100パーセント助からない、というわけではないのだ。Surviver たちの直接のことばに、自分の思い込みが打ち砕かれる。

 もちろん、そうじゃない場合もある。あたりまえだ、人の体が様々なように、症状も療法も万別だろう。にもかかわらず、その極端な一例でもって全てがそうだと判断し、議論していくことがいかにムダでばかげているかが、よっく分かった。自分のときには、「そのときの自分」の状態を踏まえ、何ができるか(したいか)考え、信頼できる専門家に任せればよい。がんになったら、やれることは限られてくるのだから。がんになってから、やることが限られてくるまでの時間は、想像を絶するほど早くやってくる。残酷なまでに早い段階で、やれることがなくなっていくのだ。

 その一方で、がんになる前の今のわたしなら、何でもできる。なったときに後悔しないための生活、愛情、仕事、その他やりたいことを、いま、今日のこの瞬間のうちに取りかかるのだ。そして、人生のどこかで「がんになる」ことを前提に、どの段階で見つけるかを想定して行動する。具体的には定期健診を受けることになる。わたしには会社のやつがあるが、嫁さんにはない。そう、嫁さんに受けてもらうのだ。

 ……と、勢い込んで激しく語ったら、嫁さんはアスカの「あんたバカぁ?」的な言い方で、「はぁ?」と応える。かかりつけのお医者さんに毎年検診してもらっているとのこと。予防の一オンスは治療の一ポンドに優るというけれど、よっぽど嫁さんの方が実践しているね。知らなかったわたしが阿呆や。

 この会に参加してよかった。いっぺんに目ぇ覚めた気がする。登壇した方々そして主催のやすゆきさん、U-Stream の大木さん、スタッフの方々に感謝します、ありがとうございます。ふんふんと聞くだけではなく、受け取ったメッセージを、自分の生活ひいては人生に具体的に適用していく気に、強くなったから。

 それから、Twitter実況+U-Stream があったのだが、こんな"つぶやき"があった。

     Ust 見るたび、「他人事」が減ってくる
     マスメディアの「客観性」て、「他人事」の意味だもんね

 激しく同意。マスメディアの「客観的な」お涙頂戴ストーリーに載せられていたなら、絶対にたどりつけない心境だから。他人事じゃない、自分事としてのがんライフを生きる。

 最後に。わたしのメモからいくつかピックアップ。

  • がんは、「飛び散る」病気
  • ただでさえ見つけにくい乳がんが見つけられたことは、ラッキーだ。しかも早期に手術できたことは、もっとラッキー
  • がん患者は、常に3つの不安にさらされる。①個人の不安「死ぬかもしれない」、②医療の不安「自分がどんな治療を受けているか、分からない」、③社会復帰できるか不安
  • がんは、「死ぬまで」つきあっていく病気
  • がんになった母に、「どこに何がしまってあるか」を尋ねるということは、すなわち、おまえはもうすぐ死ぬのだということを暗に伝えていることになる。だから、聞けない
  • 病気だからといって亡くなるんじゃない。腫れ物に触るような扱いはされたくない。ただしこれは、人それぞれで、自分の場合は適度に放ったらかしにしてくれた
  • 「がんばれ」という言葉の重さ。頑張っていないわけじゃないのに、「がんばれ」と言われる意味を考える

 Twitter のまとめは、以下の通り。お話とメモに夢中で、ほとんど目をやっていなかったが、Twitter の発言とあわせると、より立体的に思い出せる。U-Stream + Twitter + 自分のノートは、いつでも手が届くところに置いておこう。

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