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小説の読み方指南=「フランケンシュタイン」+「批評理論入門」

批評理論入門 小説の読み方指南の良書、一冊で小説技法と批評理論の両方を俯瞰する。

 読書本は多々あれど、ほとんど対象はノンフィクションに限られる。つまり、すばやく情報を吸収し、的確に批判するためのハウツーを宣伝している。書店の平台に乗っているコピー本のオリジナル、アドラー「本を読む本」を精読すれば事足りるかと→わたしのレビュー : 上から目線の「本を読む本」を10倍楽しく読む方法

 いっぽう、フィクション・小説だと話が違ってくる。小説の読み方を具体的にレクチャーする本は少ない。「小説を読む」という行為は個人的な体験とされているため、客観性を求められる批評がしにくい(と思われがちだ)。また、小説技法を味わうには、一定量の"修練"が必要で、教科的に身につけられるものではないとされる。

 例えば、石原千秋「未来形の読書術」(レビュー)や平野啓一郎「本の読み方」(レビュー)あたりが小説の読書指南として挙げられるが、どちらも内的体験を一般化する試みにすぎない。評論としては面白いし、次の「読み」へつながるかもしれないが、ひとつの批評に限られる。あくまで「ひとつの批評」なのだ。

 こうした小説の批評を束ねたもの、さらに小説の技法を集積したのが、「批評理論入門」になる。悪い言い方になるが、「勉強が可能」なのだ。「小説を読む→楽しむ」という行為は、もっとテクニカルなもの/伝達可能な手法なのだ。

 小説だから、好きに読めばいいんじゃない?確かに。でも、作者が仕掛けた罠や飾りつけをちゃんと驚いて/愛でてあげるのも大切。そのための近道があれば、ためらわずにたどってみよう。自力主義に固執して、多読や精読や原典や教養修行を強要するのは、エリート主義の残骸だと思う。

 本書はゴシック・ホラーの傑作「フランケンシュタイン」を俎上に、「読むとは何か」「小説とは何か」について徹底的に解剖している。二部構成となっており、前半はデイヴィッド・ロッジ「小説の技巧」から小説技法を援用し、後半はヨハンナ・スミス「フランケンシュタイン」の批評理論を適用している。一冊で二度おいしい力作。

 死ぬまでに読みたい本として、「フランケンシュタイン」は先日読了したばかりだが、「批評理論入門」のおかげで嬉しい再発見が多々あった。例えば、「月」の象徴的な意味。西洋において、月は母性の象徴であるとともに、不吉な出来事を予言する目印だという(シェイクスピア劇)。フランケンシュタインが生命創造に没頭しているとき、「月が深夜のわたしの仕事を見守っていた」と描写されているが、この「仕事=labor」に「分娩」という意味を見出す。つまりこれは、フランケンシュタインの出産行為を象徴しているというのだ。

 さらに、惨劇のシーンではヘンリー・フューズリ「夢魔」を持ってくる。

彼女は死んでいた。ベッドに投げ出され、頭が垂れ下がり、苦しみに歪んだ青ざめた顔は、髪の毛で半分覆われていた
これは、「夢魔」そのものだという。睡眠中の女性を襲うインキュバスのイメージで、(作品では見えないが)怪物は彼女をレイプしたというのだ。「んなバカな!」「なるほど!」と意見が割れるかもしれない。だが、この絵を描いたヘンリー・フューズリは、「フランケンシュタイン」の著者メアリの母の愛人だったということが指摘されると、その相似に息を呑むだろう。

 得るものもある一方で、鼻につくトコも目立つ。批評理論を紹介する宿命なのかもしれないが、それぞれの理論にガチガチの硬直的な読みしかできない。フロイト的解釈やフェミニズム批評などは、ほとんどこじつけとしかいいようのない強引な論理展開なのに、批判もされず並列されている(どの立場を支持するか、ではなく、その立場がロジカルに説得力を持っているかという点で論外なの)。

 本書は小説を読む際の、「お作法」として見るならば、メリットは大だろう。小説読みの「型」を身につけるための教則本にするのだ。そして、いったん「型」を身につけたら、そいつを破ってみればいい(かたやぶり、というやつ)。この「かたやぶり」が一切なく、まるで自分を消してしまっているかのような読み方は、「楽しい?それ」と言いたくなる。技法を探求し、理論に厳密な読みを追求する余り、これっぽっちも楽しそうに見えない。

 ある小説をどう読むかは、ある食材をどう料理するかに似ている。もちろん、道具やレシピはひととおりマスターする必要はある。しかし、その先は自分の好きに料理すればよいかと。つまり、自分の創造的読みに任せるのだ。本書を読んでいると、慣れていない道具(小説技法)や調理法(批評理論)で作った料理を食わされているような気がしてくる。ネタとしか思えない一品が出されると、ゲンナリしてくる。

 その後で、冒頭の石原千秋「未来形の読書術」や平野啓一郎「本の読み方」に戻るのだ。型を身につけ、型破りをした「読み」を堪能できる(それぞれ、上手い料理に仕上げているが、美味いかどうかはまた別の話)。そういうトレーニングをせずに、我流に頼るのは危ない。設定やスジだけ押さえて「読んだ」としてしまったり、言葉のイメージだけ膨らませて事足れりとするヘンテコ読みになってしまう。「型」がないから、かたなしだね(小鳥遊ではないぞw)。

 だから、我流でヘンな癖をつけてしまったわたし自身に、「批評理論入門」をオススメしたい。鼻につくが、身にもつくから。

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がんを覚悟する生き方

 別に宣告されたわけではないのでご安心を。

 ただ、充実した医療サービスが受けられる日本人でいるかぎり、わたしを「殺す」方法は、かなり限定されている。自殺は、メンタル面でフラグ回避を心がけている。交通事故はそこらの歩行者・運転者よりも気をつけている(もちろん"運"の要素もあるだろうが)。

 統計によると、わたしの死因は「がん」になる。

 実は、身近な人をがんで亡くしている。彼の、日常を続けることに極端にこだわった生き方は、いまのわたしにも影響を与えている。というのも、いま、ここの、わたし自身が日常生活にこだわっているから。自分のカラダを意識して食べる。排泄に注意し、睡眠に気を配る。家族とのコミュニケーションは、一期一会といったらはおおげさだが、いずれ別れるときをアタマの隅においている。

 同時に、フィクション・ノンフィクションを問わず、本や映画からもそういう「覚悟」めいたものを受け取っている。ひとが自分の人生に集中するために、「癌」という仕掛けが施されているのだ。黒沢明「生きる」や、マイケル・キートン「マイ・ライフ」、あるいは「死ぬまでにしたい10のこと」―――これらは、癌を宣告された主人公が、死を自覚することで逆に生の輝きを取り戻す。

死ぬまでにしたい10のこと 宣告されて初めて、自分の人生でやりたいことを10のリストに書き出し、順番に実行する。映画「死ぬまでにしたい10のこと」は、そのリストが単純で簡単なものであればあるほど、観る人は自らを振り返るだろう。「いま」「ここ」「わたし」にとって、やりたいことを、やる。ただそれだけが、いかに困難でスリリングで"日常"なのか、病気になってはじめて気づくのだ。

 その一方で、「いま」「ここ」「わたし」の関係を壊したくない。もっと言えば、家族へのショックを「ないもの」にしたい。もちろん自分も精神的ダメージを受けるだろうが、家族への衝撃を慮って言い出せない、言い出しにくい―――わたしの場合、むしろこっちになる。やりたいことは「もう充分」とは言えないけれど、「やってない」「手をつけてない」わけではない。けれども家族は?と考えるだけで熱くなってくる。できれば黙って消えていきたい。

 しかし、そういうわけにはいかない。遅かれ早かれ、いずれは分かる。そして、わたし自身が家族のサポートを必要とするときがくるだろう、必ず。「冷蔵庫のうえの人生」は、人生が有限であること、よりよく生きるには、家族の支えが必要なことが、新しい文体「メモ」で表されている。思春期の娘と、その母親との他愛のない日常が、冷蔵庫に張られたメモの往簡でつづられる。いつまでも続くかに見えた日常は、ある出来事を機に変わり始める。

冷蔵庫のうえの人生 話そうか、話すまいか、母の葛藤がつたわってくる。たかが冷蔵庫のメモなのに、病気のことを娘に伝えるのに躊躇する姿が見える。すれ違いがちの、めまぐるしい日常、それがあまりにも愛しく、最後まで黙ってたほうがいいんじゃないのか、という思いが透ける。エゴなのか優しさなのか、分からない。

あなたにいてほしかった。でも、口に出してそう言う勇気がなかった。こんなことのためにあなたの人生を台無しにしたくなかった。あなたには普段通りの生活をしていてほしかった。私のかわいい娘でありつづけてほしかった
 もしわたしが同じ病気になったら、やっぱりこの母親と同じように悩むだろう。エゴと優しさを一緒に抱えたまま、少し泣くかもしれない。今から態度を決めるのは無理だろうが、ただ、それでも、「そういう気持ちになるだろう」と予め知っておくことは可能だ。「覚悟」には程遠いが、そのとき考えるのではなく、いま考えておきたい。

 このとき重要なのは、「がんと闘う」のではなく、「がんとつきあう」こと。がん細胞という"悪いやつ"がいて、そいつをやっつけるわけじゃない。もともとオレの細胞なんだし、それを否定することは、オレを否定することだろ?だからがんをひっくるめて生きるんだ―――彼はそういった。

打ちのめされるようなすごい本 その態度は、米原万里と対照的だ。彼女が遺した書評集「打ちのめされるようなすごい本」の後半は、がんの闘病記となっている。「私が10人いれば、すべての療法を試してみるのに」「万が一、私に体力気力が戻ったなら」といった語句のすきまに、あせりのようなものが読み取れているうちに、ブツっと途切れるように終わっている。

 残念なのは、闘う相手を医者にしてしまったこと。「どこか」に「なにか」があるはずだと、ネット相手に療法を探し回り、「勉強」をはじめてしまったこと。自分の時間を生きるのであれば、医師を信頼するのが最初だろう。もちろん、わたしも同じような罠にはまるかもしれない。だが、これをlifetime-eaterという「罠」だと気づいたことは記しておこう(後で思い出すために)。

 ちょうどぴったりの勉強会がある。「生活目線でがんを語る会」というもので、がんにかかるってどういうことなのか?何が起こるのか?といった疑問を、現在闘っている人、かつて闘っていた人、家族が闘っているのを経験している人に語ってもらうのだ。医療関係者がテクニカルな部分を語るものではなく、もっと身近な病としてのがんを知る良い機会。案内と申込みは以下の通り。

  「生活目線でがんを語る会」7/23 19:30スタートです

 人間の死亡率は100%。そして可能性が最も高いのが「がん」なのなら、少しでも人生の質を上げておきたい。そのための助けとなるかもしれない。

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【告知】 東京国際ブックフェアでスペシャルトークします

日本最大の本の展示会、東京国際ブックフェアで、やすゆきさんとトークするので告知ー

 とき : 7/10(土)17:00-17:50
 ところ : 東京国際ブックフェア西1ホール「本が好き!」(ブース番号2-51)
      東京国際ブックフェアの公式サイトは、[東京国際ブックフェア]
      「本が好き!」の公式サイトは、[本が好き!]
 テーマ : 本との出会いの場所

 書店、図書館、ネット……本と出会う場所は変わっているのか、変わってきたのか、変わってゆくのかを、スゴ本オフでお世話になりっぱなしのやすゆきさんとトークします。ネット(というよりブログ)以前以後で、わたしの読む対象は爆発的に拡張しているものの、その本質("本"ではなく"人"を探すこと)は、ぜんぜん変わっていないようだ。その辺りの事情とテクニックを、毒にならないように気をつけるつもり。

 このブログや、オフ会とは別のおしゃべりにするつもりなので、ぜひご参加くださいませ。ちなみに、ブックフェアの入場料(1200円)を無料にする方法は、招待券の申込みをどぞー

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