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iPadは「砂の本」である

砂の本 物語の魔術師ボルヘスは、「砂の本」という名の理由をこう述べる。

この本は、『砂の本』というのです
砂と同じくこの本には、
はじめもなければ終わりもないのです
 じっさい手にしてみれば分かる、どの短編を拾っても、そこから次へ紡がれて次からボルヘスの手を経て、またそこへ還ってゆく。スゴ本「伝奇集」の円環より、もっと立体性を感じる。円よりも、そう、螺旋構造をめくっているような感覚。読み手の読書経験によると、そこにクトゥルフや千夜一夜を見出したり、ドッペルゲンガーを思い出すことだろう。しかしそうした伝説を包含し、包含した「お話」を重ねてゆき、ついには巨大伽藍をぐるぐるしている自分がいる。

 「砂の本」には、最初のページがない。最初のページを探そうとしても、表紙と指のあいだには、何枚ものページがはさまってしまうのだ。最後のページも同様で、まるで、本からページがどんどん湧き出てくるようだ。めくる傍からページが出てくる、まさに無限。どのページも最初ではなく、また、最後でもない。ページ数はでたらめの数字が打たれており、これは、「無限の連続の終局は、いかなる数でもありうることを、悟らせるため」だと示唆される。

 偶然この本を手に入れ、取り憑かれた男がいる。まず挿絵をアルファベット順にノートに書き付けていった。しかしノートはすぐに一杯になったが、挿絵は尽きなかった。しかもそれらは、一度も重複することが無かったという。男はこの本の怪物性に気づき、焼き捨てようとするが―――無限の本を燃やせば、同じく無限の火となり、地球を煙で窒息させてしまうのではないかと怖れる。

 これは、同著者の「バベルの図書館」と好対照をなしている。あらゆる本のあらゆる組み合わせが揃っているバベルの図書館は、エッシャーの無限回廊をカフカ的に読んでいるような気にさせられる。三次元的にありえないのに、いかにも現実のフリをして描写される感覚だ。狂っているのは、男か、本か、わたしか。

 その本に対し、男がとった行動は、iPad の運命を暗示している。すなわち、木を隠すには森状態となるのだ。しかし、隠されたのは「砂の本」なのだろうか?全てを含む本が隠されたのではなく、すべての情報が放たれてしまったのではないだろうか。

 もうひとつ。Amazonレビューを眺めていると、「砂の本はWikipediaそのものだ」なんてコメントに気づく。面白い。ならば「疲れた男のユートピア」はTumblrそのものではないか。数千年先の未来人によると、遠い未来では、全てが引用になっているという。すべてのものは既に書かれており、人に応じ、時に応じ、くりかえし参照され、引用される体系となっているのだ。彼は言う、

大事なのは、ただ読むことではなく、くり返し読むことです。今はもうなくなったが、印刷は、人間の最大の悪のひとつでした。なぜなら、それは、いりもしない本をどんどん増やし、あげくのはてに、目をくらませるだけだからです。
 そして、「言語とは、引用のシステムにほかなりません」とまで結論付けるのだ。引用=reblogされたものが、意識を向ける焦点として湧き上がってくる。上がってきたものは別の引用に上書きされる。スタックというフロー、まさに忘れられるために読まれる構造、これはTumblrそのものだ。

 ボルヘスの創造に乗って、なににあたるか?を想像すると、ヒヤリとする短編集。

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子どもに何をすすめるか、悩める親への福音「自然とかがくの絵本」

自然とかがくの絵本 「わが家にとって」最高のブックガイド。

 わたしは本が好きだ。図書館もAmazonもリアル書店も、子どもを連れてよく出かける。そのせいか、子どもも本が好きだ。「かいけつゾロリ」「デルトラクエスト」「サーティナイン・クルーズ」と、全読する根性は見上げたものの―――すべて物語系。もちろん「おはなし」も大切なのだが、この世界に現実にあることにも興味を持ってほしい。さもないと、妄想話ばかりウツツを抜かすわたしのようになってしまうぞw

 これではイカンと「理科読をはじめよう」からいくつか選んでみる(わたしのレビューは子どもじゃなく大人が楽しむ「理科読をはじめよう」)。結局、タイトルどおり、ハマってしまったのは、このわたし。子どもはお義理で「ふーん」という顔をしているものの、すぐコロコロ(今度はマンガだ)に戻ってゆく。

 わたしが感心するからといって、子どもが喜ぶとは限らない。

……という、非情にアタリマエの事実を再確認することとなった。そんなところに pocari さんから紹介いただいたのが、「自然とかがくの絵本」。これは素晴らしい(pocari さんの紹介は、読みたい!と思わせる素晴らしいブックガイド~赤木かん子編著『自然とかがくの絵本』をどうぞ)。

 何が良いかというと、「勉強べんきょうしていない」ところ。「理科読」の背後には自然科学が待ち構えている。そして、いかに科学に興味を持ってもらうかという動機づけが丸見えなのだ。子どもからすると、勉強は学校でたくさん、という気分。甲虫の生態や部分日食に「ふしぎだなぁ」と思う反面、親が教師よろしく百科事典とか出してきて講釈垂れるのは「それは違う」と思っているのだろう。

 何かを識りたい、というインセンティブは、ちゃんと学んでこなかったわたしのほうが強い。だから、わたしが手にする理科本は、どうしても「勉強」になってしまう。既に完成された法則を学ぶ場になってしまう。子どもは、「ふしぎだなぁ」そのままでいいのだ。そこから深めたければ自力でたどるだろうし、次に惹きつけられるまで放置するのもよし。

 だから、(これもアタリマエなのだが)理科本へのアプローチは、わたしと子どもで変えなければならない。子どもの興味を誘導したり、子どもの「先生」になるのが目的なのではない。この世界に現実にあることに興味を持って欲しいのだから―――あれ?これは冒頭でのわたしの願いなのに。「理科読をはじめよう」は学校の授業や図書室の活動の一環のため、勉強のアプローチになってしまっていたようだ。

 いっぽう、「自然とかがくの絵本」は授業でも勉強でもない。だいたい編者である赤木かん子さん自身が「ふしぎだなぁ」とか「これはすごい」を連発しているのだから。そこで原理や仕組みを説いたり、分類系統だてたりすることは一切なし。自然科学へのアプローチではなく、切り口で紹介しているのだ。そして、オトナも一緒になって「ふしぎだなぁ」とか「きれい/かっこいい/こわい/きもちわるい」と言い合っていればOK。

 しかも、各書籍には必ず表紙を載せているので、どんな本かひと目で分かる。恐竜や両生類・爬虫類、昆虫、宇宙、地球、算数、人体、哺乳類、鳥、魚と、好きな切り口から入って、気に入った表紙とタイトルで文字どおり子どもでもたどり着ける構成となっている。で、気になる本は片端から借りればいいのだ。これは、親が「与える」本ではなく、子どもが「選ぶ」本なのだ。そこで本当に気になるなら、自分で進んでいくだろう。

 編者は言う、「読みきかせのコツは、大人が読んでやりたい本は持っていかないことです。子どもたちが読んでもらいたい本を持っていくのです」。そうだね。このカタログから、子ども自身に選んでもらおう、そして一緒になって不思議がろう(ただし質問されて答えられないと悲しいので、予習はちゃんとしておこう、自戒自戒)。pocari さん、ありがとうございます。わたしにとって福音のような本です。

 以下自分メモ。次に借りたいリスト。子どもといっしょに、ワンダーしてみる。

  • 恐竜大図鑑(デーヴィッド・ランバート、ネコ・パブリッシング)
  • 驚異の大宇宙(デイビッド・マリン、ニュートンプレス)
  • 絵でわかる宇宙大地図(ロバート・バーナム、ネコ・パブリッシング)
  • 地球大図鑑(ジェームス・F・ルール、ネコ・パブリッシング)
  • こども地震サバイバルマニュアル(国崎信江、ポプラ社)
  • 水にうくもの しずむもの(マリア・ゴードン、ひかりのくに)
  • 色はなぜたくさんあるの(マリア・ゴードン、ひかりのくに)
  • 世界ロボット大図鑑(ロバート・マローン、新樹社)
  • 目で見る数学(ジョニー・ボール、さえら書房)
  • 算数の呪い(ジョン・シェスカ、小峰書店)
  • 海月(ネイチャープロダクション、ブロンズ新社)
  • ミミズのふしぎ(皆越 ようせい、ポプラ社)
  • チクッといたいやつのずかん(グリーナウェイ、リブリオ出版)
  • シャーク海の怪獣たち(サブダ、大日本絵画)
  • 海洋大図鑑(ファビアン・クストー、ネコ・パブリッシング)
  • 世界動物大図鑑(デイヴィッド・バーニー、ネコ・パブリッシング)
  • さかな食材絵事典(広崎芳次、PHP研究所)
  • 人類大図鑑(ロバート・ウィンストン、ネコ・パブリッシング)
  • 雨がふったら、どこへいく?(ゲルダ ミューラー、評論社)
  • あさがおさいた(大久保茂徳、ひさかたチャイルド)
 このテのブックガイドは新鮮度が大切。「比較大図鑑」(偕成社、1997)が紹介されているが、子どもらは「くらべる図鑑」(小学館NEO、2009)が好評だ。改版が楽しみ~


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嫌ぁぁな話ばっかり「11の物語」

11の物語 読み手を不安にさせる短編集。読書とは毒書であることを思い出させてくれる。

 サイケやホラーと割り切ってしまえればラクなのだが、焦点はあくまでも、登場人物の心の中(うち)にある。だから、事件らしい事件や、大仰な出来事が起こらなくてもじゅうぶんこわい。いや、こわいというより、イヤな気分になってくる。うっかり触れてしまったものが忌み物であることに気づき、洗っても洗っても落ちない「何か」が憑いてしまったかのような気になる。

 パトシリア・ハイスミスといえば「太陽がいっぱい」だと思っていたが、こんなサイケなものをモノにしていたなんて。ウールリッチから事件色を薄めて、S.キングの初期の短編のような舌ざわりのミステリで、プロットやオチは早い段階で予見されるものの、嫌なほう、嫌なほうへと展開する。まるで読み手を試すかのように。

 最初はフツウに見えるものの、「あれっ?」「おやっ?」ちょっと奇妙なズレに気づく。ページを追うにつれてだんだんズレが目だってきて、狂気にまで増幅される様を、ムダを省いた筆致で描く。当初の日常の延長上に、耐え難いほど異様な世界がある―――そんな異質的日常に読者は慣らされていく。人の壊れ具合を探していくうちに、壊れているのは読み手の価値観であることに気づくんだ。

 たとえば、「アフトン婦人の優雅な生活」。夫の異常行動に悩む老婦人の話なのだが、オチは分かりやすい。ただ、サプライズ云々よりも、自分を幸せだと思い込む、その信念こそがいかにファナティックであるかが暴かれているところが、こわい。そこにある現実を認めるということは、これまでの人生を否定しかねないことだと薄々分かっている。だからこそ、必死になって妄想にしがみつく。終わってしまえば「妄想」で済むが、そこに住んでいるものはどうする?読み終わってから、じくじくと痛んでくる。

 また、著者のカタツムリ好きが高じて、カタツムリの話が二編ある。読んだら表紙を見るのもイヤになるはず。オチは分かるのよ、オチは。でも嫌ぁぁぁな、一番いって欲しくない展開に転がっていくのだ。シャクなので強引に誤読してみる。このカタツムリを何かの強迫観念―――たとえばフロイトばりにコンプレックスの一つのあらわれと見なしてみる。例えば「すっぽん」から垣間見える母親の抑圧が「かたつむり」への偏愛もしくはカタツムリそのものになっているとしたら―――これもオチは必然と書かれたとおりになるが、嫌な話だ。惹句に「忘れることを許されぬ物語」とあるが、言いえて妙。

 本書は、スゴ本オフでまちさんに教わったもの。まちさん、ありがとうございます。こんな嫌あああな後味を残す話、大好きです

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