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スゴ本オフ(LOVE編)について補足

 5/14に半蔵門でスゴ本オフやります。申込いただいた方全員へBook talk cafe やすゆきさんからメールが届いているはず……一名、御登録いただいたアドレスが誤っていた方がいらっしゃいます。ご案内メールが届いていない方は、お手数ですが、再度ご連絡ください。

 ここでは、スゴ本オフ(SF編)をふまえて、どんな風にするかメモしてみようかと。

【非】勉強会です。いわゆる「お勉強」はしません。テーマに合わせ、めいめい好きな本を持ち寄って、みんなで語り合う会合です。本を介して新たな読み手を知ったり、人を介してぜんぜん知らない本に触れるチャンスです。

テーマは「愛/LOVE」です。「愛」や「恋」がテーマであれば、小説、コミック、エッセイ、ハウツー、詩歌……なんでもOKです。スタンダードから、変本まで幅広です。重要なのは、その本への思い入れ。作品へのアツい思いをゆるく語り合いましょう。

ブックシャッフルします。いわゆる「本の交換会」です。オススメ本をランダムに交換しあいます。交換する本は「放流」だと思ってください。「秘蔵本だから紹介はしたいけれど、あげるのはちょっと……」という方は、「紹介用」と「交換用」、それぞれ別の本にしてもOKです。

ネットで広がります。Ustream/Twitter/Blogで、オススメ合いをさらに広めます。「その本が良いなら、コレなんてどう?」の反響は、時間空間を超えて広がります。抵抗がある方には、もちろん「見てるだけ」「透明人間」もアリですよ。ちなみに、Twitter のハッシュタグは、 #btc02 です。

オススメ本がカブるかもしれませんが、たいしたことありません。大事なのは、その本がいかに自分に影響を与えたかということを、自分を例にして語れるか、です。わたしがこのblogでやっていることがまさにそれ。プラスであれマイナスであれ、自分の実人生に大きくガツンとキた本が、すごい本=スゴ本なのですから。

ちなみに、前回のSF編でヒアリングしたところ、了解のお返事をいただけたので、変態リミッターをカットしてまいりますね。


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「土の文明史」はスゴ本

土の文明史 土壌の肥沃さと土壌浸食から歴史をとらえなおす快著。文明の発展は土壌の搾取と放棄のくり返しによるものだということが分かる。

■ 結論

 本書のシンプルな結論を図で説明する(p.17より引用)。「土」はもっとも正当に評価されていない、かつ、もっとも軽んじられた、それでいて欠くことのできない天然資源である。肥沃な土壌は、地下からの岩石の風化と地表での侵食、およびその間の微生物・昆虫・ミミズなどの生物と植物類の生態系のバランスの上に成り立っている。あらゆる文明の興亡は、「いつこの土壌を使い尽くすか」「肥沃度をどのように保(も)たせるか」に依拠する。土壌の生成を上回るペースで浸食を加速させる農業慣行により、肥沃な土壌を失ったときが、文明の滅ぶときである。つまり、土の寿命こそ文明の寿命なのだ。
Tuti
■ 超広角で大深度で人類史的な視座

 環境破壊が歴史を変えた着眼点に「土」をもってくるところがユニークだ。しかも著者は、堆積物のコアを放射性炭素年代測定で調査する。どの年代にどの程度の侵食/風化がなされたか、さらに遺跡物からどのような農耕慣行がなされていかをファクトベースで主張しており、非常に説得力がある。土地の劣化がそのまま帝国の衰亡の直接的な引き金ではないにしろ、社会の基盤そのものを脆弱にしたのは、土壌の流出による人口を養うコスト増を指摘する。

 そして、面白い/恐ろしいことに、同じ指摘はくり返されてきたという。古代ギリシア・ローマ帝国の衰亡、ヨーロッパの植民地制度、北米大陸におけるアメリカの西進において、土壌肥沃度の重要性はさまざまな形で訴えられてきたというのだ。家畜の放牧や肥料などにより、土地に再投資することで土壌を維持する方法を試みた者もいる。土壌肥沃度を高めることが重要であるとわかっていながら、その主張はくり返し無視され、土壌は喪失されてきたという。

 著者は、あたりまえのように使われてきた農耕技術についても、土壌の荒廃を加速するものとしてダメ出しする。たとえば灌漑には、隠れた危険があるという。灌漑をくり返すことにより、地下水が毛管現象で蒸発し、土中に塩分が残るようになる(塩類化)というのだ。また、鋤の使用により単位面積あたりの生産高は向上したが、風雨による侵食スピードと土壌の流出を加速することで、土地は荒廃しやすくなるという。目先の収穫のために長期的な生産量が犠牲にされ、数百年で土地は使い物にならなくなる。

 この著者の広角視点により、人類が土地を消費してきた歴史があらわにされる。土壌の形成は非常にゆっくりとしたものだから、それを捕らえる視線も長期スパンになる。だいたい文明は800年から2000年、おおむね30世代から70世代存続している。簒奪や植民地化により、新たに耕作する土地があるか土壌生産性が維持されている限り、社会は発展し反映する。いずれも可能でなくなったとき、すべては崩壊する。

■ アスワン・ハイ・ダムの皮肉

 この例外であるナイル河流域の運命は、笑ってはいけないのだが笑い話にしか見えない。エジプトの農業はファラオからローマ帝国を経てアラブの時代に至るまで7000年ものあいだ持続可能だったが、これにはちゃんとわけがある。ナイル河の毎年の氾濫により、塩類がほとんど含まれない肥沃なシルトが沿岸に運ばれているからなのだ。

 しかし、アスワン・ハイ・ダムの建設により、農業環境が破壊される。氾濫がなくなり灌漑用水のおかげで二毛作・三毛作が可能となったが、シルトは運ばれなくなり塩類化が進んでいるという。氾濫防止と灌漑用水を目的として建設されたダムが、逆にそれを加速するなんて、皮肉な話だ。

 さらに、低下する収穫量を回復させるため、農業生産は化学肥料で維持されるようになるのだが、その化学肥料は、アスワン・ハイ・ダムで発電される電気によって生産されるのだ。いまではナイル河沿岸の農家は、世界有数の化学肥料の消費者となっている。アスワン・ハイは、もはや皮肉は通り越したところにある記念碑だな。

■ 植民地化→グローバル化=土壌搾取のアウトソーシング

 近現代の欧州および北米の歴史は、土壌流出のアウトソーシングの歴史だといっていい。ヨーロッパは繰り返される飢餓問題を、食料を輸入し人間を輸出することで解決した。言い換えると、ヨーロッパは食糧生産をアウトソースしながら、工業経済を築き上げたというのだ。

 著者の視線があまりに幅広なのでピンとこないのだが、要するに、遠く離れた大陸の土壌肥沃度を搾取するいっぽうで、自国の経済の工業化を推進するものが植民地政策の本質なのだそうな。結果、その流れは現代の「市場のグローバル化」につながる。より豊かな市場を求めて農産物が海外流通するのが、今日のグローバル化した農業だ。これは、ヨーロッパの都市への食糧供給を助けるために成立した植民地プランテーション遺産の反映なのだ。つまり、土を現金に換えているだけにすぎない。そして収穫物が搾り取れなくなった土は棄てられ、新たな市場を含めた開拓がなされる。植民地は、文字通り「食い物にされた」というのだ。

 北米も同様だという。植民地の拡大ではなく、農地の西進化が土壌を搾取した歴史になる。タバコと綿花栽培は、手っ取り早く農作物を現金化することで大いに開墾されたが、農場経営者は地力を回復させるためになんの努力もしなかったという。土が与えるものを受け取り、何も与えてくれなくなれば捨てる。古い土地を蘇らせるより、新たな土地を開墾するほうを好んだ結果、土地の荒廃が西へ西へ―――太平洋へ達するまで続くことになる。

■ ローマ、欧州、北米の土壌搾取の歴史に共通するもの

 良好な土地が無造作に使い捨てされるのを見て、アメリカ農業の愚かしさを嘆くイギリス人の手記があるが、自国も同じ歴史をたどってきたことに反省しない罠に笑ってしまう。ローマ、欧州、北米における土地荒廃の歴史には、共通した罠―――地主制度が潜んでいる。

 つまり、プランテーションの所有者が、自らの土地を耕していなかったことが問題の本質だという。土壌疲弊の問題をもっとも認識すべき人々が、実際に農地で働いていなかった。そこでは雇われた監督と小作人が働いており、彼・彼女らは出来高で給料が支払われる。土壌肥沃度を維持して地主の利益を守るよりも、各年の収穫を最大にするほうを目指すことになる。土地が荒廃すれば、次の場所を開拓し、開拓する土地がなくなれば、他国を収奪する。二千年前の古代ローマと同じように、不在地主制度が土地を浪費するシステムを助長したのだという。

 さらに現代では、この土壌搾取の構造が、より巧妙になっている。地代や農耕機械・化学肥料のローンだ。かつてのような植民地の支配-被支配構造に取って代わり、農業を営む人は、機械化と化学肥料の購入費を稼ぐために、土壌を収奪する。機械化されてた大規模農場は「経営」されるものなのだ。つまり、買ってきた養分を"インプット"し、もっとも市場で求められている収穫物を"アウトプット"する。その間の"メンテナンスコスト"を最小化することが求められており、土壌喪失だとか持続可能性だとかは問題にすらされない―――今のところは。

■ 地球という「島」

 人類史をたどりなおすようにして、土壌が果たした本質的な役割を探る試みは、とても新しく感じた。さらに、農耕の発達が人口増をもたらす一方、それらをたゆみない収穫量の増加によって養うという終わりのないレースだと喝破する視点はスゴいと思う。広く、深く、長いスパンを持った目線でないと、見えない。

 そして、ちと恐ろしいシミュレーションを、過去の「実験」に求めている。大ざっぱにいって、文明の寿命は、農業生産が利用可能な耕作適地のすべてで行われてから、表土が侵食されつくすまでにかかる時間を限界とする。もちろん気候や地質学的条件は異なれど、土地の荒廃は文明の生命線を断つことにつながる。このシミュレーションを、土地利用が限定されたイースター島の歴史に求めている。限られた土壌資源を使い果たし、ついには互いに喰い合う食人にまで行き着いた事例はヒトゴトに思えない。

 荒廃のテンポは非常にゆっくりしているので、なくなったことに気づかないのだ。そして、次の、次の次の世代では、「なくなったこと」がデフォルトとしているため、失いつつあることに気づかないのだ。土壌を地球の「皮膚」に喩え、地球を「島」に喩える著者の皮肉は、ジョークにしたくでもできない。

■ では、どうすればよいか?

 これだけ脅してきたのだから、対策について考えているかな?かな?とおそるおそる読むのだが、めぼしいものはない。ペルーの「土地を耕さない独特の農法」「輪作・休耕・堆肥と灰の使用」の事例を挙げたり、地産地消を目指す農業の非グローバル化や、都市農業の可能性を模索している。バイオテクノロジーはほんの触れる程度で、土を一切使わない水耕栽培も含めると、別の可能性も見られたかも。さらに、流れ出した「肥沃さ」の行き着く先―――海洋についてまったく触れていない。土壌の肥沃さを吸収する海洋資源を目指すのが近未来だと予測しているので、このテーマは別の本で追ってみよう。「土」に軸足があるのだから仕方ないかもしれないが……

 もちろん人類史をひっくり返して「土」の面から再評価を行ったのはスゴい労作だが、どうすれば土壌を保全する動機付けができるとか、非グローバル化の潮流を作り出せるかとか、持続可能性を高めるテクノロジーについては、別の資料を探すべきなのかもしれない。ただ、すべてをゼニカネで換算するグローバル資本主義の下では、泥の価値は非常に低くみられがちだ。けれどもさらに見方を変えると、銭金を泥に換えられるのなら、地球という土壌を使い尽くす未来を変えられるかもしれない。そして、「銭金を泥に換える」方法(慣行、技術、事業)を見つけた人は、そのまま世界を手にすることになるだろう―――ずいぶんとスケールがデカい話になったが、読み手をそうさせてくれる危機感と視野感覚を煽って広げてくれる、それが「土の文明史」なんだ。


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脱怒ハック「怒りについて」

怒りについて 怒らずに生きる技術。つまらないことにイライラせずに生きたいもの。

 実をいうと、わたしはかなり怒りっぽい。頭からっぽの政治家に毒づき、無脳なキャスターは○ねばいいのにと本気でヒートアップする。子どもの反発に腹を立て、嫁さんと口論しては感情的になる。朝から晩までプリプリしてる日もある。

 だからこそ、怒らずに生きるにはどうすればいいか、考えて、読んで、試した。その過程+とりあえずの結論は、「怒らないこと」はスゴ本や、正しい怒り方になる。左記のエントリには書かなかったけれど、コヴィー「7つの習慣」とアーヴィンジャー「箱」にはお世話になったっけ。

 そして今回、ローマの賢者・セネカの「怒りについて」で思った、これは「脱怒ハック」だってね。怒りそうになったら、脱兎のごとく逃げ出そう。これぞ脱怒ハックなり。つまり、怒りに満ちた人生を脱出するための技術が(おぞましい具体例つきで)紹介されているのだ。「怒る技術」という本があるくらいだから、「怒らない技術」とかソレっぽいネーミングでリライトすれば売れるかもよw

■ 怒りとは何か

 セネカは怒りをこう定義する : 「怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望である」。つまり、自分が不正に害されたとし、その相手を罰することを欲する、いわゆる「報復の欲望」なのだという。

 そして、怒りとは「弱さの証明」だとも述べる。セネカは、怒りっぽい人を想像してみろと促し、老人か幼児か、さもなくば病人だという。およそ、ひ弱なものは怒りっぽいのだ。え?わたしの上司は?あの権力者で怒りっぽいのがいるではないかと考えるのだが、よく観察してみよう。怒りっぽい奴は皆、おびえていることが分かる。無能を暴かれ、その椅子から滑り落ちることに。

 面白いことに、シャカとセネカが似たことを言っている。すなわち、怒りとは自分で毒を飲むようなことで、文字通り身を滅ぼす感情だ。人間の本質は時空を超えても変わらないことにタメ息。セネカが違うところは、怒りに身を任せた愚帝が何をしたかを詳細に記したところ。淡々とした筆致でエグい話をつづっている。

■ 怒りへの最善手

 まず「怒り」の感情を認めろという。サイアクなのは、自分が怒っていることを認めないことで、狂人が己の狂気を認めないのと同じだというのだ。「怒ってないよ!」とアツく言いたくなったら、「酔ってないよ!」という酔っ払いを思い出そう。自分が怒るとき、どんな身体的反応が起きていたか、思い出してみるとなおよろし。「次」が予想できるからね。

 そして、怒りに対する最も有効な対処は、「遅延」だと断言する。ようするに、「ちょっとマテ」というのだ。自分に対して不正がなされた、という最初の興奮は「怒り」ではないという。しかし、その後に続いて起きる衝動と、復讐へ突き進んでいく激動こそが怒りなのだ。だから、最初の興奮(今風なら、びっくりした、ガツンときた、えっ?と驚いたetc......)の後に続く、「これはひどい」という判断を猶予せよというのだ。

 それができれば苦労はしないよ、と思う。それができないから苦労してるんだ、と怒るかもしれない。しかし、わたしよりもずっと賢いシャカとセネカが口をそろえて言うのだから、おそらくこれが最善手なのだろう。学問とダイエットに王道が無いように、怒りを脱出するお手軽な方法も無いのだ。そうだね、「巻くだけ」で怒りとはオサラバできるバンドが売ってたら買うよねw

■ 怒りを延期させる方法

 怒りには時間が効く、ということは分かった。確かに感情的にワーッとなっても、一晩寝かしたら冷めることもあるし、怒っているときに下した判断は必ず誤っているというマーフィーもある。ようするに「頭を冷やせ」だね。では、どうすれば怒りを延期させることができるだろうか?

 セネカは怒りから「逃げろ」という。自分に罵声を浴びせ、自分を怒らせるような者から(物理的に)遠ざかることで満足せよというのだ。または、怒りという中に逃げ込もうとする自分を指摘する友人に頼めという。そして、「怒り」そのものから自分を引き離せと提案する。友人がいないなら、鏡を見ろという。怒りがどれほど内面だけでなく形相を変化させたかに気づけば、現実に戻ってこれるというのだ。

 ここは、わたしの考察と似ている。子どもが怒り出したとき、「手を洗いに行け」と教えている。いったんトイレに入って、それから手をしっかりと洗ってこいと。そうすることで、怒りが発生した場所から物理的にも時間的にも隔たることになる。「頭を冷やす」ほどの効果はないかもしれないが、一気に感情が爆発することは避けられる……はず(自分で実験済)。

 もっとも避けるべきは、判断する前に怒ることで、怒りは未解決状態にとどめておくべきだという。「罰は延期されても科すことができるが、執行後に取り消すことはできない」は刺さる至言だ。感情的になった勢いで何度となく後悔するハメになる暴言を吐いた夜をたくさん思い出すから。

7つの習慣 スィーヴン・コヴィーは「7つの習慣」でこのような図をあげている。刺激と反応のモデルだ。外部から受けた刺激(この場合は「怒り」を引き起こす不正)に対し、反応するだけの場合だ。こんな感じになる。

       刺激⇒⇒⇒反応

刺激に対して反射的に反応している場合、「不正⇒怒り」のスパイラルから逃れられない。だがよく見てみよう、「刺激」と「反応」の間にスキマがあるんじゃないの?この間(セネカは「遅延」と呼んだ)を置くことで、「怒り」の反応を吟味する自由が生まれてくる。言い換えると、時間的なスキマがあって初めて、判断することができる。

       刺激⇒  ⇒反応

もちろん「怒り」という選択を取るかもしれないが、少なくとも条件反射のように怒りまくることはなくなる。自らの価値観に沿った反応を選び取る自由が生まれるのだ。コヴィーはこれを「主体性」と定義した。

       刺激⇒ 【反応を選ぶ自由】 ⇒反応

そして、主体性によって反応を選ぶ「判断」が働くとき、ほとんどの場合、いや全ての場合、「怒り」という選択は「選んでいない」ことになる、というのがセネカの主張。なぜなら、怒りというのは、感情の噴出に自らを譲り渡すことなのだから。もちろん、(周囲を動かすための)偽りの怒りという作戦もアリだ。しかし、それは「怒りの演出」を選んでいるため、セネカのいう怒りとは異なってくる。

 いずれにせよ、ニセモノの怒りを除けば、「怒り」を選ぶことはありえない。そして、選ぶ自由を得るためには、トイレに行って手を洗うとか、深呼吸するといった時間的(ひょっとすると空間的)なスキマ=「遅延」が必要になる。

■ 「私は何も間違ったことをしていない」という人には

 「私は何もしてない」「私は間違っていない」と強く思うときがある。胸かアタマか、怒りが今にも広がろうとする瞬間だ。セネカ翁は、そんなときはこう考えろという、「だが、まさにそのとき、悪事と傲慢と頑固さを付加するという過ちを犯しているのだ」。

 つまりこうだ、「間違っていない」という裏側には、「法を犯してなどいない」とか「正しいのは私だ」という気持ちが待っている。セネカはうそぶく、法に従うから善人だというなら、無辜とはなんと狭隘なことかと。法で律せられる範囲なんて狭いものよ、それよりも義務の原則―――孝心、思いやり、寛容、公正、誠実のほうがどれほど広範囲を覆っているのだろうかと。そして、法はもとより、この義務の原則に従えというのだ。

 セネカはもっと気の利いた言い回しを使う。「誰もが自分の中に王の心を宿している。専横が自分に与えられるのを欲し、自分がこうむるのは欲しない。だから、われわれを怒りっぽくしているのは、無知か傲慢である」と。「わたしが正しい」からといって、それは怒る理由にはならない。むしろ、「わたしが正しい」傲慢さを思い知れ。

■ 「やられたらやり返すべきだ」という人には

 しかし、それだとやられっぱなしじゃないか。苦痛を与えてくる輩には、苦痛を返してやるのが相応だ、という意見がある。その通りだと思う。目には目、歯には歯、やられたらやり返す、こっちもスカッとするためにね。

 それでもなお、セネカはこういう。それは違うと。不正には不正をでは話が違うというのだ。不正をこうむったからといって、こちらが不正を反してやる筋合いは無く、しかも醜いという。苦痛の仕返しは、苦痛を与える順番を除いて大差ない。さらにこちらも過ちを犯すことになる。不正を犯した相手は、「不正を犯した」という罰と後悔の呵責を既に受けているのだからだと。

 ううむ、こっちが怒りたくなるような相手は、「後悔の呵責」なんて自覚しないと思うが、セネカの周囲はよっぽど高潔な連中が集まっていたに違いない。しかし、不正を見過ごしたままだと、舐められっぱなしじゃないか?レベルによるが、いじめっ子には、二度とそのようなことをさせないためにも、「返礼」は必要じゃないかと。

 わたしの声を聞いたかのように、セネカは応える。「報復に訴えるなら、怒りなしにしようではないか」と。これにはガツンとやられた。いじめられている子に、「やり返せ」というのは酷なもの。まさにやり返さないような子を狙って「いじめ」が横行するのが常套なのだから。セネカ流なら、怒ったまま行動すると狙いが外れる。冷静に、怒りなしで、復讐せよ、ということになる。でもまず第一に、「逃げろ」が正解やね。

相手があなたを殴る。退きたまえ。打ち返せば、さらに何度も殴るための機会と言い訳を与えることになる。望んでも身を引けなくなるだろう。

■ 「間違えたら、怒って叱るべき」だという人には

 はいはい、それわたし。何度言って聞かせても間違える人には、やっぱりガツンと怒ってやらないと─――という人には、セネカはこう例を挙げる。

むしろ、誤りに対して怒るべきでないと思いたまえ。もし誰かが、暗闇の中におぼつかぬ足取り歩む人に怒るとしたらどうだ。耳の聞こえない人が命令を聞いていないのならどうだ。
 無知は怒る理由にならないときっぱり言う。病人の激怒、狂人の罵言、子どものいたずらに耐えられるのは、彼らは何をやっているか知らないから。ナザレ人(びと)が磔刑にされたとき、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないのです」と言ったことを思い出す。ナザレ人ほどの器はないけれど、「道を知らないせいで土地をさまよう人がいたら、追い払うより正しい道を教えてやるほうがいい」という助言は耳に留めておくべし。

子どもにいちばん教えたいこと 「間違えたら、怒って教える」ことについて、もう一つ思い出したことがある。息子の勉強を見ていて、何度やっても同じミスをくり返すときだ。その瞬間、「ここはひとつ、ガツンと怒ったほうが身にしみるかな?」と考えてしまう。すると、あるニューヨークの教師が書いた一文を思い出す。そこにはこうある。

もしある生徒が掛け算で悪い点数をとったら、それはたった一つのことを意味する。彼がまだ掛け算のスキルを理解していないということだ。だから喜んでふたたび彼に教えればいい
これは「子どもにいちばん教えたいこと」からの一文で、わたしのレビューは、親になったら読むべき6冊目「子どもにいちばん教えたいこと」にある。まさに、道に迷った人がいたら、(怒らずに)道を教えてやればいいってやつ。久しぶりに自分が書いたものを読み返してみた……すごく参考になったよ、自分が書いたのにwwwブログ様サマやね。

■ セネカも怒りんぼじゃね?

人生の短さについて 古今東西の賢人や王の例をひいては、「怒り」が何をもたらしたか、奪ったかをこれでもかと主張するセネカ。そういう彼に耳を傾けていると、はっきり言います、あなたのような生き方をしている限り、人生は千年あっても足りません。時間などいくらあったところで、間違った生き方をすればすぐに使い果たしてしまうものなのですを思い出す。これは、セネカ「人生の短さについて」で述べられている持説は、そのまま彼の後悔ばかりの人生を裏返している天邪鬼的な読みなのだ。

 だから、怒りが行動を、行動が習慣を、習慣が性格を、性格が人生を変えてしまった究極の実例は、セネカの周囲か、ひょっとすると自身なのかもしれないと考えると愉しい。裕福な出自でトントン拍子に出世したのはいいものの、暴君ネロに睨まれて自殺を命ぜられる。思い通りにならない政界や、不合理な命令にセネカ自身、幾度となく激怒しては後悔してたんじゃぁないかと妄想しながら読むと、一読で二度おいしい。

 「怒り」は性格ではない、選択だ。怒らずに生きるには、ちょっとした遅延をもうける技術が必要。選べる人生で、つまらないことにイライラせずにいきたいもの。技術は学べる。だから、怒らずに生きることを選ぼう。

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