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スゴ本オフ(SF編)

 最初に、ありがとうございます。本よりも、人の出会いのほうがスゴい場でした。

 会場を準備していただいた阿部さん、ありがとうございます。KDDI ウェブコミュニケーションズには足を向けて寝ません。自前の機材でただ一人でU-streamを実現した大木さん、ありがとうございます。ネットにリアルでつながることを、生々しく感じました。何から何までお世話になりっぱなしだったやすゆきさん、ともこさん、ありがとうございます。わたし単品なら実現すらおぼつかなかったです。受付と事務を受け持ってくれたずばぴたさん、ありがとうございます。濃く・熱いトークに参加いただいた、ひできさん、さとうさん、黒バラさん、清太郎さん、冬木さん、daen0_0さん、弾さん、ゆりさん、でんさん、sako0321さん、にわかダンサーさん、n_kanezukaさん、ogijunさん、しゅうまいさん、ありがとうございます!感動のあまり帰りの終電で目から汗が出ているキモイおっさんでした。

 まさに、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」そのあなたたちが集まった場でしたな。オススメいただいた本のほぼ全てが未読なので、嬉しい限り。あと、小飼弾さんが生身の人間だったことと、ゆりぽさんがやっぱり変態だったことが確認できてよかったナリ。まとめは以下をどうぞ。

SF本だらけのBook Talk Cafe 第1回(スゴ本オフ会)の様子。

Book Talk Cafe 第1回(スゴ本オフ)簡易レポ&オススメされた本リスト

 ここでは、スゴ本オフを受けて、blogの軌道変更しようと考えていることを書く。

 まず、リアルに接続すること。このblogは、基本的に読んだもののアウトプットの場+次に読むもののインプットの場であり、「わたし」の上を流れてゆく本を観察する場所『だった』。もちろん借りた/買った/貰った本を全て読んでいるわけでもなく、さらには読んだ本を全てレビューしているわけでもない。読んだものがわたしの中で一定のストックとしてたまったものを、ログとして吐き出している。これを変える。

 「変える」というよりも、むしろ「付け加える」とでも言うべきか。本のレビューに加えて、本にまつわるリアルを紹介してみよう。それは、「スゴ本オフ」というリアルなコミュニティであったり、書店探訪記だったり、中の人(編集者・執筆者・書店スタッフ・そして読者)の観察記録になる。つまり、物理的な本を媒介にした向こう側のリアルを、こちらからアクセスする試み。

 読書は、ストックではなくフローだ。生きることが読むことならば、つねに変わり続ける自分をつなぎとめておくのは、目の前の一冊になる。その一冊をステップにして、自分のリアルを拡張させるんだ。さらに読書は、一対一から一対多になる。著者と読者の一対一の対話だけでなく、テクストと読者『たち』との交感会であってもいい。オブジェクトとしての「本」という存在が揺らいでいる今、「そのテクストから受け取った感情・思い出を語る」ことを、読書と再定義したら面白かろう。

 次に、変態度を上げてみようかと。たまに(?)成人向けや劇薬小説などを差し込んでいるが、オフ会の皆さまには「ぜんぜんオッケー」みたいだ(あたりまえか)。頭よりもむしろ下半身でモノを考えているわたしにとって、変態スキーは心強い。下部構造は上部構造を規定する。ゆりぽ師匠に相談しながら、変態回転数を上げてみよう、そうしよう。

 最後に、ブックハントの収穫物からいくつか。ゆるゆる読んで、生きたい。

イルカの島 アイの物語闇の左手
フェルマータ航路戦闘妖精・雪風
煙突の上にハイヒール黄泉がえり象られた力

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「怒らないこと」はスゴ本

怒らないこと 怒らずに生きるための一冊。

 自分を壊さないための怒り方として、[正しい怒り方]を書いた。この記事がきっかけになって、本書に出会う。著者はスリランカ上座仏教の長老で、アルボムッレ・スマナサーラという。「怒り」に対する考えや姿勢を、わたしの記事なんかよりも、ずっと分かりやすく・直裁に具体的に紹介している(誓っていうが、これをタネ本にしてませんぞ)。怒りのない人生が欲しい方へ強くすすめる。わたしにとって、「それなんて俺」的な確認のための読書となった。次にわたしが「怒る」とき、よりその本質を観ることができるだろう。

■ 「怒り」について、誰も知らない

 最初に著者は挑発する、「怒り」について誰も知らないと。「怒るのは当たり前だ」と正当化したり、「怒って何が悪い?」さもなくば「怒りたくないのに、怒ってしまう」という人は、自分にウソをついていると断言する。「本当は怒りたくない」なんて言い訳して、ホントは怒りたくて怒っているのだと喝破する。そして、怒りたくないなら、怒らなければいいというのだ。

 著者は、怒りをごまかす方法などに関心を持たない。人生は短いから、自己欺瞞はやめよう。そして、まず「わたしは怒りたいのだ」ということを認めろという。そして、「なぜ怒るのか?」を理解せよと促す。どのようにして怒りが生まれるのか?Dhammapada(法句経)によると、以下の場合になる。

   1. 私をののしった/バカにしている(akkocchi mam)
   2. 私をいじめた/痛めつけた(avadhi mam)
   3. 私に勝ってしまった(ajini mam)
   4. 私のものを奪った(ahasi me)

カッコ内はパーリ語。いちいち頭の中で考えて怨み続ける。わざわざ思い出しては、悶々と悩んだり悔しがったりしているのが、「怒り」なのだという。全力で思い当たる。特に1.と3.の場合がセキララに思い出されて、ア・チチとなる。

■ 「怒り」の根っこにあるもの

 さらに、「怒り」の根っこには必ず、「私が正しい」という思いが存在するという。かつて自分が怒ったとき、その理由を冷静に客観的に分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている」というしくみがあるというのだ。これは、他人に対する怒りだけでなく、自分自身に向けられる怒りも同様だという。

 つまりこうだ。「私にとって正しいなにか」があって、それと現実がずれているときに怒るのだ。「私は正しい」「私は完璧だ」という意思があるのが根本で、実際そうではない出来事に会うとき、自分のせいにするのだ。「私は正しい」のに、「この仕事がうまくいかない」と自分を責めたり、「私は完璧」なのに、「自分が病気になってしまった」と自分に対して怒りを抱いたりする。そういう人こそ、建前として「私はダメな人間だ」と謙虚(?)に振舞いつつ、実は心の奥底では、「絶対にそうじゃない、私こそ、唯一正しい人間なんだ」と考えているという。しかしそれこそが、怒りスパイラルの原因なんだ。

 だから著者は、「正しい怒り」は存在しないと言い切る。よく母親が子供を怒ったり、先生が生徒を怒ったりするのは、間違えた子供・生徒を正すための「正しい怒り」だと自己弁護する人がいるが、それこそ誤りだというのだ。間違えただけなら、単にそのことを指摘すればいいのに、わざわざ怒るということは、その根っこに「自分が正しい、自分の言葉も正しい、自分の考えは正しい」という考えがあるからだという。わたし自身も思い当たる。「あなたのためだから」という思い込みでオレサマ判断を押し付けているかもしれない。

■ どうすれば怒らずにすむか

 では、どうすればよいのか?怒りを押さえ込めばよいのか?著者は、それは新しい「怒り」だとして退ける。「怒りと戦う」感情もまた「怒り」なので、良くないというのだ。または、ストレスのように発散させればどうだろう?これも誤りだという。怒りをワーッと爆発させてガス抜きをしようとするのは、怒りの感情を正当化し、原因をごまかすことになる。より強いストレス要因を持ってきて、最初の怒りをカモフラージュしているのだから、根本的な解決になっていないと指摘する。

 OK、それは分かった。では、どうすれば怒らずにすむのか?著者は、「ブッダのことば」の最初の一文を引用する。

「蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」
「ブッダのことば」は難しい。いや、やさしい言葉で書いてあるのだから、読むのは容易なのだが、本意を汲むには手助けが必要だ。著者に言わせると、怒ることは、自分で毒を飲むのと同じだそうな。怒ることで、自分を壊してしまう。だから、怒ったら、怒らないようにする。怒りをコントロールするのだ……ただそれだけ。それができれば苦労はしないんだが……

 も少し具体的に砕くならば、怒りを観られた瞬間、怒りは消えるという。次に怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ、怒りだ。これは怒りの感情だ」とすぐに自分を観察してみろと提案する。「今この瞬間、私は気持ちが悪い、これは怒りの感情だ」と外に向いている自分の目を、すぐに内に向けて"観る"ことで、怒りを勉強してみせよという。わたしのエントリでは「怒りを味わえ」と説明したが、本書では「怒りを観察しろ」という。冷静・客観化するメリットとともに、「わたしは何に怒っているのか」を問うことで、根本に気づくことができる。かなり難しそうだが、やってみよう。

■ それでも攻撃する人にはどうするか?

 「怒り」は観られた瞬間、消えるという。「怒らない」を実践できたとしよう。しかし、そこにつけ入るような人が出てきたらどうすればよいか。自分で怒ってしまうようなことは回避できたとしても、「怒らせてやろう」と攻撃したり、けなしたり、やりたい放題にやってくる人にはどうする。耐え忍べというのか?

 これに対し著者は警戒する。悪口を言ったり、自分を弁護したりなんかしたら、相手の怒りの思うツボだという。怒りというのは伝染性が高い感情で、自分が嫌な気持ちになったのなら、ののしっている相手の希望が叶っているというのだ。だから耐え忍ぶ必要もないし、怒り返しても本末転倒になる。

 自分を攻撃する人、自分に怒りをぶつける人には、「鏡を見せろ」とアドバイスする。もちろんこれはメタファーで、エンマ大王が鏡を通して生前の行いを見せつけるように、相手のふるまいを逐一説明してあげればいいという。ホンモノの鏡を見せるのではなく、ののしっている相手に対して、

「ああ、そちらはすごく怒っているのだ。苦しいでしょうね。手も震えているようだ。簡単に怒る性格みたいです。これからもいろいろたいへんなことに出会うでしょうね。それで大丈夫ですか?心配ですよ」
と指摘する。相手が言うことに反論せず、相手を善悪判断しないで、心配する気持ちで説明してあげればいいというのだ。これも難しい。イヤミにならないように手加減する必要はあるが、相手の「怒り」そのものを肯定するのは良い方法だと思う。「怒り」の正当性を認める、ではないことに注意。怒っている原因とか理由とか責任とかに言及せず、ただ、怒りの感情を認める。言い換えるなら、「あなたがものすごく怒っていることは、よく分かります」「絶対に許さないと、強く怒っているのですね」などと、相手の怒りだけを指摘する。慎重に選ぶ必要はあるが、言葉にすることが肝要なのだ。

 それでどうなる?わたしの経験によるが、「わたしが怒り返すよりも、はるかに良い結果が得られる」だった。怒りに対して怒りで応えると、ヒートアップしたり不毛な水掛け論になったり、さんざんな展開になる(嫁で実証済)。しかし、怒りに対し、「それは怒りだ」と指摘することで、大なり小なり客観視できるようになる。怒りという感情よりも、それを招いた原因の方に目が向くようになる。自己防御と相手の攻撃にアタマを使わなくなる(←これ大事!)。鏡を見せるテクニックは万能ではないかもしれないが、怒り返しよりも良い結果が得られる。お試しあれ。

 仏教法話という形をとっているが、「怒らないこと」は、文化や宗教を超えた普遍性を持っていると思う。自分の中の「怒り」を手放すことで、怒りのない人生をすごしたい……そんな願いを持つ方に、ぜひオススメしたい。

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はだかをはだかにする「はだか」

はだか はだか、好きですか?もちろん、わたしは好き。

 では、むちむち姉さんのではなく、「自分のはだか」ならどうだろう。脱衣所で目にするソレはあまり形容したくないし、人様にお見せするような代物でもない。温泉とかで裸体をさらすと、気恥ずかしいというか、妙に気まずい。そういう「文化」なんだろうと思考停止していたが、この「はだか」のおかげで気づきが山と出た。武蔵野美術大学の原研哉ゼミにおける、卒業制作を書籍化したものだ。

 本書が提案する、さまざまな「はだか」のアイディアに接するうちに、「わたしのはだか観」なるものが見えてくる。つまり、わたしが「はだか」についてどのように考えているかが、「はだか」にされるのだ。これは、面白い。

 たとえば、「りぼん」をはだかにするアイディア。少女マンガのキャラクターを、そのまんま、まるごと脱がす。顔やポーズ、セリフをトレースし、服だけを完全に脱がせた裸体で描き起こすのだ。中高生だから、全員が陰毛をしっかりと書き込まれている。が、いわゆるエロマンガのソレと異なり、これっぽっちもエッチに見えず、むしろ滑稽ですらある(エロスはチラリズムにこそ宿る)。

 すると、いかに服装が記号として扱われているかを再認識させられる。衣服こそが個人にまとわりつくキャラクター性や立ち位置といった情報を体現していたのだ。「はだか前」と「はだか後」と比較されているから分かるものの、彼・彼女たちがやっていることは、着ている服によって決定づけられている。チアガールの格好をしていないと、セリフだけで分からないし、制服を着ていないというだけで、ストーリーすらあいまいになる。キャラの描き分けは、衣服で行っていたのだ。作者と読者の暗黙の了解のようなものなのかも。「はだか」にすることで逆にキャラが見えなくなってしまう矛盾。裸は個を消すのだ。

 あるいは、「メタボリック・リカちゃん」人形に戸惑う。でっぷり太った肥満体のリカちゃんや、ガリガリに痩せたリカちゃん(ダイエットしすぎ?)、O脚のリカちゃんを実際に作り出し、わたしたちがどう反応するか、試すのだ。

 わたしの心に生まれたものは、気まずさ。リカちゃん人形という、いわば理想体型を想定してたら裏切られた感覚。これを著者は、「はだかへの羞恥のもと」だという。人間のはだかは、ひとつとして同じものはない。だから羞恥は、自分のはだかの特殊性・個別性に由来するというのだ。おなかが出ているとか、乳首の感覚が広いとか、理想の体型からの偏差が羞恥を生み出すと述べている。肌の露出そのものではなく、個体の偏差を露呈することが、はだかへの羞恥の本質だという。

 本当だろうか?

 仮に偏差が羞恥の本質だというのであれば、着衣によって隠されていない「顔」について考える必要がある。なぜなら、人によるもっとも偏差の激しいものは、「顔」そのものだから。実際のところ、顔の偏差はそれほど異ならない。目鼻のつくりつけはそんなに変わらない。しかし、われわれはふつう、それぞれの個体認識を「顔」によって行っている。したがって、偏差はすでに意識されており、服を脱いだところでことさら(偏差が)生まれてくるものでもなかろう。

 しかも、少女マンガを脱がすことから導かれる、「裸は個を消す」ことと反している。偏差を持ったリカちゃんのはだかは、まさにリアリティをもった「はだか」のモデルだという主張には同意だが、そこに生まれた気まずさは、見慣れないもの(見てはいけないもの?)を見てしまったことから出る感情だとおもうぞ。

 いちばん印象的だったのは、地球をはだかにすること。つまり、海という「衣服」に覆われた海面下の世界をあらわにするのだ。衣服から露出した肌(陸地)の部分のみを見て地球の姿をとらえていたイメージが、完全に崩れ去る。海をはぎ取った「はだかの地球」は、見慣れた姿とはおよそかけ離れた迫真の様相をしている。荒々しいギザギザの尖り、ねじれ、吹きっさらしの肌理は、地球がもりもりと動いてきた軌跡をそのまま見せつけてくれる。

 「はだかの地球」を眺めているうちに、わたしは、地球というものを、陸と海の境界線という情報で認識していたことに気づく。太平洋に浮かぶグアム・サイパン島は、巨大山脈のほんの山頂のきれっぱしにすないし、日本海溝は岩石のシワやミゾの集積だ。人は、海水を避けたその欠片のてっぺんにしがみついているにすぎないことが分かる。宇宙から撮った地球画像で国境線の不在をあらためて知るように、海の不在は人類の生物圏を逆にあらわにするのだ。裸にすることで、反対に「ある」ものが強調されるのは面白い。裸そのものが、いかに「ある」ものなのかを知らなかったから。既に知っている「はず」だと思っているものを、もう一度知るんだ。

 この、「いかに知らないかを分からせる」手法は、著者の言を借りると、ex-formation というらしい。information の対義語として考案した造語で、既知なるものを未知化することで、まるでそれに初めて触れるかのような新鮮さをともに味わい直してみるという実験なのだ。見慣れた「はだか」が、初体験の裸になる一方で、「はだか」として知覚できなかったものが、はだか化する瞬間を体感する。

 日常生活で安定化させられていた感覚や意識に"ゆさぶり"をかけてくる一冊。

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