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さよなら、日経

 ようやく、「リーマン日経」の呪縛を解くことができる。

 「社会人になったら、ニッケイ・ヨクヨム」と呪文をかけられ幾年月。半導体は日本の魂とか、(アメリカン・スタンダードという名の)グローバルスタンダードとか、中国ワッショイとか、いろいろ吹き込まれましたな。日経新聞だけでなく、日経ビジネスとか日経コンピュータとか日経コミュニケーションズとか、たくさん貢ぎましたな。

 その結果→職場や会議卓で「話を合わせる」役にはたった。

 ビジネスのヒントや、業界の動向や、はたまた日本経済の先行きは、すでに新聞よりもRSS+クオリティ紙で充分。具体的には、「ニューズウィーク」「クーリエ・ジャポン」「フォーリン・アフェアーズ」になる([経緯])。「出勤途上で新聞に目を通す」という習慣は、とうの昔にやめた。車内を見渡してみて、あらためて気づく、新聞読んでる人は珍しい部類に入る(リクルートスーツ姿の人が読んでいるのは常景だが)。

 「報道」という観点からすると、遅いのだ。何が報道されたか、という羅列なら、ロイターとヤフトピで充分。むしろ、報道された内容の「分析」が欲しい。裏取りと背景、歴史、統計、(他国・過去との)相似性が欲しい。「関係者は語る」という誘導語にぶつかるたび、恣意的なグラフ(≠統計情報)が出るたびに、読むのが嫌になる。

 こうした分析は、社説や巻頭特集が相当するだろうが、春秋と大機小機と激しくバラバラで笑える。巻頭で円高を問題視しているのに、大機小機で「チャンス」と煽る。一貫性のなさは多様性と言い換えられるが、読者のアタマに何を吹き込みたいのだろう。

 裏取りしてる? 心配になるのは、内部事情を知る業界が報道されるとき。まさにその「裏」に自分がいるからこそ、いかに裏取りしていないかがよく見える。いわんや他業界をや。昔の一般読者は裏取りできず、鵜呑みにしていただけでは? と思えてくる。書き立てられた「中の人」だけがクオリティの低さを嘆いていただけで、その愚痴が一般読者まで伝わっていなかっただけじゃないのか。ネットが普及し、裏取りや追跡ができるようになったため、記事のクォリティの「見える化」が進んでしまったのだ。

 テレビのリポーターについて、こんな名言がある→「リポーターは自分が思っていることを言うのではない。視聴者に思わせたいことを言うのだ」これを受けて、記者が(デスクが)誘導したい方向を知るために新聞を開いていたが、それもやめ。より仰々しくワイドショーがしてくれるから(ニュース番組は、「コクミンの意識をどっちに誘導するか」を判断するためにチェック)。新聞は、その「思わせたいこと」を確認するために開いているにすぎない。

 新聞を「とる」というのは習慣。習慣をやめるのは、ちょっとドキドキする。嫁さんに相談すると、「何がどう書いてあるのか、新聞ひらく前から分かっているなら、それは"ニュース"じゃないよ」という。そして、「ウチは、もっとローカルな情報が要る」って。そうだ、最近では地方面をよく見ているよなぁ……どの沿線で開発が進んでいるとか、新しいスポットとか、市がバックアップしている産業とか。なので、ペーパーの新聞は、「東京新聞」にするか。「ニッケイ」が必要なときに駅やコンビニで「買」えばいい。

 「紙」もやめちまおうか、と一度は考えたが、子どもと一緒に見て、赤ペンでチェックしたりスクラップしている。子どもがPCやガジェットを使いこなすようになったら、もういっぺん考えてみよう。

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"読むとは何か"を長い目で「読書の文化史」

Dokushonobunkasi 「読むとは何か」を考える読書。

 読むとは常に、目の前のテクストに対して取り組むこと。そのため、あらためて「読むとは何か」と問われると、途端に見えなくなる。「読んでいる自分」をメタに語れればよいのだが、むつかしい。最近(といってもここ十年くらい)、ハイパーテクスト論や情報のインデックス化は、しつこく聞かされる。しかし、もっと長期スパンで見た場合、どういう変化が起きるのだろう(起きているのだろう)。これを考えるためには、やはり歴史からのアプローチが適切になる。

 フランスの歴史学者、シャルチエと考えてみよう。ロジェ・シャルチエ氏は来る9月7日、国会図書館で公演をする。タイトルは、「本とは何か。古代のメタファー、啓蒙時代の諸概念、デジタルの現実」。さらに福井憲彦氏と長尾真氏を交えて鼎談をする。長期スパンで考えるよい契機となるだろう。先着順なのでお早めに↓

  国民読書年記念ロジェ・シャルチエ氏講演会「本と読書、その歴史と未来」

 予習の一冊目は 電子書籍で騒ぐ人に「書物の秩序」 だったが、今回は「読書の文化史」で考えてみる。本書では、16~18世紀アンシャン・レジームの時代において、印刷された文書が、どのように社会的影響を与え、どんな思想を生み出し、権力との関係性を変えていったかが展開される。シャルチエ氏は、わたしが常識(?)だと思考停止していた部分に対し、別の視点から考察する。あらたな知見が得られたのは収穫だが、同時に、彼の視点は今の電子書籍の風潮にも適用できるから面白い。以下まとめる。

 わたしが無批判に信じていたものに、「グーテンベルクの印刷革命が、知の独占を教会から解放し、モンテスキューやヴォルテールの書物がフランス革命を起した」がある。さらに、「活版印刷による書物の普及が、読書形態を、音読から黙読に変えた」という言説がある。

 まずシャルチエ氏は、「書物が歴史に直接的な力を持つ」という考えを戒める。書物が提供する新しい思想や表象は、読者に自然に刷り込まれるようなものではないと断言する。王や王政から人心が離れたことを、哲学書の普及のせいだとするのは、危険な発想だという。

 その根拠として、当時の店の看板を指摘する。なんでもかんでも「王様風」という名前をつける風潮があったという。王様風牛肉料理、王様風菓子、王様風靴みがきなど、王のシンボルの借用は、多用されるにつれ、王の価値を貶めることになったという。これは王政への敵意からではなく、王様風とは「よい」「すばらしい」という比喩で用いられたという。モンテスキューやヴォルテールがウケたのは、それ以前に王政が貶められ、卑俗化していた下地があったためであって、その逆ではないというのだ。

 つまり、社会の風潮に書物が決定的な影響を与えるのではない。もともとある方向へ回復不能なほど傾いており、「そっち向き」の本がベストセラーになることで、その方向が強く認識される、と考えるべきだという。しかし、わたしはよく間違える。ベストセラーを掲げては、その本が時代を創ったとみなすのだ。ベストセラーは時代を象徴するのに役立つが、この場合はシャルチエ師匠が正しいだろう。

 次にシャルチエ氏は、「(活版印刷による)安価な書物の普及が黙読文化を作った」を批判する。黙読が西洋に現れたのは「グーテンベルク革命」のはるか以前、古代末期のキリスト教徒の読書行為に現れ、13世紀のスコラ学者たちの間に伝わり、その一世紀あとに世俗社会に普及したという。儀礼のため大声で音読されることもあれば、書斎に引きこもって自分のために静かに読まれもする。シャルチエ氏は、共同でなされる朗唱にあてられる部分の体裁と、信心を育むために黙読される部分の体裁が異なっているという。読むことにおける革命が、書物そのものの変容よりも先行していることを指摘する。

 この指摘で、面白い「未来」が見える。すなわち、未来の読書の形態が、今のそれ(黙読)と異なっているならば、その変化は既に現れていることになる。たとえば、このblogを続けるようになって、わたしに現れた変化で説明するなら、それは協力読書/共同読書になる。本を、わたし単独ではなく、他の誰かと一緒になって読むのだ。読解の下調べのため誰かの論文を参照したり、同じ小説を別の切り口で斬ってもらう。

 そして、協読・共読、どちらの「読み」もblogで公開するたび、「このURL先が参考になります」とか、「こうとも読めるぞ」さらには「それがスゴ本なら、これは?」とツッコミが入る。フィードバックしていくうち、あたかもその本を共同で読んでいるようになる。本、本にまつわる話題、ニュース、映像を、同じテクストを眺めながら、ああでもない、こうでもないと議論したり調べあう。これに近いものは、ゼミの輪読だね。輪読は同じ時間・同じ場所にいる必要があるが、ネットで時空を超える。もっとフラグメントされた形態なら、ブックマークコメントやTumblrから「book」をkeyにすると、ゆるいつながりが抽出できる。

 冊子本というカタチではない媒体が普及すると、こうした協読・共読がごく自然に行われることになるだろう。しかし、そうした共読文化を生み出したのは、iPadのようなデバイスではない。すでにある習慣なんだ。

 変化の兆しを探すのではなく、既に起きた変化に目をつけてみよう。

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スゴ本オフ@BEAMS(8/27)の視聴について

 好きな本をもち寄って、まったりアツく語るスゴ本オフのお知らせ。

 予告どおり、第4回 Book Talk Cafe (スゴ本オフ)を、8/27にやりますぞ。テーマは「POP(ポップ)」。ポップカルチャーなやつとか、ポップな気分にさせてくれるもの。わたしの場合、「POP」の定義を自己流にアレンジして、「POP=おしゃれ」と「POP=軽み」に変換したナリ。自分でも意外な選書だったので、何が飛びでてくるか楽しみたのしみ。

 場所の都合上、枠が限られ、公募ではなく招待制になってます。ワクテカして待ってた方がいらしたら、ごめんなさい。 Twitter と U-Sream の実況は、以下の通りです。

 8/27 19:30-21:30
 U-Stream URL : http://www.ustream.tv/channel/book-talk-cafe
 Twitter Tag : #btc04

 BEAMSさんとこの告知→Ustream配信イベント「スゴ本オフ」……かっちょええ!

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「論理トレーニング101題」はスゴ本

 「東大教授が新入生にオススメする100冊」に、必ず登場する名著。

論理トレーニング101題 本書は、安直ビジネス書に群がり、カモにされているカモリーマン向けではない。週末にナナメ読んで、「なんとなく分かった気分になる」自己満足を目指していない。1問1問、エンピツとノートを準備して、101問すべてに取り組むべし。「解説書なんかいくら読んだって論理の力は鍛えられない。ただ、実技あるのみ」のとおだ。やれば、やった分だけ向上する。

 大きく2部に分かれており、前半は、接続詞に注意して正確に議論を読み取り、その骨格をつかまえるトレーニング。そして後半は、演繹と推測の適切さを論証し、さらに論証を批判的にとらえる訓練をする。すべて、①練習問題→②自力で解く→③解説と答えあわせのくり返し。章末に、ちとムズめの問題が待ちかまえており、③の理解を確かめることができる。200ページたらずの薄手の本なのに、中はどろり濃厚で、「飛ばして」「ナナメに」読まれることを拒絶している。ちょっと紹介してみよう。

   問71  次に含まれる論証の隠れた前提を取り出せ

  1. テングダケは毒キノコだ。だから、食べられない
  2. 「さっき彼と碁を打ってただろ、勝った?」「いや、勝てなかった」「なんだ、負けたのか、だらしないな」
  3. 吠える犬は弱虫だ。うちのポチはよく吠える。だから、うちのポチは弱虫だ
 順番に考えてみる。 1. は簡単だろう。「毒キノコは食べられない」という前提が隠れている。「A=B、B=C、ゆえに、A=C」の論証のうち、「B=C」が省略されたもの。 2. は少してまどった。隠れた前提なんてあるの?としばし悩んだのち、「勝ってない≠負け」に気づく。将棋なら千日手、囲碁だと持碁があるからね。

 解けなかったのは 3. だ。ショボーンとしながらも解説で慰められる、これは難問らしい。正解をマウス反転させておくので、ご自身で考えてみてほしい。言い換えると、これが解けるようなら、本書をクリアできる論理力はあることになる。答え→ポチが犬だとはどこにも書いていない。もし、「うちのポチ」が虎だったらこの論証は成り立たない。そして、解説が素晴らしい。隠れた前提のパターンは、次の3つに大別されるという。

  1. すべてのAはBだ。だから、このaはBだ ⇒ 隠れた前提「このaはAだ」
  2. AはBだ。だから、AはCだ ⇒ 隠れた前提「BはCだ」
  3. Aではない。だからBだ ⇒ 隠れた前提「AかBのどちらかだ」
 著者は、この前提について、大きな疑問を投げかける。自明視している前提が、ときに誤りの元凶になるのだと。独善的な論証ほど、問題のある前提が隠されているというのだ。

 たとえば、 2. は藁人形の基本で、某センセが上手に使うのを目にする。相関関係を因果関係にまで拡大し、さらにキャッチーなセリフで「AはCだ!」と言い切る。その文句が耳にイイので、かなりの人が騙されている。この場合、隠れた前提に対する質問「ホントにBはCなの?」が強力なカウンターとなる。あるいは、 3. は善悪論にからめて流れを持っていかれる。「アタシが悪いってわけ?」→「いや、そうは言ってない」→「じゃ、アンタが間違っているんじゃない!」という展開。これは、 2. と 3. の複合技やね。これは、そこまで怒らせたわたしが悪いので、論証を批判してはいけない。

 本書は、いわゆる「詭弁術」を追いかけるものではない。論理的に考え抜こうとする態度が、結果、論理のフリをした詭弁を明るみに出すのだ。因果関係と相関関係のねじ曲げは、この問題にも見られる。

   問91  次の推測において、他の可能な仮説を考えよ

幼児を自動車に乗せる場合、チャイルドシートをつけなくてはいけない。1993年からの5年間に、6歳未満の幼児が乗車中に死亡した事故は、チャイルドシート着用時の死亡者が1人なのに対して、非着用の場合は72人というデータが出ている。このデータから見ても、チャイルドシートの安全性は明らかである。

 データからの推論のおかしさはすぐに気づくが、「他の可能な仮説」は少し悩んだ。答えと解説はマウス反転するので、考えてみて→チャイルドシート着用時の死亡者数が少ないのは、単純にチャイルドシートを着用している子が少なかったから。数ではなく、率で比較すべき。極端な場合、チャイルドシートが存在しなかった50年前には、チャイルドシート着用者の死亡件数は、当然ゼロになる。

 二つのタイプの現象AとBが伴って生じているとき、そこには少なくとも次の四つのパターンが考えられるという。すなわち、

  1. 単なる偶然
  2. AがBの原因
  3. BがAの原因
  4. AとBの共通原因Cが存在する
 になる。 1.2.3 はよく取りざたされるのに、 4. は無視されることが多い。ふつう、人は、梅が咲くことが桜が咲くことの原因とは考えない。しかし、ゲームにハマるから引きこもりになるという主張を、すんなり受け入れてしまう人がいるのは面白い。

 さらに、論証を批判的にとらえるチカラもやしなえる。相手の主張に反対したり、対立することではない、本来の意味としての批判ができるのだ。つまり、相手の立論の論証部に対して反論することができる。相手を批判することは、必ずしも異論につながるとは限らない。相手と結論を共有しつつ、論理の部分の穴をみつけ、ゆさぶりをかけるのだ。結果、その批判こそが、立論を強化することになる(いわゆる建設的な批判というやつ)。

   問100  この立論に対して批判せよ

あなたたちは新空港の工事に反対していた。その反対運動にも関わらずいまや新空港は完成した。あなたたちは反対していたのであるから、この新空港を利用すべきではない。
 この問題は、あらゆる議論の場で形を変えて現れる。曰く、増税イヤなら日本を出て行け、社畜に反対なら辞めてしまえ云々。こうした感情論が入り込みそうな場合、その意見が「賛成」なのか「反対」なのかばかりに目が行き、そもそもの議論の前提だとか、立論の根拠が落とし穴になる。この問題だと(解答マウス反転)→空港そのものを否定していたのではなく、空港の「工事」に反対していたのだ(立論の穴)。つまり、空港のないところに空港を作る是非という問題と、空港がすでにあるところでその空港を利用するかどうかという問題は、別問題である。林野を開いて空港を作ることに対する反対は、空港の利便性への反対を意味するものではない。

 ほとんど詭弁かもしれないが、論理の穴を見つけ、そこを衝いている。本書いわゆる議論に「勝つ」ためのハウツーではない(著者自身がラストで戒めている)。相手の立論を正しく読み取り、その論証を批判的にとらえるための地道なトレーニングなのだ。

 論理力は感性ではなく訓練で身につく。問題をやっただけ、向上すること請合う。

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「ヴァギナ」はスゴ本 【全年齢推奨】

 知ってるつもりのヴァギナが、まるで違ったものに見えてくる。

ヴァギナ のっけからのけぞる。モザイクかかっているものの、ヴァギナそのものが誇らしげに表紙に掲げている(遠目だとちゃんと認識できる)。表紙だけでなく、子を産むヴァギナや、常態のヴァギナなど、普通では見られない写真や図版も豊富にある。写真だけでなく、科学や宗教、歴史、神話と伝承に、文学と言語、人類学、芸術の幅広い資料から徹底的に調べ上げている。

 そして、偏見と妄想をとっぱらったヴァギナを多角的・広角的に紹介する。同時に、ヴァギナに対する文化的・科学的バイアスを指し示すことで、どれだけ歪んだヴァギナ・イメージに染まっているかをあぶりだす仕掛けになっている。これを読むことで、男女問わずヴァギナ観がガラリと変わることを請合う。

 まず、神話や伝承、民俗学では、恐れ敬われ、魔よけともなる力強い姿が紹介される。さまざまな神話や伝承が示す、着衣をまくりあげ、ヴァギナを見せるメッセージとは、女性器はあらゆる新しい命の源であり、世界の起源と豊饒を象徴しているというのだ。

 たとえば、あらぶる海を鎮めたヴァギナ・ディスプレイや、スカートをまくりあげ、女性器を見せつけることで悪魔を退散させる絵図がある。天岩戸に隠れたアマテラスを呼ぶ話の顛末は知らなかった。アメノウズメが衣をたくし上げ、集まった神々に女性器(陰=ほと)を見せつけたという。神々は大笑いして喝采し、天地が揺れたのだ。フツーに宴会していたかと思いきや、そんな伝説があったとは知らなんだ。その勢いで、邦画「お天気お姉さん」のスカートまくりシーンや、ストリップ劇場でのペンライトショーを紹介し、日本にはヴァギナ・ディスプレイが息づいていると息巻く。

 言語学方面からは、さまざまな文化におけるヴァギナの名称とその由来が語られる。ナボコフの「ロリータ」で「生きた肉鞘(にくさや、と読む?)」という理由も、ここで腑に落ちた。ヴァギナという言葉の由来には、剣をおさめる「鞘」という意味があったそうな。ラテン語圏だけでなく、中国語やヒンズー語、日本語なども同じ目線で評価される。面白いのは、西洋と東洋のヴァギナ観だ。地獄の門とか、厄介ごとの種とか、男の堕落のきっかけと呼んでいるのは西洋世界になる。いっぽう、生の源とか玉門いった、ポジティブな呼び方をしているのは、東洋世界だそうな。呪われる対象と、崇拝される対象、同じものでも偉い違う。

 この、女性器を蔑むものとみなし、セックスは罪深いものだという考えを植えつけたのは、キリスト教だという。アウグスティヌスは「われわれはみな大便と小便のあいだから生まれでた」という言葉で、そのヴァギナ観を明らかにしている。女性器を「大きく口を開けた地獄への入り口」とたとえ、教会はヴァギナを無視するか、恥ずかしく思うように仕向け、イチジクの葉を押し付けたというのだ。そして、マスターベーションの害を防ぐためにクリトリスの切除が行われたり、ヒステリー治療のためにヴァギナ・マッサージが医師の手によって施された事例を紹介する。バイブレーターはもともと医療機器で、通販で手軽に買えていた時代があったそうな。

 女性(器)蔑視の文化は科学にも影響を及ぼしたという。生殖器に関する語彙の歴史を詳らかにすることで、本来違うものに対して同じ名前をつけられたり、無視されてきたことを指摘する。女性が男性を反転させたものだという考えのせいで、女性の生殖器は発育を阻害された男性の生殖器だとみなされたというのだ。こうした誤謬と誤解に満ちた歴史を解きほぐし、矮小化された女性生殖器の真の姿を示そうとする。

 著者曰く、ヴァギナは単に精子と子どもの通り道だけではない。父親となる相手の決定に関して、性交の前にも最中にも後にも支配力を振るっているというのだ。女性器の発達過程を振り返り、ヴァギナの本来の機能を洗い出す。それは、自分にとって最も適合する精子を見つけるために、精子を集め選別すること―――これこそ、メスの生殖器の本当の機能なのだという。メスの生殖器は受動的な入れ物ではなく、子孫の健康を保証し、さらには種の生存を保障するという、生命の最も重要な仕事を納める聖堂だというのだ。ヴァギナを入り口だとばかり思ってたわたしは反省すべき。あれは、未来の出口なんだね。

 また、クリトリスについて理解を新たにしてもらった。快楽のための「点」から、頂部と体部と脚部をから構成され、三次元の広がりと奥行きを持つ巨大な器官であるという認識に変わった。クリトリスはラムダ(λ)型ではなく、むしろY型なんだって。見えている頂点だけでなく、むしろ体内に沈んでいるほうが、はるかに大きい。つまり、あの豆みたいなやつは氷山の一角であり、脚部はヴァギナ本体から骨盤に至るまで密接につながっている。女性の前面で骨盤のぐりっと出ているところがある。そこを刺激すると好成績を残すことは経験的に知っていたが、まさかクリトリスとつながっていたとは……! その構造を知ることは、次の性交に必ず役立つだろう。

 さらに、著者のクリトリス論に驚く。「クリトリス=女のペニス」だと思っていたわたしは、誤っているというのだ。著者曰く、クリトリスとペニスを比較するのは解剖学的に正確ではない。クリトリスはペニスの相同器官ではなく、むしろ、男性にクリトリスがあるというほうがより正確だという。それは陰茎海綿体。陰茎海綿体の尖先端は亀頭表面に隠されて目に見えない。要するに、ペニスの上半分に埋め込まれて存在しているのだ。

 これ言うと、ヘンタイ扱いされるだろうから……と言うのをはばかっていたことが、ここでは堂堂と主張されている。ひとつは、「ハート」の秘密だ。ハートって、心臓の象徴として用いられているけれど、違うのではないか?本当は大陰唇を指でピラッと広げた形じゃないのかな……誰にも言えず密かに思っていたが、本書でちゃんと検証されている。口絵で紹介されている、常態のヴァギナ画像をいくつか見ていると、「ハート型」そのもの。ただ、大陰唇のメタファーという考えは、これだけハートが一般化したいま、駆逐されてしまったといえよう。でないと来週のプリキュアが観れない、恥ずかしくて。

 もうひとつは、「ヴァギナの匂い」だ。嫁さんに限らず、女性からココナッツのような粉っぽい匂いや、白桃の微かな匂いがするときがある。デオドラントではない。人工的な香りはすぐソレと分かるが、明らかに違う。汗や皮脂や血漿のように、「香り」ではなく、「匂い」なのだ。著者は自分の経験を語る。月経周期の4目くらいから排卵の日まで、豊かで甘く深みのある香りがして、排卵日を過ぎると果物のような香りに変わるという。おおっぴらに語られることはめったにないが、これは、ヴァギナのバルトリン腺や皮脂腺、アポクリン腺が分泌する粘液の匂いなのだという。著者は、「親密でエロチックな香り」と評価するが、わたしはいつも、「あからさまな匂い」としてドキドキしてしまうのだ(すごく好きだけどねー)。

 この本を読むことは、自分の持っている、ヴァギナに対する誤解や偏見を見直すことになる。わたしが初めてナマで対面したときには、神々しさとグロテスクさで胸がいっぱいになり、思わず「はじめまして、よろしくお願いします」と挨拶したものだ。その後のお付き合いで、自分のではないとはいえ、ある程度は慣れ親しんだつもりだった。しかし、本書を読了すると、より愛おしく、いっそう美しく、もっと懐かしく感じることになった。嫁さんのに手を合わせ、「これからもよろしくお願いします」と一礼したことは秘密だ。

 そうそう、ヴァギナには縁がないというのはウソだ。人は、だれもみな、少なくとも一度はお世話になっているから。その意味でいうなら、この世界を作ったのはヴァギナだといえるし、この未来を作りだすのもヴァギナなんだな。

 ヴァギナ観を一変させる、決定的な一冊。

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電子書籍に騒ぐ人へ「書物の秩序」

 電子書籍だ黒船だと騒ぐ人、まぁ餅つけ。いまに始まった話でもなし、シャルチエ師匠と考えてみよう。

Shomotunotitujo ロジェ・シャルチエは、フランスの歴史学者。写本から印刷物まで、「記されたもの」の浸透が社会に与えた影響を検証し、どのように新たな思考様式生み出していったかをテーマに、多数の研究成果を発表している。紙から画面に代わるとき、どんな変化が起きるのかを、十年・百年単位で考えるのに良いかと。ドッグイヤーじゃなく、腰をつけて。

 実はシャルチエ師匠、9月7日に国会図書館で講演をする。タイトルは、「本とは何か。古代のメタファー、啓蒙時代の諸概念、デジタルの現実」。さらに福井憲彦氏と長尾真氏を交えて鼎談をするので、腰をつけて考える人にはうってつけ。わたしは申し込んだけど、先着順らしいのでお早めに↓

  国民読書年記念ロジェ・シャルチエ氏講演会「本と読書、その歴史と未来」

 そこで、予習のつもりの一冊目が「書物の秩序」。グーテンベルク革命のなか、手写本から活字本へのドラスティックな移行がどのように統御されていったのかを考察する。いわゆるテクスト論に閉じず、モノとしての書物の変遷や、書物に働きかける読者をグルーピングした「読者共同体」、さらには「壁のない」普遍的図書館(いまなら迷わず"電子図書館"と訳すだろう)までを視野に入れた論を展開する。
 
 とても挑発的で、最初にわたしが持っていた、「読書」に対する予見じみたものに揺さぶりをかける。読者を煽るのではなく、読者の持つ「読むということ」そのものへの疑問を、読み手自身が抱くようにしむけるのだ。

 たとえば「著作者」とはそのまま、その本を書いた人だとわたしはとらえる。だが、「著作者」とは、王権が与えていた出版独占権を書籍商が防衛する中で、作品に一貫したアイデンティティを与えるために誕生した概念だと指摘されると、ハッとする。極論言うなら、主体であればいいのなら、人でなくてもかまわない、ということだ。ネットにつぶやくbotだろうと、言語解析プログラムの出力だろうと、「著作者」たりうるのだ。

 さらに、著作者についてもっと自由にとらえて良いのなら、人でもプログラムでもなく、「束ねるもの」になる。すなわち、(書いた人という意味での)著作者そのものではなく、その著作を示す「束ねるもの」に焦点があたるのだ。すべての本はオリジナルではなく、多かれ少なかれ、遠かれ近かれ、書いた人が通り過ぎた思想なり物語の援用・引用になる。ある本のモトとなった本を束ねているのが、著者ということになるのだ。

 もっと推し進めると、レビューしたり誉めたりけなしたりする「人」が、それらの本を束ねていることになる。そして、その「人」と自分との好みの位置や思想的距離によって、その「人」が束ねている本と自分の相対的な位置・距離が決まっていく。これはあたりまえのことかもしれない。読む動機は、そのテクストを示すレビュー/人/宣伝と自分の距離で決まっていくものだから。だが、その「あたりまえ」が可視化される。興味というポインタが赤い糸のように自分から伸びているのを、Augmented Reality を通してオーバーレイされる感じ。そこでの「本」は、ノードのように写っているだろう。

 グーテンベルクの出版革命により、収拾がつかなくなっただろうか?否。むしろ逆方向に働く力も出てきたことが指摘される。大量の本がバラバラに撒き散らされるのではなく、むしろ精選され、削ぎ落とされ、摘要される方向のダイナミズムは、グーテンベルクのユートピアだけでなく、いまも、これからも働いていくだろう。現在のスナップショット風に表すなら、ブログやTwitterのようにバラ撒かれる言説を、Tumblrや「まとめ」サイトが選別していくように。

 本書が世に出た1994年にはTwitterもTumblrもないので、シャルチエ師匠は、1771年に著された未来小説「二四四〇年」をひっぱり出してくる。そこで、国王図書館の司書の発言を引用する。莫大な書物を収めた伽藍ではなく、たった数点しかない部屋を前に曰く、

「くだらない、無用、危険」と判断されたすべての書物を焼き払う前に、二十五世紀の開明的な人たちは、最も重要なものをよけておいた、それらはわずかの場所しか取らない。私たちは公正さを欠いておらず、また名著で風呂を焚いたサラセン人とは違うので、選別したのです。(中略)私たちは、最も重要なものの要約を作ったのです。
 本はフローであり、流れ去っていくもの。その中で、エッセンスともいうべきものが残る。主に古典と呼ばれるものがそうだが、そこに新たな作品が加わり、さらに淘汰され取捨される(古典ならすべからく残るべし、はウソ)。引用され、参照される「箴言」「摘要」こそが選別されてゆく。最低限残るのは、「タイトル」になる。詠み人しらずの詩や、手垢にまみれた詭弁佞言はあれど、「その言説が何であったか」を指し示すポインタ―――名前やね―――がどうしても必要になる。モノとしての本が消失したとしても、「かつてそういう言説を唱えた○○という本があった」というためには、その○○こそが残っていなければならない。つまり、本の本こそが、残る本たりうる。

 ただ、急いで書き添えなくてはならないのは、「誰のための選択?」になる。当時は王立図書館が百科全書的に収集・選別をくり返せばよかった。その選択条件は一律で、国家や学術のオフィシャルな目的に沿っていた。しかし、現在と未来は、もっとプライベートな基準により峻別される(公開非公開というよりも、個々に、という意味で)。本が多様化するのではなく、選択の基準と方式が多様化する。

 ここでGoogle先生やamazon御大を持ってくるのは簡単だが、しない。人気ランキングや関連性の強さによる重み付けプログラムが、プライベートになった選択基準に沿うとは考えられないからである。もちろん、ベストセラーしか読みませんというカラッポ人ならamazon御大に任せて安心かも。だが、プライベートな選択は、ほんとうに一つのアカウント、一つのメディアからでしかもたらされないのだろうか?

 ちがうよね。読むことを動機づける情報元は、必ず複数チャネルある。それこそネットに限らず、テレビや目に入った広告、キーワード、頭から離れないフレーズ、ふと思い出した主張など、いくらでもある。RSSやiPhoneといったサービス/デバイスによる違いがあるかもしれないが、チャネルを束ねているものに依存していない(はずだ)。なにもかも一つのインタフェースで解決しようとするのは、それこそ十年・百年の世界になる。

 今の騒ぎは、デバイスやマーケットのネタが先行されすぎてて、とてもわたしには追いつけない。長い目で見れば、現在はチャネルが増える程度の変化に見える。むしろ、むかし世間を騒がせた、マルチメディア狂想曲や次世代ゲームバトル、さもなくばパーム戦争の焼き直しのようにも見えるのだ。そういや、Pipin @. や Apple Newton は今いずこ……(遠い目)。

 この文章、十年後に「答え合わせ」したいなぁ……

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スカッと、さわやか「潮騒」

 鮮やかな夏小説、三島由紀夫「潮騒」

 夏をテーマに選書した20冊のうちの一冊を、ン十年ぶりに再読してみる。しかもシチュエーションは午後の浜辺、波の音をBGMにしてみたところ……期待を裏切らず、鮮やかなワクワクドキドキ感覚を味わう。結末は分かっていても、恋物語はいいねぇ。

 伊勢湾の歌島を舞台にした、田舎の純朴なボーイ・ミーツ・ガールのストーリーなのだが、なんといっても読みどころは、おっぱいを始めとするカラダの描写だろう。この一文に触れるために、「潮騒」を通読しても損はない。

それは決して男を知った乳房ではなく、まだやっと綻びかけたばかりで、それが一たん花をひらいたらどんなに美しかろうと思われる胸なのである。
 薔薇いろの蕾をもちあげている小高い一双の丘のあいだには、よく日に灼けた、しかも肌の繊細さと滑らかさと一脈の冷たさを失わない、早春の気を漂わせた谷間があった。四肢のととのった発育と歩を合わせて、乳房の育ちも決して遅れをとってはいなかった。が、まだいくばくの固みを帯びたそのふくらみは、今や覚めぎわの眠りにいて、ほんの羽毛の一触、ほんの微風の愛撫で、目をさましそうに見えるのである。


 そう、処女のおっぱいは、「冷たい」のだ。あのひんやりとした感覚は、男を知らないからこそ。幾度かの交接を経ることによって、中に「灯」を入れることができるのだ。さわってアツくなるのは男を意識した後の話で、知らないからこそなる無防備さに、若い男の初読者は翻弄されるだろう。ひらがなで開いている部分と、わざと漢字で締めている部分が、憎いほど上手い。小説かくなら、こういうおっぱい描写は何べんも書写すべきだろう。

 他にも、ヒロイン・初江のツンデレじみた振る舞いに萌えてもよし、ファーストキスを、「ひびわれて乾いた唇の触れ合い」で、塩辛さを強調したリアリティにハァハァしてもいいカンジに仕上がっている。

 本作は、他の三島モノと一緒で、静止画的な写実に満ち溢れている。色彩鮮やかで匂いが一切ないところは、好き嫌いの分かれ道となっている。柔肌の「熱さ」はあっても、湿気を伴った「暑さ」が無いんだよなー。だからこそ、耽美フェチに愛される所以なのかもしれない。ネットを漁ってみたところ、写実ばかりで、ストーリーが面白くないからミシマはダメだという意見が平成生まれの若者(?)から出ていたが、そんなキミには「夏子の冒険」とかベタにオススメ。ストーリーに転がされる読みではなく、「なぜ・どうして?」とか「ボクならこうするのに」とはぁはぁできる。たとえばこう……

 逢瀬を重ねながらも、用心深く振舞う初江は、ずる賢いといってもいいぐらいだ。火を飛び越えるシーンは、その美しさばかりが喧伝されるが、「なんであのときヤらなかったのだろう」という疑問は、ちょっとどころか、何度でも考えるに値する。深夜、全裸、嵐の夜。おさえきれない恋心、二人を隔てるものは、焚き火だけ。犯りゃヤれちゃったのに、なぜ?

 ケモノになれたのに「あえて」しなかったのは、男にとっては経験不足。ナニをどうすればかは、身体なら知っているだろうが、そこへもつれこむためにどういうプロセスを経るのか分からない(彼のライバルの強引なやり口が対照的だ)。いっぽう少女の方が冷静だ。一時の熱情に駆られて身を任せたとしても、いずれ誰かの口の端に登る。狭い田舎だ、噂になったらいられなくなる。どちらもカラダが反応しつつ、この男女(なんにょ)のコントラストがいい。カレの純粋さが愚鈍さに、カノジョの清純さが狡猾さに見えてくる。

 それにしてもミシマは上手い。あわやという場面では、「若者」「少女」で描写し、痴情シーンを抜けると、「新治」「初江」に戻るところなんて、再読した今回気づいた。固有名詞をかなぐり捨てて、お互いが迫りあう感覚に、著者自身が寄り添っていることがよく見える。もちろん計算して書いていることが分かってても、思わず吸い込まれてしまう。

 こんなオッサンちっくな読みをしなくても、ちゃんと嬉しいラストを用意してくれる。ハッピーエンドを飾る、少年の真っ白いシャツが眼に沁みる。ビジュアルにも構成的にも秀逸なので、次の夏はバラバラに解剖して読んでみよう。

 読んで爽快な夏小説を、どうぞ。

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物語るための技術と原則「キャラクター小説の作り方」

キャラクター小説の作り方 キャラクター小説(スニーカー文庫のようなヤツ)の作り方を通じ、物語るための原理原則が明らかにされている。ラノベに限らず、マンガの原作、シナリオライティングに有用な一冊。基本中の基本である物語の原則とはこれ→「主人公は何かが"欠け"ていてそれを"回復"しようという"目的"を持っている」

 スゴ本オフ@松丸本舗でオススメされ一読、こりゃいい、マネさせてもらおう(nobuさんに感謝、「物語の体操」も読みます)。何が良いかというと、きわめて具体的なところ。文章術や小説の書き方というヤツは、謳い文句に反して看板倒れなものがある。「100枚書け」とか「必読本100」とか、ハードルが高い作者の特殊なやり方を紹介しているものがある。それに比べ本書は、カードとエンピツだけで実践できる。

 その一つの方法はこれ、「カード&プロット法」と名づけてみた。「場面」をカードに書き込むのだ。B6サイズ情報カードに、一つの場面(シーン)を振り分けて、物語全体の構成を形作る。

  • ワンシーンにつき一枚のカード
  • 400-800字ぐらいのプロット
  • 物語の時間軸に沿って通し番号を振る
  • 書く内容は、通し番号、場所、時、登場人物、プロット、伏線、読者に伝えるべき情報
  • 最初は穴があってもいいので、最後のシーンまで書く
 そして、できあがったカードを以下の要領でチェックする。
  1. 同じ場所がくり返し現れていないか。くり返しが意図して効果を狙ったのでなければ、主人公たちがお芝居する場所に変化を持たせる(ストーリーの単調さが解決される)
  2. 長すぎるプロットは分割する、同じ内容を繰り返しているのでどちらかを減らす
  3. 伏線を受ける場面を用意しているか。ないなら新しく作る。そもそもその伏線はいらないか検討する
  4. 読者に伝えるべき情報がなにもない場面がないか、チェック。「伝えるべき情報」がそもそもそれでいいのか、疑ってかかる
 チェックを通じて、カードを増やしたり減らしたり、削ったり中身を書き換えたりする。ある程度進んだら、時間軸上の入れ替えをする。クライマックスを先頭にしたりすることで、物語を演出するのだ。自分のプロットを書く前に、著者は、お気に入りの小説をカード化することを提案している。「物語を破綻なく作る力」をレベルアップするというのだ。わたし自身、物語を書く予定はないが、この「小説のカード化」はやってみたい。プロの作家が、場面ごとにどのように作品を組み立てているかを解体しながら読むことができるから。

 では、どうやってプロットを出すか?本書は端的に「盗め」と言う。著作権法に触れるような盗作ではない。元ネタのキャラクターをいったん抽象化し、元ネタが属する世界観をとっぱらって、異なる外見や設定や時代背景を与えてやればいいというのだ。創作とは盗作であり、過去作・周辺作からいかに「パクる」かが重要なのだという主張は、マラルメの「すべての書(ふみ)は読まれたり」を思い出す(さもなくば、ボルヘス「疲れた男のユートピア」か)。わたしたちは、過去に触れた作品を通じ、現前の作品を理解する。通過した作品やそのときの感情を思い起こすような刺激を与える物語こそが、「面白い」と受け止められるんだ。

 このように、(書くつもりのない)わたしにも、思わず書きたくなる気を掻きたてるような手法や観方がわんさと紹介されている。その一方で、どうしても首を傾げたくなる主張もある。それは、日本の近代小説を二極化しているところ。

 自然主義の立場に立って「私」という存在を描写する「私小説」を一方の極に置いて、まんが的な非リアリズムによって描く「キャラクター小説」を反対側に据える。両者を検証しながら日本文学を批評するのは小気味がいいが、極端すぎやしないだろうか。なぜなら、社会派やSFといった舞台設定そのものがウリの小説が無視されているから。さらに、紀行や伝奇、時代モノなどの時空間の差異がテーマの小説が度外視されているのだ。

 もちろん、強引に「広義の私小説」(紀行、社会派)や「広義のキャラ小説」(SF、伝奇、時代)に持っていくことは可能だ。だが、同時に、社会現象や異文化といった持ち味が減殺されてしまう。小説とは、ヒトを描くだけでなく、歴史も、場所も、事象も表すことができると思っているわたしには、ちとモノ足りない。

マンガの創り方 著者と意見の分かれるところもあるが、この人の論をもっと読みたい、この人のテクニックをもっと盗みたい気にさせてくれる。がめつく読んで、モノにするつもり。類書に、「マンガの創り方」というネームに特化したスゴ本がある[レビュー]。これは、どちらかというと、演出の技術に重点が置かれている。最初のプロットを創りだすためには、「キャラクター小説の作り方」を、できたプロットをいかに面白くするかは「マンガの創り方」になる。ストーリー演出については、バイブル級の一冊なり。

 エロティックでグロテスクな恋愛を書きたいときに、参考にしよう。

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スゴ本オフ@松丸本舗やったよ

 「いっしょに本棚めぐり&オススメしあう」コンセプトで、本屋オフをしたぞ。

 ふつう本屋は一人で黙々ハンティングするもの───この常識をくつがえし、いっしょに松丸本舗の本棚をいっしょに眺め、共同で狩りをしてみよう。この呼びかけに沢山の方に集まっていただき、嬉しい楽しい大好きな7時間と相なった。アドバイスいただいた松丸スタッフの方がたにも感謝・感謝。

 朝から夕方まで本屋にいたら、さすがに疲れるかと思いきや、アッという間だったので、やってるわたしが驚いている。棚を前にするオフ会だから話が具体的だし、何よりも「ホラここ」と指し示せるのが良い。

 ある本が単独で存在するのではなく、関連する書、関連する著者、ジャンル、研究が、星座のように連関している。松丸本舗の棚は、その関連性を生かした作りかたをしている。ドン・キホーテのような古本屋のような雑然とした雰囲気でも、本と棚の関連に魅入られているうち、宝探ししている気分になってくる。

 これを複数人数で周ると、まるで別の見方ができる。「わたしなこう見える」という、まるで違うリンケージをたどることができるのだ。あたかも、同じ星ぼしを見ているのに、違う星座を見つけているみたいだ。同じ棚を見ているのに、違う本をキーに連想する、その「違い」が面白い。

 いっしょに棚めぐりをした方から、沢山のオススメをいただいた。ありがたやありがたや。そして、いつもいつもオフ会で感じているように、わたしは、さっぱり読んでないや、もっと読みたい!と火を点けられている。いくつかメモしておく。

   芸術起業論(村上隆、幻冬舎)
   なぜあの人はあやまちを認めないのか(アロンソン、河出書房)
   小さな小さな魔女ピッキ(トーン・テレヘン、徳間書店)
   「やればできる!」の研究(ドゥエック、草思社)
   怖い絵(中野京子、朝日出版社)
   ドロヘドロ(林田球、IKKI)

 今回の棚めぐりで気づいたのは、「棚の流動性」。松岡正剛さんの千夜千冊に出てきた本=Keybooksをベースに、スタッフの方が新刊を追加しているだけだと思いきや、棚そのものが変わっているのだ。いわゆるテーマやステージの変動による「入れ替え」ではなく、本が移動している現象なんだ。さらに、本が増殖しているという珍現象も起きている。

 例えば、谷崎潤一郎の「細雪」の置き場所(3箇所ある)が移動してたり、ヴィットコップの「ネクロフィリア」は2冊から5冊に増えていたり。同じ本は同じ場所に積んであるのではなく、本舗のあちこちに、罠のように隠されている。スタッフによって得て不得手の棚があるのは分かるが、これだけ同じ本がバラバラの場所で見出されているということは、何かの意図を感じてしまう。

 来た!見た!買った!の勢いで、久しぶりにリミッターカットしたオトナ買いを目指した結果がコレ。「醜の歴史」(エーコ、東洋書林)とか、かな~り悩んだのだけど、結局棚に戻してしまったヘタレとは、このわたし。

Matumaru0807

 次回もやります、本屋オフ。複数の書店の棚めぐりとか、Twitter を用いた実況をおりまぜてみたいですな。無線LANが使える本屋さんってあるのだろうか……

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スゴ本オフ@BEAMS(8/27)のお知らせ

 好きな本を持ち寄って、まったりアツく語らうオフ会のお知らせ。

 第4回 Book Talk Cafe (スゴ本オフ)を、8/27 にやります、テーマは「POP(ポップ)」。ポップカルチャーなやつとか、ポップな気分にさせてくれるものを持ってきましょう。もちろん「POP」の定義はあなた次第なので、自分が「これだ!」と感じるものでOK。本が難しいなら、CDもアリなので、お好きにどうぞ。

 さらに、いつもと場をかえて、ビームスのワンフロアを借り切ってやっちゃいます。オサレな場所で、ハッスル・カラフル・ビューティフルにいきましょう(ミスマッチもキャラのうち、プリティは、花盛り~)。もちろんU-Stream での中継、Twitter の実況もありますぞ。

  とき 8/27(金) 19:00受付、19:30開始~21:30終了予定
  ところ トーキョー カルチャート by ビームス[URL] ビームス原宿の【3階】
  参加費 無料(軽食と飲み物は、BEAMSさんのオゴリ、thx!)
  懇親会 終了後、居酒屋みたいなとこで懇親会やります(ワリカンで4千エン程度)


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FAQ的なものを再掲しときます。

  • 何かの勉強会なの?→【非】勉強会です。いわゆる「お勉強」はしません。テーマに合わせ、めいめい好きな本を持ち寄って、みんなで語り合う会です。本を介して新たな読み手を知ったり、人を介してぜんぜん知らない本に触れるチャンスです
  • テーマがあるの?→毎回趣向を変えるため、持ち寄る本のテーマがあります。これまでは、「SF」「愛」「夏」がありました。本に限らず、CDやコミック、詩や雑誌、写真集なんてのもアリかと
  • ブックシャッフルって何?→毎回やってる目玉が「ブックシャッフル」で、いわゆる「本の交換会」です。オススメ本をランダムに交換しあいます。交換する本は「放流」だと思ってください。「秘蔵本だから紹介はしたいけれど、あげるのはちょっと……」という方は、「紹介用」と「交換用」、それぞれ別の本にしてもOK
  • ネットと連動してるの?→ネットで広がります。Ustream/Twitter/Blogで、オススメ合いをさらに広めます。「その本が良いなら、コレなんてどう?」の反響は、時間空間を超えて広がります。抵抗がある方には、もちろん「見てるだけ」「透明人間」もアリ
 募集はいつもと違って、ちょっと変則的なやり方になります、別途連絡します。

 詳細は Book Talk Cafe でどうぞ。

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「神話の力」はスゴ本

神話の力 世界と向き合い、世界を理解するための方法、それが神話だ。

 現実が辛いとき、現実と向き合っている部分をモデル化し、そいつと付き合う。デフォルメしたり理由付けすることで、自分に受け入れられるようにする。例えば、愛する人の死を「天に召された」とか「草葉の陰」と呼ぶのは典型かと。そのモデルのテンプレートが神話だ。いわゆるギリシア神話や人月の神話だけが「神話」ではなく、現象を受け入れるために物語化されたものすべてが、神話になる。

 本書は神話の大家、ジョーゼフ・キャンベルの対談をまとめたもの。キャンベル本は、現代の小説家やシナリオライターにとってバイブルとなっている。例えばジョージ・ルーカス。スターウォーズの物語や世界設定のネタは、古今東西の神話から想を得ているが、その元ネタがキャンベル本なのだ。本書では、「英雄の冒険」や「愛と結婚」といった観点で古今東西の神話を再考し、神話がどのように人生に、社会に、文化に影響を与えているかを縦横無尽に語りつくす。おかげで、あらためて「分かり直した」感じだ。存在には気づいていたものの、名前を知らなかったものを教えてもらったようだ。

 例えば、かつてシャーマンや司祭が担ったことがらが、我々全員に委ねられようとしているという。衝動に駆られて行動したとき、幸福をとことんまで追求するとき、自分に何が起こるのかを教えてくれるのが、神話だった。神話を通じ、シャーマンや司祭は、何に嫌悪を抱き、どういうときに罪悪感を抱くのか、その社会の構成員の手引きをしていたのだ。ところが、神話の伝え手がいなくなったいま、判断の基準そのものが個々のものになっている。

 わたしはこれを、「価値観の多様化」「フラット化」という言葉で理解していたつもりだったが、「神話の喪失」と考えることもできる。ストーリーを自分で作り出さなければならない世の中になったんだね。子どもじみた選民妄想である「邪気眼」が、なぜか「あるある!!オレも厨二の頃考えた」となる理由はここにある。ストーリーの核は、かつて語り部だけが運んでいたが、マンガやテレビに散らばってしまっているからだろう。

 随所で引き出される神話のエピソードも深いぞ。アステカ族にはいくつもの天国があって、死に方によって行く天国が違うという。面白いことに、戦いで殺された戦士の行く天国と、お産で死んだ母親の行く天国は同じなんだって。つまり、子どもを産むということは、間違いなく英雄的な行為とされているのだ。この母親を英雄視するイメージは強く響いた。子を成すことは、他者の生命に自己を捧げること。子育ての現場にいるからこそ、「母親=英雄」をありありと感じる。まさに「母は強し」やね。

 神話の共通性を掘り起こすにつれて、その理由に目を向けるようになる。一番ピンとくるのは、人類すべてに共通する、生きるための活動のこと。生きるための活動とは、すなわち、生きている他のものを殺して食べることに、集団で参加していることだ。ベジタリアンといっても、植物を殺して食べていることに変わりない。生きている他のものの命の上に成り立っている、人生とはそういうもので、この事実と、「自分のいま・ここ」との間を物語りづけるものが、神話なんだ。

 キャンベルは言う、「神話は絵空事ではありません」と。神話は詩でであり、隠喩なのだと。神話は究極の真理の一歩手前にあると言われる理由として、究極のものは言葉にできないからだと。言葉にできないから、一歩手前にある。

究極は言葉を超えている。イメージを超えている。その生成の輪の、意識を取り囲む外輪を超えている。神話は精神をその外輪の外へと、知ることはできるがしかし語ることができない世界へと、放り投げるのです。だから、神話は究極の真理の一歩手前の真理なのです。

 そして、その外縁の側から自らの人生を、社会を振り返ってみることができる。そこに見いだされる避けられない悲嘆や困苦と、折り合いをつけて生きるのを助けてくれるんだ。人生のマイナス面とかマイナスの時期だと感じられるなかに、プラスの価値を認めることを神話から学ぶことができる。本書をきっかけに、あらゆる物語のなかに神話を探すようになった。

 世界と向き合うため、神話の力を(意識して)使う。そういう一冊。

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