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ゲームで子育て「釣りマスター」

 そもそもの始まりは、「ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス」だった。

 本編も面白かったが、ゲーム内ゲームであるフィッシングに燃えた。Wiiコントローラーをロッドとリールに見立てたシミュレーションだ。ヒットすると振動がビビッとくる感覚はリアルで、家族全員で夢中になってやりこんだのだが、その結果、ここに立つことになろうとは予想だにしなかった。


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 ちょっとした台風並の風が吹き荒れる午前6時。寒い。手はイソメ臭い。季節を先取りしたつもりのTシャツ一枚でガタガタ震えながら餌をつける。(頭を取ることを知らなかったので)噛みつかれる。痛い。思わず振った手に飛ばされたイソメが鼻に当たる。顔がイソメ臭くなる。大ダメージ。「パパぁまだぁ」何十回目かの督促に殺意を覚えつつ、そうか、海はさえぎるものがないからな、と沖を見やる。もうすぐ満潮ナリ。

 道具の買出し、仕掛け・餌の準備。ドライバー、運搬係、セッティングとすべてをこなし、嫁さんと子どもにそれぞれ渡す。キャストしたら忍の一字……というのは昔の太公望で、今はちょいちょい踊らせながら巻くのが常識らしい。で、ダメならポイントを変えてあちこちアタリを探し歩くのが堤防釣りだそうな。とーちゃんが昔やった川釣りとはずいぶん違うなぁ……とはいうものの、イソメの体液ってキジそっくりの臭いだね。

釣りマスター ゼルダから「釣りマスター」へ飛びつくのに時間はかからなかった。例によって嫁さんがはにかみながら「コレ欲しいんだけど……」の上目遣いに撃たれて即購入、家族全員でやりまくる。さすが専用ゲーム、ヒットが分かりやすく、振動が生々しいぞ。ラインのテンションと魚の弱り具合をトレードオフさせており、「魚を釣り上げる」ゲーム性がアクション仕立てになっている。早く巻きすぎるとラインが切れるし、遅すぎるとバレてしまう。その加減の難しさ=魚の難易度になっている。釣り場やターゲットが非常に豊富で、レア、大物、超大物に達成感もひとしお、コンプリート魂に火をつけられる。

 で、ひととりクリアすると、当然のことながらゲームでは満足できなくなる。「ホンモノ」が釣りたいとの嫁子の要望に屈する。しかしだ、ゲームとリアルはずいぶん違うのだよ……餌付けは臭いし、仕掛けはからまるもの。寒いし暑いしなかなか釣れない。そう、待っても変えても粘っても、釣れないときはつれないもの。息子は「おかしい、ゲームだったらすぐ食いつくのに」と言い出す。ククッこのゲーム小僧め、現実は違うのだよ現実は!ボウズの恐怖を思い知るがいいわはは~などと笑っていられない。空気がどんどん険悪になる。娘涙目。これはマズい、おねがい、神サマ、子どもたちに釣らせてやって!

 わたしの願いが通じたのか、嫁さんの執念なのか、ハゼ、メバル、ギンポがそれぞれ全員に釣れた。やれやれだぜ。帰りの道みち、「釣りマスター」はゲームだから釣れるように作ってあるんだよと説明する。でもホントの海はとっても広くて、魚も散らばっている。食いが良い時間は決まっているし(マズメ、潮どき)、アタリの瞬間はゲームみたく「シャキーン!」なんていわない。

 そう、ゲームとは、リアルを抽象化したコピーなんだ。抽象化の過程で、さまざまな要素が切り捨てられる。この寒さも、風も、イソメの生臭さも、隣の人とのオマツリも、ゲームの中には持ち込まれない。ゲーム性を際立たせるため、魚が食いつくまでの時間すら省略されている。「釣りが面白い」とは、そういった、カットされたもろもろの側面をぜんぶひっくるめて、受け入れることなんだ……

 子どもらは神妙に訊いてはいるものの、アタリのコツコツした感覚や、ググッという反応がよっぽど楽しかったらしく。また来ることを約束させられる。その後、「釣りマスター」をしなくなった。まぁ、リアルの感触のほうが楽しいよな。次は釣った魚をさばいて料理するトコまでやってみよう(てんぷらが楽かな)。

パパ、釣りに行こ ちなみにポイントはこれで調べた。ファミリーフィッシングやピクニック気分でいけそうな釣り場を探すのに最適な一冊ナリ。

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子どもじゃなく大人が楽しむ「理科読をはじめよう」

理科読をはじめよう 理科読(りかどく)とは、科学系の本を読もうということ。

 「子どもの科学離れ」と言われているが、科学離れしてるのはオトナだよね?「理解できないもの=不必要なもの」と硬直思考→切捨てるシワケ人ならぬタワケ人がいるが、とうに不安を通り越している(だいじょうぶかニッポン)。とはいうものの、わたし自身が好む本は、小説をはじめとした、いわゆる「物語」だ。科学本やドキュメンタリーは、なかなか手を出さない。その影響か、わが子が手にするのは、「ゾロリ」「デルトラ」「サーティナイン・クルーズ」と見事なまでに物語ばかり。

 これではいかんと思うのだが、何を読めばいいのやら皆目わからん。福音館書店の月刊「こどものとも」シリーズは素晴らしかった。ストーリー/サイエンス/ヴィジュアルとバランスの取れた配本をしていたので、大変ありがたかった―――のだが、いかんせん幼児・低学年向けなのだ。中高生になれば自分で選べる(選ぶ)ようになるだろうが、その橋渡しとなりたい。サイエンス本を読むという習慣がないままオトナになったら―――そう、わたしのようになってしまう。

 そういうあがきの中で知ったのがこれ。学校の図書室や地域の図書館での「理科読み」の実践と経験が12の事例で紹介されている。はじめて出会う科学本の読み聞かせから、科学本を集団評価する試みや、「物語系の」サイエンス本を取り入れた授業など、豊富に紹介されている。その事例のなかで、わたし自身が気づかされることがあった。

 たとえば、時間や日付がらせん状に進むという概念は、子どもになじみにくいということ。お昼寝から覚めて朝だと勘違いした子が、「空気には『きょう』って書いてない」と言った話は、わたしがあたりまえだと思っていた常識に揺さぶりをかける。確かに、空間ならば場所ごとに座標軸上のポイントが、地名や駅名としてある。しかし、時間にはないのだ。「5月26日」は何回も出現してきたが、2010年5月26日は一日きり。時計が円形をしているのも、わたしの「あたりまえ」を強固にしており、時間は一度きりしか「流れ」ないことを気づきにくくする。子どもがどのように世界を理解してゆくのかを、大人のわたしが識ることは、たのしいと同時に刺激になる。

 別の事例として、図書室の調査で「どんなときに科学の本を借りているのか」の指摘は鋭い。いわゆる総合学習での調べ物や夏休みの自由研究のときに利用する場合が圧倒的だという。そのため、科学の本といえば、「実験や工作、飼育の手順が書いてある本」になってしまう。「科学の本=ハウツー本」という固定概念があることを懸念する。工作の体験も大切だが、因果関係を自分で考えることも重要なのだ。つまり、「なぜ」という疑問から出発し、理由を検証する方法を考えたり、結果から考察すること―――ストーリーが重要だという。

 これは教科書にも現れている。日本の理科の教科書は薄い。その薄い教科書には、科学的事実がぎっしりと詰めこまれている。そのため、理科は、既に完成された法則を確かめる授業になってしまう。科学には新たな発見や発明をする余地がないように誤解されるというのだ。科学の歴史をひも解いてみれば分かる、科学とは、科学的事実が上書きされた積み重ねなのだ。アシモフを引くまでもない、科学における大発見の先触れとなる言葉は、「わかったぞ(エウレカ)!」ではなく、「こりゃおかしい……」なのだ。

 この、教科書に欠けている「物語」の部分を補うのが科学読み物になる。ガリレイやニュートンなどの伝記を読ませてみよう(というか、わたしも読む)。本書では、「オックスフォード・サイエンス・ガイド」(ナイジェル・コールダー、築地書館)が紹介されている。現代人にとって必要な科学知識112項目が厳選され、誰が何を発見したか、その発見によりわたしたちの生活はどのように変化したかが書かれているそうな。さっそく読んでみる(中高生以上とあるので、与えるのはもう少し先になるが)。

 ブックガイドとしても優れており、次はこのあたりをオススメしてみようと思う。というか、わたしも一緒に楽しみたい。納豆大好きっ子なので、「しょうたとなっとう」は鉄板やね。

  幼児よみきかせ
     「みんなうんち」(五味太郎、福音館書店)
     「たんぽぽ」(平山和子、福音館書店)
     「しょうたとなっとう」(星川ひろ子、ポプラ社)

  小学生
     「みずたまレンズ」(今森光彦、福音館書店)
     「まほうのコップ」(藤田千枝、福音館書店)
     「小さな小さなせかい」(かこさとし、偕成社)
     「大きな大きなせかい」(かこさとし、偕成社)
     「人体絵本」(ジュリアーノ・フォルナーリ、ポプラ社)
     「科学あそび大図鑑」(津田妍子、大月書店)

  中高生以上
     「オックスフォード・サイエンス・ガイド」(ナイジェル・コールダー、築地書館)

みずたまレンズ 「みんなうんち」は持っているが、再読み聞かせしよう。「みずたまレンズ」は一緒に読んだ記憶があるが、そこから実験へつなげる発想はなかった。p.43には、以下のような実験候補があげられている。参考にしよう。

  • 水玉の作成・観察(もりあがる水の面を作る)
  • 水玉越しの文字の見え方
  • 5円玉の穴に水を入れる
  • ビー玉の大中小(大きさによる見え方・倍率の違い)
  • 水玉を動かして集光
  • ピンホール顕微鏡
  • ペットボトルの水レンズ
  • 生物がもつ水をはじく性質(蝶の羽、サトイモの葉などの撥水性)
  • 界面活性剤による水玉と比較

 さらに、本書が縁で、すばらしいサイトを見つけたのでご紹介。宙読みの星空ブックフェアがそれで、宙読みは「そらよみ」と読む。世界天文年2009の企画で、全国の書店に専門コーナーを設け、良質の天体書籍を提供することを目的としている。リンク先にはプロフェッショナルが厳選した天文書が561冊紹介されている。本棚の一部はこんなカンジ……

Sorayomi

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 「手作りロケット完全マニュアル」(久下洋一、誠文堂新光社)とか、「見えない宇宙」(ダン・フーパー、日経BP)、「宇宙ステーション入門」(東京大学出版会)など、読む前からスゴ本認定したくなるようなものばかり。腰すえて探してみよう。子どものためというよりも、自分のためになってしまったが、まぁいいか。

スーパー理科事典 でもって、こっそり(堂々と?)種本を仕入れておくか→「スーパー理科事典」(受験研究社)これは読書猿さんとこの「理科:大人が本気でやり直すなら子供の本」で知ったもので、いまのわたしにちょうどいいかも。というのも、「火が"燃える"ってなに?」とか、「潮の満ち引きがあるのはどうして?」といった質問に、根源的なところで答えられていないから。酸化とか月の引力とかソレっぽいことで説明した気になっているけれど、かなりアヤシイ。学校の勉強のため、というよりも、好奇心を満たすためにやりなおそう。

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じぶんの闇を覗く「猟奇歌」

猟奇歌 ひさびさに毒薬系の紹介。

 「あンたが深淵を覗く時、深淵のほうももあンたを覗きこんでいるので気をつけな」という警告がぴったりの一冊。本書は、「深淵」そのもの。本書に深く潜ることは、じぶんのなかで飼っている怪物そのものと正対すること。寒い夜とか、独りのときとか、沈んでいるときに読むと、より効果的に苦しめることを請け合う。いい換えると、心が弱っているときに触れると、大ダメージを喰らうだろう。

 「猟奇歌」は、雑誌「猟奇」に掲載された夢野久作の短歌作品の総称を指す。青空文庫[猟奇歌]には二百五十余りの全作がそろっているが、本書では、そこから百十六首、選ばれている。選者は赤澤ムック、劇作家であり演出家であり女優でもある方らしい。いくつか引いてみよう。

   ある女の写真の眼玉にペン先の
   赤いインキを
   注射して見る

   誰か一人
   殺してみたいと思ふ時
   君一人かい………
   ………と友達が来る

   白い乳を出させようとて
   ダンポポを引き切る気持ち
   彼女の腕を見る

 本書は、ひとが抱く残虐さをどうやってことばだけで再現しようかという実験だ。誰かをバラバラに殺したい、脳と腸を裏返しにしたいといった、狂気や怨嗟を三十一文字だけでいかに表現しようかという試みなのだ。ページをめくるたび、いちいち嫌な気にさせてくれる(しかも抗えない魅力をもつ不快感を抱かしめる)。重野克明の銅版画が感情を加速させる。この、なんと表現していいか分からない臓器のようなモノクロ画像を見ていると、鬱感がジワジワと深まる。

 ふしぎなことに、青空文庫の、電子化された文字列を見ても、「こわさ」は感じない。わたしが上に掲げた歌は、端末のディスプレイで見ると、むしろこっけいに感じる。「本」の魔力というよりも、挿絵の魅力なのかもしれないが、余白まで計算しつくしたページという構成は、読むというよりもむしろ、視覚にクる作品なのかもしれない。

 さいごに。わたしが、いちばん、いやになった歌をひとつ。
  ァ    ァ,、
 ,、'`   ,、'`
  '`     '`
   何遍も自殺し損ねて生きている
   助けた奴が
   皆笑っている
  ァ    ァ,、
 ,、'`   ,、'`
  '`     '`

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松丸本舗のさまよいかた

 松丸本舗のワクワク感てのは、ずばり古本屋の魅力になる。

 それも、中古書店の100円ワゴン発掘みたいなのではなく、老舗の古本屋をさまよう気持ち。あの、古いのも新しめもいっしょくたになってそそり立つ棚の前にいる興奮といえば分かるだろうか。目利きが選んだなかで、自分が太鼓判押した既読本にはさまれて、タイトルすら初見のやつを見つけたら―――そう、ドキッとするだろう。そして、たいていその第七官は正解だったりする。

 この感覚は、amazonと新刊書コーナーしか行かないようなハンターには分かりにくいかも。なぜなら、そういう狩人は、目指す著者やジャンルが固定されており、タイトルすら事前に分かった状態で行くから。「あるか/ないか」しか気にしないし、「まどう」ことは時間のロスだと考えているから。迷うにしても、せいぜい「買うか/借りるか/ブックオフ」ぐらい。わたし自身、ビジネス書や文芸書を漁るとき、そういう狩人になりがちだ。そんなとき、ハンターというよりもむしろ、新刊本に餌付けされているような気分になる。

 そういう飼われた読者が松丸本舗に行くと、きっと「わーーーーーーーーーーーッ」となる。ほら、ずっとクサリにつながれてた犬を河原とかに連れて行って放すと、わーっと走り出す、あんな感じ。好きな本→知ってる本→気になる本→知らない本→やば目な本……、どこまででも拡張していける、行ってもいいの?帰ってこれる?期待と不安でめ一杯になってダイブする。大丈夫、ぜんぶアタリだから。

 たとえば、みんなの大好きなエロティックな棚を見てみよう。「過激なエロス」で題された5段は、め一杯官能させてある。もうふつうのエロスでは満足できないアナタのための棚といえよう。手前に平積みされたデュラス「愛人(ラマン)」に目線を取られると、ナボコフ「ロリータ」や「O嬢」が迎えてくれる。性的文学からそのまま目を上に走らせると、サドとバタイユが待ち構えている。たぶん「痛み」つながりで谷崎潤一郎があるのだろう。
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 なんだフツウじゃね?と油断するなかれ、「ジェローム神父」が誘うように、ひょいと載っている。サド原作+澁澤翻訳+会田誠挿絵という地雷だから気をつけて。はっきり言ってこれは劇薬モノで、うっかり開くと大ダメージを食らう。わたしの感想は、背徳の愉しみと目の悦びの5冊「澁澤龍彦 : ホラー・ドラコニア少女小説」をどうぞ。サドつながりは分かるけれど、こいつを橋渡しのように置くのは修羅やのう……こんなカンジで、知っている本や気になる本から知らない本、ヤバ本へ誘導される仕掛けになっている。今回のわたしの発見は岩波文庫の「フランス短編傑作選」、官能棚へ導入するかのように横置きされているので、じゅうぶん期待できる。

 ナボコフ「ロリータ」にもう一度注目してみよう。赤白の帯が見える。これは「Keybook」といって、千夜千冊で紹介された本につけられている。他にも、バタイユ「目玉の話」、ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」、ジュネ「泥棒日記」などが「キーブック」だ。文字どおり鍵となる本で、その両サイドに関連付けられた本が並ぶ。その関連付けられた本に対し、さらに関連した本が並び……という構成をとっているそうな。その並びを全部読んだわけではないからなんともいえないが、キーブックのワキを固めるように、しかもそこから連想が広がるような「棚」となっていることは事実だろう。

 松丸本舗のもう一つのお楽しみに、「ゲスト本棚」があるところ。正剛センセだけではなく、著名人の本棚を練成させているところが面白い。丸善の中の松岡本屋の中のゲストの棚といったカンジ。青山ブックセンター六本木店などで小説家の本棚を再現させる企画があるが、その拡張版といったところ。正直、「ゲスト本棚」はいまいちかなー趣味あわないなーと思っていたら、マニエリストの剛、高山宏の本棚が出現して、狂喜乱舞している。モロわたし好み!ダレル「アレクサンドリア四重奏」、グレイ「ラナーク」、ラブレー、ボルヘス……棚ごと買い取りたくなるのをグッとこらえる(偉いぞ俺)。そういや、これ撮ってたときに、スーツケース持ち込んで五万円ぐらい買ってったお客さんがいたなぁ……現金十万円持って自分を解放するのが、正しい松丸本舗とのつきあいなのかもしれん。
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 好きな本を眺めているだけでも、周りの本が目に飛び込んでくる。自分を放し飼いにしてみよう。

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「伝奇集」はスゴ本

伝奇集 ボルヘスの、どろり濃厚・短編集。

 読者の幻視を許容するフトコロの深さと、誤読を許さない圧倒的な描写のまぜこぜ丼にフラフラになって読む。これはスゴい。特に「南部」と「円環の廃墟」は大傑作で、幾重にも読みほどいても、さらに別のキリトリ線や裂け目が現れ、まるで違った「読み」を誘う。シメントリカルな伏線の配置や、果てしなく反復される営為が象徴されるものを、「罠だ、これは作者のワナなんだ」と用心しぃしぃ読む。

 それでも囚われる。語りはしっかりしてて、描写は確かだから、思わず話に引き込まれ、知らずに幻想の"あっち側"に取り込まれる。どこで一線を越えたのか分からないようになっているのではなく、「一線」が複数あるのだ!そして、どこで一線を越えたかによって、ぜんぜん違ったストーリーになってしまう。解説で明かされる「南部」の超読みに、クラッとさせられる。語り手の夢なのか、語られ人の夢なのか、はたまたそいつを読んでいる"わたし"の幻なのか、面白い目まいを見まいと抗うのだが、目を逸らすことができない。「「「胡蝶の夢」の夢」の夢」の夢……

 読み手の想像力というか創造力を刺激するのも一流ナリ、さすが「作家のための作家」だね。たとえば、あらゆる本のあらゆる組み合わせが揃っている「バベルの図書館」は、まんまエッシャーの不思議絵をカフカ的に読んでいるような気になる。「カフカ的」と表したのは、明らかな歪みや矛盾をアタリマエとして淡々精緻に記されている点がそうだから。作品でいうなら「城」だ、あの「城」に図書館があるのなら―――いや、もちろん"ある"に違いない―――まさに本作で描かれたまんまの無限回廊になっているはず。

 自分の記憶をまさぐられるような薄気味悪い思いをさせられることもある。まぁこれは、ボルヘスの影響を陰に陽に受けた作品に触れた、わたしの記憶なのだろう。たとえば「隠れた奇跡」。まさに銃殺刑に処されようとする男に奇跡が訪れる話なのだが、似たプロットを手塚治虫の短編「処刑は3時におわった」で読んでいる。ぜんぜん違う話、かつ、どちらも傑作、そして読後やるせなさを感じるはず。

 さらに、架空の世界を、「それが存在した」という要約や注釈で差し出している「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」もスゴい。最初は、このプロットの白眉であるレム「完全な真空」「虚数」を思い出す。だが、現実を侵食するようになり、ついには飲み込んでしまう様子は、ラヴクラフトをまざまざと呼び起こす。ラヴクラフトでは街や家に限定された「リアル」が、世界ぜんたいに拡張されている感覚になる。くつしたが裏返されるように現実がでんぐりかえる恐怖を味わうがいい。

 驚いたのは、Kanon問題の解答が記されていたこと。なんと、月宮あゆの奇跡が孕んだ矛盾は、ボルヘスが半世紀以上も前に解いていたのだ。Kanon問題とは、ギャルゲやエロゲにおける平行世界的な構造の矛盾を示すもので、「あるキャラクターのルートに入ると、他のキャラクターが不幸になる」ことを指す。たとえば、栞ルートを選ぶということは、即ち、あゆが目覚めない未来に至ることになる。このKanon問題について、京アニが鮮やかな別解を示しているが、ボルヘスは「八岐の園」でこう記す。

時間の無限の系列を、すなわち分岐し、収斂し、並行する時間のめまぐるしく拡散する網目を信じていたのです。たがいに接近し、分岐し、耕作する、あるいは永久にすれ違いで終わる時間のこの網は、あらゆる可能性をはらんでいます。われわれはその大部分に存在することがない。ある時間にあなたは存在し、わたしは存在しない。べつの時間ではわたしが存在し、あなたは存在しない。また、べつの時間には二人とも存在する。
 そして、それぞれの時間の系列を観測するための「外側」があることを示唆する。「八岐の園」では、循環する、円環的な本を語り手に想像させているが、まさにこの循環性は、「円環の廃墟」で暗示されている。さらに、「円環の廃墟」で循環の外側へ出るために必要なことは―――(ネタバレ反転)死ぬような運命に陥っているにもかかわらず一切の傷もなく、それゆえ自分も誰かの夢によって作り出されたことに気づいた瞬間、消え去ってしまう―――だからKanonに戻ると、これは、月宮あゆの夢の話ではない、という解釈も可能になってしまう。すげぇ、ドラえもんの偽最終回(暗黒バージョン)並みにブラッキーだ。

 とまれ、わたしの妄想の暴走はともかく、記憶を浚ったりや新たな発想をツツき出してくれるぞ。シナリオを求める人にはこういおう、「プロット盗み放題だぜ」ってねw ただし、ねっとりゲル状になっているので吸い出すには相当の力が必要。まさにどろり濃厚ピーチなスゴ本。

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この恋愛本がスゴい

 スゴ本オフ(恋愛編)でまったりアツく語り合った中からいくつか。

 いちばん面白かったのは、「オススメの恋愛本を紹介しあう」のが目的なのに、だんだん話が「恋愛とは何か?」にシフトしていったこと。なぜその本がオススメなのか?についての説明が、そのまま「自分にとって"恋愛"とはこういうもの」に換えられる。それは経験だったり願望だったりするが、それぞれの恋愛の定義なのだ。「本」という客観的なものについてのしゃべりが、「私」という個人的なものを明かす場になる。

 「レンアイ」ってのは、ドラマや映画や小説で市場にあふれ、ずいぶん手垢にまみれているのに、いざ自分が体験するとなると、非常に個人的な一回一回の出来事になってしまう。墜ちて初めて、一般化されていたワタクシゴトに気づくという、とても珍しいものなんじゃないかな。いわゆるスタンダードな王道から、変則球なのに「あるある!」「そうそう!」と手や膝を打った覇道まで、スゴ本オフでの気づきをつづってみよう。

愛するということ まず王道だったのが、エーリッヒ・フロム「愛するということ」。「愛とは、"愛される技術"ではなく、"愛する技術"なのだ」と断言する著者に、すこし引くかもしれない。わたしの紹介は「5冊で恋愛を語ってみよう」を参照いただくとして、オフ会ではMOGGYさんの、本の内容以上に、誰に教えてもらったか、というコンテキストが大切にハッとさせられる。確かにその通りで、どんなにすばらしい本でも、出会うタイミング、出会うきっかけというのがある。ちょうどいいタイミングで、ちょうどいい本にめぐり合うのは、運命みたいなものかもしれない。

 実はこの本、一番カブったものでもある。わたしを含め、実に五人の方がこれを、「オススメの恋愛本」として持ってきたのだ。それぞれの「この本との出合い」を思い出してもらうと、ほとんどの人が「異性に勧められて」になる。そして、その異性はパートナーか、そこに近いところにいる人だという、面白い結果が得られた。「愛するということ」をオススメするということは、遠まわしの愛情表現なのかもしれないですな(実はわたしも嫁さんに勧めたw)。

きのう何食べた もう一つ王道、まーしゃさん「愛とは料理だ」にガツンとやられた。ウンウンとうなずきながら、「愛とは料理を作って一緒に食べること」を考える。愛する人のために、材料を準備して、調理して、できたてを食べてもらう。じぶんも一緒に食べる。笑う、楽しい、幸せ。これぞ愛じゃないの、とシンプルかつ説得力あふれる定義のもと、オススメされたのは「きのう何食べた?」。愛のためにゴハンを作って食べるゲイカップルの話なのだが、相方が女性でも自然に見える。というか、ゲイもストレートも関係ないんじゃないかなー、と思えてくる。

 愛とは料理だ―――この感覚が分かるようになるのまでに、わたしはずいぶん、嫁さんにお世話になっている。感謝せねばなるまいて。Cookpadやfinalvent氏からレシピを仕込み、相手の好みを考えつつアレンジする。そういうときの料理は、作っているときから幸せになるし、食べてもらうと倍加する。極東ブログ:牡蠣のオリーブオイル掛けは白ワインと一緒に、冬の夫婦呑みの定番となっている。

芋虫 覇道は、ユースケさんの推した、乱歩の「芋虫」。知ってる人なら「えっ?」かもしれない。だけどこれは、愛の小説なのだ。「愛とは、ゆるすこと」なんだ。

 戦争で両手足と声と音を失った夫に献身する妻の話。その「献身」が「愛」なのかというと、それは違う。無抵抗で醜い芋虫のような夫と、健康で艶かしい肢体を持つ自分を比べ、彼女の嗜虐心はいっそう高められる。そして、夫に唯一残された「視る」ことに耐えられなくなった妻が、ある一線を越えてしまう。おのれがやったことを激しく悔い、「ユルシテ」と夫の肌に指文字を書く妻に、夫はある返事をする。その返事と、その後に夫がとった行為こそ、愛だと思う。やったことは取り返せない、(ネタバレ反転)失われた光は戻らない。だから、「やったこと」を後悔しながら世話をさせるよりは、いっそその後悔すらなくしてしまえる手段をとる。もちろん彼女はいっとき悲しむかもしれないが、生き延びなければもっと辛い思いをさせてしまう―――そこまで考えた上での行動だろうと想像すると、「愛」以外の言葉が見つからない。

デッドゾーン も一つの覇道が、S.キングの「デッド・ゾーン」、正直、うすいさんからこれ聞いて「あっ」と思った。たしかに、確かにこれはラブ・ストーリーだわ。交通事故で四年間の昏睡状態になり、目覚めたあと予知能力を身につけた男の悲劇―――なのだが、そういう超自然的なストーリーを抜きにして、これは愛の物語だと断言できる。

 オフ会で話す機会がなかったのだが、S.キングは「愛」を描きたくて、その方便としてホラーじみたストーリーをでっちあげているように思うときがある。「デッドゾーン」もそうだし、「グリーンマイル」の所長の妻の話なんてド真ん中。「クージョ」はその愛が無残にも奪われる話だし、「ペット・セメタリー」は愛が暴走した悲劇、「クリスティーン」や「ミザリー」、「ローズ・マダー」には、この上なく真摯な、狂った愛を読み取ることができる。

 要チェックなのは、ともこさんオススメの「パーマネント野ばら」。西原理恵子の傑作だということは知ってはいるものの未読だったのだが、「切なくて、実にならない、大人の女の、イヤな恋」という紹介に惹かれる。男と女の間を流れる、暗い河から差し出された「情念本」としてぜひ読んでみよう。

 以上、スゴ本オフ(恋愛編)から選んだ「スゴい恋愛本」。文字どおり山のように紹介されており、すばらしい狩場だった。実況は、twitterまとめtogetter:スゴ本オフ(恋愛編)をどうぞ。さらに、「Love!!」な2回目が終りました。や、第2回スゴ本オフに行ってきたもあわせてどうぞ。紹介された全リストを作ってみた。参考にしてほしい。カッコ 【 】 内は紹介者。

  • Dain】聖少女/倉橋由美子/新潮社
  • Dain】少女セクト/玄鉄絢/コアマガジン
  • Dain】春琴抄/谷崎潤一郎/新潮社
  • Dain】おおきな木/シルヴァスタイン/篠崎書林
  • Dain】愛するということ/エーリッヒ・フロム/紀伊國屋書店
  • やすゆき】Kiss/谷川俊太郎+谷川賢作/プライエイド
  • ともこ】ラヴァーズ・キス/吉田秋生/小学館
  • ともこ】パーマネント野ばら/西原理恵子/新潮社
  • PAO(ぱお)】あなたが好き/タンタン(唐唐)/ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • PAO(ぱお)】嫉妬の香り/辻仁成/集英社
  • chachaki】イニシエーション・ラブ/乾くるみ/文芸春秋社
  • yuripop】ム-ミン谷の十一月/トーベ・ヤンソン/講談社
  • yuripop】君へつづく物語/日の出ハイム/海王社
  • オータ】芋虫/江戸川乱歩/新潮社
  • モギー】愛するということ/エーリッヒ・フロム/紀伊國屋書店
  • モギー】陽子(荒木経惟写真全集)/荒木経惟/平凡社
  • しゅうまい】ジャスミン/辻原登/文芸春秋社
  • ぽかり】純愛カウンセリング/岡村靖幸/ぴあ
  • ぽかり】僕の小規模な失敗/福満しげゆき/青林工芸舎
  • taka_2】飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ/井村和清/祥伝社
  • さいとう】ノルウェイの森/村上春樹/講談社
  • さいとう】INTO THE WILD/Jon Krakauer/Anchor
  • 【てつ】愛するということ/エーリッヒ・フロム/紀伊國屋書店
  • 【てつ】愛の法則/米原万里/集英社
  • 【点子】春琴抄/谷崎潤一郎/新潮社
  • 【点子】半所有者 秘事/河野多恵子/新潮社
  • 清太郎】封印の島/ヴィクトリア・ヒスロップ/みすず書房
  • 清太郎】青春と変態/会田誠/ABC出版
  • 【ハーレクイン】ハーレクイン名作セリフ集/非売品?
  • nao】尾瀬に死す/藤原新也/東京書籍
  • nao】結婚のアマチュア/アン・タイラー/文芸春秋社
  • nao】風味絶佳/山田詠美/文芸春秋社
  • まーしゃ】愛するということ/エーリッヒ・フロム/紀伊國屋書店
  • まーしゃ】きのう何食べた?/よしながふみ/講談社
  • sako】冷静と情熱のあいだ/江國香織/辻仁成 /角川書店
  • sako】トーマの心臓/萩尾望都/小学館
  • うすい】デッドゾーン/スティーヴン・キング/新潮社
  • 【まち】危険な関係/ラクロ/角川書店
  • zubapita】嵐が丘/エミリ・ブロンテ/新潮社
  • zubapita】華麗なるギャッツビー/フィッツジェラルド/新潮社

��������編���場 on Twitpic

��������編���場���2� on Twitpic

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 おまけというか、リクエストへの返事。まなめ王子から、「非モテに効く恋愛本ある?」と訊かれていたので、オフ会の俎上から考えてみた。恋愛は(自分が体験するときは)とても個人的な出来事であるにもかかわらず、映画やドラマや小説で消費されるときは、ものすごく一般化される。ラノベやアニメにいたっては「記号化」という言葉を使ってもいいくらい。ハーレクインの中の人が、「ハーレクインとは色恋ファンタジーである」と喝破したけれど、ハーレクインに限らないかと。

 なので、マジレスすると特効本はない。お手軽にモテ・テクを紹介する本は多々あれど、マニュアル化した釣り方なら相応のサカナしか釣れないということで。だけど、「モテ」を離れて恋愛ってなんだろね?を考えるなら、フロム「愛するということ」がオススメ。これは、良い意味でも悪い意味でもバイブル、染まらないように読もう。あと、「愛とは料理」は真理なので、「きのう何食べた?」をどうぞ(既読だろうが、「愛は料理」を考えながら再読して)。好きな誰かがいるのなら、その人をどのように大切にするのか(そしてその気持ちをどのように伝えるのか)を考えるだろう。

 なに?出会いがない?勇気を絞って料理教室へ行くんだ。イオンのクッキングスタジオとか見てみろ、若い女性ばっかりだぞ。肉じゃがのレッスン料が三千円とかふざけているけれど、わたしがもう少し若ければ狩場に……ゲフンゲフン、とともかく、自炊で上げた腕をアッピールする場として最高だと思う。


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5冊で恋愛を語ってみよう

 スゴ本オフ(恋愛編)で語ろうと思っていること、あるいは話したこと。

 わたしが語るとき、キーボードを経由したほうが上手くしゃべれるようだ。なので、いったん吐き出してみる。事前メモのようなものだけれども、事後にこうして公開するのもいいだろう───

 レンアイ、と一つ言葉で語られているものの、「恋」と「愛」はまるで別もの。「恋」と「愛」の違いは、「心」のありように表れている。すなわち、下に心で下心なのが「恋」で、真ん中に心がある真心なのが「愛」だ。では下心と真心の違いは?それは、「もらうこと」と「あたえること」になる。

 恋する人は下心を持つ。すなわち見返りを期待した行動をとるのだ。もちろん、好きな人に食事をごちそうするとか、プレゼントを渡すのは、「あたえること」に相当するのだが、そのお返しに○○だったり△△をさせて「もらうこと」を期待している。恋することは、もらうこと。高揚した感情や、身体の快楽だけでなく、失恋の「痛み」すらもらうことに入る。

 愛する人は真心を持つ。すなわち見返りを期待せず「あたえること」が自らの望みとなる。「あたえる」ことができるくらい自分が豊かなことを確認する。あたえられる相手の喜びが自らの喜びになる。逆説的だが、「あたえること=もらうこと」になる。

 たとえば、「思い出をもつこと」に言い換えてもいい。親しい誰かと遊園地に行ったとしよう。そこで「思い出作り」をするのが「恋」の関係、「思い出をあたえあう」のが「愛」の関係になる。つまり、「二人の笑顔の写真」を残すために行動するのが恋で、「その人を笑顔にさせる」ようにはたらきかけるのが愛だと思う。だから愛する人は、別に遊園地に行かなくても「愛」することができるのだ。この前提で、恋愛について5冊で語ろう。

聖少女 一冊目は「聖少女」。これは恋の話。処女喪失を「パパ」にしてもらうことを弄る少女の話だ。ここで「もらうこと」とされているのは、近親相姦という事実。バージンなら「あげる」じゃないの?とツッコミ入れたくなるが、「絶対者=パパに処女をささげた」という"コト"が欲しいのだ、彼女は。いっぽうで、ベースの語り手である「ぼく」は、彼女の感情を欲しがる。「好きだ」という感情を。この小説を面白くさせているのは、どいつもこいつも「もらうこと」しか考えていないところ。当然作者は、おいそれと「あたえ」ないので、登場人物はみな、どこかに喪失感覚を抱いたままだ。

春琴抄 次から違ってくる。「春琴抄」は、恋から愛へクラスチェンジする話だ。それもただの愛ではなく、狂愛とでも呼ぶべきか。盲目の箱入り娘に恋をした下男という初期設定から、すごいところへ行ってしまう。読み手はこの下男のような思い切ったことができるか(ちょっとだけ)考えるが、まちがいなく「ムリ!」という結論になるだろう。彼は、自らの両眼を針で突き刺すことで、「目が見える自分」を彼女にあたえる。「恋は盲目」ではなく、「愛で盲目」なのだ。ちなみに、本作のヒロインである春琴は、日本文学史上最強のツンデレだぞ(参考→ツンデレ小説ベスト【まとめ】

おおきな木 さらに四冊目、「おおきな木」は愛の話だ。少年とりんごの木の交流という、いっぷう変わった設定ながら、じわりとクること請合う。少年が青年になり、成人し、中年になり…と時間が経つ中で、りんごの木は変わらない「愛」を彼にささげる。「アイヲササゲル」なんて抽象的な言い回しをやめるなら、「持っているものを惜しみなくあたえる」やね。彼の要求がエスカレートしていくにつれて、りんごの木があたえられるものも限られてくる。それでも、何の見返りも期待せず、ただ嬉しい顔を見たいがためにあたえつづける。この「りんごの木」を誰におきかえるかで、読み終わったら胸がアツくなるだろう。わたしは、その熱を「愛」と呼ぶ。

愛するということ 最後が、「愛するということ」。これはズバリ「愛」に正面から応えた小論だ。よくある「愛される技術」なんてハウツーと混同すると、きっと後悔する。これは、考え方を変える本であって、方法を探すものではないのだ。しかし読者はだまされる。著者フロムはこう言い切るから―――「愛は技術だ」とね。愛とは、人が自らの孤独を癒そうとする営みであり、愛するとは、幸福に生きるための「技術」なのだという。技術なのだから、トレーニングを積むことで、誰にでも身につけられる。金で着飾ったり自己啓発して「愛される人」を目指すのではなく、「愛する人」になるよう研鑽せよという。読み手は、「愛」の定義が自分のなかで逆転してくるはずだ。

 「ではどんな訓練が必要か?」と問うても、本書に具体的なレッスンはない。これはハウツーではないのだから、「視座が変わった、あとは自分で実践する」が正解やね。わたしは「身近な人にあたえること」だと取った。家族や友人、同僚など、自分の周囲に、自分ができるもの・ことを、あたえること。愛する技術とは、あたえる技術。それは自分の時間であったり、労力だったり、笑顔であったり、傾ける耳だったり、感情を寄せ合うことだったりする。怒りっぽくて好き嫌いの激しいわたしだが、「あたえること」を「愛」なんだと決めて、実践している。

───さて、実際のオフ会では、こんなカンジ→togetter:スゴ本オフ(恋愛編)、まとめていただいたしゅうまいさん、ありがとうございます。参加いただいた方、協力いただいたスタッフの方、感謝しています。

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スゴ本オフ(恋愛編)は本日、5/14ですぞ

 好きな本を持ち寄って、まったりアツく語り合うスゴ本のオフ会の話。

 今回のテーマは"LOVE is all you need"すなわち「恋愛」で、本日5/14ですぞ。時間・場所の都合でご参加いただけない方へお知らせ→オフ会の様子は、Ustream や twitter でリアルタイムに公開します。twitter のハッシュタグは #btc02 で、スゴ本オフ(恋愛編) on twitter をどうぞ!開始時間は19:30を予定。

 スペシャルゲストとして、恋愛モノの王道を往く出版社さんがいらっしゃるようで、激しくワクワクしてる。実を言うと、ぜんぜん手を出したことがないジャンルなのだ。わたしが知らない本へジャンプするチャンスだな。

 では、お会いすることを楽しみにしていますぞ。

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金融再編残酷物語「システム統合の正攻法」

システム統合の正攻法 Day2の大本営発表。

 Day2とは"Project Day 2"のことで、東京三菱とUFJの勘定系を統合させた、史上最大のプロジェクトだ。本書は、日経コンピュータの記事を元に、Day2のケーススタディとして編纂されている。プロジェクトマネジメントとシステム統合の文字通り「生きた教科書」といえる。ただし鵜呑むのは禁止な、経営層の大本営発表を元に作られているのだから。「涙の数だけ強く慣れるよ」(誤字ではない)とつぶやきながら読むべし。

 Day2がいかにデカいかは、次の数字が物語る。

  • 11万人月
  • 2500億円
  • 開発に3年
  • 6000人の技術者
  • 8万人のシステム利用者
 比較のために添えておくと、みずほ銀行のシステム統合(2004.12完了)は9万人月、郵政民営・分社化に伴うシステム対応(2007.10完了)は、4万3000人月になる。Day2がいかにケタ違いであるかがよく分かる。これに加え、チーム数は70超、改修対象システムは200以上、開発拠点は22ヶ所に及ぶ。札幌、仙台、千葉、大手町、日本橋、品川、多摩、富山、名古屋、大阪、海を越えて上海、大連、武漢までに至る。

 この巨大プロジェクトを、真正面から正攻法で取り組んだ「計画の勝利」だと手放しで絶賛するのが本書で、「正攻法」は「成功法」のシャレか。

 しかし、わたしは別の見方で読む。Day2は、プロジェクトとしては最悪の経営判断が下されていたにもかかわらず、成功させてしまった事例なのだ。最悪の判断とは、システム統合の方式だ。どちらかのシステムに合わせる片寄せ方式ではなく、元のシステムを残したまま東京三菱系列のシステムを元に差分開発したという。そして、その差分を載せた新システムに東京三菱系(IBM)とUFJ系(日立)を統合したのだそうな。

 あれ?

 事実上IBMへの片寄せ統合となり、日立は掌中の珠を失ったんじゃなかったっけ(ソースは雑誌「選択」2005年5月号の「UFJを失った日立製作所の衝撃」)。その辺のいきさつは金融再編残酷物語(日立の場合)に書いた。メガシステムの再編・統合の場合、片寄せするのは常道。さもなくばブリッジシステムをはさんで「いつでも離れられる」仕掛けを施すもの。最悪なやりかたは、いわゆる「足して二で割る」やつで、仕様やベンダが社間闘争の具になること必至。

 しかし、本書を見る限り、UFJ系(日立)は残しているようだ。たとえば、p.71を参照すると、営業店サーバをデータセンタに集約し、IBMメインフレーム「IBM System z9」4台、日立ブレードサーバー「BladeSymphony」90台に載せ換えている。その際、「営業店サーバを集約する際、アプリケーションには一切手を入れないことだ。営業店サーバのアプリケーションはPCサーバに搭載していたものをそのまま移植することにした」(p.73)とある。これを見る限り、日立系アプリは生き残ったらしい。

 片寄せをしない(よりカネのかかる)統合方式にした必要性を、p.180で経営層に直接ぶつけている。すなわち、「あえて伺うが、2500億円を投じて完全統合する必要はあったのか」という質問に、「経営統合をするならばシステムも統合しなければならない」という"ありき"的発想で答える。完全統合「しない」方法はいくらでもあったし、よりチープで安全に済ますこともできたのに、こんなに銭金がかかるリスキーな方式を選んだのは、どういう根拠に基づくのか?

能力増強とデータ移行は、いわば必要不可欠な作業である。これに対して、商品・サービスの「差分開発」は必ずしも実施しなければならないというわけではない。開発にかかる負荷を抑えることを最優先に考えれば、差分開発を一切しないという考え方も論理的にはあり得る。だが、三菱東京UFJ銀行は、顧客サービスの向上と銀行としての競争力強化のためには差分開発が必要と経営判断し、あえて実施することに決めた
 太字化はわたし。p.14 の上述を見る限り、差分開発は「やらなくてもいい」という認識はあったようだ。だが、「あえて実施」した真意は別にある。それは、統合における東京三菱とUFJの力関係、優勝劣敗になる。

 もともと「三和(日立)+東海(日立)=UFJ」を練成したとき、アウトソーシングの契約金額は10年間2500億円といわれていた。受託と同時に日立キャピタルがUFJ銀行の勘定系システムを保有資産の名目で500億円で購入、さらに勘定系システムを開発してきた合弁会社をUFJ日立システムズに改組したという(ソースは同「選択」)。日立はそこまでUFJに張っていたのだ。

 ここからわたしの憶測になる。統合が俎上に上ったとき、システムが裏付けるサービスとしての優位性は、UFJのほうが上だったのではないか?ATM24時間化、優遇者の手数料無料化はUFJが先行していた(はず)。したがって、レガシー更改が進んでいたUFJ系に「片寄せ」することがもっとも合理的な判断となっていた(はずだ)。

 にもかかわらず、後続している東京三菱系にわざわざ「差分開発」をさせ、新業務のベースラインも東京三菱系に寄せたのは、社間チカラ関係によるのではないか。東京三菱とUFJの合併比率は、1対0.62だった。システムをあわせるということは、業務をあわせるということ、小さいほうに飲み込まれるのは、東京三菱には耐えがたかったのではないか?

 その結果、「やらなくてもいい」開発を行い、新規+既存が混交した寄木方式をとることになった。Day2は、最悪の経営判断のもとになされ、最高のパフォーマンスを要求されたプロジェクトだといえる。その努力はプロジェクトX級モノで、まさに「経営陣の無茶難題な要求に、現場の怒りは頂点に達した」やね。ただし、「現場の怒り」は本書に一切書いていないので、巨大掲示板などで推してはかるべし(2ちゃんgoogleるなら、"掲示板に戻る"を混ぜる)。

 本書はPMの向こう側、マネジメント向けで、巨大プロジェクトを「任せる」ためにどうすれば良いかが、経営者の視点から記されている。記述が深浅まだらで、網羅的でもないため、経験のない人がドグマ的な何かを求めて読むと失望するかも。

 たとえば、人材確保。「人」を集めるだけではダメで、人が働ける体制を作ることが最重要だと判断しマネジメントはすばらしい。つまり、人をかき集めてオフィスビルに押し込めるのではなく、そのチームが働ける拠点、対応する部門、サポートする部隊、マネジメント要員を作ったのだ。人づくりではなく、チームづくりを念頭においている。

 そのために、オフィス確保の専用部隊(ファシリティマネジメント)を設けたそうな。どの拠点に机やPCがいくつ必要か、テレビ会議システムやLAN設置はどうするか、レイアウト図と体制図を首っ引きで検討し、準備する。集中しすぎてトイレが確保できなくなったオフィスには、ビル保有者とかけあって、トイレを(後付で)設置している。さらに、「3ザル生活」を回避するために奔走し、おいしいお弁当を確保するために役員が試食までしたという(「3ザル」とは「休まザル」「眠らザル」「帰らザル」を指す、デスマーチの典型症状)。努力のかけ方がちょっと違うような気もするが、それだけ「がんばった」んだね。

 さらに、組織作りのポリシーは炯眼だと思った。「利用部門の責任体制を明確化」したという。アタリマエなことなのだが、分かっているマネジメントはかなり少ないのではないか、さらに社内の風当たりも強かったのではないかと勝手に想像している。

 つまり、システム部門と利用者部門をペアリングした体制を作ったのだ。「作る人…使う人」をシメントリカルにしておくことで、システム部門のグループの担当は、相対する利用部門の責任者が分かる。デカいシステムを作るときによくある、誰に話を持って行っていいのか分からないまま作り始めるアンチパターンを回避することができる。「責任者不在」が仕様抜けの落とし穴になるからね。「組織構造をあいまいにしたプロジェクトは、必ず失敗する」は至言だ。

 その一方、役員の思いつきに振り回される「現場の怒り」というか困惑を透かし見る。最たる例が、本番系システムの本番データを使った「実データ実ボリューム」のテストだろう。本番の勘定系システムが1カ月の間にATMから受け付けたすべてのトランザクション処理データをテスト環境に投入し、古いキャッシュカードによるテストを消化したそうな。これは、某役員の「思い」により実現したという。

 古いキャッシュカードのバリエーションテストは全組み合わせを流すことをやっているだろうし、本番以上の負荷に耐えられるかのストレステストもダミーデータで当然やっているはず。にもかかわらず、顧客情報満載の本番データをわざわざ取っておいて、普段はアクセスできない試験チームにさらされる環境に流すのは、正気の沙汰とは思えないハイリスクな行為だ。フツー顧客情報は厳密に分けるものだが、わたしの「フツー」は普通ではないようだ。この中に、「悪のプログラマ」がいなかったことを切に願う。

 大本営発表から、現場の奮闘を測る一冊。


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処女でない少女には、何が残るか?「聖少女」

聖少女 
 少女から処女を引いたら、「う」しか残らない。そしてその「う」は、嘘の「う」だ。少女とは、処女と嘘から成り立っていることを知らされる、倉橋由美子の傑作。

 やはり、作品にはふさわしい「読むべき年頃」がある。フィクションにまつわる仕掛けに不慣れな人が読んだら、ガツンと犯られる。高校生ぐらいのウブ(?)なわたしに読ませてやりたいw、いわゆる美少女ゲーム(死語)慣れしているなら、「交通事故」「記憶喪失」「遺された手記」の設定だけで見抜くだろうね(むしろ、これこそギャルゲのご先祖様だッ)。とはいえ、描写はリアルだ。

あたしははずかしさのあまり身悶えしました。熱い樹液のようなものが脚から胴へ、それからパパに捕らえられている果実の尖端にまで、はげしい勢いでのぼってくるのを感じながら、あたしは首を反らせ、パパの顎の下に頭をもたせかけていました。パパハアタシの胸がマダカタクテ樹ノ幹ミタイダトイウノカシラ?
 残念ながら読み手として"成熟"してしまっているわたしは、おしっこ香る小娘の戯言はすぐに見抜いた。が、それをつくりだした感情のほうは、読後の楽しみになった。いったい、なぜ、そんなことをしたのか?語り手である「ぼく」が探しては見失う、「彼女がそうする動機」は、ラストで読み手に託される。彼女―――未紀は、なぜ、「パパ」に処女をささげたのか?なぜ、あのノートを書いたのか?そして、なぜ、最後に(ネタバレ反転)「結婚の中に自分の死体を遺棄」したのか?

 もちろん作中に答えらしきものはあるし、それを受けた感想もネットに散見される。だが、信頼できない語り手がしゃべっているのだから、一応、疑ってかかるのが読み手のマナーというもの。

 たとえば、「ぼく」の名が「K」なのはなぜ?他は名前が与えられているのに、なぜ、イニシャルらしき「K」で済まされているのか?思い出すことは二つある。カフカ「城」の主人公、「ヨーゼフ・K」と、漱石「こころ」の先生の親友「K」だ。どちらにも共通することは、最初に与えられ、次に奪われる役回りだということ。

 それは俸給や恋なのだが、無残にも決定的に奪われてしまう。片方は追い詰められてゆき、もう片方は失意のうちに自殺する―――これが「K」の運命だとしたら?また別の読み方ができる。すなわちこの作品自体、「K」の物語だったという鬱展開。

 さらに、ヒロインの「未紀」という名に込められた暗示がこれを裏付ける。「紀」とは、物事の起こりはじめ、いとぐちを指す。つまり、「未紀」とは、「まだ始まっていない」ことなのだ。冒頭に戻ると、「ぼく」が過去を回想する形で物語がスタートし、ラストでは「ぼく」がもの思いに耽りながら未紀の尻を撫でるとこで終わる。つまり、未紀のことを追憶する、「いま」の時点から一回転しても、まだ始まっていない「ぼく」の運命が、読み手に委ねられるのだ―――考えた自分で言うのもナンだが、嫌な話ナリ。

 鬱妄想はともかく、これはハタチあたりで通過したいハシカのようなもの。わたしの場合、むしろ近親相姦させられる「パパ」に近い年代なので、そういったコトが自分の娘に対してありうるか?考えると面白かった。

 わたしの場合、この「パパ」になることは、ぶっちゃけありえない。ありうるとするならば、心身・環境ともに最悪の(別の言い方が許されるなら絶好の)タイミングが重なったときに、越えてしまうものだろう(S.キングの「ドロレス・クレイボーン」みたいなやつ)。こんなカクシンハン的にすることは、ない。ただ、娘が高校生ぐらいになったときに読ませて、「パパのヘンタイ!」と顔真っ赤にして罵られるのがオチだったりするだろうな。

 「俗物を嫌悪し、絶対者に屈服したい自分」というジブン・イデオロギーのためにインセストタブーを犯す。これは、全学連や共闘が流行った"あの時代"だからこそ。思想や観念にとらわれていれば、則を越えてしまうことが「流行として」許されていた、"あの時代"だから。いまやるならば、きっとファンタジーになってしまうだろう。いや、ファンタジーにしないと受け入れ難いだろうね。とある文化がはびこる異世界や未来設定にしないと、彼女や「ぼく」の「言い訳」がタワゴトじみてくる―――そういやこれ、本作に漂うカルキ臭ならぬハルキ臭だなぁと思ってたら、セイゴォ先生がすでに指摘していた→千夜千冊「聖少女」

 解説の桜庭一樹によると、日本の三大少女小説でもっとも重要なのが本作だという。他二作は、森茉莉「甘い蜜の部屋」と尾崎翠「第七官界彷徨」になる。よし、「甘い蜜」を読んでみよう。わたし好みを混ぜるなら、室生犀星「蜜のあはれ」と太宰治「女生徒」のオトコの妄念を入れたい。さらには、作者不詳の「逆光の部屋」も。ただし、匿名で発表されたとはいえ、「逆行の部屋」の作者は倉橋由美子だという説もある。

 読むべきお年頃を大幅に過ぎても楽しめる一冊。

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物心の両義性を問う「パラドクスだらけの生命」

 著者とサシで殴り合える啓蒙書。パラドクスだらけの生命

 これは、書き手がわたしのレベルまで降りてきてくれているおかげ。著者アンドレアス・ワグナーはチューリヒ大学の生化学者なのだが、自分のフィールドに固執しない自由さを持つ。量子力学、論理学、哲学の分野をまたぎ、科学哲学を語る。ヒュームの懐疑論の周辺をうろうろした議論なので、かじったレベルでも喰いつける。

 本書は、かなりの大風呂敷だ。生物の物質的なふるまいから、集団としてのふるまいまで、様々なレベルで生命現象を説明している。だが、それぞれにおいて逆説的な観点を指摘する。つまり、生命のふるまいは、化学物質の視点から説明できる一方で、生命の"意思"による解説も可能だというのだ。ちっこい微生物や菌類、(メタファーとしては危険だが)遺伝子まで、この「モノとココロ」の両面性を持つという。

 さらにこれは、生物学の枠を出て、素粒子や気象のふるまいや、ゲーデルの不完全性定理まで拡張する。どうやら著者は、生物の世界にも非生物の世界にも、パラドキシカルな二面性があり、その両方の関係性(テンション/tenshion)のダイナミズムが創造性を生み出しているといいたいらしい。この「テンション」は、「緊張」ではなく、特別に「綱引き」という訳語が与えられている。「緊張」は単体でもできるが、両義性の引っ張り合いという意が含まれている。

 この両義性を、「自己と他者」、「部分と全体」、「リスクと安全」、「創造と破壊」のそれぞれのテーマにあわせ、生物学の最新の知見とともに一般化しようとしている。この生物学パートの部分はとても面白く読めた。

 たとえば、化学物質に従っているにもかかわらず、あたかも「意志」をもって「予想」しているかのように動作するべん毛のメカニズムは、SFのロスト・テクノロジーみたく興奮した。また、眼の生成過程で、水晶体、虹彩、ガラス体、角膜などの部品をつくるため、神経管と外胚葉という二つの細胞群が応対しあう様子を詳述する。著者の言うとおり、まさに「コミュニケーション」という名にふさわしい。さらに、アポトーシスの必要性―――「死」があるおかげで今の世界が生き残れたというメッセージは、かなりの説得力がある。

明日をどこまで計算できるか しかし、その一方で、生物学「外」の話になると、どこかで聞いたことがあるネタがでてくる。「明日をどこまで計算できるか?」でおさらいしたカオスの縁の話になる。「明日をどこまで…」では、「気象」、「遺伝」、「経済」の歴史と最新事例を引いて、複雑な方程式やモデリングで理論付けても、そこにあるのは人が理解できる主観が混じるストーリーに過ぎないと結論付ける。世界は一定の法則にしたがって動く機械だと解釈し、その法則は過去を観測することによって因果律を逆算するやり方は、初期値の微細な変化や多すぎるパラメータにより予測不能になる。

 著者は、カオスや複雑系の研究拠点であるサンタフェ研究所の客員教授でもあるのだから、この考えに与しているのは分かる。だが、因果律に「意味」を与えられるのは、単にスケールの問題ではないかと。眼の生成や微生物のべん毛のメカニズムは、いかに複雑とはいえ、分子レベルまで砕いたから説明できた。今の科学ではここらが限界だろう。観察者である人間が「意味」を与えられるまでスケールを拡大/縮小する操作を繰り返せば、因果律を説明できたことになるのだから。

 ところが、「気象」なら、この微視スケールのまま観測対象を丸ごと扱えるのであれば、厳密な予測が可能になる。ときに気まぐれに見える「遺伝」も、超長期スパンで測定できる実験室(きっと「年代」というスイッチがあるはずw)があれば、厳密に説明できるのでは……と期待してしまう。この時点でわたしの想像は科学者の傍らにおらず、遠くへスッ飛んでしまっているのだが、それはそれで面白い。著者は、科学者として正確かつ誠意的に応えようとするいっぽうで、わたしはそんな限界を超えることを企むのだから。

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棚とは書店からの提案である「青山ブックセンター」

 図書館とAmazonがあれば完璧かというと、それは違う。だから、街に出よう。

 もちろん、ネットで受信した本を片っ端から予約したり注文すれば、それだけで一生読むに事足りる。しかし、それだけでは足りない。好みの定まった、似たようなものばかり読んで満足してしまうことになる。蛸壺で充分なら何も言うまい、だが、読む世界を拡張したいなら、リアルな出会いを求めるべし。

 その一つの方法が、雑誌などの本の特集を経由して、お気に入りの読み手を探索すること。「わたしが知らないスゴ本」を読んでいる人を探すんやね。雑誌を使った実例は、ananで読書通を探す。たいてい春先か秋口になると、こういう特集をちらほらしてくれるので、雑誌コーナーを物色すべし。人ん家(ち)の本棚を使った例だと、スゴい書斎とはこれだ「この人の書斎が見たい!」あたりが参考になるかと。こういうのは、定期的に書店に通ってナンボだと思う。

 もう一つ、わたしがよくやるのが、ブックフェアを狩場にすること。テーマを決めてスタッフがそれぞれの「こいつだ!」という本を持ち寄るブックフェアは、ハンターたちにとって絶好の狩場となるだろう。紀伊國屋書店でやってる世界文学ハンティングの絶好の狩場「ワールド文学カップ」は、ブンガクスキーは絶対行っとけと声を大にしたい。自分にとってのスゴ本の隣にある、未読本こそねらい目だから。無料で配布しているリーフレットには一生困らない分の世界文学作品の評が並んでいるぞ。

 さらに、これら二つを組み合わせたのが、お気に入りのブックスタッフを見つけること。つまり、ブックフェアで自分のお気に入りを集めているスタッフの勧める、別の本を狙うのだ。たとえば、今、青山ブックセンター(ABC)六本木店で、「外へ」という変わったテーマでブックフェアをやっている。これは、「外へ」というキーワードをスタッフが自由に解釈し、それに沿った本をコレクトするという楽しい企画だ。ここで、わたしの好みど真ん中の選書してくるスタッフがいる。リストはこうだ。

  1. 「Powers Of Ten」 フィリス・モリソン 日系サイエンス
  2. 「砂の女」 安部公房 新潮文庫
  3. 「ポーの話」 いしいしんじ 新潮文庫
  4. 「ムーン・パレス」 ポール・オースター 新潮文庫
  5. 「真鶴」 川上弘美 文春文庫
  6. 「犬たち」 レベッカ・ブラウン マガジンハウス
  7. 「夏の朝の成層圏」 池澤夏樹 中公文庫
選んだ方は、この「外へ」を「外は内にあり」と解釈したという。1,2,4,7 は既読なので、それを手がかりにメッセージを解読してみる―――これはスケールのことを言っているのではないか?つまり、「外」だの「内」だのを定義しているのは、それを観測する人によるのではないか。「Powers...」ならずばり撮影者だし、「砂」なら運命に巻き込まれた主人公、「ムーン」と「成層圏」はどちらも日常生活と宇宙の対照的な視点―――と、こんな風に、本を手がかりにして、スタッフの想像を想像してみる。選んだ人は、中山さんだという。次にこの方が選ぶ本は、要チェックやね。

 スタッフの役割は、書店によってかなり違う。スタッフ色を前面に出そうとしたり、逆にスタッフは黒子役に徹したりする。ABCはスタッフの"個の色"が棚によく出ているので好きだ。既読本の組み合わせでも、並べ方によっては、思いもよらぬ化学反応を起こしたりする。境界を超えた「読み」を提案する、一種の"乱暴さ"にグッとくる。

 いくつか撮ってきた。化学反応具合を堪能してほしい。これらの棚は、書店からの提案なのだ。

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 重要なのは、この演出、リアル書店にしかできないこと。本をフラットに並べるのではなく、立体的に演出する。ディスプレイの平らな画面では、なかなか難しい。ウソだと思うなら、ご自分の眼でお確かめあれ。

 電子書籍がもてはやされているが、リーダーがリアルブックに取って代わったら、ますます本がフラットになってしまう。何を読んでいいのか途方にくれてしまい、「とりあえずベストセラー」か、「とりあえずタダのやつ」ばかりが売れる(というかダウンロードされる)のではないかと。そこで需要があるのは、本の目利きであり、本のソムリエになるだろう。お気に入りのソムリエを探すために、外へ出てみては?シャットダウンして、街へ出よう。

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