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ananで読書通を探す

 [ 本を探すのではなく、人を探す ]シリーズ。

Anan1698 選本の肝は本ではなく、人を探すこと。わたしが知らないスゴ本は、それこそ百万冊ある。その本を探すのはかなり難しい。しかし、百万冊のスゴ本は間違いなく誰かに読まれている(それは"あなた"かもしれない)。だから"あなた"を探すのだ。このblogの究極目的も、そう。「自分のアンテナだけで充分」と思った瞬間に老化する。先が短い人生ならいいけれど、読まずに死んだらもったいない。

 今回は マガジンハウスの anan 3月3日号 「私たち、もっともっと本を読みたい!」メッセージと、蒼井優さんの笑顔に釣られた。このコ、もっさりキャラを作っているみたいだけれど、静止画で見るとスレンダー&クレバーに見える………おっと脱線。

 「泣き本特集」など anan バイアスがかかっているものの、名だたる本のメキキストたちの選書はさすがというべき。わたしの目的は、スゴ本そのもよりも、「そのスゴ本を推しているのは誰か」になる。だから、自分が読んだ/読んでいないに関わらず、高く評価していたり、気になっている本を推している人を探すんだ。

 まずは、翻訳家・金原瑞人さん。「バーティミアス」を訳した人といえば分かるだろうか?オススメの「赤ずきん」(いしい しんじ、フェリシモ出版)に反応する。エンピツ画が生み出した衝撃的なヒロインで、跳んでるヤンキーでイカした大人の絵本なんだそうな。なるほど、赤ずきんが箱乗りしている表紙に魅かれる。

 次は、京都のユニークな本屋さん、恵文社一乗寺店の店長・堀部篤史さんオススメ「お日さま お月さま お星さま」を読んでみたくなる。なぜなら、一緒にオススメしているのがマルケス「百年の孤独」と筒井康隆「家族百景」だから。「百年」は間違いなくスゴ本だし、「百景」は(未読だけど)良いと聞く。なので、「お日さま」も一読の価値ありだろう(カート・ヴォネガットだし)。

 さらに、ライターの小柳帝さんのオススメが嬉しかった。というのも、そのおかげで、みすず書房「大人の本棚」シリーズを知ったからだ。大人だからこそ読んでみたい、読み返したい書目を厳選しており、すぐれた編者による一人一冊の選文集なんだ。小柳さんのラインナップにはピンとこなかったが、「大人の本棚」という緩いつながりでおつきあいしたいですな。

 面白いのは、ページによって編者と選者の色合いがハッキリしているところ。たとえば、「anan女子マンガ部」が選んだスタンダードなマンガ群。アンドレー、真壁くんから千秋まで、胸キュン必至の男の子談義は面白いことは面白いんだが、なんとなく、あざとさが透ける。「ほらほら、これなら文句ないでしょ」という感じ。一方、王道マンガとして「銭ゲバ」や「トトの世界」を持ってくるあたりがスゴいセンスだ。わが道を行くっぽくて楽しい(ドラマを意識しているのかも)。濃い目のBLとかがあれば、さらに趣きも違ってくるだろうが、anan 女子にはまだ早いか。

 最後に小ネタ。村上春樹の「村上ラヂオ」が再開してた(祝)。一目でネタ元がチャルディーニ「影響力の武器」であることは見抜いたのだが、するする読ませられてしまう。体験談みたいな語りだけど、これはフィクションだろう。けれど、同様なことは実際にあるようで、この「ありそう感」を上手に醸している。

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明日をどこまで計算できるか?

 「未来予想図」は、ほら、思ったとおりに叶えられてく

 明日をどこまで計算できるかポイントは、「思ったとおりに」だね。複雑な方程式やモデリングで重厚に着飾っていても、そこには人が理解できる因果や主観が入り混じるストーリーに過ぎないというのが、本書の結論。

 気象、遺伝、経済――ジャンルはそれぞれ違えども、その本質は変わっていないという。世界は一定の法則にしたがって動く機械だと解釈し、その法則は過去を観測することによって因果律を逆算する。いったん法則が抽出できれば、あとはモデル化し、未来の予測に使える――この時計仕掛けのような世界観は、古代の天文学から始まっており、古くは託宣や占星術から、金融工学、カ オス理論、遺伝子診断まで脈々と続いているという。

 たとえば気象モデルについて。大気を、巨大な三次元格子である球座標系に分割し、それぞれをコンピュータによって観測・集計する。結果から気象解析を行い、あるモデルを作成する。しかし予測の段階になると、必ずしもそのモデルに従うとは限らず、ズレが生じてくる。そのズレは"誤差"もしくはカオスとして扱われることを、著者は指摘する。つまり誤差は、もとの観測結果ではなく、解析値に対して測定されていることになる。解析値はモデルに似たものになるので、公表される予報誤差は少なくなり、モデルの正確さが実証されることになる。

 あるいは、DNAを用いた"健康予報"について。遺伝情報に基づいて形質を予測するモデルを作ることは可能か?遺伝解析が完了している生物の予測ができていないのは、じゅうぶん強力なコンピュータが、まだないからだろうか?著者はこれに対し、かなり否定的に答える。ある程度の方向性は分かるかもしれない。だが、突然変異や交叉といった、遺伝システムの外側にあるランダムなイベントのせいで、完全な予測は不可能だという。「生命は計算できない」というよりも、むしろ「「計算できないのが生命」なのだ。

 さらに、経済予測についても手厳しい。データ主導のチャーティストであれ、モデル主導のアナリストであれ、経済予測は不可能だというのだ。過去のパターンからルールを見出そうとしても、インフレ環境や利率が完全に一致することなどありえないし、パラメータをいじくってあるモデルが過去と一致したからといって、それがそのまま未来への指針になるはずがないというのだ。そして、まともな将来予想ができないのであれば、なんでこんなに金融占い師が大勢いるのか反問する――答えは、買って、売って、また買ってもらうため――要するに手数料をせしめるためだというのだ。これはキツい。

 このように、気象、遺伝、経済の三分野について、予測が不可能であることを追求する。もちろん過去を調べることであるモデルを作り出すことは可能だし、そのモデルは一定期間だけ有効になるかもしれない。しかし、初期条件の小さなズレが指数関数的に拡大され、予測結果が使い物にならないほどになってしまう。さらに、モデルはどんどん複雑になっていくが、細かさを増すにつれて、パラメータの不確実性は爆発的に増加する。気象、遺伝、経済のそれぞれのシステムを第一原理に還元できないので、パラメータの値と方程式の構造について、主観的な選択をせざるを得なくなるというのだ。過去の観測値とつじつまが合うように調整できるかもしれないが、だからといって予測が精緻になったとはいえないのだ。

 れっきとした学者やアナリスト連中を、占星術師あつかいするのはキツいなぁと読み進めながらも、たしかにそうかもしれないと頷くことしきり。部分の性質の総和にとどまらない性質が、全体に現れること、つまり創発(そうはつ、emergence)の話なのだ。ただ、著者のいう「予測」は厳しすぎるような気がする。一ヵ月後の天気なんて予報しようがないだろうし、どんなに遺伝子を調べても「あるリスク」や「傾向」といった表現で「100%そうなる」とは言い切れまい。そして、気象や遺伝の研究者もそれを織り込んだ上で確度を上げるための仕事をしているのではないだろうか。それを100%でないからといって計算不能とするのはオトナゲないかと。

 ただし、経済については著者と同意見。きっとわたしの無知と偏見のせいなんだろうが、「経済学者」は見てきたごとく未来を語る人が結構いる……と思うぞ。「わたしが正しく、他は馬鹿」と唯我独尊的に警告する。そして、解釈を捻ることで的中したと胸を張り、外した場合は沈黙するか「○○のせい」にする。「ランダムウォーク」や「ブラックスワン」なんて、「予測できません」という白旗を専門用語で呼ぶことで、「オレのせいじゃない」と言い逃れているように見える。遺伝子や気象の研究は"科学"という名に値するが、経済はちと違うような。

 ともあれ、創発による計算不可能な部分を考慮しつつ、予測の精度を高めることは可能だと思うぞ。未来予想図は、ずっと心に描くのではなく、アウトプットとフィードバックを繰り返していくことで、未来は、「思ったとおりに」ではなく、「予測どおりに」適えられてくのだから

 予測する科学の歴史を振り返ることで、その可能性を探る一冊。

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大人のための数学「無限への飛翔」

 やりなおし数学シリーズ。今回は、カントルの無限と取り組む。

無限への飛翔 結果は……惨敗だった。可算集合と濃度、対角線論法のあたりまでは、「数学ガール」のおかげで追いかけられたけれど、「カージナル数の大小比較」や「選択公理から整列可能定理」になると、脳汁があふれた。それでも、(負け惜しみだけど)、エラい経験をさせてもらえた。

 たとえば、有理数の全体が可算集合である証明を追っていくうちに、「有理数」に対して持っているイメージというか、概念がぐにゃりと変わってしまった。もちろん、有理数は、整数 m, n (ただし n≠0)を使って m / n という分数で表せる数なのだが、わたしのアタマでは、それらは数直線上にぎっしりと詰まっている点のイメージだった。2/3だろうと、9967/9973だろうと、いくらでも細かくできるからね。

 では、これをどうやって1, 2, 3, … と番号を付けて数え上げるのか?有理数を、数直線に乗っかった点の集合ではなく、 m / n で表せる既約分数の (m, n) の組み合わせのように見えてくる。2つの自然数 (m, n) のつくる集合 A を考えると…

  A = { (1,1),(2,1),(2,2),(1,2),(1,3),(2,3),(3,3)... ,(m,n),...}

 そして、座標平面上に格子点 (m, n) をとると、格子上にある(自然数,自然数)の点を行き来する矢印を見せるのだ。

Mugen

 すると、数直線上に詰まっていた有理数が、1つ1つの (m, n) の組み合わせにバラせてしまう。あとは格子状をぐねぐねと行き来する矢印は必ずたどれるので、数え上げが可能になる(つまり、可算集合だと分かる)。

 この見方からだと、有理数は「直線上の無数の点」というイメージが破壊され、「1つ1つ取り出して並べてみせることができる組み合わせ」という概念に塗り替えられる。「大人のための数学」シリーズの第一巻であれほど培ってきた、イメージが崩れ落ちるのだ。著者は、集合論という新しい光のなかで数を見ていると表現している。

 この、概念のドンデン返しがすごい。「数学ガール」だと、ミルカ嬢に手を取られて、おぼつかない足取りで「二人だけのヒミツの場所」へ連れて行かれるようなウキウキ感覚だった。ところが、「大人のための数学」だと、有無もいわさず深淵をムリヤリ覗きこまされるようだ。1、2巻の「手取り足取り」をかなぐり捨て、一気に深みへ潜行してゆく。

 「個別的な数」としての自然数と、「数直線上の連続体」としての実数の、それぞれの「大きさ」を測ろうとする試みは、わたしの脳にはかなりの負担となった。もちろん、高校生のときのように「暗記してしまう」ことは可能だ。しかし、せっかくやり直しているのだから、少しでも理解を進めたい。だいたい、「測る」というのは、目の前にある量に対して行われることだ。本書で実数の集合は可算集合ではないことが背理法によって示されている。これは、無限を測ったといえるのだろうか?

 著者はこの問いに、「無限を集合を通して論証の場に上げたことを意味するのではないか」という。そして、当時のカントル批判を通じて、数学の存在そのものに対する抽象性が問われ、受け入れられることによって、創造性が大きく展開されているというのだ。

 後半の「選択公理」と「連続体仮説」は全然わからなかった。「それがどういうものか?」はWikipediaで分かったフリができるかもしれないが、だからといって証明できるかというと、手も足も出ない(本書の助けを借りてもだ)。悔しいなぁと読み進めていると、「バナッハ-タルスキの逆理」が出ている。これは、豆と太陽が同じ大きさだということを証明する逆理で、今年の正月に挫折した数学書「バナッハ=タルスキの逆説」のことだー!と喜ぶが、やっぱり分からない。

 こんな手ごわいやつこそ、ミルカさんに解説してほしいものだなぁ…

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ハードウェア・チップによるサイバー攻撃と、「ホワイト・ハウスの暗殺者」

フォーリンアフェアーズ2月号

 サイバー攻撃の常套手段といえば、マルウェア(悪意あるソフトウェア)を用いるものと思っていた。攻撃コードと防衛コードのせめぎあい、プログラマ vs プログラマの闘いのようなものを思い描いていたが、違っているようだ。

 「フォーリンアフェアーズ」2月号の、NATOの元軍事司令官によると、ハードウェア方面の防衛対策が遅れているらしい。誤動作を起こすよう欠陥を埋め込まれた集積回路が流通し、あるタイミングで「発火」する。もっとも、脅威と認識するからには上手く利用されているようだ。2007年9月のシリアへの核関連施設へのイスラエルの空爆が成功したのは、遠隔操作による監視レーダーを停止させる「キルスイッチ」が奏功したからだと報告されている。

 こうしたハードウェア・チップを用いた攻撃には、ソフトウェアと違ってパッチをあてて修復することはできない。普段は何事もなく動作しており、いざとなればテロリストに化ける、究極の「スリーパー・セル」のようなものだという。このレポートでは、はっきり「時限爆弾のようなもの」と表されている。

 数年前、IBMのパソコン事業の売却が取り沙汰される際、米政府が安全保障上の懸念を示したことを思い出す。あるいは、米政府が使用するPCやネットワーク機器を、中国から調達することに反対する動きがあった(ソース失念、The Economist だったかも)。その結着は見極めていなかったが、「安いから」というだけの理由で安易に決定していたとするならば、ここに示すようなリスクが混入していた可能性がある。

 かなり古いが、「ホワイト・ハウスの暗殺者」(ジョン・ワイズマン/1984)というミステリがある。アメリカ大統領の前で、ひとりの青年が銃を抜くという事件から始まる。青年はすぐに取り押さえられるのだが、彼の経歴は何の問題もなく、そもそもそんなことをするような人物ではなかったのだが……これは某国で洗脳された冬眠テロリストの例だが、ロボットのように、スイッチのように人格を切り替えられている。

 ハードウェア・チップとしての「トロイの木馬」は、存在するだろう。しかし、その発動は、わたしのあずかり知らぬところ。最悪のタイミングで、何かが誤動作したり、あるいは全く動かなかったという"故障"が起きる。仮にその結果が報道されるとするならば、それは"事故"として扱われるに違いない。

 レポートではインフラを多様化させてリスク管理せよと強調する一方で、防衛はソフトウェア側よりも難しいと結論付けている。「ホワイトハウスの暗殺者」はもちろんフィクションだ。しかし、これだけ"懸念"がおおっぴらに議論されているところ見ると、「木馬」はすでに展開されているのかも。

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ハタチのわたしに読ませたい「うらおもて人生録」

 憎悪と劣等感のカタマリだった、昔のわたしに読ませたい。

うらおもて人生録 雀聖・阿佐田哲也が、人生のセオリーを語りかける。裏街道で修羅場をくぐった人だけに、どんな厳しい箴言があるやと恐る恐る読むのだが、あたたかい、やさしいまなざしに満ちている。

 たとえば、ばくち打ちを例に挙げて、「勝てばいい、これは下郎の生き方なんだな」と断ずる。自分だって博徒だったのに、と当然のごとくツッコミ入れたくなるのだが、ここは逆に考えてみる。博徒だったからこそ、鉄火場で生きのびたからこそ、そう言い切れるんだ。そして、「勝てばいい」下郎のロジックを推し進めた場合、どんな運命が待っているか、淡々と伝えてくれる。目先の勝ち負けに踊らされる下郎だった、20代の"わたし"に読ませたい。

 あるいは、優れた企画なのに通らないといって嘆く友人に、「それは貴方が、ただで説得しようとするからじゃないか」とアドバイスする。この「ただで」が肝心で、企画の善し悪しは関係がなく、「いいものだから納得しろ」というやり方では絶対うまくいかない。ここはいったん相手にリード点を贈って、動いてもらうよう"演技"せよというのだ。要するに「もちつもたれつ」なのだが、同じ事を、あるコンサルタントが理論化している [影響力の法則]

 もう手遅れかもしれないが、それでも実践してみようと思ったのは、「欠点」の件。よく、「長所を伸ばせ」とか「短所をなおせ」とか言われるが、そうではない。若いうちから意識的に守り育て、適当で洗練された欠点を持て、というのだ。「生きにくくてなやむくらいでちょうどいい、その欠点を自分でつかんで飼っていないとね」という言葉にはハッとさせられる。良いことと悪いことは表裏であるとか、禍福はあざなえる縄とか、そんなことは知っている。だが、それを自分の人生にどう活かすか、ということに、ついぞ気が回っていなかった。

 こういう「つぼ」のようなものは、なかなか言ってもらえないもの。親子なら気恥ずかしさや上から目線が邪魔をするだろうし、上司部下だと立場が屈託して伝えづらい。この本を読むことは、行き付けの飲み屋の常連さんと、ふと親しくなって教えてもらうようなものだ。ましてや、どこかの自己啓発本に太字で書いてあるわけがない。言葉で伝えることが難しいことを、経験談や相手の応答を測りつつ、一対一で、手渡すもの。

 著者が伝えたいことを「まとめ」るのは、それこそ簡単なこと。西部邁の解説を読めばいい。でも違うんだな、サマリだけで分かることはできない。相手の経験と、自分の経験を照らし合わせながら、納得できるところ、できないところ、分からないところをコツコツ拾い上げるんだ。西部解説とわたしが反応したところが、かなり合ってて、ちょっと可笑しかった。たとえば、このあたり。

魅力とは、自分が生きているということを、大勢の人が、なんとか、許してくれるようにさせるような力量のこと。勝ちも負けもどこかに魅力がないと駄目だ。人がなんらかの意味で許し認めてくれるようなものでないとね。

原理原則は愛嬌のないものだと知りつつ、わかる、ってことは、どういうことかというと、反射的にそのように身体が動くってことなんだ

当たり前のことを憶えるためには、大勢に関心を持ち、白紙の状態に還って、あらゆるものの下につくが、そのかわり、ひたすら眺めている(博打でいう見[けん]の状態)。そしてなによりも、大勢を好きになることで、自分の感性の枠を広げろ
 これは読み手の年齢というか、経験値によって反応するところが違ってくるのではないか、という気になってくる。20代の"わたし"だと絶対にピンとこなかっただろうが、いま読んでハッとさせられた文の最たるものがこれ。いくつか線引きをしたので、未来の読み返しが楽しみだ。
生きている、というだけで、すでになにがしかの運を使っているんだな
 本書を知ったのは、[finalventの日記2009-09-10]より。finalventさん、ありがとうございます。おかげで良い本にめぐりあえました。変わるというより、意識して効いてくる、それも後になって分かってくるような感覚です。


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ちょっと昔へ「写真で読む世界の戦後60年」

 地続きの歴史を体験する写真群。

写真で読む世界の戦後60年 「マグナム・フォト」[MagnumPhotos]をご存知だろうか?ロバート・キャパが創設したフォトジャーナリストの多国籍集団で、写真史に残る名作を数多く発表している。もうすぐ休刊する新潮社のクオリティ・ペーパー「フォーサイト」の表紙を飾る写真といえばピンとくるかもしれない。その膨大な作品群から300点を選りすぐった戦後60年史がこれだ。

 もちろん、オレンジ革命や9.11など、いわゆる「歴史の瞬間」を切り取った写真もある。しかし、ジャーナリスティックなものよりもむしろ、その場のスナップ、いわば「時代の空気」を吸い取った映像の方が多い。それぞれの写真には短いコメントやメッセージが添えられており、膾炙して手垢にまみれたセリフもあれば、初めてお目にかかるのにドキっとさせられるものもある。

 たとえば、「人間、二人に一人は女である」あたりがそう。「人類の半分は女」もいっしょだろう。これは、ウーマンリブ運動華やかなりしころのスローガンだったそうな。気勢を上げる女性陣に、「国際婦人年」のキャッチが入っている(1975)。

 隔世の感をいや増すジミー・カーターの言葉もある。レンガぐらいの携帯電話とゲームボーイ(初期型)を操るカップルの写真に、こうキャプションがつく。「グローバリゼーションは結構だが、インターネットや携帯電話やコンピューターは、地球の半分にとってはかかわりのないものだ」――1998年ごろの言葉とあるが、ケータイ電話もゲームもすっかり様変わりしてしまった。

 あるいは逆に、時の波に洗われてない、変わらなさにガクゼンとするのもある。スペースシャトル・コロンビア号が初飛行したのは、なんと1979年なのだ。どんどん改良されているのだろうが、当時の"最先端の設計"で、今でも飛んでいるのだ。

 また、たしかに同じ時代を生きたはずなのに、記憶がない出来事を知った。ボーパールの大惨事(1984.12.2)だ。インドのボーパールで史上最悪の事故で、殺虫剤工場で爆発し、イソシアン酸塩メチル40トンが街に流出、3万人が死亡し、多くの住民が後遺症と障害を負ったのだ。アメリカの多国籍企業、ダウ・ケミカルはいまなお、この未曾有の人的・環境被害に対する賠償を求められている。チェルノブイリ(1986.4.26)が強烈すぎて霞んでしまったのだろうか。

揺れ動く世界 時代を活写した写真集なら、「世界を変えた100日」[参照]や「揺れ動く世界」[参照]を紹介したことがあるが、これらはどちらかというと、ジャーナリスティック寄りを狙っている。決定的瞬間や記憶に残す構図を目指し、"出来事"を残そうという意図が透けている。いっぽう本書では、「あんな時代もあったね」という"思い出"を残そうとしているように見える。決して笑って話すことはできないが、過去を思い出すための手段として使いたい。

 報道写真のマグナムが過去と決別し、キャパ作品など20世紀の歴史的写真を売却したというニュースがある2010年2月5日AFP。キャパの代表作となったスペイン内線や第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦の写真も、地続きの歴史として鑑賞できるようになるに違いない。ドッグ・イヤー、いや、マウス・イヤーと呼ばれる現代、過去をどんどん失われたもの、「亡きもの」にしていく風にあらがって、同じ空気、同じ場所であることを取り戻す。

 昔と今は、たしかにつながっていることを実感させてくれる一冊。

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「ドン・キホーテ」はスゴ本

 「死ぬまでに読みたい」シリーズ。

ドン・キホーテ ひたすら面白い+泣ける+ハラハラしながら読む。いわゆる「ジュニア版」で筋は知っていたのだが、前編だけだったことが分かった。後編とあわせると、こんなにも芳醇な物語になっていたなんて!

 あまりにも有名な「風車に突撃」は、可笑しいというより痛々しい。ほら、仁侠映画を見たら肩で風切りたくなるのと同じで、厨二病をこじらせて邪気眼が開いたと喜んでいるようなもの。ちょっと痛いか、かなり気の毒かだ。

 ドン・キホーテの場合は、騎士道物語(今でいうならライトノベル)に熱中するあまり、ついに自分を伝説の騎士だと思い込んでしまう。都合のいい/悪いことに、その場その場の思いつきで「なりきる」人物をキャラチェンジするので、周りを混乱させたり自分が酷い目にあったり。このネタは魅力的だ。「ライトノベル」というジャンルが確立し、伝説級のキャラクターもいるから、このプロットは使いまわせるぞwwwたとえばこんな風に――主人公はアニメやマンガの影響をモロに受け、「邪気眼」に覚醒する(と、信じ込む)。そして、陰謀論の渦中に巻き込まれたと思い込み、きわめてフツーな日常を波乱万丈の冒険にしてしまう。従者サンチョの代役には、ちょっとトロそうな女の子がよろし――って、それなんてシュタインズゲート?

 冗談さておき、「ドン・キホーテ」がスゴいのは構造とキャラクターが互いに影響しあっているところ。実はこの物語、次のような多重入れ子構造になっているのだ。

  セルバンテスが編集する
  [
    無名の誰かが翻訳する
    {
      ベネンヘーリがアラビア語で書いた
      (ドン・キホーテとサンチョの物語)
    }
  ]

 つまり、「ドン・キホーテとサンチョの物語」は、いったんアラビア語で記され、そいつをセルバンテスが偶然発見し、アラビア語に堪能な人に翻訳してもらったという触れ込みで始まるのだ。普通に読む分には外側のカッコは隠されており、、「ドン・キホーテとサンチョの物語」が三人称で描かれる。原作者・ベネンヘーリが冒険のいちいちに感動し、さらにそいつにセルバンテスがツッコミ入れる構造が隠れている。

 もちろん、これは、小説としては珍しくないフレームだ。「○○という驚くべき手記が見つかったので、(読者のアナタだけに)これを教えよう」という体裁は、多くのフィクションが採る手法だ。ネタバレなのでタイトルは秘すが、「○○○○の○の○○」なんて大傑作は、このフレームを踏襲してる。

 しかし、「ドン・キホーテ」後編になると、キャラがこの構成を割って出る。まるでgotoジャンプのように、入れ子を脱出してくる。「ドン・キホーテとサンチョの物語」が出版され、広く読まれた世の中へ、その主人公としてドン・キホーテが旅立つのだ。なんというメタ小説。

 しかも、原作者や紹介者セルバンテスに触れたり、自身の冒険が続編として出版されることを見越した発言することで、入り組んだ自己言及をなす。ややこしいことに、贋作「ドン・キホーテ」が出回っており、ニセモノの物語にホンモノのドン・キホーテが憤る。いつ「このおはなしはウソだ!」と物語の中で自分で暴露(=自爆)するかヒヤヒヤさせられながら読んだ。

 さらに、自分の狂気の行動を自覚し、相対化し、整合性を取ろうとし始める。前編では、「自分を漂泊の騎士だと思い込んだ狂人が、平凡な田舎生活を掻き回すお話」を面白がっていればよかったものの、後編になると、「そんな狂人」を自覚した主人公が実存の領域へ踏みだす。

 もはや風車は巨人でなく、宿屋は城郭ではない。目前の事物が邪気眼を通さなくなり、自分の狂った行動を正当化するため、ドン・キホーテは明晰な論理で自己正当化を図る。そのいちいちが説得力と自信にあふれており、おかしいのは可笑しがっている自分かも……という気になってくる。狂気が伝染しだすのだ。

 そして、前編で狂っているのは彼一人だったのに、後編ではその狂気を受け入れる人が出てくる。偽ドン・キホーテの若者然り、「ドン・キホーテ」愛読者の公爵夫人然り、物語のチカラに取り込まれているように見える。あまりに強力な物語は、読むものを喜ばせたり感動させたりするだけでなく、そこから戻ってこれなくさせるのだ。ある者はドン・キホーテを正気に戻すため、またある者は彼の超日常を愉しむため、近づいてゆく。彼・彼女が陥った運命は、まさに物語の世界に取り込まれた人のそれだろう。そして、まさにその「ドン・キホーテ」を読んでいるわたし自身も、その一人なのだ。

 この感染力はスゴい。「小説ベスト100」を挙げるとき、常に第一位になるのは、この物語への感化力によるもの。今回はひたすら面白い面白いと読んだのだが、換骨奪胎して現代でドン・キホーテを書いたらスゴい話になるだろうなぁ……あるいは、従者サンチョに焦点を当てて、彼の視点から再構成したらネタの宝庫になるだろう。いわゆる小説家たちがこの作品を高く評価しているのは、自身の創作意欲に火をつけたり、ガソリンを注入してくれるからかもしれない。

 最も公平で厳粛な評者は、「時間」だ。時の風雪に耐えて生き残った古典は、それだけ沢山の時代の人々に読まれたから。けれども、「ドン・キホーテ」を読むと、それだけではないような気になってくる。要するにこれは、パクれるのだッ!。盗れるところがいっぱいあるぞ。表立って堂々とやるか、あるいはコッソリ借用するかの違いはあれど、沢山の時代の作者たちに盗まれたからこそ、古典として生き残れたのだともいえる。

 ハマるだけでなく、自分でも書きたくなる狂気の物語を、読むべし。

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【PMP試験対策】 プロジェクトマネジメント・フレームワーク(その6)

 【PMP試験対策】は、PMBOK4版をベースに、PMP試験の傾向と対策をまとめるシリーズ。

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 プロジェクトマネジメント・フレームワークの続き。組織のプロセス資産、教訓について。

 組織のプロセス資産について。組織のプロセス資産とは、プロジェクトの成功に寄与する知的情報のこと。公式、非公式を問わず、標準、方針、計画書、手順書、ガイドラインなどがある。後に説明する「教訓」も含まれていることに注意。大きく2つのカテゴリーに分かれている。

  1. プロセスと手順 : 作業指示書、パフォーマンス測定基準、受入基準、要求事項、テンプレート、変更管理手順、承認・許可証の発行手続き
  2. 企業の知識ベース : プロジェクト・ファイル、過去の情報や教訓、課題と欠陥のマネジメントデータベース、財務データベース
 教訓について。教訓とは、プロジェクトの途中や終わったときに、「ああすりゃよかった」「こうしなきゃよかった」そして、「もしもう一度やれるんなら、こうする」を集めたもの。よかったもの、悪かったものを含め、プロジェクトを実施する過程で学んだこと。プロジェクトのあらゆる局面で識別され記録される。少なくともプロジェクト終結プロセスにおいて文書化される。例として「見積もりと実績の差異の原因」「選んだ是正処置の根拠」が挙げられる。

 Rita本は挑発する、「なぜ、プロジェクトは失敗するのか?しかも、同じような失敗ばかりを?」。答えは、教訓が生かされていないから。具体的に言うと、教訓を識別し、記録し、文書化し、次のプロジェクトに向けて共有していないから。プロジェクトが軌道に乗れば、そのプロジェクトからの教訓をアウトプットとしてとりまとめる必要がある――パッと見正しいように見えるが、ウソだ。プロジェクトを始めるときに、これまでの組織の資産としての教訓をインプットする必要があるんだ。

 うーん、わたしの場合、そういう情報は「デリケートなもの」として扱われている。単にわたしが一兵卒だからという立場もあるが、部分的・断片的にしか共有されていないようだ。失敗プロジェクトは名ばかりメジャーで地獄谷の代名詞として扱われるが、「なぜ失敗したのか?」は明かされない。コストとタイムと品質の抽象論が掛け合うだけ。

 いっぽう、内規や規定や定型文書はたくさん転がっている(そういうのを集めるのが好きな会社なのだ)。しかし、「どうやったらうまくいったか/いかなかったか」は無い。個人に蓄積された know how や know who に依存しており、プロジェクトにロックインされた状態で人も教訓も澱むことになる。PMBOKの掛け声は社内で聞くようになったが、その展開のためには、(個人に試験を受けさせるだけでなく)組織としての取り組みが必要であることが分かっているのかなあ。

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PMBOK4日本語 【PMP試験対策】シリーズについて。

 ベースは、PMBOKガイド4版と、"PMP Exam Prep"、通称Rita本の2本立て。PMBOKガイドを傍らに一連のエントリを「読むだけで合格する」ようなシリーズにするつもりだ。過去の記事は、以下のリンク先が入り口となっている。PMBOKガイドの古い版が元となっているが、「PMIイズム」「PM的思考」は学べる。ぜひ参照してほしい。

   【PMP試験対策】 PMBOK2000版
   【PMP試験対策】 PMBOK3版

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「本が売れない」ホントの理由を知るための三冊

 本が売れなくなったのは、若者の読書離れのせい――そんなバカな!と調べたことがある。結果は真逆で、若い人ほど本を読むし、40年前の若者よりも、最近の若者の方が読んでいることが分かった。特にアサドク(朝の読書)のおかげで、学生の読書率はめざましい。しかし「本が売れない」ことは事実のようだ。というか、出版業界そのものが危ないらしい。本当なの?

本の現場 「本の現場」は、この疑問に対して、ファクトベースでずばり答えている。ここ30年で書籍の出版点数は4倍になったが、販売金額は2倍程度だという。ということは、つまり一点あたりの販売金額は、ここ30年で半分になったといえる。これが「本が売れない」の正体で、さらに、売れなかった分を帳簿上で相殺していくカラクリも明らかにする。新刊洪水は、起こるべくして起こっていることが分かる。需要は変わっていない、ただ供給過多に陥っているだけなんだ。

 詳細はここ→「本の現場」はスゴ本

本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本 「本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本」では、本との出合い方を再考させられるアイディアが盛りだくさんとある。「中身を見せない本」が強烈で、クラフト紙で本が包装され、中身はおろかタイトルすら見えない。包装紙に印刷された引用を頼りに選ぶ、一期一会な感覚が新鮮だ。あるいは、「手にした人に自由に書き込んでもらう本」も面白い。書き込みは本の価値を下げることへのアンチテーゼがビジネスアイディアなのだ。本は、決して「その中に書き込まれた何か」だけに限らず、本というオブジェクトであることに気づくべし。

 詳細はここ→「本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本」がスゴい

新世紀メディア論 「新世紀メディア論」はもっと過激で、紙メディアとウェブメディアをまたにかけたプロデュースの仕掛けが見えてくる。これからは、サンデー・ブロガーやパートタイム・パブリッシャーが、本業とは別にメディアを運営することになるという。しゃかりきに稼がなくても、副業として「趣味や嗜みの発表の場」としてのメディア=出版なのだ。「誰でもメディア」になれるこの状況が、メディアのデフレーションを招いているのかもしれない。

 詳細はここ→「新世紀メディア論」に触発される

 出版が危ないというよりもむしろ、「出版」という言葉を再定義する必要があるのかも。


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タバコとコドモ

 タバコ礼賛の批判を受け、販売中止になった児童書について。結論は次の通り。販売中止はやりすぎ。タバコを子どもから隠したってタバコそのものは無くならないから。むしろ、子どもとタバコについて話し合うきっかけにしたい。

 わたし自身、ヘビースモーカーから卒煙したこともあって、「吸う権利」と「嫌煙権」のどちらの意見も耳に痛い。おたがい配慮しあっていけたらいいのにと願うのだが、「禁煙ファシズム」 などの先鋭化した言説が飛び交っている。なかでも、タバコ礼賛の表現が不適切だとの指摘により、販売中止になった児童書がある。「おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり」という。これは喫煙礼賛のプロパガンダであり、健康被害の配慮に欠けるものだという主張があったようだ。福音館書店の「おしらせ」にはこうある[URL]

喫煙による健康被害と受動喫煙の害についての認識が足りず、このような表現をとってしまったことは、子どもの本の出版社として配慮に欠けるものでした。深くお詫び申し上げます。つきましては、「たくさんのふしぎ」2010年2月号『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』の販売を中止いたします。

 喫煙シーンは幾度もある……というより、パイプをくわえた姿がデフォルトなんだ。だから、「おじいちゃん」を描くと、どうしてもタバコが出てくる。坊主憎けりゃ式で、「子どもが読む本にタバコを堂々と描くなんて……」という発想になったようだ。たとえば以下のシーン。メシ食ってる横でタバコ吸うなよ!とツッコミ入れたくなる。
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「おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり」(太田大輔、福音館書店、2010)

 しかし、わたしには、「パイプをくわえたおじいちゃん」という一種の記号のように見える。シャーロック・ホームズにとってのパイプのように、いわゆる「アクセント」や「トレードマーク」のようなもの。「喫煙を推奨」したり、「子どもたちの受動喫煙を肯定」するような意図を読み取るには、かなり想像力を働かせないと難しい。

 確かにタバコによる健康への悪影響は否めない。少なくとも、わたしの体にとって害だった。やめたことで睡眠や食生活、ニオイや呼吸などで大きな改善が見られたから。だからといって、タバコが害だという理由でタバコを子どもから隠したからといって、タバコの害はなくならないことも事実。これは、戦争をテーマにしたゲームや、殺人事件のニュースと似ている。そうしたゲームやニュースを子どもの目から隠したからといって、戦争や殺人そのものはなくならない。わたしの場合、ゲームやニュースをきっかけに、子どもと話し合うように心がけている。

 実際、タバコを吸う姿を描いた絵本は沢山あるぞ。「分煙」なんてない時代は、今よりももっと日常的だったからね。例えば、「おじいちゃんの…」を出してる福音館書店は、こんな絵本も出している。朝いちばんに吸うタバコは、まずくてウマイのだが、そんなパパの様子を、調子をつけて歌うように語っている。
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「へへののもへじ」(高梨章/林明子、福音館書店、1993)

 「ペーテルおじさん」では、音楽や工作が上手なペーテルおじさんが登場する。子ども達に大人気で、異国の物語を聞かせたり、帆船をこしらえてあげたりするのだ。そんなおじさんが若いころ船乗りだった名残りとして、小道具の「パイプ」が使われている
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ペーテルおじさん(エルサ・ベスコフ、フェリシモ出版、2002)

 大御所、ピーターラビットにもある。ベンジャミン・バニーという厳格な紳士うさぎの雰囲気をかもすため、パイプとムチが使われている。受動喫煙よりも、このムチによるスパンキングのほうが問題になりそうな……
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ベンジャミン バニーのおはなし(ビアトリクス・ポター、福音館書店、2002)

 もっと豪快なやつもあるぞ。なにげない休日のおわりの、お父さんのお話。迷惑顔な子どもをよそに、タバコをふかし、鼻くそをほじり(ピンと飛ばし)、おならをする。ありきたりの休日が、どんなに大切だったかを、思い起こさせる。
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あしたは月よう日(長谷川集平、文研出版、1997)

 このように、タバコやパイプは、厳格さや成熟を示す記号として扱われたり、お父さんの臭いとして代替されている。タバコが害だからといって、「無いこと」にはできないし、「無かったこと」にもできない。嫌いなものを排除すれば、(その人にとっては)心地いいかもしれないが、好きな人もいるのだ。

 今回販売中止となった本書では、タバコのことを子どもに教える良い機会となった。わたし自身が中毒になっていたこと、やめてホントによかったこと、面白半分でも吸ってはいけないことを諄々と説いた。子どもは神妙な顔をして聴いていたが、中学・高校になったらまた話題にしてみよう。タバコは隠したってなくならないのだから。

 むしろ、わたしが「隠した」ことを真似して、子どもが「隠す」ようになることを恐れる。なぜなら、子どもは親の言うことなんて聞かないものだが、親のマネをするのは抜群に上手いのだから。


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【PMP試験対策】 プロジェクトマネジメント・フレームワーク(その5)

 【PMP試験対策】は、PMBOK4版をベースに、PMP試験の傾向と対策をまとめるシリーズ。

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 プロジェクトマネジメント・フレームワークの続き。プロダクトライフサイクル、プロジェクトライフサイクル、プロジェクトフェーズ、プロセスについて。

 プロダクト・ライフサイクルについて。製品のライサイクルだと考えればいい。新製品の開発から市場への導入、成長、成熟、衰退、そして撤退する一連のライフサイクルを、プロダクトライフサイクルと呼ぶ。プロジェクトの概念は、その中に内包される。つまり、新製品の開発という「プロジェクト」があり、市場への投入~拡大のための「プロジェクト」が存在する。

 プロジェクト・ライフサイクルについて。プロジェクトフェーズの集合を指しているが、業界・分野によって呼び名が異なる場合がある。例えば、次のプロジェクトフェーズを束ねたものが、プロジェクト・ライフサイクルと考える。建設業の場合、フィージビリティ、計画、設計、建築、引渡しとなるが、IT業界だと、設計、コーディング、テスト、インストール、引渡しとなる。

 プロジェクト・フェーズについて。成果物に着目してプロジェクトを区切った単位を、プロジェクトフェーズと呼ぶ。ひとつのフェーズの中に、次のプロジェクトマネジメントプロセスが含まれている。即ち、「立ち上げプロセス」「計画プロセス」「実行プロセス」「監視・コントロールプロセス」「終結プロセス」のこと。単独フェーズのプロジェクトもあるし、複数のフェーズによって分けられているプロジェクトもある。あるフェーズの終結が、次のフェーズのインプットとなる。注意したいのは、フェーズが分割されているからといって、線形に(リニアに)並んでいるとは限らないこと。p.21の図2-5の場合、設計フェーズと建造フェーズが重複している。設計が完全に終わっていない段階でコーディングや試験に着手することを考えると、容易に想像できるだろう。先行フェーズの完了前に後続フェーズを開始させることでスケジュールを短縮させる技法を、ファストトラッキングと呼んでいる。

 プロジェクトマネジメントプロセスについて。全体は以下の通り。

     ┌─→立ち上げプロセス
     │   ↓
     ├─→計画プロセス
     │   ↓
     ├←→実行プロセス
     │ 
     ├─→終結プロセス
     │
    監視・コントロールプロセス

 いわゆるPDCA(Plan Do Check Action)に立ち上げと終結が入っていると考えればよい。プロジェクトを立ち上げて、計画をする。計画されたものが実行され、ベースライン通りに行われているか、監視・コントロールする(Check & Action)。変更が必要な場合は実行プロセスへフィードバックされる。変更の影響範囲が大きかったり、プロジェクトそのものへの変更が必要な場合は、計画プロセスへフィードバックされる。ベースラインから大きく逸脱し、プロジェクトそのものの見直しが必要な場合は、立ち上げプロセスに戻る。全ての作業が実行されたり、プロジェクトを中止する場合は、監視・コントロールから終結プロセスへ移る。

 ここでわたしがやった間違いは、プロジェクトライフサイクルと、プロジェクトマネジメントプロセスを混同すること。「計画プロセス=設計プロセス」とか、「実行プロセス=コーディングと試験」なんて勝手に置き換えてしまったのだ。さらに、プロジェクトフェーズと混交させるとワケ分からなくなる。それぞれの関係を、一つの例として表すとこうなる。

新製品開発プロジェクト・ライフサイクル
 ┌――――――――――――――――――――
 │
 │調査フェーズ
 │  ┌―――――――――――――
 │  │   ┌─→立ち上げ
 │  │   │   ↓
 │  │   ├─→計画
 │  │   │   ↓
 │  │   ├←→実行
 │  │   │ 
 │  │   ├─→終結
 │  │   │
 │  │  監視・コントロール
 │  └―――――――――――――
 │    ↓
 │設計フェーズ
 │  ┌―――――――――――――
 │  │   ┌─→立ち上げ
 │  │   ├─  …略…
 │  │  監視・コントロール
 │  └―――――――――――――
 │    ↓
 │ 製造フェーズ
 │  ┌―――――――――――――
 │  │   ┌─→立ち上げ
 │  │   ├─  …略…
 │  │  監視・コントロール
 │  └―――――――――――――
 │    ↓
 │ 試験フェーズ
 │  ┌―――――――――――――
 │  │   ┌─→立ち上げ
 │  │   ├─  …略…
 │  │  監視・コントロール
 │  └―――――――――――――
 │    ↓
 │ 移行フェーズ
 │  ┌―――――――――――――
 │  │   ┌─→立ち上げ
 │  │   ├─  …略…
 │  │  監視・コントロール
 │  └―――――――――――――
 │
 └――――――――――――――――――――

 ただし、これは一例であることに注意。上はプロセス、フェーズ、ライフサイクルの大小関係を分かりやすく示したものであり、必ずこのようになるとは限らない。フェーズは線形ではなく重複する場合があるし(p.21)、そもそも「1プロジェクト・ライフサイクル=1プロジェクト・フェーズ」のプロジェクトだってある(p.19)。PMBOKを「巨大システム・建造物の構築」すなわち「ウォーターフォール」だと早とちりしてたのは、ほかならぬわたし。なお、プロダクトライフサイクルとの大小関係はこうなる(プロジェクトとプロダクトの「ライフサイクル」は省略)。

       プロセス⊂フェーズ⊆プロジェクト⊂プロダクト

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PMBOK4日本語 【PMP試験対策】シリーズについて。

 ベースは、PMBOKガイド4版と、"PMP Exam Prep"、通称Rita本の2本立て。PMBOKガイドを傍らに一連のエントリを「読むだけで合格する」ようなシリーズにするつもりだ。過去の記事は、以下のリンク先が入り口となっている。PMBOKガイドの古い版が元となっているが、「PMIイズム」「PM的思考」は学べる。ぜひ参照してほしい。

   【PMP試験対策】 PMBOK2000版
   【PMP試験対策】 PMBOK3版

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